日本に好奇心!ついでに登山。この国の歴史・文化・自然をもっと知りたい!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

琵琶湖博物館(滋賀):湖とともに歩む近江の国

カテゴリー見出し博物館
琵琶湖博代表

■概要
平成8年(1996年)滋賀県立の大型総合博物館として湖の畔に開館。前身は昭和36年からあった琵琶湖文化館水族部門。
名称からは湖の博物館というイメージになるが、滋賀県の文化は琵琶湖と切り離せず、内容は総合文化・自然を紹介する滋賀県総合博物館とも呼ぶべきものになっている。
A展示室「琵琶湖の生いたち」B展示室「人と琵琶湖の歴史」C展示室「湖の環境と人々のくらし/淡水の生き物たち」、無料の屋外展示として生態観察池、縄文・弥生の森などがある。

琵琶湖博代表地形図

名称滋賀県立琵琶湖博物館 
ジャンル総合 : 琵琶湖に関連する自然科学と人文・社会科学
所在地滋賀県草津市下物町1091
開館時間9:30-17:00 入館16:30まで
休館日毎週月曜日 年末年始
料金大人750円 (駐車場550円は入館者無料)
交通機関JR草津駅から近江鉄道バス25分、琵琶湖博物館前下車
マイカー・名神高速道大津IC、瀬田西IC、栗東IC、京滋バイパス瀬田東IC
・有料駐車場あり550円 入館者は受付印で無料
その他の基点・琵琶湖大橋(普通車200円)から南へ7km
・大津市中心部から琵琶湖大橋経由で22km、近江大橋(普通車150円)経由で17km
問合わせ077-568-4811
http://www.lbm.go.jp/index.html

◇地名・歴史用語等
ー地名ー
田上山:たなかみやま 南郷:なんごう 膳所:ぜぜ
逢坂山:おうさかやま 粟津:あわづ 螢谷:ほたるだに 葛籠尾崎:つづらおざき
ー歴史用語ー
百済:くだら/ひゃくさい 
壬申の乱:じんしんのらん 大友皇子:おおとものみこ 大海人皇子:おおあまのおうじ 
擬宝珠:ぎぼし 「信長公記」:しんちょうこうき 白村江:はくそんこう/はくすきのえ


■内容詳細

・館内十分に広く、念入りに見学すると半日必要
・屋外展示もあり。
・資料室(=図書室、情報センター)、学芸員による展示解説、展示室スタッフ(「展示交流員」)いずれもあり
・学芸員が常駐する「質問コーナー」あり
・その他、情報利用室、ディスカバリールームなど、食事・休憩・売店施設あり
・展示室撮影可

・展示の華やかさは最新施設よりやや見劣りしてきたが、掘り下げは深く滋賀県内の情報が豊富。
・地質面からの琵琶湖と滋賀県地域、琵琶湖の生態系、近江地域の近現代史と民俗などが充実している。
・2016年に20年ぶりの改装を予定している。

・「質問コーナー」では日替わりで学芸員が個別の質問に応対してくれる。
・「展示交流員」が一定の勉強をしてあり簡単な質問に即答してくれる。しかしユニフォームはもう少しセンスのあるものに替えたらどうか?

・琵琶湖博物館では滋賀県の全般を扱っているが、北東20kmの近江八幡市に滋賀県立安土城考古博物館があり、県内の考古学と安土城に関してはこちらが充実している。また大津市内の歴史については大津市歴史博物館がよい。


◆基礎知識 : 滋賀県地方をなぜ「近江」と言うのか?

「江」という字は、入り江の地形、陸地へ深く入り込む海や湖、沼を指す。淡水海水共に使われる。ただし川には用いない。
「近」は、大勢の人(文化の中心地とも言える)から見て近くにあるということで、「遠い」対象と比較している。基準となる「大勢の人」は、古代にはヤマト政権のあった奈良、中世では京都の視点になる。
では「遠い江」はどこを指しているのかと言えば「遠江(とおとうみ)」「遠州(えんしゅう)」と呼ばれた静岡県浜名湖である。近畿に住む古代人で浜名湖を見た人はわずかだろうが、伝聞で大きな湖のあることはよく知られていたことが窺える。
ただし「近江」は遠近だけの意味から付けられた地名ではなく、奈良時代の文献では「淡海」「近淡海」と表記され、淡水であることも含まれているらしい。

(以下は展示から気になったテーマを取り上げます。後半2つの項目は内容が「地形地質探訪記」になっています)


■Pick up! 「瀬田橋」: 日本史が激しく往来した橋
(瀬田橋は琵琶湖の水位変化や瀬田川にも関わるテーマですが、ここでは歴史面に注目します。他の観点からは次の項目や別記事を参照のこと)

瀬田の唐橋外観
現在の瀬田橋と量水標(=水位計:右下)琵琶湖の水位を測ってきた量水標も現在は使用されていない。

「瀬田の橋はもう過ぎたか・・・。見よ、京が見える!いまひと押し、我が旗を、京に立てよ!」
これは黒澤明の映画『影武者』で、いまわの際にあった仲代達矢演ずる武田信玄が虚空に向けて放つ言葉である。

「瀬田橋」「瀬田の長橋」、主に「瀬田の唐橋」として知られるこの橋の初見は『日本書紀』である。7世紀の壬申の乱のおり、大友皇子の近江軍は大海人皇子の軍が渡れないように橋を狭く切り落としたという。その甲斐無く大友皇子は敗れ、自害して果てた。
この記録では既に橋が架かっているので、いつから架橋されているのかなど、より古い時代の様子は分からない。現在は1979年(昭和54年)に架け替えられたコンクリート製の県道となり、欄干の擬宝珠に歴史への配慮が残っている。

東国から京へ入るのに、自然地形で最後に問題となるのはこの瀬田川の渡渉であり、瀬田の唐橋は都防衛のため重要な要衝とされてきた。瀬田川を渡れば残るは逢坂の関と東山のなだらかな丘陵を越えるだけとなり、守る側にとっては瀬田川を渡らせないことが肝要となる。そのため橋は何度も戦場となり、焼失しては再建を繰り返してきた。

戦国時代、信玄など東国の戦国大名にとって「瀬田の橋を渡る」とは、京へ上洛し足利将軍家から天下人として承認を受けることであり、それは全国制覇への最有力者となることを意味していた。

尾張・美濃を地盤とし地勢的に有利だった織田信長は永禄11年(1568年)、将軍家嫡流の足利義昭を伴って京に入っている。『信長公記』によれば、その際現在見るような形状に架け直させた瀬田の唐橋を渡ったという。
一方、遠方の甲斐という不利な条件下にあった信玄にその日はついに訪れることなく、信長上洛の5年後、元亀4年(1573年)、病を得て帰国の途中、信濃に没した。

琵琶湖博瀬田橋基礎  博物館に展示されている瀬田橋基礎構造。柱は復元。

上の画像は1988年に発見された基礎材の実物で、現在の唐橋から下流側80mの川底に沈んでいた。7世紀のものと鑑定されたので壬申の乱前後に設置されたものになる。水没していたために腐らず、また固定するための重し石も当時のままだった。
その形状から朝鮮半島より伝わった技術を用いていることが分かるという。
7世紀には白村江の戦い百済の滅亡という対外関係の節目があり、琵琶湖沿岸には百済王朝の官吏を含む多くの渡来人が居住していた。大津市では朝鮮半島特有の「オンドル」らしき遺構も発見されている。半島技術者の指導を受けながら建設されたことが想像できる。

現在の唐橋は全長260m、日本三名橋、日本三古橋、日本の道百選。
片側一車線と広くはないが普通に通行できる県道であり、かなりの交通量をこなしている。しかも現代社会では南に名神高速道路と東海道新幹線、北に国道1号線とJR東海道線まで集中し、瀬田川をまたいで人や物が激しく往来することは1400年前と同じである。

瀬田橋模型
展示されている橋の模型。ここでは『石山寺縁起絵巻』から南北朝時代の場面を再現している。


■Pick up!  「琵琶湖の地殻変動」:左右非対称の仕組み

地形地質のテーマになるが、ここで琵琶湖地域の大地が現在どのように動いているのかを簡単に紹介しておきたい。広範囲や地中深くは省略し、ぜひともこれは知っておくべきだという範囲で述べておく。自然災害や土地改良に直面したとき、幾らかでも地形の仕組みを知っておくと新しい視点が開けるはずである。

◇琵琶湖を挟んで東に平地と緩やかな山、西に急な山という対照的な地形なのはなぜか?

琵琶湖博地形図3

琵琶湖の東岸は広い平地と鈴鹿山脈まで緩やかに高度を増す山が続いているのに対し、西岸では比良山地と比叡山地が急峻に聳えている。西の湖岸沿いで平地のように見えているのは山地からの土砂が堆積したものに過ぎず、この図では描かれていないが湖の西寄りで水深は急に増している。
この地形図上で東西に直線を引き、地中の断面図を見てみると興味深いことが分かる。
地形図と断面図2

愛知県から琵琶湖西部にかけて蛇腹のように凸凹が反復し、それぞれの山は東へ傾いている。
これは恣意的な描画でなく、実際に確認されている地殻変動を示している。すなわち東から、

・濃尾平野は東が隆起し西へ傾くように沈降し、養老山地は隆起している。
・養老山地の西部と鈴鹿山脈も同じ動きをしている。
・鈴鹿山脈西部と琵琶湖も同じ動きをしている。
・琵琶湖は西へ傾くように沈降し、比良山地は隆起している(濃尾平野と養老山地の関係に同じ)。


地質学によって次のことがすでに知られている。

・この動きは100万年以上続いていて、隆起部分と沈降部分とが接する面は断層となっている。
・琵琶湖の湖底も東が浅く西が深く、水を除けば同じ構造が続いている。
・隆起する部分は垂直に上昇するのでなく、西へ傾く動きをしている。このことは同じ地層が平地部と山頂部に分離していることからも分かる。
・養老山地・鈴鹿山脈ではこの構造のため、東斜面は急峻で西斜面はなだらかという非対称である。一方、比良山地では南北に走る断層活動のため非対称の様子は不明瞭である。
・琵琶湖はかつて現在より東南にあって、鈴鹿山脈の隆起と滋賀県西部の沈降によって移動してきたものである。
・この地域の断層活動で隆起と沈降を起こしているのは大きく見れば東西圧縮力による逆断層の動きが中心であり、また琵琶湖から比良山地・比叡山地にかけては若狭湾から大阪平野にかけて「琵琶湖西岸断層帯」と呼ばれる横ずれ/逆断層が多数走っている。これらの断層はしばしば歴史に残る大地震を起こしている。


断層と震源図 展示から近畿地方の地震震源分布と断層図 (クリックで拡大)

滋賀県全体の地図を見ると、全体がひとつの盆地であることが見て取れる。琵琶湖はその底に水が溜まったもので、湖底の最深部は海面より50mも低い。
この構造は数百万年以上続く地殻変動が作ったもので、滋賀県だけでなく、京都盆地、山科盆地、大阪平野、奈良盆地も同じように地面の沈降と水の作用によってできた地形である。

ちなみに、山科盆地は標高40-50mで、水面高さ83mの琵琶湖より低い。その間にある170mの逢坂山(逢坂の関)が沈降していないことで、洪水を免れている。
その逢坂山は北の比叡山地、南の醍醐山地に挟まれた鞍部であり、この2つの山地とも、やはり琵琶湖側が沈降、山側が隆起するという逆断層の活動で盛り上がってきた山なのである。
この変動は次に述べる水位変化と密接に関わっている。

琵琶湖南部と山科盆地など
琵琶湖南部から山科盆地にかけての拡大図。膳所断層は知られている多くの断層から代表として記入した。
この図は次の「水位変化の原因」でも参照してほしい。



■Pick up! 「水位変化の原因」 : 4500年前の大地震か?
(未解明のため筆者による推論を含みます)

瀬田橋近くに位置する粟津湖底遺跡は、4500年前の縄文時代の大きな貝塚を伴い水面下2-3mにある。貝殻のほかに7000年前にもさかのぼる植物、堅果、人骨も含み、ここが当時陸地だったことを示している。加えて地上では分解されてしまう有機物まで残っていたのは、あまり時間を置かずに水没したことを示している。この遺跡が水没したという点については意見が一致していることである。

粟津湖底遺跡写真
粟津湖底遺跡は貝塚を含む縄文時代早期の遺跡。1990-91年に塀で囲み排水して調査された。

琵琶湖では多くの湖底遺跡が存在し、中世の集落が沈んでいるものについての原因は大地震による地滑り説があるもののまだ定かでないうえに、それで説明できない遺跡も多い。
粟津湖底遺跡など縄文時代の遺跡については水位上昇によって水没したと広く言われている。ところが水位が上がった原因についてはまだ定説がない。

ところでこの付近には粟津貝塚のほか、上図のように2つの貝塚がある。
ひとつは石山寺の前、石山貝塚で縄文早期(6000-7000年前)、もうひとつは小型の蛍谷貝塚で同じ縄文早期(6000年前)、この3つは瀬田川に沿うわずか2.5kmの範囲内にあり、石山貝塚と蛍谷貝塚は現在も陸地である。時期を考えると石山貝塚→蛍谷貝塚→粟津湖底遺跡の貝塚、という順番に使われたようにも見える。

湖の水位が上がる場合、どのようなケースが考えられるのか?
水の出口は必ず1ヶ所である。その出口が塞がれるか高くなる場合以外に水位の上昇する理由があり得るのだろうか?
下がるケースはよくあるが、上昇した例というのは古今東西でどれほどあるのか、それすら疑問だ。

新しく湖が誕生することは、川が土砂崩れや溶岩でせき止められて時々起こる。同じ仕組みで、既にある湖の流出口付近が堰き止められれば結果的に湖の拡大上昇になるだろう。しかし琵琶湖のように水量豊かな湖の下流では、土砂程度ではすぐに削られ元に戻るはずである。また縄文時代以後に溶岩の流れた形跡はまったくない。

残る原因としては、地盤の隆起以外に考えられないのではないか。琵琶湖そのものの地盤は動かずに、出口から下流側だけの隆起である。それも水没した粟津湖底遺跡と水没しなかった蛍谷貝塚と石山貝塚との間に境界(断層)のある可能性が高そうだ。

そもそも琵琶湖は200万年前ころは南東に存在し(「古琵琶湖」と呼ぶ)、徐々に現在の位置へ移動してきた。そうなったのは先述のように西で地盤が沈降すると同時に東は鈴鹿山脈にかけて隆起を続けてきたからで、その動きは現在も続いている。
数万年のスケールで見れば確かにこの地域は隆起している。とはいえ隆起するのは大地震によって一瞬に動く現象なので、問題は粟津貝塚の遺棄された時期にそれが起きたかどうかである。

大津市東南部には琵琶湖湖岸に平行して、琵琶湖西岸断層帯南部に属する膳所断層という逆断層があり、最近では1185年に地震を起こして西側(醍醐山地)が6-8m隆起した可能性があると言われている。この断層そのもの、または近縁の断層が4500年前に動いた可能性も少なくないと思えるのである。ここに焦点を絞った断層調査はなされていないようだ。
(上図参照)

現時点では琵琶湖として本当に水位が上昇したのかどうかも見解が分かれている。もし上昇説が正しいのならば、琵琶湖から流れ出る瀬田川上流域は5000年前の縄文時代以後の間もなく、おそらく粟津貝塚が遺棄される4500年前に地震によって4mほど隆起し、直後に琵琶湖の水位が上昇したのではないだろうか。
貝塚は短時間で水没しなければ表層の速い水流に浸食されて消滅するはずなので、これも地震説の根拠になる。

このように湖底遺跡のうち縄文遺跡が水没しているのは地殻変動説が考えられる。しかし有史以降、中世の遺跡まで琵琶湖に沈んでいることは、同じ原因では説明できない。それらは別の考え方が必要になるだろう。

なお、特に有名な琵琶湖北端の葛籠尾崎湖底遺跡は現在も「定説無し」「謎」とされているが、損傷のない土器が多いこと、水深が深く生活していたと考えられないこと、遺物の範囲が広いことなどから、ここでは人が居住したのでなく器物を水上から投下したものと考えるべきだろう。他の湖底遺跡とは別枠としたほうがよい。
竹生島と葛籠尾崎
琵琶湖北部、竹生島(左)と葛籠尾崎(右の半島)を東から見る。湖底遺跡は突き出た岬の手前、水深19-70mで広範囲に渡っている。

■補足


館内展示では湖畔の人々が洪水に苦しんできたことも紹介されている。河川氾濫は珍しいことではないから余り気に留めることがなかったが、むしろ湖底遺跡の存在を知ったことで、琵琶湖の水位変化→湖水の流出路としての瀬田川、人と瀬田川の関わり→田上山の伐採→瀬田川の氾濫→南郷洗堰を中心とする治水事業、といった関心が次々に刺激され、瀬田川の「アクア琵琶」(大津市)という国交省のPR施設まで見学へ行くことになった。

琵琶湖・瀬田川の洪水は、田上山伐採の問題にも直結している。田上山は人の活動によって瀬田川の流れがどう変化し、人の生活にどう跳ね返ってきたのかを学習する好例である。この琵琶湖博物館の記事に取り上げる構想だったが、アクア琵琶の展示で非常に詳しく解説されていることから、そちらの博物館訪問記で紹介することにする。

興味の発端となった湖底遺跡がなぜ存在するのかという疑問に加え、琵琶湖の水位が古代から上昇したのか、遺跡が丸々地盤沈下したのか?ある地質学者は地震による地滑りで琵琶湖にスライド水没したのだと言うが事実だろうかなど、琵琶湖博物館に踏み込んだがために、多くの疑問を与えられてしまった。今後も折に触れ探求を継続していくことになりそうだ。

(アクア琵琶は博物館訪問記として、瀬田川は地形地質探訪記としていずれ別稿にまとめるつもりです。また瀬田川沿いにある石山寺は地形地質探訪記:「石山寺珪灰石」として掲載済みです)

■最新訪問時期:2013年1月

■当ブログ関連記事

地形地質訪問記「石山寺硅灰石」

■参考資料
『日本の地形6 近畿・中国・四国』(東大出版会 2004年)
「琵琶湖西岸断層帯の長期評価の一部改訂について」
平成21年8月27日 地震調査研究推進本部/地震調査委員会
石山寺観光案内所・石山貝塚パネル展(近江しじみ貝塚研究会 2012年)
など




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。