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青谷上寺地遺跡(鳥取):弥生の殺傷痕人骨は何を語るか

カテゴリー見出古代史

青谷上寺地遺跡現場 自動車道の高架下が遺跡発掘現場

■遺跡の概要 
青谷上寺地遺跡は日本海に面する鳥取県青谷町で発見された弥生時代の集落・祭祀遺跡。これまで道路建設予定地の発掘だけで多量の鉄製品・土器に加え、水湿地で有機物の腐敗が抑えられたため、木製品・骨角製品・人骨などが数多く発見された。人骨には多くの殺傷痕が見られ戦乱の様子がうかがえるほか、国内で初めてが3人分発見され話題となるなど、出土物の豊富さから地元では「弥生の博物館」と称している。

名称青谷上寺地遺跡 : あおや かみじち いせき
国指定史跡
所在地鳥取県鳥取市青谷町青谷
対象年代弥生時代中期から後期・古墳時代初期(紀元前150年から紀元250年の約400年間)
交通機関  JR山陰本線青谷駅下車、遺跡発掘地は南西へ500m、
展示館は北東へ200m。
マイカー山陰自動車道青谷ICから展示館まで1km
・鳥取市街から25km
・倉吉市街から17km
付帯施設    [青谷上寺地遺跡展示館]
開館時間 午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 無料
・展示館はプレハブ造りで仮設のような外観だが、内容は小規模な博物館に劣らない。じっくり見学するには1時間必要。
問合わせ青谷上寺地遺跡展示館 0857-85-0841
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php

 青谷上寺地遺跡周辺遺跡 青谷上寺地遺跡と周辺の主な弥生遺跡

■見学詳細

発掘場所は調査実施日に原則として見学可能。ただし説明案内などは未整備なので、一般の考古学ファンが見学しても状況判断は難しいと思われる。調査日は要問い合わせ。
これまでの調査成果は青谷上寺地遺跡展示館に展示。
遺跡展示館と発掘地は直線で700m、徒歩15分。発掘地に駐車場はないので車は展示館に置く。
青谷上寺地遺跡展示館外観 青谷上寺地遺跡展示館

■遺跡について補足

青谷上寺地遺跡の立地は現在でも日本海に面した狭い平地であるが、弥生時代には海が陸側に入江となって、波を避ける港としてもうまく機能していた。
弥生人の暮らしを支えた稲作は内陸へ細長く延びる平地で営まれていたと推定される。調査されている遺跡部分は主に港湾だった見られ、集落跡は発見されていない。
これまでの調査は道路建設に伴って道路部分の真下を発掘しているだけで、遺跡エリアと推定される範囲内のごく一部に留まっている。それにも関わらず多量の出土品が見つかったのは、水没した木材が腐敗せずに残っていたことと、発掘位置が偶然にも当時の港湾施設に当たったこと、そしてこれも偶然ながら遺体や廃棄物がまとめて棄てられた当時の湿地に当たったことによるらしい。

出土物には他の遺跡では滅多に見られない貴重なものが多いのだが、ここでは以下の数点に絞って注目してみたい。


■注目の出土物1 脳


出土した多くの人骨の中から、3人の脳が発見された。古代人の脳が発見されることは世界でも数例しかなく、日本では初めてのことだった。
固い化石になっていたのではなく、軟組織を残している。
3体の内容は次の通り。

・30~40代男性:脳全体の五分の一、230グラム
・40~50代男性:わずか、10グラム
・30代女性:脳全体の四分の一、300グラム

写真にある展示はレプリカ。別に小瓶に封入した実物細片を展示してある。
青谷上寺地遺跡脳展示ケース

脳の発見直後には核DNAを抽出して弥生人のルーツ探索に役立つと期待されていた。
その後、2003年には核DNAの抽出はできなかったという報道があり、代わりに骨からミトコンドリアDNAの抽出は成功したという。期待された十分な遺伝子情報は得られなかったが、ミトコンドリアDNAの情報から佐賀県の弥生遺跡人骨と近似し、現在の本州や朝鮮半島の人々に近いことが分かったという。
残念ながらこの成果は従来から推測されている範囲内のものである。
核DNA抽出に失敗した事情はよく解らない。脳組織からSFのように記憶を取り出せれば素晴らしいが、現状で成果を出すのは難しいのではないか。

この脳は現在、氷温保存という凍らない0度付近の温度を保つ方法で鳥取大学に保存されている。この方法は現状でベストの方法とは言えるが、ごくわずかな経年劣化は防げないので、100年後まで保つことは困難と思われる。


■注目の出土物2 多量の人骨など出土物の豊富さ

発掘によって通常の遺跡ではあり得ないほど多くの遺物が発見されている。人骨はバラバラで人数にすれば100体以上、ほかに原型を保った建築物の屋根や壁、絹織物、木製品、鉄器、土器など。人骨は埋葬でなく、雑然と棄てられているように見える。

◇人骨群から想像できること

・100体のうち、少なくとも10体からは殺傷痕が見つかっている。生前に骨に至る大きな外傷を負い、治癒痕のないことからそれが致命傷となってほぼ即死していることが分かる。
・人骨は重なっていることから、何度かに分けたのでなく一括に棄てられている。
・人骨には幼児のものが3体、女性や高齢者も含まれていた。
・同一人物の骨が離れて分散し、囓られた跡はないことから、死亡後に体がバラバラになる(軟組織がほぼなくなる)まで、獣に荒らされない別の場所に地中保管した可能性が言われている。この集落の運命を想像するに非常に興味深い点である。

100名という人数は集落のうち戦闘参加が可能な人数に匹敵すると推測できる。それほどの人数が一度に集められ棄てられるのはどんな事情があり得るのか?
一般的に考え得るのは、伝染病か戦争のいずれかであろう。そして殺傷痕の多さから、戦争の結果と断定しても良いのではなかろうか。
そして地元側が勝利したのなら大事な港湾施設の一角に棄てるはずはないから、攻め込んだ側が勝利し、遺体は地元側の人々であろう。


■注目の出土物3  殺傷痕のある頭蓋骨

この頭蓋骨の主は成人女性であることが分かっている。遺体となってから傷付けられることは考えにくいので、生きている状態で、殺害のために武器を額に打ち込んだものだろう。この傷からは様々な想像が広がり、筆者が特に好奇心を刺激されたものである。

青谷上寺地遺跡頭蓋骨
展示館で殺傷痕のある頭蓋骨が二つ並べてある。左は男性、右後頭部という位置も戦闘中の傷として自然に見える

青谷上寺地遺跡頭蓋骨拡大 上の右、女性頭蓋骨の拡大

◇用いられた武器とは


弥生時代の武器は、(ほこ:槍のようなもの)、金属の矢じり(=「」)を付けた弓矢、そして下の写真にある「戈(か)」であった。
この頭蓋骨の傷を付けられるのは傷の形から「戈」の可能性が高い。戈は振り回して深い刺し傷を負わせ、そのまま引き寄せることができる。腕を振る力が使えるので、深く刺すという目的では当時で一番の道具である。

青谷上寺地遺跡銅戈 青銅で復元された「戈」

弥生遺跡からは青銅製の「銅戈」が多く発見され、鉄製の「鉄戈」はごくわずかしか見つかっていない。それは鉄が錆びて消えるからでなく、実用的な武器として余り使われなかったからという見方がなされている。
青銅製の剣や矛などは武器の形をしていても主として儀仗用の道具として製作され、実戦向きにはずっと固い鉄で同じ形状のものを作ったというのが定説である。青銅製の剣などには研磨した形跡の見られない例が多いというのも根拠になっている。青谷上寺地遺跡の時代は弥生時代の後半で、すでに戈は実用品でなくなっていた可能性が高い。

なぜこの傷を付けたのが戈であると考えられるのか。実用の武器でないかも知れぬ戈を使うとはどういうことか。
この頭蓋骨の傷はなでるような斬り方でなく突き刺したものなので、剣を突き刺したか、金属の矢じりを付けた矢で射たか、戈を打ち込んだかのいずれかである。
また何度も攻撃した痕はなく、この1個所だけが深く傷つけられている。角度が悪ければ傷を付けるだけで刺さらないはずの頭部に対して、一撃で深い致命傷を与えていることには注目したい。

頭蓋骨に一撃で穴を開けた道具はどれか。剣を突き立てたり矢を射たりするより、振り回せる戈を使ったほうが勢いと重量があり、固い頭蓋骨を貫通させやすい。
このように考えれば、この傷を付けた武器は戈であると断定して良さそうに思える。

なお、戈の装着方法は復元では上の写真の角度に作られるケースが多いが、下の写真のように鋭角だった可能性もある。柄が付いたまま発見された例はないはずであり、取付部分の構造からもいずれかと断定できる材料はない。
青谷上寺地遺跡銅戈反転

◇額に致命傷を受ける状況とは

額に戈を打ち込まれるとしたらどんな場合だろうか。
敵と真正面に向き合って振り下ろした場合、刃は額でなく頭頂に刺さるはずである。しかしこの頭蓋骨の傷は頭頂でなく、額に開いている。
そして一撃で命中させるのは、戦闘中で相手が激しく動いている状況では至難の業だろう。
この傷は、正面に向き合い、静止して、しかも攻撃者がやや低い位置から、あるいは受ける側が横たわった状態で打ち込まれたのではなかろうか?
そんなことが起こりうるのだろうか。
ここで上に記した、戈は実戦用の道具でなく、儀仗用の道具だったことを考え合わせてみたい。
筆者はこれは儀式として行われた「処刑」だったと考えている。

◇被害者はどんな人物なのか


他にも多数発見されている殺傷痕を受けた人骨と違い、この人物は額への傷を受ける前には生きていたと考えられる。それが処刑という、異例な殺され方をしたとしよう。
この人物は15から18歳の成人女性であることが骨組織から判明している。
女性が男性に混じって戦闘に参加したとも思えない。なぜこの人物は殺されなければならなかったのか。それも公開処刑のような方法で。

発見された100体に上る人骨は、一度に雑然と集められた様子で発見されていて、敬意を払った埋葬には見えない。あたかも大きな戦いの後で勝者側が敗者側の遺体をまとめて処分したようである。おそらく大きな戦争の結末なのだろう。

そして女性が処刑されるのは、それによって相手を完全に征服したという象徴の意味があるのではないか。すなわち女性は戦闘では死なない立場にあり、集団を象徴する指導的存在、つまり弥生時代においては司祭者、シャーマン、巫女しかない。
この女性は処刑された巫女ではないのか?

◇弥生文化として見た場合

山口県・土井ヶ浜遺跡は青谷上寺地遺跡から時期がやや古い、同じ弥生時代の遺跡である。ここからも頭部に類似の傷を負った人骨が出土している。筆者が最初に処刑による傷を発想したのは土井ヶ浜遺跡での人骨を見てのことだった。
もちろんどちらの遺跡でも本当の事情は解っていない。しかし弥生時代の文化は距離が離れていても共通する要素を持っている場合が多く、戦争の終わりに巫女が処刑され、処刑方法として頭部へ戈を打ち込む方法がよく採用されていたとしても不思議はない。否定できる材料はないはずである。
少なくとも以下の事情は、すでに定説となっている。

・弥生時代の共同体はそれぞれに一種の霊能力を備えた独身女性が巫女として武人の統治に加担していた。
・巫女は戦闘に参加しない。
・巫女による託宣や予言が共同体の方針を決定し、それが的中せずに大きな損害を被った時には責任を取らされ、殺される場合があった。


ちなみに、邪馬台国の卑弥呼は晩年に狗奴国という地域との戦争に苦しんだと言われ死因も解らないことから、研究者の一部では敗戦の結果、処刑されたのではとの意見も出されている。これも簡単に否定できない。
もしそうならば卑弥呼も同様の方法で額から傷を受けたのだろうか。

いずれにしろ弥生時代の人骨は発見されること自体が稀であり、貴重な青谷上寺地遺跡での発見を更に調査し、弥生時代の様子が明らかにされていくことを期待している。

青谷上寺地遺跡弥生年表

■最新訪問時期   2012年3月

■参考 『青谷の骨の物語』井上貴夫 鳥取市社会教育事業団 2009年



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