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濃尾平野(愛知/岐阜/三重)

カテゴリー見出地形地質

■濃尾平野(愛知/岐阜/三重):災害を繰り返す国内最大級の沖積平野

濃尾平野金華山から  
岐阜市・金華山から展望した濃尾平野の北半部。この日は霞んでで見えないが、伊勢湾まで40kmの平坦な地形が延びる。

■名称: (広い地域なので特定名称なし)
■冠 :  なし
■所在地  愛知県西部(尾張地方)、岐阜県南部(美濃地方)、三重県(北勢地方北東部)

■難読地名など
長良川:ながらがわ 揖斐川:いびがわ 木曽三川:きそさんせん
立田:たつた 八開:はちかい 七宝:しっぽう 
木曽岬町:きそさきちょう

◆目次

1 概要と前書き
2 濃尾平野の災害史・伊勢湾台風
3 第1問題:木曽三川はなぜ西へ集まるのか?
4 第2問題:濃尾平野が国内屈指の平坦地なのはなぜか?
5   「濃尾傾動運動」と堆積作用
6 地下水くみ上げによる地盤沈下
7 江戸時代の宝暦治水
8 文化としての輪中(わじゅう)
9 長良川河口堰に治水効果は期待できるか?
10  「養老古図」のミステリー
11 災害と隣り合わせで暮らす


濃尾平野地形図地名2  

■1 概要と前書き

ナガシマスパーランド(長島温泉)は、危険地帯にあることをご存じだろうか?
濃尾平野長島温泉
ナガシマスパーランドの目玉・ホワイトサイクロン。
この総合遊園地は木曽川と揖斐川の河口に挟まれた先端にあり、地面の海抜はマイナス1mで海面より低い。


「濃尾平野」は愛知・岐阜・三重の3県にまたがる広域の地形であり、気付きにくいが、この平野の西部ははわずかの起伏も含まない国内屈指の水平な地形となっている。

「地質百選」でもないこの平野を取り上げるのは、居住者であっても水平地形形成の原因となっている地殻変動を知らない人が大多数であることに若干の不安を覚えるからである。

サブタイトルに「災害を繰り返す~」と書いのは洪水・高潮といった水害を指している。
気象災害と言って間違いではないが、根本原因は地殻変動にあり、それに加えて近年の人為的要因が絡んでいる。

この地殻変動は大きく見れば伊勢湾から若狭湾に続く本州島のくびれ部を形成してきた動き、また3000mの山岳が集中している中部地方の膨らみにも関連していて、プレートテクトニクスや地質学の面からも興味深いものである。

ただし本稿ではそういった地質考察よりも、災害という人文の面を主に紹介したい。
また、本稿作製の過程で知った「養老古図」というミステリーも紹介し、真贋論争を考察しつつ古図に秘められた先人の意図を探ってみる。


■2 濃尾平野の災害史・伊勢湾台風


過去、濃尾平野では洪水が数え切れないほど繰り返されてきた。
長島町にある博物館「輪中の郷」では天文3年(1583)から昭和までの災害一覧表に80件ほどが羅列され、その大多数は「洪水」である。犠牲者数の不明な記録も多く、どれほど人命が失われたか分からない。
そのような土地柄で特有の産業も発達し、毎年のように氾濫を受けるところでは水田でなくレンコンなどを栽培していたという。
弥富市の特産品として金魚養殖があるのも、水溜まりとして残る低地を活用するために工夫された結果である。
濃尾平野弥富町の金魚

濃尾平野ではつい半世紀前にも伊勢湾台風で犠牲者5000人を出している。戦争を除けば台風では最大級の惨事だっただけに、その後は対策も取られてきた。
しかし根本原因である地殻の動きや自然の摂理については、学校でもほとんど教えられていないようだ。最近の居住者は理解できているのかどうかも疑問に思う。
災害予防としてはハザードマップをよく見て速やかに避難すれば、被害を小さくできる。しかしその都度避難しなければならない地域なのである。
また、河川や海岸の堤防が1箇所でも壊れれば広範囲が水浸しとなり、土地が海より低いために一度入った水はなかなか引いてくれない。なにせこの地域は広い範囲が海抜マイナス地帯、海面より低い土地に生活している。

そして宿命的にこの地域は危険であり、絶えず新しい措置を取っていかないと危険性は年々高まっていくことを以下で説明する。

※ナガシマスパーランドのために申し添えておくと、ここで言う災害は地震のような突発性でなくあらかじめ予見できる洪水なので、普段の訪問者は何も考えずに楽しんで構わないだろう。もし常駐するならば少なくとも知識を備えたほうがよい。

◇伊勢湾台風の被害

昭和34年(1959年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸した台風15号は時速65kmという速度で紀伊半島から東海地方・北陸地方を通過し、強風に満潮が重なって拡大された高潮は当時の海岸堤防を至るところで破壊し、広大な低湿地に洪水をもたらした。

死者行方不明者約5000人、経済的被害でも台風災害として現在に至るまで最大の被害となっている。

濃尾平野地形図洪水

降水や強風よりも高潮によって堤防が115箇所で破断し、すでに海面より低くなっていた土地に海水が満たされ、河川の逆流も加わって浸水面積は310平方キロ、台風の通過後も海抜の低い土地では水を抜くのにまずポンプを設置する必要があり、排水が終わるまで数ヶ月を要した。

濃尾平野伊勢湾台風記念館前の展示から
伊勢湾台風記念館の前に展示されている当時の写真と台風進路。右の2枚は破壊された堤防。

この台風による浸水は河川氾濫や津波ではなく、強風による高潮である。気圧の低さによる吸い上げ効果に加えて運悪く満潮に重なったため、海水面が風で巻き上げられ、高さ5mを越える波となって堤防を越えたのである。
この波は地震の津波のように数回で終わらず、延々と繰り返された。当時の海岸堤防は3m程度しかなく、楽に乗り越えてしまっただけでなく、波の運動エネルギーで多くのコンクリート堤防が破壊された。

(三陸の災害以来、津波の恐ろしさは認識が広がったが、台風襲来時にはこの高潮による浸水が懸念される)

この地域で歴史上繰り返された災害の大多数は河川氾濫であって伊勢湾台風の高潮とは直接原因が別であるが、土地が低いことによる水害としては同類である。

では、なぜ土地が広い面積に渡って海より低いのか?海抜マイナスならば、昔から海になっているはずではないのか?
この点を以下の2つの問いから考えてみる。

■3 第1問題:木曽三川(きそさんせん)はなぜ西へ集まるのか?


この地域では、木曽川・長良川・揖斐川をまとめて木曽三川と呼んでいる。
いずれも国内有数の大河であり、寄り添った3本がまるで養老山地にぶつかるまで西へと招き寄せられているように見える。
冒頭の地形図でも一目瞭然だが、集まることを不思議に思っていない人が多い。
ちなみに名古屋市はこの三川より東に離れていて、市の東半分は丘陵地、西半分が三川に続く低地になっている。

濃尾平野は広いのに、わざわざ集まっているのはなぜか?

実は近寄って流れるだけでなく、かつては図のように網の目状となり個別に呼び分けることもできない形状になっていた。この姿は天然のデルタ(=三角州)地形そのものである。
濃尾平野宝暦当時の図 18世紀の濃尾平野下流域の図。これでもある程度に工事がなされた姿。

3本の川は1本ずつが川幅200mにもなる大型の川で、近世以前には合流と分岐をしばしば繰り返していた。そのたびに災害となり、流路を変更し土地を消したり作ったりするため、現在では合流しないように仕切りの堤防が施され、必要に応じて溢れそうな水を移動させる水門も設置されている。


■4 第2問題:濃尾平野が国内屈指の平坦地なのはなぜか?

濃尾平野GEより1

国内に広い平野はいくつもあるが、起伏のない完全に平坦な土地というのは、この濃尾平野と北海道・石狩平野が双璧と思われる(関東平野は面積が広いが起伏に富んでいる)。
冒頭に岐阜市・金華山(信長が稲葉山城を築いた山)からの展望写真を載せたが、もっと見通しの良い日には伊勢湾も写るはずだった。
金華山は濃尾平野の北端で、その付近からは「美濃地方」となり、山地に続く。
やや南にある海抜7mの愛知県一宮市や岐阜県大垣市から南を見た場合、河口までの30kmは小さな丘すらなく完全に水平な土地が続いている。左右(東西)の広がりは乏しいが、もし人工物がなければ十分に地平線が見えるはずである。

☆地形形成の原則 : 「水平な土地は水が溜まったときに作られる」(湖のように長期間溜まる場合のほか、氾濫によって一時的に滞留することを繰り返せば広く形成される)。水の動きが遅いほど水平度は高まり、川のような速度では、水平にならない。

■5 第1問第2問の答 「濃尾傾動運動」と堆積作用

3本の川が西へ寄っているのは、地面が傾くような地殻変動が濃尾平野から愛知県全域にかけて続いているからである。

愛知県地域は東(三河高地)が隆起し、西(濃尾平野)は沈降し、沈降する土地は土砂の堆積で水平な地形が保たれる。
地図からも明瞭なこの地殻変動を「濃尾傾動運動」と呼び、少なくとも100万年続いている。

この動きによって、名古屋市では東部に丘陵が広がり「山の手」とも呼ばれ、西部から木曽三川までは起伏のない平坦な土地が一面に広がっている。名古屋が隆起と沈降の境になっているのである。

沈降の動きはボーリング調査で確かめられ、下図のように濃尾平野の地層は西へいくほど新しい層が厚くなっている。
西隣の養老山地が逆に隆起していること、愛知県東部の三河高地は木曽山脈と一体となった隆起をしていることも分かっている。

濃尾平野断面図グーアース
沈降速度は2mm/年 100万年で2000m、2000年で4m
熱田層から計算すると1.7mm (「地学のガイド三重県」
から)

数十万年のあいだ濃尾平野は沈み続け、西隣の養老山地は逆に隆起しつつある。沈降が続いて海面より低くなるはずの土地は、河川の運ぶ土砂によって海岸から順次「埋め立て」が行われ、デルタ地形を経て沖積平野が作られる。

この時もし沈降の動きが勝れば内陸まで海が進入して湾や入り江となるが、濃尾平野では川の堆積作用が勝っているため海岸線を海に向かって拡大していった。

濃尾平野の水平な土地は沈降を続ける地殻変動と、土砂を運んでくる川の堆積作用が造り出したものである。

ただし、伊勢湾という長い湾が存在することは、沖合で堆積よりも沈降が勝っていることを示している。濃尾平野はもともと長く入り込んでいた伊勢湾の奧が埋まったものと見なすこともできる


なお地殻変動とは具体的には地震であり、この時地面が数十㎝から数メートル沈降(場所によって隆起)する。
海岸線は数百年に一度の頻度で起きる地震によって内陸側へ移動し、数年ごとに繰り返す河川氾濫でまた徐々に海側へ戻していく。この相反する動きがせめぎ合っているのであって、どちらの作用が強いかによって、平野が消滅するか、拡大するかが決まる。
濃尾平野を始め、日本列島では最近の3000年間、平野が拡大しつつあった(過去形なのは土木工事で自然の作用が止められているため)。

また、日本列島では1万年前に氷期が終わり温暖化が急速に進んだ時期に山岳からの土砂運搬が急増したといわれる。
ところがその時期は縄文海進と重なって海面が数メートル高かったため海岸は山地からの斜面がそのまま海に没する地形が多く、供給される土砂も新しい陸地を作るには至らなかったと推定される。
むしろその後幾分寒冷化し海が引いた時期になって、海底になだらかに溜まっていた堆積が陸化し、平野の大部分はこれ以降に形成されている。

◇少し以前からの地形形成史(全国および世界共通)

・1万8000年前(最終氷期)はもっとも寒冷だった時期にあたり、海面は地球全体で100~140mも低く、伊勢湾や三河湾、世界中の大陸棚は陸地だった。
・その後7000~6000年前をピークとする温暖化で海が上昇し、波浪浸食によって海岸付近の凹凸が消され、4000年前ころからの小寒冷期では海が引き、平坦な海岸地形が残された
・大きな川の下流部では土砂が運ばれ、デルタの状態を経て平野が拡大していった(ナイルデルタ、ドナウデルタ、ミシシッピデルタなど)。


◇少し難しそうな地質のハナシ

・広域の地殻変動を見れば(地下構造の詳細はいまだ不明)、愛知県東部の山地(三河高地)は木曽山脈へと続き、木曽山脈を隆起させた力が及んでいるようである。
・三河高地の傾動原因は木曽山脈を隆起させる力の一部、矢作川や猿投断層が示す北東ー南西方向線に直交する北西ー南東の圧縮力が第一と考えられる。
・平野の西部と伊勢湾が沈降していくのを圧縮力だけで説明するのは無理があり、2000万年前からの本州形成史から考える必要がありそうである。

◇名古屋の地形と歴史の関係

隆起と沈降の境に大都市・名古屋が位置していることには必然性があったように思う。
すなわち古代において、安全に居住するには高過ぎない丘陵地、人数を養うには稲作に有利な低湿地、遠方と交流するには良好な港が必要で、熱田神宮は海への玄関である半島に位置していた。尾張と美濃地方がヤマトに少なからぬ影響を与えてきたのは食糧生産地として重要だったからだろう。また名古屋城は低湿地を前にした熱田神宮へと延びる堅固な地盤に築かれている。大阪でも同様の事情があった。



◇[参考]過去の大地震と濃尾平野の変動

◇天平地震(天平17年=745年)4月27日に美濃地方を震源として起きた推定M7~8の地震。

◇天正大地震(天正13年=1585年)11月29日(1586/01/18)に起きたM7.9-8.1の断層型地震。
参考:http://danso.env.nagoya-u.ac.jp/jsafr/AFRtop.html

◇濃尾地震(明治24年=1891年)10月28日に奧美濃を震源として起きたM8.2、内陸型(断層型)として歴史上最大の地震。
(濃尾地震で濃尾平野の養老断層が動いたとは確認されていない。しかしすぐ北の温見(あつみ)断層などが動いており、濃尾平野の北に連続する美濃地方が沈降して地形形成に影響を与えている)
(濃尾地震については近日中に「根尾谷断層と濃尾地震」として本ブログに取り上げる予定です)
参考:http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/chisitsu/neodani/docs/midoridansogainoshashin.html

・これらの大地震の他にも、その余震、小規模な地震は数多く記録されている。そのたびに平野部が沈降し、養老山地が隆起する動きが発生していると推測される。
なお沈降と隆起の量は平均2mm/年だが毎年少しずつ動くのではなく、地震が起きる一瞬(1分以内)のうちに数十㎝、時には数m動く。


■6 戦後の地下水汲み上げによる地盤沈下

昭和30年代から40年代、この地域では地盤沈下が大きな社会問題となった。
もっとも急激だった昭和46年(1971年)には年間で100mmも沈下したという。
地殻変動による沈下速度は1年に2mmなので、その50倍の速度で地面が下がったことになる。

観測が始まってからこれまで通算の沈下量は中間付近の場所で1.5m、最下流部のナガシマスパーランド付近では2m以上
伊勢湾台風に襲われた昭和34年はすでに地盤沈下が始まっていたが注目されていなかった。海抜はすでに海面以下だったところに伊勢湾台風が襲来し、大災害になってしまった。
地盤沈下が起きていなければ浸水面積はかなり狭かっただろうと言われている。

地盤沈下の原因は早くから指摘されていたが、対策が後手に回っていたのである。
地下水の汲み上げは高度成長期の工場立地とともに盛んに行われ、地下200mから300mの帯水層からポンプアップされていた。
一宮市などは繊維産業が栄えた場所で、工場用水として豊富な地下水に目を付けて利用したのである。
当初は地盤沈下を招くなどと想像できなかっただろう。

現在では規制によって、また繊維産業の衰退もあって人為的な沈下は止まったが、以前の状態に戻る、すなわち土地が再度上昇するなどということは起きない。海抜マイナスになった土地はマイナスのまま、地殻変動による沈下が従来通りに進行を続けている。

長期的な地殻変動によって目に見えない速度で沈下していた濃尾平野の動きは、この時期に人為的に加速してしまった。その一方で、天然では再度河川氾濫で嵩上げされるはずの広大な海抜マイナス地帯は、氾濫が人工的に防止されているために今後、海面より高くなることは永遠に期待できない。


◆長島温泉(ナガシマスパーランド)の泉源
天然ガスを求めたボーリング作業で温泉が湧出したのが1963年(昭和38年)。
新生代の地層が堆積し、ここから汲み上げている熱水は50-60度、火山性でなく地球内部の地熱による。地下水が高温を保っている理由は流れが少ないためだと言われている。
この場所は海抜がマイナス1m、定住者はいないようである。
なお、温泉を汲み上げているのは1500mという深さからなので、これによって地盤沈下を招くということはないらしい。



■7 江戸時代の河川改修「宝暦治水(ほうれきちすい)」

約260年前の宝暦4年(1754年)から翌年にかけて、江戸幕府はこの地域を河川氾濫から守るため3本の川が合流しないよう、堤防を強化する河川改修を薩摩藩に命じて行わせた。

遠方の薩摩藩に請け負わせた理由は、幕府に従順でない薩摩藩財政を消耗させようという政治的思惑による。そのために工事現場では多分に嫌がらせのような命令が下され、藩士は憤懣に耐えながら過酷な労働に従事したという。
爆発しかねない1000人の藩士をまとめ難工事を遂行した責任者の薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は事業の完成後、多くの犠牲者を出し、費用が超過した責任を取るとして薩摩に帰ることなく自害した。それに殉ずる藩士が数十名もいたという。
平田ほか犠牲となった薩摩藩士を祀る治水神社と事業を顕彰する記念碑が長良川と揖斐川に挟まれた海津市海津町油島に建てられている。また鹿児島市に平田の銅像が建っている。
(このエピソードはNHK「歴史ヒストリア」など、よく紹介されている)

多くの犠牲を伴った宝暦治水だったが、残念ながら江戸時代の技術では氾濫を防ぐにまだ不充分だった。堤防は明治に入ってオランダ人技師デ・レーケの指導で根本的な改修がなされ、ようやく洪水被害が解消されることになった。

濃尾平野平田

濃尾平野治水神社
平田靱負ら薩摩藩士を祀る治水神社

濃尾平野治水記念碑
治水記念碑


■8  文化としての輪中(わじゅう)

人々はこの土地で暮らするために、家屋を集めた集落を丸ごと堤で囲んで水から守る「輪中」という形態を考え出し、独特の分化が生まれることになった。
(現在では明治改修で洪水が激減したことにより輪中はほとんど撤廃されている)

濃尾平野輪中
博物館で展示されている模型。3つの家がそれぞれ輪中の堤で囲まれたものを、さらに共同して大きな堤を築いて水から守っている。このスタイルは江戸時代から採用されたもの。

◇災害と背中合わせでも住み続けた理由とは

危険地帯なのを知りながら人々が住み続けてきたのにはもっともな理由がある。
洪水の被害さえ回避できれば、農耕には有利だったからである。

江戸時代よりも以前、近世までこの一帯はデルタ地帯特有の網の目状に水の流れる地形であり、やや上流部で川に囲まれた多数の中州に人々は暮らしていた。そこでは一年中安定した水の供給があり渇水や干魃とは無縁の稲作が可能だった。夏はコメ、冬には菜種を栽培できたという。

水が不足しないだけでなく、河川氾濫を利用する農法は古代エジプトがナイル川の氾濫を恵みとしたの同じで、水が引いたあとには肥沃な土壌が置き土産となり、翌年にはコメの収穫が倍近くに増えたという。人々は洪水に対して恐れと期待を同時に抱いていたことだろう。
江戸幕府が改修を実施したのも人道的観点や薩摩藩への圧力という意図だけでなく、コメの収穫という経済的目的があってのことであろう。
さらに古代へ遡ってもこの尾張地方は米どころとしてヤマト政権の経済基盤を支える重要な地方だったことが解ってきている。危険に直面してでも利用し続ける価値があったわけだ。

人々の考え出した「輪中」は鎌倉時代から明治の改修まで長い間使われてきた。
輪中とは、集落全体を堤で囲み水の侵入を防ぐ仕組みであり、またそのような村落共同体を指す。
ひとつの堤に囲まれた集落は運命共同体となって団結が重視され、裏腹に近隣の輪中とは対抗心が生まれることにもなった。

明治の改修によって水害がほとんどなくなったことから輪中は次第に取り壊されていき、今では保存されている部分しか見ることができない。それでも昭和51年に安八町で堤防が決壊した時の洪水では、下流側の輪之内町は残っていた堤を利用して浸水を防いだということがあった。

濃尾平野輪中民家
輪中の名残を見せる、かさ上げした民家


■9 長良川河口堰に治水効果は期待できるか

濃尾平野河口堰
空撮による河口堰(中央やや下)。右上が上流、左下が河口。上流側の長い橋は国道1号線。河口堰の右下に「アクアプラザながら」が建つ。

1988年着工・1994年竣工・1995年運用開始となった長良川河口堰のニュースは当時、東海地方だけでなく全国から注目された。その多くが批判的な視点だったように感じられる。
建設主体は旧・水資源開発公団、運用しているのは2003年に小泉政権の特殊法人改革で“別組織”となった水資源機構である。新旧ふたつの組織は名称が変わっただけで中味は同じとも言われる。

濃尾平野最南部、三川のうち長良川の河口に造られた河口堰について、洪水防止も目的としている以上ざっと触れておきたい。
筆者は2回訪問し、一度はアクアプラザながらで個別に質問もした。

濃尾平野長良川河口堰
木曽三川下流部の拡大図。長良川と揖斐川は最後に合流して5kmほど先で海に注ぐ。

◇長良川河口堰建設に対する批判内容

・計画が当初に目的とした利水はすでに水需要が足りるようになり、必要性がなくなっている。(運用開始後現在までの20年間、深刻な水不足となって供給がなされたことはない。必然性はよく分からないが、水資源機構によると供給は随時行っていて「実績」と紹介されている)。
(※水資源機構では平成12年(2000年)夏の渇水期に長良川河口堰からの導水によって三重県中濃地域と知多半島地域の断水が避けられたとしている。これに対する反論もある)

・建設前に利水という目的が無意味になったことを指摘されてから目的を治水であると変更したことは、反対論を抑えるために人命を救う事業へ主張を転換したものである。

・長良川上流域における河川生態系への影響が正しく検証されていない。
などなど

よく話題になるアユやサツキマスの遡上など、生態系影響の問題は、本ブログのテーマとは外れるのでここでは深入りしない。
調べようと思っても両論が出回っていて、科学的に信頼できる実態がよく分からないということもある。

◇河口堰は治水(防災)に効果があるか


建設側の言うように河口堰によって海抜ゼロメートル地域でも安心して過ごせるようになったとすれば、それだけでも意義はあったことになるがどうだろうか。

利水に代わって第一目的とされた治水は、住民を苦しめてきた河川氾濫に対して、宝暦治水、明治改修に河口堰の効果も加算することでより強固な災害防止に役立てるということにあった。

流れを堰き止める構造物である河口堰がなぜ河川氾濫に効果があるのかは、直感的には分かりにくい。
むしろ導水門を開門していても水中の構造物に抵抗を受けるので流れは妨げられ、増水時には脇から堤防を越えて水が溢れてしまいそうに思える。

水資源機構によると、
1:河川氾濫を防ぐには、河川流路に溜まっていく土砂を取り除く浚渫が有効である。
2:単純に浚渫をして河床を低くすると海水が逆流して、給水に使えなくなる。
3:そこで海水の逆流を防ぐための堰を設ける。堰の上流側では浚渫を行ない、海底面と同じ深さまで川底を掘り下げる。掘り下げた分、ダムのように淡水を溜められる。

この仕組みで河口堰は海水の混じらない河川水を給水でき(利水)、増水した場合には開門して水をスムーズに海へ流す(洪水防止)。


さて、この建設側の理論を踏まえても、筆者は効果に疑問を感じている。

◇防災効果の疑問点

・河川氾濫を防ぐために浚渫が有効なのは確かである。(なぜなら人工的に造られた堤防によって、天然では適宜土砂をまき散らしていたはずの河川は逃げ場のない土砂を河床に溜めて天井川を各地に発生させてしまっている。天井川は河川氾濫の準備状態なのであり、解消するために溜まった土砂を浚渫工事で取り除くことが必要である)
(※天井川とは、川の流路に溜まった土砂によって川の水位が上がり、氾濫を防止するために堤防を嵩上げすることを繰り返した結果、川が周囲の地面より高い位置を流れるようになってしまったもの)

・しかし平成7年から9年にかけて行われた浚渫は、河口堰から上流25kmの大藪大橋までに過ぎない。それより上流での天井川の解消、氾濫防止効果は図られていない。

・昭和51年9月に岐阜県安八町で長良川の堤防が決壊し、洪水被害となった。しかしこの場所は長良川河口堰から30km上流であり、河口堰があったとしても防げない災害だった。この事例が示すように河口堰はずっと上流側のどこかで堤防が破れることには無関係である。濃尾平野全体から見れば最下流の地域を守るに過ぎない

・伊勢湾台風と同様の高潮が襲って防潮堤防が破断した場合、河口堰は無関係である。

・水資源公団の説明では海水の逆流を防ぐことに主眼が置かれ、長良川の増水時に水を素早く海へ出す仕組みは考えられていないし、不可能である堰という構造物が流水の抵抗となることで横の堤防を越えて内地に溢れるのではないかという疑問には、はっきりした説明がない。

・長良川の増水に対しては、堰でなくすでに数多く設置されている木曽川・揖斐川との調節水門で融通するほうが期待できる。

・過去の数え切れない洪水災害は河川の堤防が決壊するか乗り越えて水が溢れたものであって、基本的に河口に位置する河口堰はそういった上流側での洪水に対して防止効果を発揮するものではない

・ついでながら目的のひとつに挙げられている給水という機能についても、河口堰でダムのような「溜め水」にしなくても長良川のような大河は常に安定して流れているのだから小規模な設備で導水させることが可能に思える。

これらの疑問が「アクアプラザながら」での直接質問によっても解消されなかったため、筆者はこの国費1500億円をかけた構造物はメリットより無駄のほうが多いと今でも感じている。

■10 「養老古図」のミステリー 

◇「養老古図」とは何か
 
濃尾平野養老古図と地形図   左は博物館に展示されている「玉井神社伝承・養老古図」。右は現在の地形図

養老古図とは奈良時代の養老年間(717-723)に作製されたとされる濃尾平野の地図である。
そんな古い時代に描かれた地図が現在まで伝わっているとしたらそれだけでも驚かされる。

筆者が初めて目にしたのは長島町の「輪中の郷」での展示だった。
この図面は最近インターネット上で話題になり、真作だ、いや偽作だと議論が飛び交っているらしい。

1000年以上経ちオリジナルは残ってなく、筆写されたものが幾通りかのバリエーションとなって猿投(さなげ)神社、玉井神社など複数の神社が伝承している。

◇何がミステリーなのか

注目を集める理由は、上図のように現在では想像できないほど内陸まで海が進入し、津島や熱田など限られた微高地が島として描かれていることである。大垣市なども完全に水没、名古屋市さえ90%が海、知多半島は形状を保っている。また瀬戸市などは地名の通り、港となりそうな地形にある。
現在の海抜5mラインを描けば概ねこの図のようになるだろう。

問題なのは描かれたとされる1300年前の養老年間から現在まで、この図のごとくに濃尾平野が海に没したことは一度もないはずなのだ。
なぜこのような図が描け、伝わったのか?本当に8世紀に作図されたのか?

◇津島市は島だったのか

「養老古図」でポツンとした島に描かれている津島は現在全域が海抜0mから-1mで、丘のような盛り上がりもなく、かつて地名の示すように島だったとは想像しにくい。
ただ津島駅の西1kmには牛頭天王信仰で有名な津島神社があり、欽明天皇の御代に創建されたと伝えているので、事実ならば6世紀である。もしここが「島」と呼ばれていたとしたなら、輪中のように神社を中心とした領域が堤で囲まれていた可能性がある。

その一方、津島市の北に隣接する愛西市には奥津社古墳という3世紀末の古墳が残っている。小規模な円墳で径25m、高さ3.3m。この場所は海抜0mである。この程度の小古墳が海に囲まれることがあれば、高さ3.3mの土盛りは波浪浸食で短期間に消えているはずなので、この古墳が古図に描かれるように水没したことは3世紀以後一度もないと考えられる。

◇熱田神宮の立地

現在は海岸から離れている熱田神宮はヤマトタケル伝承や三種の神器「草薙の剣」など、伝説の舞台となるほど古くから由緒ある神社だった。その立地は南北に延びた半島の先端にあって海に囲まれ、江戸時代まで熱田と桑名を結ぶ「七里の渡し」があった。熱田に関しての描き方は納得できる。

◇偽作説の根拠

1 このように海が広がったことは歴史時代で一度もない。海として描かれている場所に古墳が残っていることも証拠である。
2 描かれている地名には養老年間に存在しなかった地名があり、後世の創作であることを示す。
3 1300年も前に作製された図面が正確に伝わることはあり得ない。


(注:海が広がったという問題ではよく知られている6000年前の縄文海進の時期に、現在より4m程度は海面が高くなり平野の大部分が水没していたことは事実である。それでも海岸線はこれほど内陸まで入っていなかったと思われる)

以上の疑問点により、地理学会などでは江戸時代以後の偽作と断定し真面目に取り上げることはないのだという。

しかしすべての研究者が否定しているのかというと、そうでもない。
まだ論文発表を準備している段階だというある研究者は一定の信憑性を認め、偽作として葬ってしまうべきでないと語ってくれた。
その人の根拠の細かい部分はまだ発表前なのでここには書かないが、以下ではそれを踏まえた上での筆者の推論を述べさせていただく。

◆「養老古図」が真正であるとする推論

◇図面作製の意図とは

・養老年間になかった地名が記載されているという偽作説の主張は、偽作の証拠にはならない。なぜならこの図の場合では、新しい時代の地名を意識して加筆することは後述するように充分あり得るからである。常識では原本に忠実なコピーが当然であるが、この絵図では特別な事情があったために敢えて加筆を行ったとも推測できる。

・その事情とは、この図面が作成された目的は「地図を作製する」ことでなく、「水害の危険性を知らせる」ことにあったと想像できるからである。そのために、その時点の民衆が知っている地名や避難目標となる建造物などを記載する必要があったのだとすれば筋が通る。

・また記載されている内陸深くまで及んでいる海は、海ではなく「(河川氾濫などで)一時的に水没した状態」ではないだろうか。
その姿は一時的に災害を被った状態、それも過去にさかのぼって水没したことのある土地を水に覆われた状態に描き「危険地帯」として示したものだろう。つまりに対する備えを注意喚起する目的だったと思われる。

◇8世紀の時代背景

・実は濃尾平野は『日本書紀』にも記載のある、朝廷へ米を献納する有力な穀倉地帯だった。これに加えて先述したように、上手く氾濫を利用すれば大きな収穫が得られることから、政府としてもこの有利さを活用したいという思惑が働いていただろう。

・養老年間は、天武天皇の後を受けた持統天皇、藤原不比等を中心に律令体制の整備が進められていった時期である。
6年ごとに調査される戸籍の作成、資格のある農民に土地を与える班田収授法などが始まっていた。また土地を区切る条里制が定まり、新田開発が広まっていった。

・この社会背景から、養老年間に濃尾平野でも水田と水害への研究が深まったことは大いにあり得る。

・701年(大宝元年)発布施行された大宝律令と718年(養老2年)に発布された養老律令は一連の改革の柱となるもので、大宝令では治水制度が定められている。またこのあと、木曽川として初めての河川改修が行われたとも言う(詳細は記録が残っていない)。
これらの事業の前には地形調査が必ずなされたはずである。

・図面は細部まで正確とは言えないが、大まかな地形をよく反映している。この図を作るためには、広い濃尾平野に対して偽作を目的とした少人数による行為では難しいはずであり、役所が人数を割き最先端の技術で作製にあたったものと想像できる。その制作者は災害を怖れ、過去に水害に襲われた伝承のある土地を水面下に描くことで、危険性を強調したものと思われる。

「養老古図」は河川改修に先立つ測量によって作図されたものが基になっているのではないだろうか。住民にとって安全な暮らしに重要な図面であるために多数作成され、有力な神社に伝承されたとすれば説明が通る。

◇「養老古図」の再発見を

このように考えると図面がいたずらな創作だとは思われない。
もし創作だとしたらどのような人物が何の意図で作製し、なぜ多く筆写されて寺社に残るのか。この図が広まって利益を得る者はいるだろうか。河童のミイラを制作するような技術誇示の愉快犯にしては作品が単純過ぎる。

筆者は8世紀に生きた先人が後世への教訓として書き記した遺産だと考えたい。偽作であると誤解されるのは図面のみが残って、作製の意図や経緯といった但し書きの伴わなかったことが一番の原因だろう。

現代では大規模な土木工事によって災害の危険性は薄れた。しかし昔の人々は台風や大雨のたびに怯えていたことは想像に難くない。養老年間はコメを生産するために水害への挑戦が本格化した時期ではなかったのか。

このブログ記事を書こうと思い立ったのも、海抜マイナス地帯に暮らしていることの危険性を注意喚起することにあった。
私たちの暮らしは遙かに安全になっているとは言え、予想を超える災害は必ずやってくるものであり、現代技術をもってしても被害を防げない場合がある。
本記事を書き始める時点では存在を知らなかった「養老古図」は古の先人たちが作製したものだと思われ、その作製意図は筆者が本記事を書いた動機と違わないような気がする。
「古図」が真正の物であると断定はまだできないが、否定論の人たちも今一度真贋を考察し、この図に込められた価値をぜひ考え直してほしいものだ。


■11 災害と隣り合わせで暮らす

濃尾平野は地面が沈降を続けていて、海より低くなった土地には河川氾濫が土砂をまき散らして陸地を造成し、それが伊勢湾に向かって進行することで水平な土地が拡張されてきたことを述べた。

永く続いてきたこの営みは明治以後の土木工事によって氾濫が制約されたため陸地造成が止まり、止められない沈降によって500年に1mのペースで今後も土地は下がり続ける。

海より低くなるほどに危険性は増すのだが、対策は場当たりなものに留まっている。
堤防で水を止めるには限度がある。
将来的にどうするか、本当の安心を得るための議論はまだなされていないようだ。

下流域の堤防道路を歩いて左右を眺めると、木曽川の水面より低い位置に地面があり、人家が建っていることが分かる。このような「天井川」はそれ自体が危険な光景なのに、すでに全国に数多くいまさら驚かない。
河口堰から見下ろす  
「アクアプラザながら」の展望台から見下ろした河口方面。長良川より低い位置に居住域が広がる。

水害に対してはまず逃げることが有効なのは間違いない。
木曽三川の氾濫危険地域では、県や市町村が作製したハザードマップで津波や浸水を多目に見積もり、予想図と避難場所を図示している。居住者はそれを普段から目にすることで被害を少なく抑えられるだろう。

ここでは濃尾平野の問題として取り上げたが、同じ問題は全国にあふれている。
2011年に津波を受けた三陸海岸も同じだ。
肉眼で水平に見える場所は水が溢れることによって形成された地形なのであり、天然の状態では大雨の降る度に水が堤防を越えたり破ったりして溢れ出す。

縄文時代には土木工事ができなかったために人々はそのような低地を避けて居住し、或いは被災し、弥生時代になると鉄器を使って人海戦術で堤防の強化、大きな河川改修を行ってきた。危険な低湿地にこだわる理由は稲作を行うためだったろう。コメ作りこそ命の糧、社会の根本であるという事情は今日でも変わらない。

古代から人の生活には水の恵みと恐怖が同居してきた。特に日本では雨が多く、それを利用して豊かな森林、稲田と共に固有の文化を育み、頻発する災害も宿命のように付きまとってきた。

現代人が手にした土木技術は正しく使われているのだろうか。自然の摂理を甘く見てはいないだろうか。地球の活動や大地の動きを理解できているのだろうか。

まずは自然現象を予測し、正面から受け止めるという驕った考えは捨て、先人の遺してくれた教訓をよく学ぶことに努めたい。科学的知見にも人工的手段にも限界があり、災害対策はいまだ十分でないのだ。

■最新訪問時期:2014年5月

■参考図書および資料、サイト、博物館の紹介

『地学のガイド三重県』コロナ社
『新版日本の自然3』岩波書店
『川のなんでも小事典』村本嘉雄その他著 講談社ブルーバックス

http://www.waju.jp/img/6/ikkoikki.pdf
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/rice/noubi/index.html

◇三重県桑名市長島町「輪中の郷」
http://www.waju.jp/
長島町の歴史・文化・産業を紹介する複合施設。輪中の文化に詳しい。
月曜・年末年始休み、09:30-16:45、入場は16:00まで、310円

濃尾平野輪中の郷

◇愛知県弥富市 歴史民俗資料館
http://www.city.yatomi.lg.jp/kurashi/1000296/1000301/1000303.html
弥富市の歴史を紹介する施設。
月曜・火曜・年末年始休み、09:00-16:30、無料

濃尾平野弥富町民俗資料館

◇「アクアプラザながら」

独立行政法人・水資源機構による長良川河口堰のPR施設兼資料館
三重県桑名市長島町 長良川河口堰に隣接
開館時間9:30-16:30 年末年始休館 無料

濃尾平野アクアプラザ
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