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八甲田山雪中行軍遭難資料館(青森):大寒波に呑まれた199の命

カテゴリー見出し博物館  

 雪中行軍資料館前景

概要

明治35年に起きた、軍事訓練によって陸軍の歩兵第五連隊199名が死亡するという遭難事故を記録する資料館。
以前からあったものを平成16年にリニューアルし、規模は小さいながら非常に綺麗で解りやすくなっている。
事件は後の小説と映画によって今でも広く知られることになった。
資料館は遭難現場から12kmほど青森市街寄りで、遭難隊が出発し、捜索隊の集まった場所に建ち、犠牲者の墓地が隣接している。現場まで一本道の県道40号線が延びている(冬期通行止め)。

名称青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館(~はっこうださん せっちゅうこうぐん~)
所在地青森県青森市幸畑字阿部野163-4
ジャンル歴史文化 特定事件の記念館
開館時間9:00~18:00(4月~10月)・9:00~16:30(11月~3月)
休館日12/31、1/1、2月の第4水・木曜日
料金大人260円
交通機関JR青森駅からバス30分、「幸畑墓地」下車すぐ
マイカー・青森自動車道青森中央ICから東南へ4km15分
・JR青森駅から東南へ8km
駐車場あり
その他の基点・青森空港から東北方向へ14km車40分
問合わせ017-728-7063
http://www.moyahills.jp/hakkoda/index.html

◆地名読み方
八甲田山:はっこうださん 幸畑:こうはた 田茂木野:たもぎの
 三本木:さんぼんぎ 小峠:ことうげ 大峠:おおとうげ
 

(記念館のテーマに即し、ここでは館内容よりも事件および現場の情報を多く記載します)

■遭難事故の概要

明治34年、陸軍はロシアとの緊張状態の中、冬期に青森と八戸を連絡するために深雪の八甲田山を軍隊が通行できるかどうか確かめ、合わせて雪中での戦闘を研究する必要を考えていた。1月、第五連隊と第三一連隊の二つの部隊が同時期にそれぞれ行動訓練を行うことになった。

雪中行路図 両軍の行軍経路図(クリックで拡大)

 少数精鋭の37名とした第三一連隊は弘前を出発して十和田湖畔を回り、現・十和田市の三本木で折り返し、八甲田連峰を越えて青森へ帰るという10日間の長期計画。一方、総勢210名の第五連隊は12日、青森から八甲田を越えて田代(現在田代平と呼ばれる場所)まで20kmの短い行程を予定していた。

遭難に至ったのは大所帯の第五連隊で、第三一連隊は1名が途中で脱落したものの、残り36名は全員が行程をこなして無事帰着している。
なお当時は無線機がなく、連絡手段は人里での電信だけだった


◇第五連隊遭難の経緯

23日:青森市の屯営地から出発。午後から非常な悪天候となり、先遣隊は目的の田代へのルートを見つけられず、混乱の中、食事や休養も満足にとれない厳しい露営となる。
24日:未明から予定を中止して戻ろうとするが迷い、大勢が倒れる。
25日:元気のある者は帰路を求めるが迷い続け分散する。
26日:残った70名ほどで行動するが混乱が続く。連絡のないことから捜索隊が編成されたが、悪天候のため途中で引き返した。
27日:残った30名で出発するが多くが行き詰まる。捜索隊によって瀕死の後藤伍長が発見され、その報告で初めて遭難の全容が伝わる。

 その後大規模な捜索が続き、最終的に5月までかかって193名が遺体で収容され、搬送先で6名が死亡、犠牲者は合計199にのぼった。その中には部隊の指揮官であり収容先の病院で不審死した山口少佐も含まれる(後述)。

 二つの連隊は同時期に行動し、第三一連隊は行軍の終盤で第五連隊の遭難場所を通り、遺体二つを目撃したと報告している。ただし、事前にお互いの行動計画は知らされていなかった。映画に描かれている相互の交流はフィクションである。

 ■遭難現場の今

県道40号線に沿って進むと簡単な表示の「後藤伍長発見の地」、その先にレストハウスや展示館、記念碑、後藤伍長の銅像が集まる「雪中行軍遭難の地」がある。この場所から東へ1kmの鳴沢で多くの犠牲者が発見された。
地形図遭難現場付近広域地形図(クリックで拡大)

雪中銅像茶屋  

基壇読み下し文  後藤伍長銅像の基壇に記された漢文の読み下し文(クリックで拡大)

救助を求めに行った後藤伍長が仮死状態で立ったまま発見されたというのは事実らしい。半身が雪に埋もれていたため倒れなかったらしい。
後藤伍長発見の地

一般の地図で「雪中行軍遭難の地」とされているのは、ドライブインと記念館を兼ねる銅像茶屋と後藤伍長銅像の建っている場所になる。銅像は発見時の姿勢を模している。

 ※遭難地点は一般に登山される八甲田山からは北へ数キロ離れている。県道が連絡しているので、マイカーで登山帰りに訪ねることは容易。

 ■事件の概要補足

・行軍隊は登山をしていたわけではないが、雪山での遭難として、また軍事訓練中としても近代史上最大の事故とされる。これまで登山で一度に20人以上が死亡した事故はない。

 ・遭難事故の起きたのは明治35年(1902年)123日から26日。訓練は現在の青森市幸畑から駒込(田代牧場付近)まで雪中の20kmを一泊で踏破するという計画だった。背景には緊張の高まる日露関係があり、青森の陸軍では雪山での行動訓練がすでに何度も行われていた。行動計画が無謀・杜撰であったとは言えない。

 ・事故が起きた主因は記録的な寒波である。日本列島は23日から厳しい寒気に覆われ青森地方も大雪と強風に見舞われた。この時の北日本各地では現在に至るまでの史上最低気温を記録している。

 ・出発した日の夜から遭難に陥った第五連隊に対し、同時期にほぼ同じ場所で12日間を行軍した第三一連隊は同じ気象条件だったにも関わらず、全員無事に行軍を終えている。この両者の比較が様々な論議になって、第五連隊の責任問題を大きくした。


■生存者のその後


第五連隊の犠牲者は
199名、生存者11名。
生存者の多くは障害で兵役免除となり、昭和30年代まで存命していた者もいる。
銅像となった後藤房ノ助伍長は手指・両足を切断して宮城に帰郷し、結婚、村会議員も務め、大正13年に46歳で病没した。
全員の帰還を果たした第三一連隊の指揮官・福島大尉は日露戦争に出征し、明治38年、40歳で戦死した。
 

 ■小説と映画について

・事件が1977年に森谷司郎監督・高倉健主演『八甲田山』として映画化され広く知られることになったのは、流行作家であった新田次郎『八甲田山死の彷徨』として小説化したことが寄与している。

 ・注意が必要なのはこの小説にフィクションが織り交ぜてあることで、別行動していた連隊が遭遇したり、それぞれに所属していた兄弟が邂逅するといった劇的な場面は創作である。小説を読む限り創作と事実の区別はできない。新田作品ではこのような面が多い。

 ・映画も小説の延長上にあり、第三一連隊・高倉健と第五連隊・北大路欣也の交流や案内人の女性に敬礼する場面、高倉健指揮下の部隊が大量の遭難者を見る場面など、映画としての見せ所は大部分が事実ではない。また昭和43年(1968年)開業の八甲田ロープウェイに緒方拳扮する生存者が乗る場面があるが、66年を経過しており、Wikipedia指摘の通り当時者全員が他界している。

 ◆冬山登山の観点からの所感

・予定されたコースは当時すでに現在と同じ車道ができていて、険しい上り下りはなく、天候が良ければ多量の積雪でも行動可能であったろう。しかし、現在は樹林帯なので積雪があっても道路が判別できるが、捜索中の写真を見ると広い雪原に見える。どうやら当時は炭焼きで伐採が進み、開けた景観だったという。これでは視界の利かない状況で進路を誤ったのも無理はない。
捜索の様子

 ・雪上での炊事は熱で雪が融けて傾くためうまくできなかったという。雪山経験者には当たり前のことで、熱を遮断する物を敷くなど工夫せねばならない。隊は地面が出るまで掘って行うつもりだったというのは見通しが甘かった。

 ・初日に配られたおにぎりがボロボロになって食べられず、多くの者が捨ててしまったという。低温でご飯がバラバラになるのは、冬の山小屋でご飯の弁当を出された経験者なら解る。バラバラになっても、エネルギー確保のため少しずつ口に入れ、暖めながら食べるべきだった。

 ・風を避けるため塹壕のような避難空間を掘って立ったまま休んだという。これでは風は避けられても頭上からの寒気は防げない。冬山登山者なら完全に風を避けられる雪洞やイグルーを知っている。せめて秋田の“かまくら”という発想ができれば大勢が助かったのではないか。
模型

 ◆教訓 リーダーの責任

・主因は大寒波だと言って良い。しかし人為面に原因がないかと問われれば、あとからの理屈になってしまうかもしれないが、この第五連隊は登山で言う“遭難予備軍”だったようだ。好条件下では無事に終えるが状況が悪化すれば対応できず遭難するであろう集まり、という意味である。

 無事帰還した第三一連隊はそうでなかった。予備軍になるかならないかを決めるのは、メンバーの力量よりもリーダーの総合的な知見・判断力・指導力だ。

永井という軍医は、天候悪化後間もなく中止を進言しているが、指揮官である山口少佐は聞き入れなかった。中止の判断は確かに難しい。軍人の誇りも作用するだろう。永井軍医自身も結局犠牲者に入ってしまった。

 しかしこのケースでは、現場での判断ミスよりも、事前準備から隙があったように思える。雪のなかで休憩する手段、かんじき、食料、地元案内人の質、事前の注意喚起、悪天候への想定である。

 軍隊の訓練として統括責任者と現場指揮官が別になるのは普通だが、現場の指揮官は計画段階からすべてを把握し、検証しておくべきだろう。その当人や周辺にどれだけ経験や知識があったのだろうか。詳しくは解らないが、第三一連隊と大きな違いがあったことは明らかになってしまった。

 ■歴史ミステリー:山口少佐の死は謀殺か?

犠牲者199名はいったん救助された後死亡した者も含んだ数である。そこには131日に救助され、22日に病院で死去した指揮官・山口少佐も含まれている。

 この死は当初心臓発作と発表され、のちジャーナリストの小笠原氏が遺族からピストルを受け取ったことや証言から、ピストル自殺であると公式に認められた。

ところが2000年代になって、弘前大学の松木明知氏が謀殺説を唱えている。資料館の展示はこの新説を受けて書き換えられたそうだ。

 論旨は以下の通り。

・山口少佐の指は重度の凍傷のため、拳銃の引き金が引けないはずだ。
・死亡の直前に主治医が陸軍によって山形から呼ばれた麻酔医に交替されている。
・麻酔薬を使って死亡させれば、当時は心臓発作と簡単に見分けられない。
・陸軍は大量遭難の責任問題が軍全体に及ぶことを危惧し、責任者の“自殺”で幕引きを図りたかった。

 当時は軍の力が強く、客観的な取材などは限界があった。ピストル自殺説による銃創の有無なども不明のまま。第三一連隊の指揮官でさえ行軍中に遭難者を目撃したことの発言を封じられていたなど、真相はいまだ藪の中である。なお映画『八甲田山』ではピストル自殺説を採り、三國連太郎が演じている。

 自費出版による松木明知氏の著書が、資料館に置いてある。筆者は開いていないが、詳細を知りたい人は青森まで読みに行こう。

余談1

 ・人気作家であった新田次郎は小説執筆に際し、この事件を詳細に調べ上げ5部作のうち2部まで出版していた小笠原弧酒(こしゅう)という青森のジャーナリストに取材した。その後新田次郎の作品はベストセラーになったが、小笠原氏は構想していた残りの3部を出版せずに終わった。蒐集資料を新田次郎に提供したことがアダになったのではないかと推測されている。

 しかし小笠原氏の遺した出版物は事実を詳細かつ客観的に記録していて、フィクションに仕上げた新田作品に対して高い資料価値を認められているという(ボランティアガイドからの情報)。

 小笠原弧酒の著書2冊は資料館に置いてあり、各1200円+税で販売もしている。
またAmazon.comで高額の古書として扱われている(20132月時点)

余談2

映画『八甲田山』は史実に忠実でないことや映画としての出来に大いに不満があるのに、つい見入ってしまう。冒頭や末尾に挿入された緑に満ち錦秋に染まった八甲田の山、哀切な音楽、軍人らしい折り目正しい応答にも爽快さを覚える。名作だとは言わないが、忘れられない映画となった。悲しい出来事の舞台には違いないが、あくまで八甲田は美しく人の営みと時代を黙って見つめている、そのように描かれているようだ。
製作されて35年が過ぎ、森谷司郎監督や丹波哲郎など主役級数名が他界した。やがてはこの映画も遭難事故と同じように遠い記念碑に昇華していくのだろう。

銅像と八甲田山
 
 ◆銅像は明治37年竣工。像と重なる背景の山は前岳、左に雲に隠れて高田大岳がある。最高点の八甲田大岳は陰で見えない。

 ■筆者の最新訪問時期:201210月

◇2013年4月14日、映画『八甲田山』で連隊の責任者・山口少佐(役名は山田少佐)を演じた三国連太朗氏が亡くなられました。ご冥福をお祈りします。


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