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三内丸山遺跡(青森):縄文大集落と大型建造物の謎

カテゴリー見出古代史

三内丸山遺跡広場
三内丸山遺跡を代表する大型竪穴住居(左)と六本柱遺構(=大型掘立柱建物:右)

■概要

三内丸山遺跡は古くから土器や土偶の出土で知られ、平成に入って野球場建設のための予備調査で大きな発見が相次いだことから計画は変更され、遺跡公園として保存されることになった。多量の石器・土器・土偶の発見、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、墓地、大型掘立柱建物跡、道路跡などが検出された縄文中期の約1500年間に渡る大規模な集落遺跡である。
太い柱穴から推定復元された大型建物、大型櫓は大人数でなければ建造できないものであり、DNA分析によってクリの植栽が明らかになったことも含め、社会単位が数十人と考えられていた縄文時代のイメージを大きく変えることになった。

(この記事では初訪問者への助言、概要の紹介と、個人的に注目するポイントだけを取り上げます)



名称三内丸山遺跡:さんないまるやま いせき
国指定特別史跡 
所在地青森県青森市三内丸山
対象年代縄文時代中期(5500年前~4000年前)
交通機関JR青森駅から西南へ7km、車で20分
JR新青森駅から南へ2.5km、車で10分
青森空港から北へ8.5km、車で30分
市営バス「三内丸山遺跡」下車
マイカー・青森自動車道青森ICから東南へ1km
・青森市中心部から西南へ4km
・東北新幹線新青森駅から南へ2km
・無料駐車場あり
付帯施設縄文の丘 三内まほろばパーク「縄文時遊館」
 ◇開館時間::4月1日~5月31日 午前9時~午後5時
          6月1日~9月30日 午前9時~午後6時
          10月1日~3月31日 午前9時~午後5時
          (※入場は終了時間の30分前まで)
 ◇休館日・休園日:年末年始休館
 ◇入場料:無料
・縄文の食材を使用するというレストラン、図書室、体験工房などあり
問合わせ縄文時遊館 017-781-6078
                 017-782-9462
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

◇遺跡名称読み方
三内丸山:さんないまるやま  亀ヶ岡:かめがおか  大湯:おおゆ 
伊勢堂岱:いせどうたい  御所野:ごしょの


■見学詳細

遺跡エリア、関連施設など全体が「縄文の丘 三内まほろばパーク『縄文時遊館』」という公園になっている。
入場、駐車場はすべて無料
・夜間は公園全体が閉園される。

三内丸山駐車場から入口 駐車場から縄文時遊館への入口

・「縄文時遊館」がビジターセンターとして施設全体の入口になり、遺跡へは建物を通過して向かう。展示施設「さんまるライブラリー」は時遊館の一部。いずれも無料。
・遺跡エリアでは多くの建造物が復元されていて、見学は所要1時間。無料のボランティアガイドツアーあり。
・主な出土品を展示する「さんまるライブラリー」の見学は30分から1時間程度必要。展示解説が随時行われている。
・撮影可能

・遺跡の本格的な調査が最近なので施設も新しく立派。駐車場も見学も無料なのは青森県議会が議論の末に決めた。
・復元された大型建物と櫓は国内の縄文遺跡で例を見ないものである。これを前にしてどれだけ想像力を広げられるかで、満足度は左右されると言ってよい。

・展示施設の「さんまるライブラリー」だけでも学べるものは多い。
・「縄文時遊館」HPで16ページ構成の冊子がPDFファイルとしてダウンロードできる。

<周辺広域地図>
三内丸山遺跡広域地図 三内丸山遺跡と周辺の主な縄文遺跡

■遺跡内容詳細

・この遺跡が注目された第1要因である大型建物は二つあり、現在「大型竪穴住居」「六本柱遺構・大型掘立柱建物」として推定復元されている(冒頭写真の建物)。

「大型竪穴住居」の用途は共同住宅、集会場、作業場などの説があるが、多用途を兼ねたとも考えられる。想像だが、積雪の多い冬期に生活効率を上げるため集まって暮らしていた季節集合住居の目的があったのではないか。
 
「六本柱遺構」は用途も想像の域を出ず、復元のように壁のない櫓状だったか、壁のある建物だったのか、さらに屋根の有無も分かっていない。復元されている高さになっていたとすると、当時迫っていた青森湾が見えたという。見張りや目印かもしれない(後述)。
残念ながら見学者が登ることはできない。


・発見された有力者を葬ったと見られる墓地に直径4mと小型の環状列石が施されていた。三内丸山より後になると秋田・大湯環状列石のように規模が大きくなるが、墓地として石で円形を描くという様式がすでに始まっていたとも言える。

・縄文集落遺跡は全国で無数に見つかっていて、多くが人口数十名止まりである。当時は親族でひとつの集落を構成していたらしく、婚姻は近隣の他集落と交わしたと推測される。その時代に人口200名以上とされる三内丸山遺跡は異例の大規模な集落である。

・この人口推定は、大型建物を建造するに必要な人数から算出されたもので、根拠がやや弱い。建造時にだけ近隣から手伝いが集まった可能性もある。大きい数で500人とする意見があるが、建造年を正確に決められないまま「同時期の家屋」を単純に考え過ぎていて簡単に同意できない。

・三内丸山遺跡の出土品からは、列島全体の縄文文化から大きく離れる思想や様式は見受けられない。規模は大きいが文化は共通の範疇である。このように縄文文化が日本列島全体でほぼ一様であることは、当時の交流の多さを物語っている。

・三内丸山が注目された第2要因として、クリ材のDNA鑑定から、人為的にクリが多く植えられていたことが判明した。クリは石器時代から茹でなくても食用にできる貴重なエネルギー源であり、材木としても役立つことから、広範囲に植えられていたらしい。

・植栽を最初の農業と呼ぶのは無理があるが、有用な植物を集落の近くに移植し増やしていたという発見は国内初のものであった。なお、周辺の自然植生は花粉分析からもともとブナ林であり、三内丸山に人がいなくなった後にはブナ林に戻ったことが確かめられている。

【キソの確認1】建物の推定方法
どの遺跡でも建物に関して発見されるのは柱の穴に過ぎず、その並び方や太さで地上に構築されたものを推測する。三内丸山では一部で柱材の根元が当時のまま残っていたが、稀なことである。太い柱は大きく重たい物が乗っていたとか、整列した柱はひとつの建物だとか、細くて一列だけなのは塀であるなどといった公式から当時の様子を考古学者が類推している。想像の及ばない意外な建造物もあったのかもしれない。

【キソの確認2】縄文時代の遠距離移動
古代では遠方へ赴くのに陸地を歩くより、舟で沿岸を辿るのが主な交通手段だった。縄文時代では簡単な丸木船を用いたとされる(ちなみに横転防止の「アウトリガー」は未発見)。縄文集落はそういった交流に便利な海岸沿いで、高い波の寄せない内湾のあるところに多い。また、地域ごとの独立した社会だったらしいが、遠方との交流は想像以上に盛んだった。

【キソの確認3】金属のない時代
縄文時代はまだ金属を使えず、また農業を営んでいない。ふたつとも紀元前600年頃からの弥生時代以後の文化であり、縄文時代における木の加工は石器で行っている黒曜石(こくようせき)というガラス質の石はナイフのように鋭く、欠かせない道具だった。その産地は限られるため、どこの黒曜石が出土したかで交流の様子が推し量れる。三内丸山からは北海道・白滝や、長野県・和田峠のものが出土している。


■Pic Up!

◆六本柱遺構(大型掘立柱建物)はどんな建造物だったのか?
(注意:遺跡のHP冒頭に載っている写真で六本柱遺構が傾いているように見えているのは画像の歪みです。実物はまっすぐ建っています)

三内丸山六本柱 推定復元された六本柱遺構:クリックで拡大
三内丸山のシンボルとも呼ぶべき高さ20mの櫓を「六本柱遺構」と呼んでいる。様々な議論を経た折衷案(または妥協案)として今は暫定的な姿に復元されている。
発掘作業で古代の建造物跡として見つかるのは、いつでも柱の穴だけである。その穴の太さ、深さ、傾き、並び方、配置から想像力を巡らし、幾多の調査済み遺跡も参考にしながら柱は何を乗せていたのかを類推していく。ここは考古学者の才能が問われる重要な作業だ。
復元に際し一番議論が交わされたのは、屋根があったのかどうかという点だったという。現在は屋根無しになっている。

この柱穴では柱自体の根が6つのうち2つで残っていた。
三内丸山柱穴残存 柱の根が残っていた穴の一つ(実物)。穴の直径2m。

この6つの穴が他の建物跡と違う点がいくつかある。
    ・柱で直径1m、穴は2mと太く、深さが2mと、堅牢性が高い
    ・内側へわずかに傾けてある
    ・竪穴住居のような、地面全体を掘り下げた様子がない

すぐ隣に復元されている大型竪穴式住居とはこの3点が異なっている。
大型竪穴式住居ではカマド跡も見つかっていることから、人々が居住、または長時間屋内で過ごしていたことが明らかなのに対し、六本柱は地面に柱穴以外の遺構がなく、第2層以上に目的があったと窺える。

太さ1mの栗の木を6本用いれば、相当な重量も乗せることができたはずである。ただし注意しておくべきことは、柱が頑丈だったことで復元のように20m近くの高層を目的にしていたと単純に断定はできない。
なぜなら太い栗の木を縦割りにしたり、外回りをそぎ落として扱いやすい細さに加工することは石器しかない縄文時代の技術ではかなりの手間がかるため、必要以上に過度な太さをそのまま使用したとも考えられるからである。
この可能性は踏まえておくが、それでも筆者は高層建築だったという考えに賛成である。それは目的から考えてのことで、望楼であり、また目印だったと想像している。

◇六本柱高層建造物の目的(筆者推論)

三内丸山の人からは遠くを見通すために、そして来訪者からは目標地点を目視するための構造物だったのではないか。
根拠は縄文時代の主たる交易ルートである青森湾からよく見える位置が選ばれていることである。
地形図を見ると、遺跡のすぐ北に接する運転免許センターは海抜4mしかない。そのまま青森市街から青森湾まで、3m、2mと下げ、4kmで海に届く。三内丸山が栄えていた時期は縄文海進という海が数メートル高かった時代であり、青森市街は大部分が海、運転免許センターも含め、ここを流れる沖館川(おきだてがわ)が入江だったことは間違いない。三内丸山遺跡のすぐ横に港があったはずである。
三内丸山海岸線入り地形図当時の海岸線と遺跡の位置:クリックで拡大
下北半島と津軽半島の間・平舘海峡を通過して青森湾に入ってきた船からは天気が良ければ30km先からでもこの「櫓(やぐら)」が見えたのではないか。また櫓の見張りからも船の接近が見え、迎える準備ができる。また火を焚けば日暮れの到着者に大きな便宜となる。
もちろん、祭祀など他の用途を兼用した可能性は高い。しかし大勢が苦労して他の地区で類のない構造物を作り上げた目的として、実用的な展望台と同時に異国からの来訪者に自分たちの先進技術を見せつけることは大きな効果があったのではないか。古墳時代の仁徳陵と同じである。


なおその入江地形に合流するひとつの支谷として小さな「北の谷」があり、ここは排泄やゴミ捨て場とされていたらしく多くの遺物が発見されている。


■青森の地勢的な意味

当ブログ「亀ヶ岡遺跡」にも書いたことだが、青森は北海道との交易窓口として重要な拠点だったと想像できる。青森湾周辺の人々にとってだけでなく、本州全体の縄文人と北海道との交易を仲介していたのではないだろうか。

縄文時代は陸路よりも沿岸を船で移動した交易が盛んで、岩手や秋田の内陸に居住する人々にとっては徒歩で津軽へ出て、三内丸山の人々と友好関係を築いて海産物や北海道など遠方の品物を入手したと思われる。

発見されている代表的な遠方の品物は、北海道黒滝の黒曜石ナイフ新潟のヒスイ(宝飾品)秋田のアスファルト(接着剤、防水剤)がある。これらは船でなければまとめて運ぶことが困難で、海岸に住んで船の技術を持つ人々が先進文化を担ったことだろう。三内丸山はその意味で好条件の場所にあった。


◆東北の縄文遺跡

(冒頭の周辺広域地図を参照)
この三内丸山以外にも、青森・秋田・岩手の東北三県には注目すべき縄文遺跡が多い。例えば遮光器土偶の出土した亀ヶ岡遺跡、ストーンサークルの大湯環状列石伊勢堂岱遺跡御所野遺跡などである。
また三内丸山からわずか10km南には時期の継続する小牧野遺跡があり、ここの環状列石の並べ方は三内丸山と共通していることなどから関連が注目される。。
縄文遺跡は特定の地方に集中したり、価値の高い遺物がまとまっていたりということはなく、海岸沿いに限らず魚介類を採れないような山間地にも分布している。縄文時代は現代のように大都会に人が集まってくるという動きがないのである。
それらこれまで発見された中で、三内丸山遺跡はもっとも規模が大きい。


◆クリDNAの誤解

クリのDNA分析という科学的手法によって、集落周辺にはクリの木が多く人為的に植えられていたことが分かった。これは三内丸山遺跡が注目を集める大きな要素になっている。
このニュースは「農耕」の始まりだったと解釈する説を呼び、マスコミが好んで取り上げることになった。しかしこれをもって「農耕」というのは飛躍し過ぎであり、科学者の取るべきスタンスではない。「栽培」と呼ぶのも難しく、「植栽」とするのが良いのではないか。これらの語句は人の関わる程度によって、使い分けるべきである。

種や枝を埋めることで木が育ってくることは、縄文人も容易に気付くはずである。ポイントは生育を助けるために、地面を耕したり水を撒いたりといった労務作業を行ったのかどうかという点で、作業に注ぐ手間が多ければ「農耕」が相応しいし、植えただけならば「植栽」だろう。その作業痕跡は発見困難かもしれないが、見つからない以上は農耕と表現するべきでない。

縄文人がそういった成長要素まで考えずに、クリの木を増やそうという意図で手当たり次第に枝を地面に差し込み、あとは放置していったとしても、その一部は育ったことだろう。しかしこの程度の関わりを弥生時代に始まる稲作のように大きな手間をかけ、大集団を形成する契機となっていく“農耕”と同じ範疇に入れることは無理がある。

またDNAの揃っていることから「選別されたクリ」と表現する文献もある。わざわざ離れた場所のクリの木を取りに行くはずはないから、狭い範囲のクリが起源となってDNAも揃うのは当然である。一般的なクリより優良な性質であると証明できない限り、多くの中から「選別した」と考えるのは強引な想像である。


■三内丸山はなぜ終焉したのか
三内丸山年表  

古代史に関心を持つならば、それぞれの遺跡がなぜ終焉したのかは必ず考察するべきテーマである。
三内丸山遺跡は今から4500年前にもっとも人口が多く、その後徐々に衰退して4000年前に終焉したらしい。その時期は全国的に縄文遺跡の規模が縮小している時期とも一致する。
原因としてもっぱら言われているのは気候の寒冷化であり、この気温低下は地質学でも確かめられている事実である。しかしそれが三内丸山の衰退原因と断定できるかどうかはわからない。
ひとつの考えとして、遺跡周辺に広く植栽されていたクリは、寒冷化してしまうとうまく育たない可能性がある。しかしこれもはっきりしていない。
もし寒冷化が深刻な問題になるのなら、三内丸山だけでなく東北全体、及び北海道の縄文遺跡でも衰退が現れるはずである。ほかの遺跡では住居跡が減少しても一時的で、のちに生活が再開される例が多い。三内丸山ではなぜ再開がなかったのだろうか。ライバル集落に敗退したのだろうか。
戦乱の形跡はないので、そうなると考えられるのは、大集落として担っていた(委ねられていた)重要な機能を何らかの事情で果たせなくなったか、もっと有能な他地域に機能が移転したのではないか(ここには三内丸山が単なる大型集落でなく機能都市だったという前提がある)。

終焉の事情について、公式にはまだほとんど分かっていない。筆者は移転説を考えている。
いずれ改めてこの事情は考察することにしておこう。

重要拠点の移動という観点からは次のことも考慮しておきたい。
当ブログの「亀ヶ岡遺跡」記事でも触れたことだが、三内丸山がほぼ放棄された後、1000年経って亀ヶ岡が栄え始めている。地形的・地理的に考察して、筆者は全盛期の三内丸山のように本州と北海道をむすぶ交易拠点としての役目を亀ヶ岡が担ったのではないかと想像している。亀ヶ岡が栄え始めるまで空白の1000年間はどこが担っていたのかが問題だが、知られている遺跡には相応しいものがなく、まだ発見されていない(あるいは破壊されてしまった)重要遺跡が隠れているのではないだろうか。

筆者が作製した上の縄文年表では、三内丸山遺跡の直後に小牧野遺跡が出現するように描いた。遺跡の調査から年代を単純に当てはめればこのようになるが、人々が引っ越し・継続したと短絡に考えることはできない。三内丸山に想定している交易拠点としての機能を果たすには小牧野では疑問が多いからである。


【縄文社会の謎1】雪国に縄文人はどう適応していたのか?

東北地方の縄文遺跡からは土偶を始め、際立った遺物が多く発見されている。それに対し西日本の縄文遺跡はあまり注目されることがない。
素朴な疑問は、南国に較べて雪の多さや寒冷で暮らしにくいであろう東北や北海道でなぜこれほど縄文文化が栄えたのかということである。
そして三内丸山にはなぜ大規模な集団(人口200人程度)ができたのだろうか。

まず、東北・北海道で栄えているというのは、そう見えるだけかもしれない。西日本の縄文遺跡から耳目を集める発見が少なかったり、弥生遺跡に研究が偏っているのかもしれず、即断できない。
それにしても雪の多く寒い土地で縄文人はどのように耐えていたのかは気になるところだ。

筆者の想像ではむしろ積雪によって「引き籠もり」時間が多くなったことが、土偶などの非実用生産を発達させ、冬季用の保存食技術も進歩した可能性がある。
上にも述べたように、三内丸山で復元されている大型建物はこの籠もり施設だったのではなかろうか。小型住居に分散しているより暖房の燃料が少なく済み、コミュニケーションも取りやすい。ほかの縄文遺跡で類似の大型建物が見つからないのは単に建築技術上の問題で、三内丸山の技術が優れていたとも考えられる。

三内丸山大型住居内部 大型竪穴住居の内部。冬の間ここに籠もっていたのだろうか?

これは偶然かもしれないが、いずれも際立った芸術品と呼べる新潟の火焔土器、長野の土偶「縄文のヴィーナス」などは、冬に積雪に閉じこめられる地域の遺跡から見つかっている。外出の難しい冬に屋内で時間を過ごすことによって、縄文人は精神文化を深めていったとは考えられないだろうか?

新潟の火焔土器
新潟県馬高遺跡出土の火焔土器。屋内に籠もって冬を過ごす縄文人にとり、炎はどのような存在だったのか?

雪国での保存食について2点指摘しておきたい。

話が脱線するようだが、日本人が塩分を摂り過ぎる原因は、漬け物文化にあると思う。作物の採れない冬季をしのぐために、先人は塩を使って保存する方法を多用してきた。海に囲まれた日本では入手が容易な塩を保存手段に使うことが適していた。
漬け物に慣れた日本人の味覚が、現代でも塩気の多い食品を好むように仕向けているのではないだろうか。そしてこの伝統はすでに縄文時代から始まっているのではないか。

もう一点、多雪地では食品を雪の中に保存する方法が使える。冷蔵庫が普及した現在では必要性も薄れてしまったが、今でも実行している地域がある。方法は積雪がまとまり始めたタイミングで地面に食品を置き、雪で覆うだけである。地面のわずかな熱が雪の断熱効果で保温され、凍ることなく1~3度が保たれるために傷まず、かえって糖分が増えて野菜は美味しくなるともいう。この方法を縄文人は当然知っていただろう。
これらの点を考慮に入れると、多雪地という条件は縄文人にとってハンディキャップとも言い切れないようである。


【縄文社会の謎2】なぜ小規模社会だったのか?

三内丸山に限定することではないのだが、縄文時代の文明について想像することがある。
縄文時代は1万年の永きに渡っている。その間、少しでも暮らしやすい場所に人々が集まって大集団になっていく行動はなかったのだろうか

社会は総人口があっても人口密度が低い間は発明や革新は生まれにくく、集団規模が拡大すれば発達が加速する。世界の古代文明を見ても、川のほとりに人が集まることで文明と呼べる大きな社会が築かれている。

集団の人数が大きくなれば社会が階層分化し、支配者として「王」が生まれる。
階層が分かれると、職業としての兵士や官僚、職人が現れる。それぞれが専門分野に特化して技術を向上させることで、従来になかった文化が誕生するものだ。

規模の拡大した社会が自ずとこの方向に向かうのは、おそらく世界共通の原理だろう。人口200人と見積もられている三内丸山でも、埋葬の様子から幾らかの階層構造があったようである。

発見される遺跡を観察する限り、縄文時代は最後まで列島各地で小単位に人が分散していたかのようである。その要因は必要性に迫られず、少人数の集団のままで特に困らなかったからだと考えるのが順当であろう。
だが本当に困らなかったのだろうか。

縄文時代後期には遺跡の数が急減していることから、人口が減ったと推測されている。その時期は気候が寒冷化したことがわかっていて、食料に困ったのではないかと想像される。そのような困窮に陥って、集団の規模を増やして解決を求めようとする行動はなかったのだろうか。

人口が減ったのはおそらく確かだ。それでも縄文人は分散したままだったのだろうか。或いは小規模の集落を放棄して集まろうとしたが、遺跡として発見されるほどの「町」を作る時間がなかったのか、発見されていないだけなのか。

もし縄文人がどこかに大きな集団を形成し安定的に活動していたならば、朝鮮半島からの渡来人によって扉の開けられる弥生時代を待たずに、新しい文化が展開されていたのかもしれない。

◇この三内丸山遺跡は縄文時代を代表する遺跡であり、この一本記事で終了させず、今後も追加取材・掲載をしていきます。

三内丸山板状土偶
「さんまるライブラリー」に展示されている板状土偶。
高さ32cm。首で上下に分割され、離れた場所で発見された。分割されたことも離れて埋められていたことも意図的であり、全国に共通する縄文期の宗教観を示している。
(板状土偶とは一枚の板になっているもの。三内丸山では中空になった立体構造の土偶は見つかっていない)

■筆者の最新訪問時期:2012年10月


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