日本に好奇心!ついでに登山。この国の歴史・文化・自然をもっと知りたい!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

亀ヶ岡遺跡(青森):遮光器土偶を残した津軽の縄文遺跡

カテゴリー見出古代史

亀ヶ岡しゃこちゃん
遺跡地である「しゃこちゃん広場」に設置された遮光器土偶の拡大石像

名称亀ヶ岡石器時代遺跡
国指定史跡 遮光器土偶は重要文化財
所在地青森県つがる市木造亀ヶ岡
対象年代縄文時代晩期(紀元前1000年-紀元前300年)
交通機関       JR五能線木造駅より車20分
マイカー東北自動車道浪岡JCから津軽自動車道へ入り、五所川原北ICで下車してから20分15km 道が分かりにくい
しゃこちゃん広場に数台駐車可能
その他の基点五所川原市中心部から15km
青森市中心部から50km
弘前市中心部から40km
付帯施設1「縄文館(考古資料館)」しゃこちゃん広場から2km
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
付帯施設2「つがる市縄文住居展示資料館 カルコ」
亀ヶ岡遺跡から8km、木造駅近く
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
問合わせ縄文館 0173-45-3450
HPなし
縄文住居展示資料館カルコ 0173-42-6490
HP:http://www.city.tsugaru.aomori.jp/sisetu/00006.html

◆地名読み方
木造:きづくり 田小屋野:たごやの 七里長浜:しちりながはま 十三湊:じゅうさんみなと 三内丸山:さんないまるやま

亀ヶ岡遺跡地図

■概要


亀ヶ岡遺跡は遮光器(しゃこうき)土偶が出土したことで知られる、青森県津軽地方の縄文遺跡。
江戸時代から多数の土偶や土器類が掘り出され、高価値の「亀ヶ岡もの」として好事家のあいだで盛んに取引されたため出土品の相当数が散逸してしまった。

明治以降に学術的な調査で発見された遺物は盗掘を免れた一部ということになり、その中に明治20年発見の「遮光器土偶」も含まれていた。木製品などの有機物も水質地に没したことで腐敗が抑えられ多数発見されている。
ほかにも岩偶(がんぐう:石を削った土偶)、玉類、漆器、彩色土器、ガラス玉、秋田から入手したアスファルト塗装など優れた技術を窺わせる遺物が多数出土しているほか、近年には土壙墓群(どこうぼ:地面に掘った穴に埋葬した墓)や、炭化米も見つかっている。
東北地方の縄文晩期遺跡から出土する土器類はここ亀ヶ岡を標識として「亀ヶ岡式土器」と呼ばれる。

「亀ヶ岡」という地名は縄文土器の瓶(かめ)がよく見つかったことに由来する。
また「木造」(きづくり)の地名は広がる湿地帯に木を敷いて通行したためで、遺跡微高地の周囲は今も低湿地の水田が広がっている。

亀ヶ岡遠景 東から見た亀ヶ岡遺跡のある微高地

■見学詳細

亀ヶ岡遺跡の北200mに隣接して、国史跡・田小屋野貝塚も存在する。
通常、地図で表示される遺跡ポイントは掲載した冒頭写真の「しゃこちゃん広場」で、土偶のモニュメント、説明案内板、公衆トイレ、少数の駐車場が整備されている。実際の遺跡はその背後に広がる丘陵全体で、現在は大部分が民家や畑に利用されており、古代をイメージさせる雰囲気はほとんどない。

亀ヶ岡しゃこちゃん広場 しゃこちゃん広場。左に土偶の石像が見える。

詳細な発掘資料が残らなかったため、明治20年に遮光器土偶の出土した地点も「推定地点」と図に示されているだけである。
展示施設の縄文館へは集落間の細い道を案内標識に従って、東南方向へ2km行く。
遺跡見学のつもりで訪問すると肩透かしに遭う。縄文館も特にお奨めはしない。


■遮光器土偶の性格

亀ヶ岡遮光器土偶 しゃこちゃん広場の説明板より現品は東京国立博物館所蔵

高さは34.2cm。中空に焼かれ、もとはベンガラ(酸化鉄を含む石から採取する赤い顔料)で彩色されていたらしい。ゴーグルのような目元が北方イヌイット民族の道具で太陽光と積雪の反射光除けに使用する遮光器に似ていることから呼称がついた。東北地方で広くこのタイプの土偶が見つかっている中で、この亀ヶ岡のものが芸術性において傑出している。

・縄文人が本当に遮光器を使用していたかどうかはわからない。北海道アイヌに伝わっていないことから否定的に考えられている。
・特徴から、女性を表現していると見なされている。
片足なのは当初から。製作後に除去したとも言われる。このように体の一部を欠いた土偶は縄文土偶全般に見られ、表現意図は不明なのだが、縄文社会に共通した思想や宗教観のようなものがあったらしい。

・このような人型の土偶をどんな目的で製作したのかもはっきりとは分からない。もちろん実用品ではなく宗教的な用途と推定され、他遺跡の出土状況からは死者の埋葬時に一緒に埋めた例が見られる。
・ただしもし遺体の傍らで土に埋めたとしても、遺体はすっかり分解されるため検出されず、通常の発掘調査では土偶だけが発見される。最近の注意深い発掘では遺体痕跡の検出方法があるらしいが、実施しない調査も少なくないという。明治時代に発掘されたこの遮光器土偶の場合も埋葬に伴っていた可能性はあるが、今となっては確かめられない。
(東北に多い環状列石遺構が墓地だと確認される例が近年増えているのは、検出方法の進歩による)

※「遮光器土偶」は類似の土偶全般を指す一般名称なので、厳密には「亀ヶ岡の遮光器土偶」と呼んだほうがよい。



■縄文期における亀ヶ岡の重要性

遺跡の所在する屏風山丘陵は海抜16mの高さで、西へ4km行くと日本海に面する七里長浜という南北に長い浜、浜沿いに北へ15km行くと十三湊遺跡がある。
また東側はすぐに海抜1-2mの低地が南北に広がっている。

縄文時代晩期には西に日本海、東に長い入江があって、南から北に延びる半島地形だった。入江は波の穏やかな内湾として、交易の船(縄文時代は単純な丸木船)が着岸していただろう。この立地と地形が亀ヶ岡を拠点に育てたと言える。

縄文時代は遠方との文化交流が盛んで、その主たる交通手段は沿岸をたどる海のルートだったと考えられている。遠方との交易例として、沖縄の海に産するイモ貝で作った腕輪が北海道の縄文遺跡で見つかっている。

亀ヶ岡遺跡の北に位置し中世にアイヌ文化との交流窓口となった十三湊遺跡は鎌倉時代に設置され繁栄した場所だが、地形的に天然の良港という条件では縄文時代の亀ヶ岡も同じだったはずである。十三湊の地が交易拠点に定められたのは、すでに亀ヶ岡の入江が岩木山からの土砂により埋まって陸化していたからとも考えられる。

亀ヶ岡地形図2  縄文時代の入江地形想像図

これらの材料から、亀ヶ岡は縄文時代に日本海側を行き来したネットワークの中継地として機能し、特に本州島と北海道を結ぶ重要な拠点だったと想像できる。そして津軽平野の縄文人にとっても、中部地方や西日本の文化が入ってくる窓口になったはずである。

亀ヶ岡遺跡からは最近になって炭化米や籾殻まで発見されている。米を扱う時代は弥生時代と呼ぶのが慣例なので、縄文から弥生への移行期に入っていたと言える。青森では弥生時代前期に稲作を行っていた形跡がすでに津軽平野の砂沢遺跡などで見つかっていて、佐賀県菜畑遺跡を最古とする稲作開始から100-200年程度で稲作文化が到達したと推測されている。この早さも、日本海側ネットワークと亀ヶ岡の位置を考えれば納得できそうである。むしろ亀ヶ岡という窓口があったことで、青森の縄文文化は豊かに発達し、速やかに稲作を始めとする弥生文化へ移行できたと言えるかもしれない。


■亀ヶ岡の縄文遺跡としての価値

青森の縄文遺跡と言えば知名度も予算の投入額も、三内丸山遺跡が際立っている。
今回亀ヶ岡へ車で接近しても案内表示がほとんどなく、ナビがなければ訪問は難しかった。着いてみた「しゃこちゃん広場」は交通の休憩所という雰囲気に過ぎず、設置された説明板と石像模型が歴史愛好者には救いだった。
そんな不遇の亀ヶ岡遺跡も、本来は三内丸山遺跡に匹敵するほど豊かで重要な遺物を秘めていたのではなかろうか。

有史以来現在まで遺跡の上に人々が居住して調査も自由にならず、また「概要」に書いたように、長い期間に渡って盗掘を受け多数の出土品が失われてしまったことは返す返すも残念でならない。
(江戸時代には法規制がなかったらしく堂々と行われていたので、「盗掘」でないかもしれないのだが)
遮光器土偶の実物も東京国立博物館が所蔵し、青森県立郷土館にはレプリカ展示、現場の亀ヶ岡にはここに紹介している模型と写真だけというのも寂しい。

しかし残された出土品には遮光器土偶のほかにも漆塗り壷形土器、彩文皿形土器など、精巧で華麗な意匠を施したものも多数含まれている。近くの「縄文館」、木造駅近くの「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」、青森市の青森県立郷土館に収蔵・展示されていて、それらの技巧と芸術性の高さには驚くばかりだ。

亀ヶ岡遺跡は通常「集落遺跡」と分類されているが、遺跡エリアの狭さに比較して出土物の内容が豊かであること、散逸したものを含めれば数倍量が想定できることから、単なる集落でなく「祭祀遺跡」の性格も濃い。その祭祀は狭く見ても津軽地方全域、ことによると東北三県を総括するイベントだったのではなかろうか。
現在あまり日の当たらなくなっている亀ヶ岡遺跡であるが、縄文史を探究する上での重要性は高い。


◆隣接する田小屋野貝塚

田小屋野貝塚は以前から日本海側では珍しい縄文貝塚として知られていた。平成に入ってからの再調査で、縄文時代前期中頃の竪穴住居跡などが発見された。貝は淡水から汽水域に棲息する種類が中心で、当時は汽水域が広がっていたことが分かる。魚類や日本海側で座礁したと推測されるクジラの骨も見つかっている(座礁と推測するのは縄文時代の技術でクジラ漁は不可能と考えられるため)。


■近郊遺跡との関係と謎

亀ヶ岡の稼働していた縄文晩期(前1000年から)には、三内丸山(前3500-前2000年まで)の活動は終焉している。三内丸山では人口200人の共同体を成立させ、大型建造物を造る技術があった。その後亀ヶ岡時代が始まるまでの1000年以上、縄文人は同程度の、あるいはそれ以上の建造物を造らなかったのだろうか?造った遺跡が発見されていないだけなのか?

また亀ヶ岡のすぐ北に隣接する田小屋野貝塚は、三内丸山とほぼ同時期の貝塚であり、出土物からの推定で当時は多数の定住者がいても祭祀を行うような重要な場所ではなかったらしい。その後、亀ヶ岡が重要になる時期には、貝塚として使われていなかった。
人々はなぜ移動したのだろうか、生活様式が変わったのだろうか?海岸線はどの時期に変化したのだろうか?

上図のように、三内丸山遺跡は青森湾にほど近く、港を持った拠点だったと思われる。三内丸山の出土物からは遠方との交易が盛んに行われたことがはっきり分かり、最盛期には本州島と北海道が交流する中継地機能を一手に引き受けるほどだった可能性がある。その時期には逆に亀ヶ岡は港としての必要性も生じなかったはずである。

紀元前2000年に三内丸山の活動が終わってから、必要なはずの中継地はどこへ移ったのだろうか?亀ヶ岡が先述の想像通り後にその機能を請け負ったとしても、その間1000年の空白期間はどうなっていたのか?
未発見の遺跡が役目を担っていたのだろうか。
永く活用した拠点を放棄し、人々の移動した事情は何か。まだ隠れている重要な遺跡があるとしたらどこか。

青森・秋田・岩手の東北三県には重要な縄文遺跡が幾つもある。それらの前後関係を整理し、文化がどの方向に伝わってどう影響したかを推定することができれば、環境変化と文明の消長という、現代にも通じる問題が見えてくるはずである。

亀ヶ岡年表  


◆蛇足

遺跡の正式名称は「史跡亀ヶ岡石器時代遺跡」という。
考古館の事務員に尋ねてみたところ、この命名は「間違い」がそのまま使われているのだそうだ。
直さないのも不思議、冗談のようなハナシ。
念のため、亀ヶ岡遺跡は石器時代でなく、縄文時代の遺跡である。


■最新訪問時期:2012年10月






スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。