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知覧特攻平和会館(鹿児島)

カテゴリー見出し博物館
「知覧特攻平和会館」:70年前の特攻隊員が遺したもの


会館前景

■所在地:     鹿児島県南九州市知覧町郡17881 
   旧町名:     鹿児島県川辺郡知覧町(平成19年12月1日より南九州市)

■緯度経度      東経130.26.03  北緯31.21.48

■対象ジャンル:     歴史文化    太平洋戦争における陸軍特別攻撃隊の記念館

■概要紹介

1975年開館。建設は知覧町(現・南九州市)。
知覧は昭和16年に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開校、訓練所として使われた後、昭和20年、本土最南端の特攻基地となった。
特攻機はほかにも九州各地、・沖縄・台湾、一部は本州からも飛び立ったが、知覧からの出撃がもっとも多かったため、特攻基地の代名詞のように知られることとなった。

戦後、軍関係の施設が一掃されて公園に変わり、昭和30年平和観音像が祀られ慰霊祭が行われていたが、元特攻隊員でエンジントラブルのため帰還し終戦を迎えた板津忠正氏(初代館長)が自ら収集した隊員の遺品を展示する「遺品館」として昭和50年に開館され、昭和61年に「知覧特攻平和会館」となった。

注:この知覧特攻平和会館は、広島平和記念資料館(旧称・原爆資料館)・長崎原爆資料館とともに一般的な観光旅行での見学には適さない。言うまでもなく事前の基礎知識と心の準備を持って入館する必要がある。


■開館時間:         9:00-17:00、入館は16:30まで
■休館日:          無休、臨時休館あり
■入場料:          大人500円、小人300円

■交通
◇鹿児島空港から
・空港バス(4路線あり)約1時間半から2時間「特攻観音入口」徒歩5分
・車/タクシー 九州自動車道、指宿スカイライン、国道225号線経由 1時間15分
◇鹿児島中央駅から
・JR指宿枕崎線 平川駅または喜入(きいれ)駅、バス約30分「特攻観音入口」徒歩5分
・車/タクシー 鹿児島ICから指宿スカイライン、国道225号線経由 1時間05分

◇鹿児島市中心部から南南西方向、約30km
◇開聞岳から北北西方向、約25km


■問合わせ:
http://www.chiran-tokkou.jp/index.html
0993-83-2525

■内容

◇屋外展示(散策自由)

一帯は「知覧平和公園」として整備され、「ミュージアム知覧(南九州市立博物館)」「知覧文化会館」「知覧体育館」が同居し、広い駐車場に団体を乗せた大型バス続々と出入りする観光地でもある。

館外には銅像「やすらかに」「とこしえに」、記念碑、復元機、三角兵舎などがあり、ガラス越しに館内で展示されている「隼」の機体も見える。

・平和公園へ向かう道路沿いに延々と石灯籠が並んでいる。これは帰らなかった人柱の数を建立しようとしていて、訪問時の2014年6月にはまだ継続中ということだった。

三角兵舎
復元されている三角兵舎の外観と内部。ここで出撃までの数日を過ごしていた。

石灯籠
公園に近づくと現れる石灯籠の列

◇語り部


館内の講堂で随時「講話」を聴くことができる。原則的に予約が必要だが、訪問時にちょうど重なれば聴講できる。
語り部には6人が登録されているが、実際の隊員や子息ではない。

◇館内展示

(館内は撮影禁止のためここに画像で紹介することができないが、会館のHPにはロビーの「フッベルのピアノ」や戦闘機の実物写真などが紹介されている。)
(注:映画『月光の夏』に描かれたフッベルのピアノのエピソードはフィクション混じりと言われている)

館内にはパネル解説・資料や航空機の実物大模型、実物も展示されているが、展示面積の大半を占め強い印象を与えるのはなんと言っても遺影・遺書・遺品群である。

なお、隣接する「ミュージアム知覧」は別名のように南九州市の歴史博物館であり、特攻平和会館との内容重複はない。

◆基礎知識:隊の名称

正式には「神風特別攻撃隊」、“しんぷう”が正式、“かみかぜ”は通称。

◆基礎知識:特攻隊員の人数

特攻隊員で戦死した人数は1036名(終戦後に自決した作戦立案者の大西中将も含まれる)。そのうち知覧から出撃したのは439名(生還者は含まず)。


■博物館としての評価

5段階評価:5

広島と長崎と同じく、このジャンルの博物館は一通りの日本史を修得した大学生レベルで訪問しておくことがよさそうに思われる。
多くの日本人に訪問してもらいたいが、中学生以下には奨めない。

各地の博物館には客観性を欠いて一般に奨められないところもあるのだが、知覧平和記念会館は戦争自体の評価や攻撃の美化などを慎重に避け、アメリカやアジアの人々が見学する場合にも配慮されていると感じた。
内容に較べて500円は安いくらいだが、1000円近くになると入館者が減ってしまうだろう。何を感じて持ち帰るかで、見学の価値は大差が出そうだ。

とこしえに  
銅像「とこしえに」


■所感(主観)
(このテーマを記事にする以上、筆者のスタンスを表明しておきます)


◇特攻作戦の目的について
(客観的事実として筆者が知識化したもの)

特攻攻撃はすでに敗色濃厚となっていた時点で立案された。
提案者は海軍中将の大西瀧治郎(人物についてはWikipedia参照のこと。長文で詳しいが少々読みにくい)。ただし単独で発想したのではなく、周辺からの提案を正式に、かつ積極的に具申したのが大西ということらしい。
目的は“戦局の挽回”
漠然とした表現だが、当時の軍人でもほかの言葉ではっきり答えられただろうか?。
五分に渡り合っていたのならともかく、圧倒的な劣勢は承知していたはずである。提案者も本心では敗戦の先送りに過ぎないとわかっていたのでは?

◇特攻作戦の成果について

多大な犠牲を払って、目的は果たせたのだろうか。
この作戦で戦局を逆転できるとは誰も考えてなかったはずである。
(推測が混じるが)この時点で上層部の頭の中は情勢を少しでも好転させたいとの思いに占められて、戦争をどう終わらせるかという構想まで考えられなかったのではないか。“不利でも徹底的に戦う”ことが絶対視される空気の中で、合理性や将来展望は描けず、講和条件を有利にするという、戦争では必要な政治的判断ができる軍人はほとんどいなかっただろう。その空気は、勝算の見通せない無謀な作戦、玉砕やむなしとの指令、それらの繰り返しによって中枢部でも熟成されていったものと推測する。

そのような観点から察するに、特攻作戦の目的は本土決戦への時間稼ぎとしか言いようがなく、根本が沖縄戦と同じである。
果たしてその目的は達成できたのかと言えば、少しはできただろう。しかし大局は何ら変わらなかったという意味では、虚しい結果だったと言うしかない。

◇精神論と価値観について

おそらく日本の軍人には“武士の精神”が伝統として伝えられていたと思う。
発案した将校でも、提案者の大西などは自身が先頭に飛び立つつもりでいて果たせず、終戦直後に自決した。
相当数の将校が持っていた「責任は命で償う」「任務に命を捧げる」という覚悟は士官学校で叩き込まれたものだろう。

同じ覚悟を若い兵士も持っていたらしいことは、平和会館で展示されている遺書に迷いがほとんどないことで窺える。迷いを見せないために強気を装ったという面はあるかもしれないが、そもそも知覧に集まった隊員はほとんど志願者だった。
現代からは異様に感じられるかもしれないが、彼らの価値観では特攻は美しい“散華”であり、志願しても選ばれなかった者からは羨まれたという。

私たちがよく考察するべきは、当時の空気を「狂っていた」と突き放してそれ以上の分析を止めてしまうことでなく、「なぜそのような価値観が受け容れられたのか」の深い分析だろう。マインドコントロールと断定してしまうのは容易いが人間の思考がそんなに単純とは思えない。

そして遺書から、むしろ彼らは教養に優れていたように感じる。毛筆で書かれた遺書はどれも達筆であり、文章は品格に満ちている。
当時、若者のほとんどが徴集されてさまざまな人が軍を構成していただろうが、特攻隊員には中でも優秀な者が集まっていたように思われる。そのような若者達が軽率な判断で志願するはずはなく、信念と誇りを持っていたことは疑う余地がない。

しかし特攻攻撃の事実は切なさとやるせなさを残した。戦争の犠牲者はほかの戦地でこそ大量にあったのに、片道を覚悟して飛び立った若者たちへこそ私たちの感傷が強くなるのはなぜなのか、それもよく解らない。

人の精神、心理と行動は解明が難しい。正常な判断力を持っているはずの健常者がなぜ犯罪を犯すのかすら、充分に説明できない。
価値観もその時代・社会の空気やそれぞれの教育によって変わってしまうからだろうか。
間違った時代と言い切るのは簡単だが、私たちは現在も将来も間違わないようにできるのだろうか?


■開聞岳(かいもんだけ)と知覧

開聞岳
左は長崎鼻(東南側)からの開聞岳。  右は開聞岳頂上からの展望。

筆者は山を主目的に鹿児島を訪れたので、100名山に選ばれている開聞岳(924m)にも登山した。
さほど高い山ではないので3時間ほど汗を流せば展望抜群の頂上に達する。
この山は2段構造の火山で下部は成層火山、上部は溶岩ドームで、よく見れば上部と下部で斜面の角度が違うが、おおよそ富士山と良く似た形と言える。そのため別称は「薩摩富士」であり海上の船舶から目標にされていた。

知覧飛行場を飛び立った特攻機はこの開聞岳を日本の象徴・富士山に重ね合わせ、上空を巡ってから南方へ向かったという。最後の「日本」として彼らが目に焼き付けていったのがこの山となった。


■最新訪問時期:2014年6月
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