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登呂遺跡(静岡):リニューアルされた弥生稲作遺跡

カテゴリー見出古代史

登呂遺跡代表
再調査で発見され、推定復元された“祭殿”

■ 概 要
登呂遺跡は戦時中の昭和18年に発見された弥生時代後期の集落遺跡。戦後昭和22年からの本格的な発掘調査で12戸の住居跡、3棟の高床倉庫跡、畔で区画された水田跡が国内で初めて発見された。弥生時代を定義する稲作の様子が明らかになると同時に、日本の古代を科学的に実証していく端緒となった。
日本史の教科書に記載され昭和40年代まで代表的な弥生遺跡として引用されてきた登呂遺跡であったが、その後は各地で発見が相次いだことにより注目度が相対的に低下していくことになった。
そこで静岡市では平成11年から15年にかけて再発掘調査を行うと同時に施設を一新し、現在は復元家屋や水田を含む登呂公園として整備され、発掘の成果を紹介する博物館が併設されている。

(ネット上にある訪問記の大半は再整備前であることに注意)

名称登呂遺跡:とろいせき
国指定特別史跡
所在地静岡県静岡市駿河区登呂5丁目
対象年代弥生時代後期(1世紀から3世紀)
交通機関・バス「登呂遺跡」または「登呂入口」下車
・JR静岡駅南口から東南へ3km、車で10分
マイカー・東名高速道路・静岡ICから東京方面(東)へ2.5km、5分
・駐車場あり・有料400円 8時30分~17時(最終入庫は16時30分まで)
※遺跡は幹線道路に面してないので、案内板に注意しないとわかりにくい。
駐車場は遺跡の南東側、東名高速道に平行するやや狭い道沿いにある。
付帯施設静岡市立登呂博物館
問合わせ同博物館:054-285-0476
http://www.shizuoka-toromuseum.jp/

登呂遺跡鳥瞰図1
登呂遺跡は静岡市街地の南に位置する。図で灰色の部分が静岡平野(駿河平野とも)

■見学詳細

◇屋外
・駐車場から入っていくと博物館まで150m、その先の復元家屋までさらに150mを歩く。その途中、右側に弥生時代を模した水田が広がる。
・家屋も水田も、実際の遺跡に盛り土して復元され、水田では当時栽培されていたとされる「赤米」を植えている。
・屋外施設は見学自由。内部に入れる竪穴復元住居は博物館の閉館時間に施錠される。
・駐車場は午後5時までに退出しなければならない。

◇博物館内
・新築された登呂博物館は出土品の展示、ジオラマや映像を使って遺跡の詳細や発掘調査の意義をコンパクトに説明している。展示物の量は有料の博物館としては少なめな分、入館料は少額。
・無料ゾーンで貫頭衣の着用、米作り、火起こしなどの(子供向け)模擬体験ができる。
図書コーナー、ショップ、展望フロアあり。 食堂なし

■静岡市立登呂博物館
登呂遺跡博物館
   (画像は駐車場とは反対、遺跡側から)
・開館時間:9:00-16:30
 ・休館日 月曜日、振替休日の翌日、年末年始
 ・入場料:大人200円、特別展は別料金
   

■遺跡内容


◇発見されたもの

建物跡は竪穴式住居12、高床式倉庫2棟、そして平成の調査で発見された祭殿と名付けられている大型の建物が一棟(冒頭写真)、それら建物の周囲に8万平方キロ(8ha)以上の水田跡が検出されている。
復元されている建物は3種類、竪穴住居、高床式建物(倉庫)、祭殿である。

遺物では農耕具、木製品、土器類など。
墓地は発見されず金属の出土はほとんどない。

◇時代


弥生時代後期、1世紀半ばから3世紀初頭まで。
これは弥生時代史では北部九州のクニが漢王朝から金印を授かった時期(57年)に始まり、卑弥呼が魏王朝へ遣使した時期(238年)の少し前に終焉したことになる。
これら「倭国」「ヤマト」の動きが登呂遺跡の人々にどう影響していたのか、興味深いところである。邪馬台国がどこにあったにせよ、登呂遺跡終焉の数十年後には関東から西日本全体を統括する政権が近畿に樹立されたとみられている。

◇立地

登呂遺跡は3km西を流れている安倍川が作った扇状地に立地し、海抜7m。海岸まで2km、背後は5kmほど先から山地となり3000m級の赤石山脈につながる。
周辺数キロに幾つもの同時代遺跡が分布する。これらはひとつの扇状地上に立地して往来が容易なことから、一体の社会を形成していたと考えられる。
安倍川は弥生時代に何度も氾濫を起こしているが、登呂から5kmほど北で初めて谷から平地へ出、河口まで7kmしかないために、小さな支流は別として大きく流路を変えることはなかった。
また森林跡も検出されており、現在の市街地からは想像しにくいが当時は森と海に囲まれていたらしい。

◇遺跡の変遷

調査結果から、遺跡は4期に分類されている。

・第Ⅰ期:溝で区切った水田と居住区が作られる
・第Ⅱ期:建物の数と大きさが増し、区画を改変して溝が堀り直される。
・第Ⅲ期:洪水でムラ全体が土砂に埋まったのち、復興される。
・第Ⅳ期:再び洪水で全体が土砂に埋まり、水田のみ復興される。



■遺跡の性格

遺跡としては農耕集落遺跡に分類され、当時の一般的民衆が居住し日常の農業活動を行っていた場所であり、墓地や特殊祭祀場といった様子はない。
登呂遺跡の性格は同時代遺跡との比較から考えるべきであろう。注目を集める弥生遺跡は西日本に多く、青銅器や大型建物跡、環濠、人骨などに彩られているところも多い。それら華やかな遺跡と比較的地味な登呂遺跡との違いはどこに理由があるのだろうか。その違いから歴史の何が解るのだろうか。

弥生遺跡として次の“見つかっていないもの”に留意したい。
・鉄器や青銅器などの金属が出土していない(銅鐸も出土していない)
・墓地は見つかっていない
・集落を囲む環濠がない

これらの特徴は何を物語っているのだろうか。

◇ 鉄器が発見されない問題


まず金属が出土しないことは鉄製の農耕具を使用するはずの稲作遺跡として不自然である。これについて、ある研究者は土壌の性質で短期間に腐植してしまったという説を述べているという。ただしそれを裏付ける物証や検証はなく、説得力に欠ける。
これと別に集落を放棄するにあたって持ち去ったという説があり、登呂遺跡と交代に始まっている小黒遺跡などへ人が道具持参で移動したという可能性がある。
調査で判明した集落の変遷によれば、遺跡は居住期間にも安倍川の氾濫を受けている。
そして最後の時期には新しい柱跡などの居住した痕跡が無く、水田のみが営まれた様子だという。とすると人々は作業時に道具を持参して、毎日持ち帰っていたとして説明がつく。鉄製品は貴重品なので作業場に置いていく習慣はなかったのだろう。
この可能性が高そうに思える。

◇ 青銅器が発見されない問題

青銅器は腐蝕しにくいので、通常の弥生遺跡では銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸といったなにがしかの青銅器遺物が発見されている。
しかし登呂ではほんの小片以外に見つからない。
これについて文化圏の問題という指摘がある。

弥生時代の青銅器は分布域から文化圏が「銅剣文化圏」「銅矛文化圏」などと大きく区分されることが多い。
それらの区分で、静岡県は銅剣文化圏と銅矛文化圏からは外れ、近畿を中心とする銅鐸文化圏の東端にかかっている。ただし登呂遺跡のある安倍川流域では銅鐸が出土せず、どうやら20km西にある大井川が文化境界になっているらしい。
銅鐸で弥生後期に作られた「三遠式銅鐸」という大型のタイプがあり、「三」は三河(愛知県東部)、「遠」は遠州(=遠江:とおとうみ:静岡県西部地方)を指すのだが静岡市のある駿河地方はこれから外れているのである。
もっと東、伊豆や関東では10㎝以下の小銅鐸や破片がわずかに発見されているが、弥生時代の後期に大型化した三遠式と判断できるものは見つかっていない。
登呂遺跡銅鐸分布図
文化の異なりは社会集団の差、政治機構の違い、交流の少なさを示すので、大井川から東で銅鐸がほとんど発見されないことは弥生時代を考える上で重要なことであろう。

◇ 墓地が見つからない問題

登呂遺跡は1世紀半ばから3世紀半ばまでの約200年間営まれた集落で、その間に2度の洪水に遭っている。最後は住居を作らず水田のみ復興しているので居住地を安全な場所へ移したと判断できる。発見されている周辺遺跡がその転居先かもしれない。発見されていない墓地は近隣集団と共同で別の場所に設けていたと思われる。各集団は友好関係にあり農耕作業も共同で行った可能性が高く、以下の環濠がないこともこれを示すのではなかろうか。

◇ 環濠が見つからない問題

西日本でよく見られる防御のために集落を囲んだとされる環濠は、これまでの調査位置で発見されていないことから存在しなかったと推定されている。
集落同士が友好関係にあるならば防御施設は個々の集落でなく広い地域を守るタイプとなるはずで、西に流れる安倍川が防御線の役目を果たすだろう。北は深い山岳、南は海、東は現在の清水港に注ぐ巴川とその東で興津から薩田峠という地形要害があり、つまり四囲は自然地形に守られているとも言える。
それ以前に鉄が武器としても出土していないことも合わせると、戦乱自体があったかどうかも不明である。

(弥生集落の環濠は主に防御施設という見方がされるが、明らかにその様子が分かる遺跡もあればはっきり言えない遺跡もあり、短絡に考えるべきでない。筆者は防御以外に動物や洪水の侵入を防ぐといった多目的性も想像している)


■周辺遺跡との関係


登呂遺跡遺跡分布図

・鷹ノ道(たかのみち)遺跡
北へ700mから1km。弥生中期の墓地と、後期から古墳時代の水田跡の遺跡。当時は登呂遺跡との間に浅い川が流れていた。

・有東梔子(うとうくちなし)遺跡
東北へ800m離れた場所で1980年代に発見された。開始時期が登呂よりも150年ほど古く、登呂遺跡の後半である3世紀ころには縮小していたらしい。

・小黒(おぐろ)遺跡
古墳時代初頭(3世紀後半)の建物群。有東梔子遺跡に続く時代の遺跡で勾玉付きの土器、「琴」など出土物の質が高いことから、地域の中心機能を引き継いだ存在と考えられている。

先述のように静岡平野は全体でまとまったクニを構成していた可能性が高く、集落同士は協調関係にあったと思われる。災害などで放棄したり、新規に造成した集落も多かったことだろう。

登呂遺跡年表

■その他の注目点

◆「祭殿」とされる建物は何か?

登呂遺跡高床倉庫と祭殿
左は高床式倉庫、右は発見された柱穴の様子から大型建物と推定され、“祭殿”と仮称されている

「祭殿」が高床式倉庫と異なるのは柱の太さと本数で、それによって大型の建造物が想定でき、建物前から占いに用いる「ト骨」(ぼっこつ)が出土していることからは祭祀が関係しているとみられる。
もし登呂の集落が衛星集落のような性格だったのなら、当時は個々の集落ごとにこのような祭祀施設を持っていたことになる。

弥生時代を語るときにはよく「拠点集落」と いうものが問題となる。「クニ」と呼ぶ大きな単位の社会で首都の機能を担う中心地を指す。静岡平野は周囲とは地形で隔たり平野内の移動が容易なことを考え れば、平野全体でひとつの「クニ」が構成されていただろう。その中心地は登呂遺跡とは別にあったはずであり、「祭殿」より大型の建物が存在した可能性も小 さくない。
いつの日か、大規模遺跡が発見されるだろうか。

◆ネズミ返しの発見


登呂遺跡ネズミ返し

今 では弥生時代・古墳時代の倉庫を復元するときにこのネズミ返しが付属される。最初この板材が出土したときには、使用目的が解らなかったという。その後しば らくして、伊豆での弥生遺跡から同形の板が柱と合わさったまま出土したことから判明した。ネズミ返しが発見されたのは登呂遺跡が最初だったのである。
出土した実物が博物館に展示されている。
この仕組みがあっても完全には被害を防げなかったと時々言われるが、なぜネズミがこの板を越えて侵入できるのか、よく分からない。梯子を外し忘れたりしない限り、十分な効果が期待できる巧みな仕掛けだという気がする。

登呂遺跡ネズミ返し展示
発見されたネズミ返しの実物


◆参考事項


◇国内の稲作伝播

登呂遺跡は1世紀に始まったとされている。
国内最古とされる稲作の跡は、岡県板付遺跡・野多目遺跡佐賀県・菜畑遺跡などであり、紀元前7世紀の数値も出されている。慎重に見て紀元前4世紀としても登呂遺跡より300年遡る。また最北の水田遺跡である青森県・砂沢遺跡/垂柳遺跡には登呂遺跡より200年くらい前に稲作が伝わっている。
これらから静岡平野で登呂遺跡よりずっと早く開始された水田があったと考えなければならない。そこから広がって登呂に至ったのは人口が増えたのか、適地を求めた結果であろう。
先に始まっていた水田の遺構は、おそらく一面を覆っている静岡市街地に隠されている。
登呂遺跡と市街地
登呂博物館から見下ろす登呂遺跡と迫る市街地。

◇現代の稲作との違いなど・最近の研究から

・稲の品種は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混在していたようである。
・もち米とうるち米が分かれていたか、どのように混在していたか不明である。
・登呂を初めとして各地で「古代の品種」として栽培されているものはタンニンの色素を含む赤米であるが、実は弥生時代のコメが赤米だったのかどうかはまだはっきり解っていない
赤い古代米は健康によいとして販売されているが、基本的に食味は劣る。

・水田の痕跡から弥生時代でもすでに種籾の直播きでなく、苗代で育ててから田植えを行う方法が採られていたことことが有力視されている。
・九州で発見された初期とされる稲は分析から陸稲だった可能性が高い。その後全国に伝播していったのは水稲である。
・短期間で青森まで伝わった稲作は、その後が寒冷化した時期には東北南部までしか行われなくなった。そのように「稲作前線」が南北に変動したことが指摘されており、気候変化が原因とされている。
→気候という面で静岡県は中部地方でもっとも温暖な土地であり、安定生産には有利だったはずである。



★推論:静岡平野全体から見る登呂遺跡

◇登呂遺跡は衛星集落か

登呂遺跡で広い水田を営んでいながら集落人口が50人程度と推定されていること、鉄器の出土がほとんどなく墓地が発見されないことなどは、周辺遺跡と日常の連繋があることを示唆している。有東梔子遺跡で発見されている共同墓地に登呂の人も埋葬されているのかもしれない。
登呂遺跡は発見が早く、戦後も遺跡として保護されたために大部分が開発を免れた。一方周辺はすっかり市街地となり、工事に合わせたスポット調査しか行われていないのが現状である。その限られた調査から、上記のような幾つかの遺跡が発見されてきた。
それら周辺遺跡との比較からは静岡平野において登呂遺跡が中心的存在だったとは考えにくい
有東梔子遺跡は広く、出土品の質が高いことから、集落連合と呼べるものがあったとしたならばこちらが主で、登呂遺跡はむしろ衛星集落だったと考えられる。拠点集落と呼ぶべき中心的存在は有東梔子遺跡、続いて小黒遺跡だった可能性が高い。

◇広い水田からの収穫と当時の米食実態

登呂遺跡で発見されている水田面積8haは周辺の未調査分を入れていないので、実際はそれ以上に広がっているとみられる。この面積に現代の稲作を施せば、米の収量は一年の300人分となる。一方集落人口は住居跡から多くとも50人程度と推計されている。当時の技術レベルなどから差し引いても、収穫量は多い。そんなに余剰なコメを作っていたのだろうか?

岩波書店『列島の古代史2暮らしと生業』によれば、弥生水田跡からは多量の雑草種子が検出され、また休耕田の割合も高く、食用されるコメは必要カロリーの3分の1程度しか賄わなかっただろうという意見がある。
しかしこの見方には疑問もある。

・検出された多量の雑草種子は水田を放棄した後に入ったものではないのか?放棄されれば稲の種子はゼロとなり、雑草のみになるはずである。使用中から入っていた種子と放棄後の種子を研究者はどうやって区別できたのか?(本には詳細が書かれていない)
・越年保存が可能な米は多く作るにこしたことはなく、いったん整備された水田区画は事情のない限り植え付けするはずである。本には事情を「地力や用水などの諸条件」と書かれているが、あえて休耕する理由として説明が弱い。
・水田は整備するのに多くの人数が必要で、それほど労働力を注いで得られるのがカロリー3分の1というのでは間尺に合わない。少なくとも半分以上をコメに頼ったのではないか。
・もし災害などである年の収穫がゼロになると翌年まで生きられない。そのために安定した共同体では2~3年分の備蓄があったはずで、毎年の余剰生産を目標にしたはずである。余剰分は交易の商品としても役に立っただろう。
・万一備蓄が尽きたとき、その共同体は生きるために決死の戦争を自ら起こしただろう。登呂遺跡で戦争の痕跡が見られない(まだ発見されない)のは、生産が安定して豊かだったと推測できる。


無論コメだけでなく多くの穀物栽培、天然物の収穫、魚介類も欠かせなかっただろうが、コメは全国の弥生社会で最重要な食物だったことは間違いなく、生産力を高めるために共同体のエネルギーを注いだだろう。
弥生遺跡が例外なく平坦な低湿地を抱えていること、有力な遺跡地は広い平地と安定した水源を伴うことからも、コメの生産力がクニの力になっていたことは明らかなのである。

こう見ると登呂遺跡での広い水田は、登呂居住者だけのものでなく、静岡平野全体のものという可能性を考えたくなる。広い平野部全体に住居は分散していてもひとつの運命共同体にあり、助け合っていたのではなかろうか。

遺跡発見は土器の出土が契機となりやすい。そのため集落は発見されやすく、水田は見逃されることが多い。弥生時代の静岡平野には想像以上の水田が広がっていたとしてもおかしくない。


■ヤマトタケル東征伝説と静岡:伝説に秘められた史実

静岡平野は実はヤマト政権の伝承に取り上げられた有名な舞台なのである。
ヤマトタケル(『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と書く)の伝承は史実でないと言う人もいる一方で、事実を元に脚色されたものという見方もある。

(なおヤマトタケルという言葉は元来「倭=ヤマトの男」また「日本の男」という意味であり、特定の人物でなく、大勢での行動を一人に預けているとも読める。このことは踏まえておきたい)

『記紀』でヤマトタケルの東征の部分を読むと尾張(愛知県西部)は最初からヤマト王権の領域になっていて、東海道沿いを進んだタケルが抵抗を受けるのは静岡市の草薙、西に隣接する焼津である。
それによればヤマトタケルは「相模の国」で計略に嵌り、火に囲まれてしまう。そこで草を薙ぎ払ったのが「草薙の剱」、その地はそれゆえ焼津と称することになった。
(注:静岡なのに神奈川を指す「相模」とあるのは今も『記紀』解釈の問題点とされる)

現在の草薙は登呂遺跡から東北10kmの市街地で日本武尊を祀る草薙神社が鎮座する。焼津は西南に日本坂の丘陵を越えた焼津市で、登呂から12kmの場所にこの古事を伝承する焼津神社が鎮座している。いずれも先述した銅鐸文化圏の外であり、草薙を含む静岡平野、焼津地域(現・焼津市/藤枝市)は弥生時代においていずれも近畿地方から直接の影響を受けず、独自のクニを構成していたと考えられる。
登呂遺跡ふたつのタケル像 左は草薙神社、右は焼津神社の日本武尊像


ところで『記紀』解釈の面からヤマトタケルの東征伝承とは、弥生時代ののち古墳時代に入って近畿に本拠を置くヤマト王権が展開した征服戦争を300年ほどのちに曖昧な記憶を掘り起こして記録したものだとする見方が主流である。

考古資料である銅鐸は近畿を中心に弥生中期から後期に分布した。それが届かない独自の文化圏であった大井川から東(上図)は、近畿に築かれたヤマト王権によって、ヤマトタケル東征伝承に従えば平和統一でなく武力制圧されたことになる。
つまりそれ以前の時代、登呂遺跡が営まれていた弥生時代後期までは焼津や静岡平野は独立した社会だったのが、古墳時代に入ってヤマトの勢力圏に吸収されたという展開が、文献からも考古資料からも推定できるのだ。

この推定は古代史の重要な鍵をはらんでいる。
ヤマトタケル伝承は一人の人物が実際に行ったことではなく、大勢での行動を一人の英雄に預けて語っていることは間違いない。
実際に起きた軍事行動を元にしているのだとしたら、その時期も考古学の成果から絞り込めることになる。

奈良・箸墓古墳の築造に始まる古墳時代は、奈良に本拠を置くヤマト政権が列島の大半を掌握した時代とされ、定型化した前方後円墳が各地に造られ始めることがその証拠とされている。
その時期は箸墓古墳が3世紀半ばから後半、登呂遺跡の終焉もほぼ同時期
もし上記の推測が正しければ、ヤマトタケルに仮託された静岡から関東地方への軍事行動も3世紀後半に行われたことになる。その支配によって、登呂遺跡は無人となったのかもしれない。
では戦争があったのならなぜ鉄製武器などの痕跡が見つからないのか?こう説明できる。もし突然の侵攻を受けて圧倒的な武力差で制圧されてしまえば、おそらく痕跡は残らないだろう。出土物との矛盾にはならない。

ヤマトタケル伝承が伝説的な表現に彩られているのは、『記紀』が完成したのは8世紀初頭であり、400年以上も前の記憶をまとめ上げるのにそのような表現にせざるを得なかったのではないか。それでも大筋は史実を反映していると見るべきだろう。

そしてその後、ヤマト政権に包含された静岡県(駿河と遠州)では古墳時代において、旧銅鐸文化圏である大井川より西の磐田市や浜松市(これらは遠州)には100m級の前方後円墳があるのに、焼津や静岡平野地域(こちらは駿河)ではなぜか小規模な、それも円墳しか造られなかった。
大規模事業を行えるほど有力な豪族が育たなかったのだろうか、ヤマト王権から制裁を受け人口が減ってしまったのだろうか。もしかすると敗戦国として奴隷化されたかもしれない。そのへんの事情は見当がつかない。



登呂遺跡は登呂だけを見ていても全容が理解できそうにない。少なくとも静岡平野全体を眺める必要があるだろう。弥生時代の文化はどのような地域差があるのか、それが古墳時代に入ってどう変容し、東日本へどう展開していったのか。
そのためにも、周辺遺跡の調査がさらに進むことを期待したい。

■最新訪問時期:2013年8月

■リンク:(文化遺産オンライン、管理する市町村や観光協会の紹介ページ)

◆参考資料

岩波書店『列島の古代史2暮らしと生業』
その他

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