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アイヌ民族博物館(北海道):先住民族の歴史・文化・現在

カテゴリー見出し博物館

アイヌ民博01代表コタンコルクル
博物館の園内で最初に迎えてくれる巨大なコタンコルクル像

■ 概 要
アイヌ民族博物館はアイヌ文化の伝承・保存・紹介・調査研究・教育を行うため、アイヌの財団がかつて集落のあったポロト湖の湖畔に作った施設。アイヌの歴史と文化を展示する一般的な博物館に加え、復元住居「チセ」内で伝統の音楽と舞踊を実演して見せているなど観光施設の性格もある。 見学所要時間は1時間~2時間。

名称アイヌ民族博物館
ジャンル歴史文化系:アイヌ民族の歴史と文化
所在地北海道白老郡白老町若草町2-3-4
開園時間8:45~17:00
休園日年末年始12月29日~1月5日
料金大人750円 駐車料金別
交通機関・JR室蘭本線・苫小牧駅から国道36号線を西へ22km
・JR室蘭本線・白老駅から北東、ポロトコタン方面へ1km
マイカー道央自動車道・白老ICから東へ4km 駐車場あり300円
その他の基点札幌から約90km、新千歳空港から約45km
問合わせ[アイヌ民族博物館]
 0144-82-3914
 http://www.ainu-museum.or.jp/

アイヌ民博02地図  

◇地名等読み方

白老:しらおい 苫小牧:とまこまい 登別:のぼりべつ  
蝦夷:(人を指す場合は)えみし、(地域を指す場合は)えぞ

ー 目 次 ー
1 アイヌ民族博物館の内容
2 アイヌ民族の基礎知識
アイヌとは
呼称の用法
アイヌ民族の歴史
補足・民族とは
3 アイヌの現状
アイヌの人口
アイヌは差別されているのか?
4 古代史研究から:縄文文化とアイヌ文化の関係
一万年続いた縄文時代
弥生時代への変化から取り残された北海道
北海道アイヌと縄文
5 アイヌ文化の特色 Pic Up!
・イヨマンテ(イオマンテ)
・「カムイ」という言葉
・食生活
・アイヌ語
・なぜ文字を生まなかったか
・金属の使用
・宗教観
6 教育現場でのアイヌ史
7 明治政府によるアイヌの扱いをどう見るか
・時代背景の制約
・明治政府のアイヌ施策例
・一番の苦悩とは
・アイヌの選択肢
8 これからのアイヌ文化
・アイヌの現状と今日的問題
・アイヌ文化とアイヌの歴史から何を学び得るか


 1 アイヌ民族博物館の内容          

◆運営主体

「アイヌ民族博物館」を管理運営しているのは「財団法人アイヌ民族博物館」で、以前は観光業の株式会社が「ポロトコタン」という観光施設を営業していた。
・昭和51年に株式会社を解散、新たに公益法人の「財団法人白老民族文化伝承保存財団」を設立。
・昭和59年(1984年)に展示施設の新館として現在の「アイヌ民族博物館」を建設。
同年、博物館法による登録博物館となる。
・平成2年、法人名を「財団法人アイヌ民族博物館」と改称する。
・平成17年、それまで白老町が運営していた白老民俗資料館の譲渡を受ける。

北海道の各地にある歴史系博物館ではどこでもアイヌ民族を紹介しているが、この「アイヌ民族博物館」はアイヌ民族の人々が運営しているという点に特徴がある。展示方法などは資金潤沢な博物館と比較すれば地味で、公的な助成金が少なく、財団としても大企業が加わることがないからではと推測される。

◆施設

白老町ポロト公園の一部を占め、屋内と屋外の施設全体が「ポロトコタン」(「アイヌ民族博物館」とも称する)で、その内部にあるひとつの建物がさらに「アイヌ民族博物館」となっている。財団名称も同じなので紛らわしい。
ゲートで入場料を払う。通常の土産物店はゲート前に並び、入場しなくとも買物できる(駐車場料金は必要)。
ゲートを入ってすぐに、高さ16mのFRP製「コタンコルクル」というアイヌ先駆者の像が迎えてくれる(冒頭写真)。

アイヌ民博ポロト湖
ポロト湖とチプ(丸木船)

地図でも表記されている「ポロトコタン」は「大きな湖の村」という意味。コタンはアイヌの村を示す言葉で本来居住者の居る集落を指すが、ここでは観光施設の固有名称であって、実際に住んではいない。

園内に作られている主な施設は入口側から次の通り。

「セッ」 ヒグマの飼育檻。伝統的なオリでなく、鉄製の檻に数頭の成獣ヒグマが飼われ、販売している餌を与えることができる。木製の伝統的な熊檻「ペペレセッ」も別に復元されている。
アイヌ民博ヒグマ
左上からのパイプを通して餌が届く。ちょうどこのクマは餌をもらったところで、次を期待している。

「北海道犬」 檻の中に北海道犬(ほっかいどういぬ)多数が飼われている。北海道犬はアイヌ犬とも呼ばれる。なお南極で活躍したのは異種の樺太犬(からふといぬ)である。
アイヌ民博犬

「アイヌ民族博物館」 伝統的な家屋をデザインした現代建築の博物館。入園料で見学自由。
館内広さ中程度 資料室あり 書籍を主とした売店あり 土日にボランディアガイドあり
アイヌ民博博物館

「チセ(住居)」 外観の似た5棟が並び、内部で古式舞踊や手工芸実演を見せてくれる。軒先にはサケを干していたり、かたわらに小グマを飼う小屋や食料庫が復元されている。
アイヌ民博チセ

「野草園」 アイヌ民族が食用や薬用にしていた植物約50種類を実際に栽培している。

ほかに民族料理もメニューにしたカフェ、チプ(小舟)、休憩所など。


◇古式舞踊の公演


チセに設けられたステージで開園時間内の毎時15分から開催、所要25分ほど。アイヌの紹介から始まり伝統楽器「ムックリ」「トンコリ」の演奏、剣の舞、子守歌、群舞「イオマンテリムセ」などを実演する。この施設の目玉アトラクションとも言え、毎日毎時行われるので時間を決めずに訪問しても見逃すおそれがない。
ここでは洗練された芸術性を期待してはいけない。これらの古式舞踊は国の重要無形民俗文化財に指定されているが、演じる人々は芸術大学で技術を磨いたわけではなく、人間国宝のような伝承者がいるわけでもない。近代まで続いていた歴史を見学すると考えたほうがよい。
アイヌ民博イヨマンテリムセ
クマ送りの儀礼で行われていた群舞「イヨマンテリムセ」。

アイヌ民博ムックリトンコリ
左が口琴楽器「ムックリ」、右が五弦楽器「トンコリ」。いずれも北方民族全般に広く伝わっている。


★ご注意★
以下では近代以降のアイヌの苦難や現在の問題まで取り上げてますが、これらは筆者の関心によるものであって、アイヌ民族博物館の展示ではほとんど触れていないことです。


 2 アイヌ民族の基礎知識               
アイヌの一般的基礎知識は様々な資料から調べられるので、ここではごく基本的かつ重要と思われる事項の紹介に留める。

◆アイヌとは


アイヌ民族とは北海道だけでなく樺太(からふと=ロシア領サハリン)南部、千島列島に暮らしていた共通する文化を持つ先住民族を指すそれぞれ北海道アイヌ樺太アイヌ千島アイヌと呼ばれていたが現在ではロシア領の樺太にはロシア国籍のごく少数にとどまり、千島列島には居住していない。樺太アイヌと千島アイヌは近代以降にロシア(及びソ連)と日本との領土交渉で移住を強制され、千島アイヌは消滅している。
またユーラシア大陸、グリーンランド、アラスカなど北半球の寒帯に暮らす諸民族とも類似する点が多く、「北方民族」と総称することもある。

アイヌは北海道全土に居住していた古代縄文人の後裔と見られるが、「アイヌ文化」と呼ばれるのは13世紀以降である。
アイヌは独自の言語「アイヌ語」、口承の説話、宗教観を持ち、本州以南の和人から様々な影響を受けながらも近年まで700年以上にわたる伝統的な生活を営んできた。
明治政府以来の圧迫で「日本人化」を余儀なくされた経緯もあり、伝統文化のほとんどは失われ、現在では純粋なアイヌはいないとされる。日常生活でも通常の日本人と変わらず、本人が言わない限りその人がアイヌであるかどうかは友人になっても気付かない。
近年は先住民族の地位回復という世界的な潮流を受けて、アイヌ民族も積極的な活動が増えている。1994年から1998年まで参議院議員を務めた萱野茂(かやのしげる)は初のアイヌ国会議員であり、アイヌの地位向上、文化継承に功績を残した。
アイヌ民博正装男女
盛装した男女の等身大像

◆呼称の用法

「アイヌ」という言葉は「人」の意味なので「アイヌ人」という使い方は誤り。一人に対しても集団にも用いる。かつて和人が蔑みを含めて使っていたが元々蔑称ではなく、現在のアイヌもこの言葉を適切としている。
(本記事では一般的なアイヌに対しては「アイヌ」、特有の文化を含む全体を指す場合に「アイヌ民族」と表現する)

「和人」は明治時代頃までのアイヌから見たアイヌ以外の日本人を指す。単に「日本人」とすると日本国籍になっていたアイヌが含まれるかどうか微妙な問題になるため、当時の一般日本人を「和人」と表現するのが普通である。
アイヌは和人を「シャモ」、時には「シサム」と呼んでいた。「シャモ」は元は中庸の言葉だったらしいのが次第に快く思わないという響きを伴うようになり、最近は使われない。

「シサム」は隣人という意味がありアイヌ同士で普通に使い、時に和人にも用いた。

また、北海道アイヌ協会は1961年から2009年まで「北海道ウタリ協会」という名称だった。「ウタリ」は同胞の意味。設立当初の「アイヌ協会」を1961年に「ウタリ協会」に改称したのは当時「アイヌ」という名称に抵抗のある人が多かったからという。2009年に戻したのは、先住民族としてよく知られた名称を使うことで、組織の性格を明解にするためだという。

◆アイヌ民族の歴史(簡略版)

・数千年前、日本列島で縄文文化が広まっていたころは、本州島と類似した文化が北海道全体に広がっていた。この時期は北海道でも縄文時代と呼ぶ。
・紀元前5~6世紀頃から本州以南が弥生時代に入り急激に変化したにもかかわらず北海道では弥生文化の流入は少なく、1世紀から7世紀は「続縄文(ぞくじょうもん)文化」、続く13世紀までは「擦文(さつもん)文化」と呼ばれる独自の時代が続いた。
・この間に平行して北部や東部では6世紀から13世紀に北方から影響を受けた「オホーツク文化」という時代があった。
アイヌ民博03年表

弥生文化が青森まで達したのに北海道まで普及しなかったのは、寒冷のために稲作ができなかったことが第一要因と考えられている。このために北海道では明治に入るまで水田を営まず、米を食べず、農耕をほとんど行わなかった。

・『日本書紀』には7世紀に阿倍野比羅夫(あべのひらふ)が遠征して蝦夷や北海道の民族、さらに樺太まで征討したという記録があるが、定かでない。

・津軽海峡を挟んだ本州との交流は縄文時代から絶えず行われていた。
・鎌倉時代から道南地方を中心に、和人との交雑は始まっていた。

・渡島半島など道南地方では 戦国時代から蠣崎(かきざき)氏が進出し、江戸時代には後継の松前藩が幕藩体制の一翼を担った。直接の管理は渡島半島南部に限られたが北海道全体に影響を及ぼした。

・15世紀ごろから和人の経済進出が活発になり、衝突も起きるようになった。
・1457年、アイヌ刺殺事件をきっかけに「コシャマインの戦い」が起きた。
・1669年、交易条件に不満を持ったアイヌと松前藩との間に「シャクシャインの戦い」が起きた。
・1789年、根室半島と国後島で和人商人の横暴に対して「クナシリ・メナシの戦い」が起きた。
 これらの戦いはいずれもアイヌ側の実質的敗北に終わり、和人による支配が厳しくなっていった。

・明治政府はロシアの進出を警戒したことからアイヌを日本に取り込むため様々な施策を行った。これが「旧土人保護法」に象徴されるように和人の価値観を押しつけることになったため、アイヌは適応できず困窮を深めることになった。

・江戸時代から和人が全道に進出するようになるとアイヌに天然痘が流行し、これも人口の減少を招いた。

・「北海道」という地名は幕末から明治初期の探検家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)の命名である。
・「旧土人保護法」が廃止されたのは1997年で、代わって「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(=「アイヌ文化振興法」)が制定された。

◆補足事項:民族とは

学術的に民族の固有性を論じる場合、もっとも重視されるのは言語と宗教である。他の集団に通じない言語を持つ一団は○○族、○○語族と分類されることが多い。宗教や特徴的な習俗で分けることもある。
アイヌには方言もあったが、会話の成り立つ共通の言語を持っていた。また和人やロシア人と話すには通訳を必要とした。
現在母語としてアイヌ語を話している人が一人もいないと言われ、これが純粋なアイヌがいなくなったと判断する一番の根拠とされる。


 3 アイヌの現状                      

◆アイヌの人口

博物館の掲示によると現在、国内のアイヌ人口は北海道に約2万4000人、東京に2700人である。
ほかの府県では調査が行われていないため不明。歴史を通じて総人口が3万人を越えたことはないと推定されている。
なお現在の社会でアイヌと認定する客観的な定義付けはなく、人口数は「私はアイヌです」と名乗り出て、アイヌ協会の名簿に記載された人を数えたものである。
この人数は日本全体からは5000分の1、北海道の人口550万人から見ると230分の1になる。実際にはこの数字以上に名乗り出ないアイヌがいると推定されている。
名乗り出ない人たちというのは出自を隠したい人たちであり、ここにアイヌ民族が未だに抱えている陰がうかがわれる。

なおWikipediaではポーランドにアイヌの末裔がいるとか、人口が推定20万人という調査があるなどの記述があるが、これは信頼できない。歴史を通じてアイヌの総人口は3万人を越えたことがなく、明治以来さらに減少したとも言われていて、そこから急増するはずはない。そして混血の子孫だとしても異国でアイヌ文化を勉強し身に付けられるのかも疑問。

◆アイヌは差別されているのか?

この小稿を書くにあたりインターネットで色々検索していて、「YAHOO!知恵袋」に気になるQ&Aがあったので、触れておく。
ここでは「“アイヌ民族”は存在しないので“アイヌ差別”も存在しません」
という見出しの下、北海道在住の人が長文で持論を展開していた。
内容をまとめると、「アイヌです」という人も現在は普通の日本人であり伝統的な暮らしや、アイヌ語での会話はまったくなく、被差別の街も存在しない。日本は現在単一民族国家でありアイヌ民族そのものは存在せず、ゆえにアイヌ差別も存在しない、という論旨であった。
ここの記述は半分正しく、半分正しくないと思われる。

筆者の感じるところで、アイヌ民族博物館などで紹介されているものは生きた文化でなくすでに“遺物”であることは事実と認めなければならない。毎日披露されている古式舞踊は「こういうものがあった」という過去の姿を見せているとも言える。
アメリカ先住民が保護下において伝統的な暮らしを実際に行っているのと、同一視はできない。
こう考えると、文化が存続していない以上、アイヌ民族はもはや存在しないというのも成り立ちそうに思える。

「半分正しくない」というのは、これで民族が存在しないと結論するのは早計であることと、差別がないとは言い切れないからである。
ボランティアガイドからは実際に差別があると聞いた。どんな実態を指しているのかはよく解らないが実情を知る人が語るならば軽視できない。

「知恵袋」の投稿者はアイヌを自称する人と会ったことがなく実態に詳しくはないと認めていたので、その範囲の知見で民族も差別も存在しないと結論するのは早過ぎる。

筆者の暫定スタンスを述べておく。
「アイヌ文化」は過去のものになったが、「アイヌ民族」は存在すると考える。
差別の疑いは拭えない。そしてアイヌ民族の存在については、この場合学術的な定義は重要でなく、日本社会のあり方として望ましい姿を求めるべきだと考える。それは生きた文化としては終わっているがつい100年前までは存在し、多数派の我々和人の無理解が消滅に追い込んだという反省を込めて、アイヌ民族の存在、伝統文化の保護・伝承を応援するべきだということである。
もし民族も差別も存在しないと考えると我々は反省の機会を失い、少数民族というものに対する尊重の気持ちが育まれなくなることを心配する。
ただし現実的にいろいろな問題をはらんでいることは後述する。


 4 古代史研究から:縄文文化とアイヌ文化の関係  

◆1万年続いた縄文時代

日本列島では1万2000年前からの縄文時代が約2600年前の弥生時代開始まで、1万年もの永きに渡った。北海道から沖縄まで広がっていた縄文時代の様子は、区別こそつくが大局から見れば地域差も時代差もわずかなものである。

北から南までほぼ均質な縄文文化に染まることになった第1の理由は1万年という長さだろう。
第2の理由は閉じられた世界だったからで、縄文時代の航海技術では朝鮮半島などとの往来が困難なため、外界の刺激を受けることがなかった。祖先がどうやって日本列島に上陸したのかと言えば、石器時代の氷期に対馬海峡と宗谷海峡がほぼ陸続きになった時期があり、渡ってきたというのが定説である。

第3の理由としては縄文人同士の活発な交流があったからである。縄文時代は陸路よりも丸木船で沿岸を移動することが多かったと見られる。その技術でも津軽海峡が障害にならなかったことは、沖縄産の貝が北海道の遺跡から見つかることで明らかになっている。

縄文時代は「土器を使った」ことが最大の要素である。金属はなく、石器のみで木を伐り、家を建て、獣を狩り解体して、骨を利用した釣り具で魚を捕った。粘土を捏ねて焚き火にくべるという単純な方法で土器を作ったことは、石器時代に較べて加熱調理による革命的な食生活を実現した。

◆弥生時代への変化から取り残された北海道

一方、続く弥生時代は朝鮮半島から渡来人がもたらした文化とされ、そこでは青銅器と鉄器が使われ、何より稲作の導入によって食糧の安定、共同体の人数増加、階層の発生、そして戦乱という変化が始まった。

新しい時代のはずの弥生文化は青森までは短期間で伝わったのに、北海道には届かなかった。また南の沖縄では稲作が行われたが九州とは距離のある文化が続いた。この北と南の両端は日本の国に帰属せず、列島主要部と関わりの薄い独自の歴史を歩んでいく。

北海道に弥生文化が入らなかったのは寒冷ゆえに稲が育たないためと考えられる。実際に明治に入っても品種改良が成果を挙げるまで、北海道では米を作れなかった。金属は交易で入手し弥生文化の一部は導入されたのだが、稲作を行わないために共同体の構成人数が増えたり、階層が分化したり、総人口が増えることはなく、アイヌの栄養は植物より動物食に依存し続けた。

◆北海道アイヌと縄文

弥生文化の到来前に全国に居住していた縄文人は急速に渡来人と交雑し、縄文人の文化だけでなく遺伝子も中世までにはほぼ一体になったと推定されている。
9世紀初頭に坂上田村麻呂と戦ったアテルイなどの東北蝦夷(ここでは“えみし”)は、決して縄文人の後裔ではなく、すでに遺伝子面でも文化面でも弥生人後裔同士の戦いだった。

一方北海道の人々が交雑するのはかなり遅くなり、本州以南では急速に失われていった縄文文化が北海道には永く残ることになった。
先に住んでいたという意味では縄文人は日本列島の先住民であり、「原日本人」という表現も間違いではない。北海道アイヌには北方からの影響もあるので完全な末裔とまでは言えないものの、本州以南に比較すれば多くの縄文要素を残してきた。

縄文人の文化面では、生活・宗教観など、2000年以上前に終焉してしまったため謎になっている部分が多い。それゆえアイヌ文化を研究することによって、縄文文化を解読する鍵が得られるのではないかと思えるのだ。


 5 アイヌ文化の特色 Pic Up!                    
アイヌ文化の興味深いものをいくつか、筆者の好みで紹介しておく。

◆イヨマンテ(イオマンテ)

1950年ころ流行った歌謡曲『イヨマンテの夜』はアイヌ文化を正しく伝える歌詞ではなかったがイヨマンテの言葉を有名にし、アイヌの行事と言えばこれがお祭りとして連想されるようになった。ただし誤解混じりになっているらしい。

イヨマンテは「熊送りの儀式」「クマ祭り」と訳されるが正しくは「クマの霊送り」と呼ぶ。集落で飼っていた熊を処理するに際し、近隣集落から大勢が集まって何日も盛大に飲み食いするという最大の行事を指す。酒食を楽しみながら情報交換し、男女が出逢うことも目的だった。

アイヌによる説明ではクマを「送る」と表現されるのが常だが、要するに殺処分し、食べるのである。アイヌにとってクマは神からの贈り物であり、神が宿っている。クマ内部にいた神を送り出し、ぜひまたクマに宿って我々のもとに来て下さいと祈る。
イヨマンテを行う動物はクマに限らない。行事の規模はクマが最大だが、シマフクロウ、オオカミ、キツネなど多くの動物でも類似の霊送りが行われた。

このクマ送り儀礼はアイヌだけでなく、ユーラシアから北米の先住民・北方民族全般に見られる文化であり、北海道では6世紀以降に北から渡来したオホーツク文化の影響でもたらされた可能性が言われている。

なおクマ狩りは春に冬眠から醒め切らないクマを仕留めに行くのが普通で、活発なクマに危険を冒して対決するというものではなかった。この時に子熊がいた場合に連れ帰り、村で1~2年の間飼ってからイヨマンテに至る。子熊を連れ帰れるチャンスは多くなく、イヨマンテも数年に一度程度の開催だったらしい。
アイヌ民博クマの霊送り

◆「カムイ」という語

日本語に訳すと「神」となってしまうが、これは適切でない。特にキリスト教などの唯一神とは違い、強いて言えば神道でいう八百万の神に近く、自然の万物、さらに人の作った物品や自然現象にも神が宿るというのがアイヌの宗教観であり、それぞれの神が「カムイ」である。またカムイは人間のような姿と人格を持ち、上位から下位まで、善から悪までの多様な存在であると考えている。人間(=アイヌ)や物の背後にある霊的な存在すべてがカムイである。

◆食生活

アイヌは米を作らなかっただけでなく、交易で入手することもほとんどなかった。農耕はわずかな粟・稗を栽培する程度で、ほかに樹木の実、根など食用になるものの採集を行っていた。オオウバユリの根はデンプンの粉にして3年分の保存食とされた。

主食は動物で、シカ、クマ、魚介類でサケ、マスを中心とし、アザラシやセイウチといった海獣類も狩猟し脂肪は調味料や照明に用いた。ビタミン摂取は動物の生食からというのは俗説らしい。生で動物を食べることも時にはあったらしいが、自然の植物食でビタミンを得ていたようである。

なお江戸時代後半に北方警備のために駐留した武士たちは脚気に罹り、死亡者を多く出した。本州での食生活を持ち込もうとして野菜不足になったためと言われる。

注目したいひとつはアイヌは塩を使わなかったということである。ごくわずかに交易で手に入れた塩を調味に用いることはあったらしい。しかしそもそも海を前に暮らしていても製塩を行わなかった。

現代日本人は塩分を摂りすぎと言われる。これは漬け物文化の影響であろう。塩は元来味付けのためでなく食品保存のために必要とされた。日本のように冬に農耕生産がゼロになるような条件では保存手段が重要で、海に囲まれ生産が容易だったことが塩漬け食品を発達させ、味覚を塩味に慣れさせたのだと推定している。

しかし塩の利用が始まっていた縄文時代、内陸に住む人々はほとんど塩を使わなかったはずである。アイヌも塩を口にせず1000年以上暮らし続けてきた。こう考えると塩は人の生存に必須なものではないことが解る。

アイヌ民博ウバユリ採取  
オオウバユリ採取の様子。栽培することはなく野生のもので充分足りたという

◆アイヌ語

かつては北海道ではもちろん、アイヌの移住者がいた東北地方でもアイヌ語が使われていた。
現在、日常にアイヌ語を話す人はいないが、使える人は少なからずいる。最近は学習者も増えてきて、各地で講座が開かれ、北海道の民放ラジオでも週一回、アイヌ語講座を放送している。

文字はなく、便宜的にカタカナで発音を表示する。
日本語とはかなり遠いが、文法や発音には共通点がある。
言語学の観点から日本語との関係を探るのは興味深いがまだ研究が途上にあって、なんとも言えないのだという。しかし「神」と「カムイ」、「タマ」とアイヌ語のタマ「魂」、「拝み」とアイヌ語「オンカミ」など宗教用語に似た言葉があるとも指摘されている。
縄文文化の伝統がアイヌに残っているとすれば、言語での共通点も、縄文人の言葉を残しているからと考えられないだろうか。

かつて金田一京助が「日本語とアイヌ語は関係ない」と言ったという。大家がそう発言してしまったために比較言語学の面から研究が進まなかったという意見がある。今はその呪縛が解かれようとしている段階らしい。

また、北海道の地名は札幌(大きな乾いた土地の意)をはじめ、90%がアイヌ語である。インターネットでいくらでも出てくるので興味ある方はぜひ調べてみていただきたい。

◆アイヌはなぜ文字を生まなかったか

無文字社会は、後世の研究者泣かせである。日本古代史でも弥生時代や古墳時代に文字を残してくれていればどれほど謎を解明できていることか。

しかし世界の民族をよく見回してみれば、文字を使うのは規模の相当大きな集団に限られる。目安は100万人だという。人が多く、面積が広くなると正しく伝達するため意図的に創造されるのが歴史の原理だそうだ。

北海道は広い。しかしアイヌの人口はいつでも少なかった。近隣とは会話で通じ、函館と根室のような遠距離は会うことがなかった。
文字を創造することは鉄を材料から作る技術に較べれば容易とも思えるのだが、この社会規模では必要性が高まらなかったのであろう。

◆金属の使用

弥生時代を特徴付ける二大要素は農耕と金属であり、このうち農耕は和人と交流していたにもかかわらず、アイヌに伝わらなかった。一方金属は交易で手に入れるようになった。本州以南では7世紀から鉄生産が始まっていたのに対し北海道では生産することがなく、手に入れた貴重な製品を作り直しながら使っていた。
なお、白老コタンでの古式舞踊でも太刀を振りかざす舞が披露されているが、江戸時代に反乱を恐れた松前藩が刀剣の流入を禁じて以来武器としての刀を手にすることはなく、鉛製などの切れない刀が宝器として儀礼に使われたのだという。

◆宗教観

アイヌ民博アイヌとカムイの図
博物館の壁一面に描かれたアイヌの暮らしと背後にいるカムイの姿。中央上部には「カムイモシリ(天上の神の国)」にある最高位のカムイ達がいる。

万物に神が宿るという日本古来の思想とアイヌの「カムイ」は似ている。
これは縄文時代以来の宗教観を残しているからではないだろうか。
日本では紀元前6世紀頃から波状的に弥生文化が入り続けたのち、6世紀に仏教が伝わり、瞬く間に全国に普及した。仏教伝来以前には神道として各地に神社が建てられていた。自然の山、滝、岩を神と祀る神社も多い。残念ながらここでも創建当時の文字記録はなく、古い神社の起源はほとんど解らない。
縄文時代の宗教観、世界観や人生観は限られた遺物から想像するだけである。そのヒントがアイヌ文化に隠れているかもしれない。

アイヌは永いあいだ同じ暮らしを続け、技術革新は起こらず人口も増えなかった。
人口が増えないということは、生まれた子供の半分以上は大人になれなかったということを意味する。

アイヌの宗教観ではこのような場合、子供は神のもとに還って、やがてまたやって来ると考えるという。だから周囲は悲しまない。埋葬では簡単な棒状の墓標を建て、墓参りはしない。
悲しい出来事があっても嘆かない、神の行いであり自然の摂理であると受容する。大きなことを望まず、現状に満足し、幸福を見いだす。このようにして変化のない社会を維持してきたのだと、研究者から聞いた。技術革新があれば苦労が減り、新しい快適さが手に入り、人口も増えるのではないかという我々流の考え方をアイヌはしなかったという。

しかし筆者には、そこには容赦ない自然条件の下で忍従して生きなければならない人々の“諦念”があるように思われた。諦めるための理由付けとして“宗教”が作られていったのではないだろうか。

もし本州以南の生活を知り、選べたならばアイヌはどうしただろう。
中世に東北地方に移住したアイヌの集団もいたことが分かっている。彼らが北海道に戻った形跡はないという。戻らなかった理由は、東北の暮らしがよかったからではないのか。
松前藩はアイヌと和人の交流を制限していた。和人の優位性を維持するためには、アイヌを目覚めさせないことが得策と考えたのだろう。
もし手を伸ばせば掴める距離に別の暮らしがあったなら、アイヌの宗教観も伝統も変わっていたのではなかったか。自ら変化を望まず、周辺もそれを許さずに続いてきた歴史は後の苦難を必然としたように思う。


 6 教育現場でのアイヌ史                   

NHK教育テレビ高校講座日本史31「蝦夷地から北海道へ~近代日本と北海道・アイヌ~」を見た。
この番組では明治時代の北海道を取り上げ、アイヌの歴史を大きく紹介している。その内容は筆者の目に、充分客観的で公正な視点に立っていると映った。

このような近現代のアイヌ史が公共の場で正しく教えられることは、博物館のボランティアガイドによれば18年前から変わってきたことなのだという。18年前というのは、1997年に「北海道旧土人保護法」が廃止され「アイヌ文化振興法」が公布される直前である。この法律改正の直前になって変化が始まった。それ以前は、アイヌ民族の苦難の歴史が公立の学校で教えられることはなかったのだという。

そう語ったボランディアガイドは、中学校向け副教材『アイヌ民族・歴史と現在』という48頁の本を筆者に渡してくれた。豊富なカラー画像を使い、アイヌの基本的な歴史事項が易しく説明されている。2008年に初版が道内の中学校に配布された。
ところがどうやら学校ではこの本が充分活用されていないらしい、とそのガイドは嘆く。博物館に来た中学生に訊ねると知らないと答えるのだそうだ。

最初、限られた日本史の授業時間に余裕がないのではと想像したのだが、よく内容に目を通すうちに、アイヌの側から近現代史を描いていて、自ずとアイヌは被害者、和人は加害者というニュアンスが滲んでいることが解ってきた。教員がその教材を生徒に紹介することは自分たちも加害者の一翼だったと認めるようで、簡単に踏み切れないのではないか。

もちろん『アイヌ民族・歴史と現在』では強硬な表現を避け、未来志向を願って執筆されているのだが、見方が偏っていると筆者にも感じられる部分はある。そのまま教える教材でなく、こういう見方があるという使い方に留めるべきかもしれない。

本州で30年以上前に教育を受けた筆者の世代では、学校でアイヌの歴史を教わることはまったくなかった。北海道の教育ではどうだったのかよく分からない。自らも教職にあったというガイド氏は教員自身にアイヌ史の知識がないのが大きな問題だとも言う。

NHKが40回の高校講座のうち1回をアイヌ史紹介に使ったことは時代を見据えた上層部の判断だったろう。北海道の教育現場が変わるとしても、まだ時間がかかりそうだ。


 7 明治政府によるアイヌの扱いをどう見るか            

述べてきたように、アイヌに対する明治政府の基本姿勢は伝統文化の価値を軽視し、民族として日本人より低い存在と見なすものだった。
これは世界史に溢れる異民族の出会いと本質が同じと言ってもよい。
ただし筆者には、明治政府のやり方がそれほど非人道的でひどいものだったとは思えないのである。

◇時代背景の制約

明治政府がアイヌの日本人化を急いだことは無理からぬ面がある。
幕末以来しばしば姿を見せるロシアの軍事力に脅威を感じていた明治政府にとって、北海道の防備を固めることは急務だった。移民を奨励し開拓を図ったのも、富国強兵政策の一環と同時に、人口を増やし北海道全体を近代化させる狙いがあった。

この時、先住者であり変化を望まないアイヌに対してはそのままの暮らしを認めるか、日本社会に同化させるかのいずれかという選択肢があったはずである。

前者を採り、アイヌの伝統的生活を認め、何も日本人化政策を施さなかったらどうなっただろうか?
根本的に和人が進出をやめるというのはあり得ない趨勢のもと、圧倒的な経済力と人数の進出に囲まれて、わずか2万数千人、それも一体にまとまることなく少人数ずつ分散したままでは、虐待を加えなくてもアイヌはたちまち貧困の極みに陥り数世代のうちに人も消滅してしまっただろうと考えるのが、世界史の教えだ。

アイヌの進む方向は、伝統文化をどの程度守りつつ日本人化するかという狭い角度しかなかったのではないか。日本に同化することはいずれ避けようがなかった。

◇明治政府のアイヌ施策例

・明治政府はアイヌの子供を学校に入れ、日本人として無償で教育を受けさせた。ただし日本語による日本語教育であり、アイヌ語は教えられなかった。
・一人一人に日本人風の姓名をつけさせた。アイヌ自身で決められない場合に、和人の役人が恣意的に提案したのを受け容れることもあった。
・禁止された習俗は、文身(いれずみ)とイヨマンテなど猟でなく動物を殺す儀礼。
(筆者が手にした文献上からは他にどの習俗が禁止されたのか分からない)
・農業へ誘導するため、狩猟・漁労といった伝統的な生業を規制した(全面禁止ではないらしい)。
・土地所有はアイヌの既得権を認めず、和人入植者と同じ権利を与えるとして開拓のための土地を無償給付した(入植者でもアイヌでも、開拓できなかった場合は没収される条件が付いていた)。
・さまざまな理由で移住を強制した。千島アイヌは軍事上の理由で色丹島へ集められたことが、消滅のきっかけになったとされる。入植者の開拓の都合で移住させられることもあった。

ところである論者(アイヌの一人)からは明治政府はアイヌを「保護」したのだという意見があった。これはどこまで正しいだろうか(100%正しい、100%誤りということはない)。
文化に対する知識や理解が乏しかったことは確かだ。一方で、先に述べたように放置すれば自然消滅に向かっただろうと考えれば、施策は「保護」の役に立ったと言えることになる。しかし結果的に現在アイヌ文化はほとんど消滅してしまったので、意図が「保護」だったとしても失敗したことにならないだろうか。または生きた文化は消えたが「保護」のお陰で人は残ったので、これで許容するべきだろうか。
そもそもアイヌ文化を生きたまま、残していくことは可能だったのだろうか。

◇一番の苦悩とは

日本人化の施策はアイヌを幸福と不幸のどちらに導いただろうか。
多くのアイヌはこの時期、自分がアイヌであることに強い劣等感を覚えるようになったという。和人からアイヌは遅れている、立派になれるよう我々が教育してあげると言われて日々を過ごすうちに、いわば「マインドコントロール」に導かれてしまい、アイヌらしさを自ら忌避し、出自を語らず、日本人らしさを求めるようになったらしい。
萱野茂によれば、昭和に入ってもほぼすべての若いアイヌがこのような苦悩を経験していたという。
慣れない農作業や日本語の会話、引き離された故郷、それら以上に自らの尊厳を否定されることは若者の人生観を暗く染めただろう。、
そのような精神状態に陥り、陰鬱な気持ちで生活するのは間違いなく不幸な状況と言える。
明治政府の施策がもたらした一番の毒は(意図していなかったのかも知れないが)、「あなたたちは劣等だ」という意識を植え付けたことではないだろうか。

教育において、言語・計算・歴史などの処理能力や知識を伝授することの有意性は当然だが、コンピュータのような機械とは違って自意識を持つ人は、「自分はどのような存在なのか」という命題を常に抱いているものだ。存在価値が低いと思いこませることは教育の基本姿勢で間違っている。

◇アイヌの選択肢

こうして多数のアイヌがアイデンティティーを喪失していく時代に、強い精神で誇りを取り戻そうとする人もいた。
もっとも有名なのは「アイヌ神謡集」を遺した登別コタン出身の知里幸恵(ちりゆきえ)であろう。
知里幸恵についてはWikipediaなどネット上で多くの情報が得られるので、ここでは説明を省かせていただく。彼女の場合は生来の知力・精神力だけでなく家族という環境が支えになったように思われる。
 アイヌ民博知里幸恵 知里幸恵の肖像

そして逆に、新しい時代を見据えて日本人化を積極的に選ぶアイヌも少なくなかったともいう。日本人化することで経済的恩恵が得られるという事情は、明治政府が用意したのでなく時代の流れとしか言いようがない。

明治政府は日本人化を誘導したが武力を背景に強制したとまでは言えず、ましてアフリカ黒人やオーストラリアのアボリジニのような一方的殺害例は聞かない。江戸時代には和睦交渉の席でのだまし討ちがあったが、明治政府はそこまで非道な扱いはしていない。

もちろん今から見れば、もっと緩やかにするべきだったし、アイヌ文化を維持しつつ日本人化を実現させる方法も試みるべきだった。批判されるべき点は幾らでもある。
それでも時代の流れは同じところへ届いていったろう。アイヌの文化が形骸化していくことは、どう考えても避けられなかったはずである。

これらの変化は鎖国によってほぼ固定された江戸時代までの文化を否定し、欧米列強へ追いつこうとした明治新政府の状況と似ている。ただし明治新政府は自ら邁進したが、アイヌは否応なく強いられたという違いがある。


 8 これからのアイヌ文化                  
将来に向けて、アイヌに対しどのような政策を実施し、私たちはどう接していくことが求められるのだろうか。

◆アイヌの現状と今日的問題


アイヌ協会では当然ながら、アイヌ民族は実在し今も差別を受けているとする。政治家の鈴木宗男が「アイヌも今では日本人に同化しています」と発言した時に抗議し、撤回させている。
しかし筆者はアイヌ協会の主張を全面的に受け容れることはしない。

アイヌの文化が現在も生きているようには見えないことが主な理由である。様々な復興作業は崩壊した物を形だけ復元しているに過ぎない。

民族にとって最重要な要素であるアイヌ語を学習する人は増えているくらいだが、外国語学習と同じで、ネイティブとして使う人はいないという。伝統家屋「チセ」に住むこともなく、川でサケを獲り主食にする人もいないだろう。時々挙行される最大の行事「イヨマンテ」は長い間途絶えていたものを観光と記録、若いアイヌに教えるのを目的に再開したものに過ぎず、本物のイヨマンテではない。
アイヌの人々にも、かつての伝統的な生活に戻りたいと思う人はいないはずである。

特有の文化形態がなく24時間普通の日本人に見える以上は「同化した」と認定するしかなく、鈴木宗男発言は実態を反映していて間違っていないと思う。文化人類学から見た場合、アイヌは消滅してしまったと言える。

しかし、社会は学術上の定義に縛られる必要はない。薄くともアイヌの血統に生まれ、アイヌと見られることを受け容れ、先祖が残した文化に誇りを感じて後世に伝えようとする人々がいるのなら、アイヌの存在を認めてよいというのが筆者の考えである。

アイヌの側にも改善するべき問題がありそうだ。
先に引用した投稿者も指摘していたことで、公に触れられないポイントがある。アイヌに対して公的な補助金が使われている。
個人対象はアイヌと認定されることが条件になるので、普段出自を口にしない人も協会へ登録する動機付けになっているという。アイヌは過去と現在の差別によってハンディを強いられているからというのが制度の建前なので、もし日本人に同化しているのならば、給付する理由がなくなってしまう。

アイヌ協会のHPでも補助金のことは述べられていない。しかし受け取っている以上、使途や必要性を説明することで信頼を得られ、アイヌの地位向上にプラスとなるのではないだろうか。文化面の援助として博物館の運営費や復興行事の経費を補助することは必要だろう。しかし貧困ならば生活保護という別の制度がある。差別があるならば実態を告発し、防止措置を社会全体で考えていくべきだ。
そして補助を得たいために名乗り出て、しかしアイヌ文化へ関わりを持とうとしない自称アイヌはアイヌと認めたくない。民族は固有の文化を持ってこそ成り立つ。
民族の誇りがあるならば補助金を受け取ることはむしろ恥と考えるべきで、胸を張って自立を目指す人をこそ応援したい。

◆アイヌ文化とアイヌの歴史から何を学び得るか


性格の異なる文化からは謙虚に学ぶ姿勢で接すれば多くの教材が得られるはずであり、アイヌから何を学べるかは、我々の見識と感性にかかっている。
では、過去のものになったアイヌ文化にはどのような意味があるのだろうか。保存伝承する価値はどこに求められるのか。

アイヌ文化に接して学べる一番のものは、習俗の背後にある精神性ではないだろうか。物質技術が変わろうとも自然の背後で目に見えない対象から何を感じ、人間と自分の存在をどう位置付けるかは、歴史を越えて普遍的な課題である。アイヌ文化の柱とも言える「カムイ」を受容し感謝する精神文化は、特に物質文明に翻弄されがちな現代人には見つめ直すべきテーマと思われる。
博物館や少なくとも形の伝承されている習俗を残す意味は、「カムイ」へ想像力を広げるための目に見える導き役として有用だからだ。そこに文化を残していく一番の意味がある。

そしてアイヌと和人の接触は近代史の一節としてもっと授業に取り上げるべきである。まず教育現場から変わる必要があるというのもひとつの教訓となる。中世から近世・現代に至るまで、日本の中心を構成する人々によって、弥生文化に距離を置き独自の歴史を歩んだ北と南の地域が蹂躙されていったことを本来ならば、すべての日本人は日本史の学習によって知っていなければならない。
私たちはアイヌと琉球人に何をしたのか。彼らはどう変わり、日本はどう変わったのか。
例えば北方領土問題を語るならば、千島列島には北海道アイヌと似た人々がずっと居住し、日本の中心とはほとんど関わりがなかった。彼らがなぜ日本人となり居住地が日本の領土になったのか。
19世紀まで中国(清)に朝貢していた独立国の琉球はなぜ日本になったのか。
それらの知識の奧に多くのテーマが見えてくる。

日本は単一民族なのか。
単一民族国家と多民族国家の本質的な違いは何か。
民族とは何か。
異文化の接触で何が起きるのか。
異なる価値観はどうすれば共存できるのか。


これらは過去でなく、現在と将来の問題である。
アイヌに接し沖縄文化に触れることは、歴史に学び未来を創っていく大きなチャンスであろう。


◆最新訪問時期 2013年8月

◆関係先リンク 

アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/
社団法人北海道アイヌ協会
http://www.ainu-assn.or.jp/index.html

◆関連する他の主な博物館

[平取町立二風谷アイヌ文化博物館]+[萱野茂二風谷アイヌ資料館]
北海道沙流郡平取町二風谷61
http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/
(読み方:びらとりちょう 二風谷:にぶたに 萱野茂:かやのしげる 沙流川:さるがわ) 
アイヌの伝統が濃く残っている二風谷でダム湖のほとりにある町立博物館。別棟のアイヌ資料館はアイヌ文化の研究家で参議院議員になった萱野茂が収集したアイヌ民具・資料を展示している。沙流川歴史館、二風谷工芸館、松浦武四郎記念碑などが併設。
400円 資料館との共通券700円 
4月から11月無休、他は月曜休み、冬期の1ヶ月休館

[知里幸恵 銀のしずく記念館]

北海道登別市登別本町2丁目 
http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/index.html
(知里幸恵:ちりゆきえ 神謡集:しんようしゅう)
金田一京助に見いだされ日本語訳付きのアイヌ神謡集を残しながら19歳で夭逝した、明治から大正期のアイヌ女性の記念館。
500円 火曜休館

[北海道立北方民族博物館]
北海道網走市潮見(字)309−1
http://hoppohm.org/index2.htm
アイヌを含め北半球の寒帯地域に暮らす先住諸民族の文化を紹介する道立の博物館。6~13世紀に北海道北部・東部に広まったオホーツク文化も詳しく扱っている。
450円 月曜休館

◆参考資料など

「アイヌ文化の基礎知識」アイヌ民族博物館監修 草風館 1993年
「写真集アイヌ ー二風谷のウトンムヌカラとイヨマンテー」 萱野茂 国書刊行会 1979年
「別冊太陽 先住民アイヌ民族」平凡社 2004年
アイヌ民族博物館
二風谷アイヌ文化博物館
帯広市百年記念館
標茶町郷土博物館
根室市歴史と自然の資料館
北海道立北方民族博物館

博物館訪問記「アイヌ民族博物館」終わり


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