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金印公園(福岡):2000年変わらぬ輝きが秘める謎

カテゴリー見出古代史  

金印Wikipediaから
福岡市博物館所蔵の金印(通常のPC画面でほぼ実物大に表示される)

名称金印公園、金印出土伝承地
所在地福岡県福岡市東区志賀島
対象年代弥生時代中期(1世紀半ば);中国における金印の製作時期。出土地での埋設時期は不明。
国宝
交通機関西鉄バス「金印塚」下車すぐ
マイカー福岡市中心部から20km 駐車場あり
付帯施設特になし
見学詳細    見学自由。海岸沿いの車道に面して小さい公園が作られている。印影面の拡大模型を埋め込んだ「金印の碑」などあり。
遺跡としての面影は乏しい。

金印公園地図  

■地名・歴史用語など
志賀島:しかのしま 糸島市:いとしまし 前原市(旧地名):まえばるし
後漢書:ごかんじょ 東夷伝:とういでん 光武帝:こうぶてい 奴国:なこく 倭国:わこく 狗奴国:くなこく
金隈遺跡:かねのくまいせき 三雲南小路遺跡:みくもみなみしょうじいせき 須玖岡本遺跡:すぐおかもといせき 
甕棺墓:かめかんぼ


概要
江戸時代の天明4年(1784年)、この地で甚兵衛という農民によって金印が発見されたと伝わる。国宝に指定され現在は福岡市博物館が所蔵し、当地は福岡市によって小さな公園として整備され記念碑などが建立されている。

金印公園と湾
金印公園と博多湾。海岸沿いに県道が走り、遠方に福岡市街がある。

金印は永く偽作説も論じられていたが、後漢の光武帝から北部九州の有力な地域国家(注:北部九州全域を統一するような国家ではない)に対して下賜された『後漢書東夷伝』に記載のある実物であることは、現在では定説となっている。

その一方で本当にこの公園の位置から出土したのか、発見した農民の「口上書」は信頼できるのかなど発見状況には疑問が多く、そもそもなぜ離れ小島であった志賀島に埋まっていたのかは大きな謎である。

これらの疑問点は当時の日本国家=倭国の状況にどう絡んでくるのだろうか。
「金印公園訪問記」ではあるが、ここでは当時の歴史背景を想像して楽しんでみることにする。



 ■歴史背景

◆中国の記録

中国の文献『後漢書倭伝』「建武中元二年、倭奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」

中国の歴史書は信頼性が高く、記録が一切残っていない日本国内の様子は中国の文献が貴重な情報である。
この文章を要約すると、西暦57年「倭国の極南界」にある「倭奴国」の使者「大夫(たゆう)」が貢ぎ物を持って挨拶に来た。漢帝国の王・光武帝は「印綬」を与えた、ということである。
(「極南界」の解釈にも議論があるが、ここでは割愛する)

中国の文献に日本が登場するのは、知られている範囲でこれが2度目である。
最初の記録は『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり・・・」とあるもので、内容は西暦紀元前後の時代、小国分立のそれぞれが挨拶に来るとごく簡単に記録されている。

このふたつ『前漢書』と『後漢書倭伝』との時代差は約60年、二つの文書に日本の地域勢力が中国の王朝に挨拶に来ていたという記録が残っているわけだ。

◆倭国側にとっての外交の意義


日本側の地域勢力それぞれが危険を冒して海を渡り、はるばる中国の都まで詣でるのは、もちろん単純な挨拶でなく国と国の外交交渉の性格を帯び、日本の側は超大国の「臣下」になることで日本国(倭国)内における地位を高め、近隣のライバル国に対して優位に立つという意図があったはずである。
中国側にとっても遙か遠方の国にまで王朝の権威が及ぶことに意義を計算し、臣従関係の証しとしてよそで真似のできない貴重な物品を授けるのが通例だった。古代中国のどの王朝も、相手の国力や地勢関係に応じて微妙な差をつけながら、関係を構築している。

『後漢書倭伝』には授けた品物について「印綬」としか記載がないが、その一品しか与えなかったはずはなく、その他の宝飾品や実用品もあったろう。その中でも印綬(=金印)という下賜品は当時の倭国で目にすることのできない眩しい輝きを放つ、権威付けの象徴だった。

■金印

時代を経ても輝きの変わらない金印は受け取った王が世代交代しても、相伝させて使うことができる。一説では倭国の王が交替したら返却して改めて新しい印をもらうはずだとも言うが、そのような様子は文献に確認できないので、やはり志賀島の金印は光武帝が授けて『後漢書』に記載されたそのものだと考えておくべきだろう。

発見当初、江戸時代の日本でも歴史学者はこの中国古文献をよく勉強してあって、知らせからすぐに光武帝から下賜された印綬だろうと評判になり、学者が競うように論文を発表したという。

金印の実物は通常(貸出中でなければ)福岡市博物館のガラスケースに保護された状態で見ることができる。また複製品が各地の博物館で展示されている。寸法は一辺2.35cm、高さ2.236cmと小さい。しかし2000年を経て制作時同様の輝きを保ち、光武帝の王朝から授けられたそのものであることを想像すると歴史の重みを感じずにはいられない。偶然にもよくぞ発見されたものだ。

金印面KanWikipedia
金印の印影(一辺は2.35cmなので、通常のPC画面では大きく表示される)

古代史で単に「金印」と言うと、実は約200年後に例の卑弥呼も魏王朝から「親魏倭王」という金印を与えられたことが『魏志倭人伝』に記録されている。この所在は不明のままである。
まだ発見されない「卑弥呼の金印」の詳細は解らないが、それと区別するためには「志賀島の金印」または「漢委奴国王印」と呼ぶ。


「志賀島の金印」は小学生でも教わる有名な古代遺物だが、中国側の文献の他には文字記録がなく、周辺状況はまだまだ解らない点が多い。謎とされている要点をざっと見てみよう。

■金印にまつわる謎

◇当時の状況
・金印を授かった日本側の勢力は北部九州全体の代表だったのか、一部の地域だったのか?後者の考えが有力である。
・一部の地域だったとすれば、他の地域は同様の使者を送らなかったのか、送れなかったのか?中国側に記録がない以上、他地域は送っていないと考えるのが自然である。とすると、奴国は最大の勢力だったのか?

◇文字の解釈
・読み方は「漢のワのナの国王」で正しいのか。「漢のイト国王」とも読めるのではないか?

補足説明「ナ国(奴国)」であれば春日市・須玖岡本遺跡に王墓の発見されているクニを指し、もし「イト国(伊都国)」であれば糸島市(旧・前原町)・三雲南小路遺跡などのクニを指す。両地域は20kmほど離れ、『魏志倭人伝』にもそれぞれ国名が出てくる。ともに金印の1世紀から『魏志倭人伝』の3世紀に至るまで北部九州を代表する有力なクニだったと推定され、墓地遺跡から発見される副葬品に大陸からもたらされた貴重品が含まれていることから、それぞれに海を越えた交易を行っていたらしい。

金印須玖岡本覆屋A棟甕棺墓
須玖岡本遺跡でドームに保護されている王墓と見られる甕棺墓。
当時はこのような陶器による甕を使った埋葬が多かった。

◇発見時の状況
・発見者として口上書を提出した「甚兵衛」は実在した証拠が掴めない。
→記されているはずの寺の過去帳に名前が見つからない。
・発見者として別人の名を伝える文書も存在する。

◇甚兵衛口上書の信頼性
・提出された記録は正直な内容なのか?
口上書では発見場所を「叶崎(かなのさき)」としていて、これが金印公園の場所を指すことはほぼ確かである。しかし地形的に貴重な金印を隠したり埋納する場所にふさわしくない。棄てるように扱われたとは考えにくく「大きな岩の下にあった」との報告もあり計画的に埋められたはずなのに、最近の調査でも遺構らしいものが発見できない。

◇なぜその場所にあったのか
・金印はなぜ、離れ小島で漁業の避難港に過ぎなかった志賀島に埋められたのか。いつ、誰(どのクニ)が埋めたのか。これが最大の謎であり、奴国(または伊都国)のその後の運命を知ることと同義だ。解明できれば邪馬台国時代に至る北部九州の動勢を解く鍵になるだろう。

これらの疑問点の中でも、出土状況が不明であることは通常なら考古資料として価値を数段落としめる要素である。それにも関わらず重要視されている理由は、光武帝が下賜したまさに実物であることが疑われていないからで、これも珍しい現象であると言えよう。


■推論

◇真贋問題について
研究者間でも真作であると見解がほぼ一致している。根拠の詳細をここに書くのは大変なので省略するが、幾つもの論理的な材料が示している。それだけに、『後漢書』に記載された品物が本当に見つかったということは驚くべき幸運だろう。
念のため付記しておくが、今でも偽造説を主張する研究者はいる。しかしその論拠は筆者が考えても浅薄に過ぎないので、ここには紹介しない。

◇発見の経緯について
甚兵衛の口上書は不確かな部分があり、ことによると別の場所で以前に発見されていて、黙って所持していたために罰せられることを怖れて発見ストーリーを創作したのかもしれない。
場所の候補地は金印公園のほかに、北へ500mの叶の浜(かなのはま)、さらに島の北端に近い勝馬地区も可能性がある。志賀島であることは疑わなくてよいだろう。
また「大きな岩の下」という重要な口上は事実であると考えてよいのではなかろうか。小さな金印が長期間動かなかった原因として納得できるし、以下に検討する埋納説がもし正しければ辻褄が合う。

◇なぜ志賀島にあったのかの諸説
「遺棄説」「漂着説」「埋納説」「墳墓説(この場合は副葬品となる)」を検討してみる。

「遺棄説」はゴミのように軽く投げ捨てるというニュアンスが伴う。しかし価値を失ったとしても、大きな役目を果たしてきた物品をぞんざいに捨てるとは考えにくく、遺棄するにしても丁寧に、「埋納」するはずである。

「漂着説」では、金印単独では沈むから木箱に入って漂流し、偶然志賀島に着岸して地滑りに埋まり、偶然巨石が上に乗ったという。普通、漂着したものは大雨によって再び海に出るはずである。また小さい島で地滑り土砂崩れが都合よく起きすぐ掘れる浅さに埋まることは、まずない。

よって、金印を主役として埋めた「埋納説」と人を主役として埋めた副葬品としての「墳墓説」のふたつが残る。

そして墳墓説は難しい。考え得るのは、西暦220年に漢帝国が消滅したことで金印の政治的価値がなくなり、その時点でクニの王だった人物が数年後か数十年後に埋葬されるにあたって副葬されたというストーリーだけである。
そのストーリーがなぜ難しいのか。

志賀島では北部の勝馬地区に積石塚という形式の古墳が発見されていて、その石積の特徴は甚兵衛の口上書に似ているという。墳墓説では同様の発見されていない古墳が幾つもあって、その一つから出たということになる。

ただし発見された古墳は形式鑑定から後の時代のものである。3世紀以前の埋葬施設で巨石を使用した例というのは、島ではまだ報告がないはずだ(手元の資料では)。つまり西暦220年に近い墳墓は見つかっていない。

また当時の北部九州では墓は須玖岡本遺跡や金隈遺跡に見るような甕棺墓と呼ばれる形式がほとんどで、通常その甕の内部に貴重な副葬品も収納する。しかし金印発見時に甕もあったという報告はない。
金印金隈遺跡
金隈遺跡の集団墓 金印受領時代を含む弥生時代の墓地遺跡

そして人を埋葬した墳墓ならば見つかるはずの玉類・青銅器などについて口上書に報告がないのはなぜなのか。その前に墓泥棒が荒らして持ち去ったから甚兵衛は玉類を見つけなかったと言うのなら、墓泥棒が金印を残すはずがない。甚兵衛たちが金印以外のお宝を隠匿したと言うほうがむしろ可能性がある。

金印公園下から
海岸沿いの県道から見上げた金印公園

それに見つかっている勝馬地区の墳墓はひとつに過ぎず、人手のかかっていない状況からこれは志賀島の人物であろう。これと別に有力なクニの王が一人だけ志賀島に埋葬されるとは考えにくく、また立地としても金印公園や叶の浜といった浸食を受け易い海岸のすぐそばは避け、盛り上がった土地に作るはずである。そうすると水田だったという口上書とは食い違い、甚兵衛の報告が大部分虚偽だったと見なければならない。墳墓説を採るならば、口上書を強く疑うことから再検討が必要だろう。

こう考えてくると一番ありそうなのは、密かに「隠匿」した可能性も含めて、丁寧に埋めた「埋納」ではないか。

◇志賀島に「埋納」するべき事情は何か
「埋納」ならば、場所は検討の末選ばれたということだ。クニは博多湾の向こう、九州本土にあるのに、小さな島を選んだのはなぜなのか。

「神域説」:現在の志賀島には大きな神社がないが、当時もそうだったとは言い切れない。しかしこれといった宗教的な遺構が島内で発見されていないことは、聖地とされていなかったことを示している。

「第三者保有説」:何らかの経緯で、もともと授与されたクニの王以外の人物が保有し、自分にゆかりの志賀島に埋めたという説。あり得なくはないが、こういった偶然が重なった説はここでは検討しない。

「緊急避難説」:戦乱で危機に陥ったクニが、見つからないように隠匿したという考え。実はこれが一番ありそうに見える。緊急といっても候補地を絞り込む時間はあったろうが、隠す目的だから知っている者以外には見つからない地味な形態にしたのだろう。そしてそのまま掘り返すことはなかったと。

これら仮説は幾つも浮かぶが、なぜ志賀島が選ばれたのかについて結論は容易に出せない。

◇金印が忘れられる時代背景とは
上記諸説に共通する事情は、金印が必要なくなった、または価値を失ったということだ。
所有していた奴国(または伊都国)がそのまま存続したのかも重要だが不明な点である。後世の『魏志倭人伝』で同じ国名が記載されているからと言って、約200年の間、別の王統に替わっていない保証はない。

どちらにせよ220年に漢王朝が消滅したことで金印の権威は消え、保持している意味はなくなった。新興勢力が軍事支配したとして金印を奪ったとしても、権威を失ったうえに授与された国名が刻まれているものは使いようがない。

他国の支配下に入ったとすると、当の奴国(または伊都国)は一時避難のつもりで志賀島に隠匿したかもしれない。クニが盛り返せばまた掘り返すはずだから、埋まったままになったのはクニは消滅、少なくとも独立を失ったことになる。
またそういった支配を受けなくても、漢王朝消滅の情報を受け、所有していたクニが自分から埋納することもあり得るし、新支配国が取り上げてから埋納することもあり得る。

こう考えてくれば金印が保有されるべき価値を失い、埋納されたという事情はすんなり理解されることと思う。
地面に埋められてしまえば、文字記録のなかった当時、人々の記憶からも消え去ることは時間の問題だったろう。
前時代の権威は新時代の潮流に呑まれて消滅した。

◇金印の示す時代転換
ここまでは時代転換の要因を漢王朝の滅亡と想定してみた。
その時期、倭国国内でどのような社会現象があったのだろうか、判断材料になにがあるのだろうか。
年代ははっきりしている。漢王朝の消滅する220年という時期、倭国国内では何が起きていたのか。
その様子をイメージしてみる時、重要な古代史案件と直接にリンクすることになる。
中国で漢が消滅したあとは、魏・呉・蜀の三国時代となる。
その魏王朝の公式記録に、当時の倭国の様子が詳しく記されている。
邪馬台国である。

3世紀の北部九州事情を推論する
(以下は邪馬台国の所在が畿内か九州かに関わらずの話である)

金印弥生年表  
◇中国側の記録
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は西暦239年に魏王朝へ最初の遣使をしている。その後数度の遣使があり、248年頃に卑弥呼は死去するのだが、倭国の女王となった時期は幾つかの材料から、ずっと早く190年ごろだろうと目されている。その即位前は「倭国大乱」と記された分裂期である。

2世紀末に女王となって最初の遣使まで40年近くかかっているのは中国国内が後漢の末期から三国時代へ移る混乱に陥っていたという事情があり、238年に至って国力の安定した魏が朝鮮半島の窓口となる楽浪郡・帯方郡をおさえてルートが確保されたからこそ派遣が可能となったらしい。
魏が出先機関を確保した直後に遣使しているのは、卑弥呼の下にそういった中国の動勢が正確かつ迅速に伝わっていたことを示している。

◇倭国内の体制
そして『魏志倭人伝』には邪馬台国へ至るルート解説として「奴国」「伊都国」も記載があり、その場所は先に触れたように奴国が博多平野、伊都国が現・糸島市ということに、見解は一致している。

そこでは奴国、伊都国の両国ともに邪馬台国という大きな枠に属する地方政権という地位が読み取れる(伊都国は独立性が高かったとの考えもある)。卑弥呼は190年に女王となっているのだから、この時点で、両国の独立地位は前時代から大きく低下しているはずだろう。

邪馬台国は連合体制でそれぞれの地方政権は独立性を持っていたというのが有力な考え方であるが、少なくとも勝手な外交は許されない。終末期の漢帝国が220年まで命脈を保っていたとしても、「漢委奴国王」印は「委奴国」が190年頃に邪馬台国の傘下に入った以上、もう神通力を発揮する場がなくなったのだ。発行者の漢が滅ぶことより先に、受領者の側が力を失ったことが、金印の無価値化を決定したと考えられる。
時代の波に揉まれて、古い時代の遺物となった「漢委奴国王」印はどう扱われたのだろうか。

◇新体制の威信材
先に記した、金印を保有していたクニが新興勢力の支配下に組み込まれたという考えが事実ならば、その新興勢力こそ邪馬台国である。
邪馬台国は卑弥呼の即位後、倭国全体を代表できる国となり、魏に遣使した239年からは中国王朝の後ろ盾を振りかざせる唯一の勢力となった。卑弥呼が魏から下賜された金印「親魏倭王」は、邪馬台国連合を構成する各国に対して新世代の神通力を発揮したことだろう。

古い金印の埋納を前提に想像できる運命はふたつ。強制されて埋納したか、その前に自発的に埋納したか。
軍事侵攻を受けたか、穏当な体制移行での判断だったか、推定は難しい。いずれにしろ上記想像による埋納時期は卑弥呼が女王となった190年前後となる。

志賀島に金印が埋められたことは、それぞれの地域政権が半島や大陸の王朝と独自に交渉できた分国時代の終焉を意味する。これ以降は倭国内のより大きなまとまりが代表して外国に接することになった。


それにしても、魏王朝の後ろ盾をもらった卑弥呼が数年後には狗奴国という不服従勢力との戦争に苦しみ、10年と経たずに死去して国が乱れることになるのは皮肉である。金印の輝きを見ることのなかった狗奴国には中国王朝の威光が届かなかったようだ。

「漢委奴国王」印は奇跡的な発見がなされた。卑弥呼の「親魏倭王」印はどこに眠っているのだろうか。

[蛇足]
必要のなくなった神器を埋納したという推定から、島根県・神庭荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡での銅剣・銅鐸も同様の埋納だったと考え得る。弥生時代末期に西日本全域で銅鐸が消え去る現象にも通じるのかもしれない。どれも共通して、弥生時代の末期を象徴する物品である。



■筆者の最新訪問時期:2008年6月

主要参考文献:
「郷土歴史シリーズ2 謎とミステリーだらけ 志賀島の金印」岡本顕實著 さわらび社
「日本の歴史1 神話から歴史へ」井上光貞 中公文庫








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