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多胡碑(群馬):1300年守られてきた80文字の石碑

カテゴリー見出古代史

多胡碑覆い屋 多胡碑を内部に保護している覆屋

■ 概 要 
711年(和銅四年)、朝廷からの命を受けてこの地に多胡郡という行政単位を設置したことを記念した石碑。80文字が高さ約130センチの砂岩に刻まれている。1300年間地元の民衆によって守られてきた。

名称多胡碑:たごひ
国指定特別史跡
所在地   群馬県高崎市吉井町池
対象年代奈良時代前半 8世紀初頭
交通機関バス停「記念館前」下車、石碑まで200m、記念館まで150m
マイカーJR高崎駅から南へ7km、15分
上信越自動車道・吉井ICから北へ3km、10分
駐車場あり、石碑まで300m
付帯施設[多胡碑記念館]
開館時間:9:30-17:00 入館16:30まで
月曜休み、年末年始休み
200円
問合わせ多胡碑記念館 027-387-4928
高崎市文化財保護課のサイト
https://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/ky-bunkazai/tagohi/index.htm


多胡碑地形図


■見学詳細

現地は旧町名を残した「吉井いしぶみの里公園」として整備され、移築された古墳や多胡碑記念館が並び、多胡碑は木立に囲まれた公園の一角で小さな覆屋の内部に保護され、ガラス越しに見学する。
覆屋は小さなものなので案内板をたどらないと場所が分かりにくい。
「多胡碑記念館」は入館料200円。建物は大きいが一つの石碑に対して展示スペースが広く、空間が余り気味になっている。館内は撮影禁止。
道路を隔てて公園の駐車場あり。石碑と記念館は高台にあるので階段を登る。

◇地名等読み方
ー地名ー
吉井町池:よしいまちいけ 上野国:こうずけのくに 鏑川:かぶらがわ 
ー歴史用語ー
続日本紀:しょくにほんぎ  藤原不比等:ふじわらふひと 石上:いそのかみ 乙巳の変:いっしのへん 
中大兄皇子:なかのおおえのおうじ  元明天皇:げんめいてんのう 新羅:しらぎ 六朝:りくちょう 百済:くだら 稲荷山古墳:いなりやまこふん 雄略天皇:ゆうりゃくてんのう 

■多胡碑とは何か

多胡碑は1300年前、奈良時代の8世紀前半に現在の市町村に該当する行政単位である「郡」を建てたことを記す80文字を砂岩に刻んだ「建郡碑」と呼ばれる石碑(時期はWikipediaで8世紀後半としているが後述の判断材料から、前半と考えられる)。

文字を刻んだ石碑としては国内で最古級のひとつで、笠石が乗っていることと地元民が大切に保護してきたことによって風化をまぬがれ、現在でも充分判読できる。

文面が公式な指示書より簡略な内容であることなどから石碑は朝廷が設置したものではなく、多胡を統治する人物がその地位の正統性を住民と後世に知らしめるために造ったもの考えられている。
内容が『続日本紀』和銅四年の記載と一致することから真実性には問題がなく、刻まれていない造立時期も和銅四年(西暦711年)のわずか後であると推定できる。後世の偽作説・複製説はほぼ否定されている。
高さ129センチ、上に乗る笠石を含めると約160センチになり、現在はコンクリートの台座に乗っている。実際には当初からの台石に身がはめ込まれているが、戦後コンクリートですっかり覆われて台石は見えない。
実物大のレプリカが隣接する記念館に展示されている。

以下に色々な角度から紹介と(独善的な)考察を試みる


■多胡碑に刻まれている文章

多胡碑石碑 多胡碑を覆屋のガラス越しに撮影(クリックで拡大)

文章は朝廷の発行した公文書よりも略記されていて、上野国において新たに多胡郡という行政区画を設置するという「建郡」の報告という形をとり朝廷の最高位にある人物3名の名も挙げている。また郡の統治者として「羊」を任命したようにも読めるが人名を指すのか解釈に論議がある。

【現代語訳(記念館冊子・東郷治之氏による)】(この訳では「羊」を人名に解釈している)

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四年三月九日甲寅。左中弁正五位多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等)尊。

注:末尾の人名は当時の朝廷状況から明らかに特定できるため、ここでは括弧で補足してある

冒頭の「弁官符(べんかんふ)」という言葉を使用していることから、この建郡の通知は同時に行政の長官職を担う人物への任命を行い、それを口頭に申し伝えたものとの推測がある。「郡」とは今でいえば「町」程度の行政単位であり、その統治者を決めるのに当人を朝廷まで招集し、政府高官が直接申し伝えたということになる。
その時文書で任命書も渡したのかどうかは不明である。
ただし、証拠もなく地元に戻って行政を始めても信用が得られないはずで、大きな行政単位の「国」の長官である国司からも公式な承認通知が届いていたのであろう。
詳細はまだ不明だがこのような地方統治の手続きはちょうど律令体制を整え始めている時期にあたるので、多胡碑造立の経緯は格好の研究対象にもなりそうである。


■多胡碑の背景にある当時の社会

この当時の日本社会は律令体制の整備を着々と進めていた時期にあたる。その改革の方向は645年乙巳の変において中大兄皇子が目指したもの、豪族の私有を廃して国土や民衆は国家に属するものとし、租税徴収や労役のために土地を調査し、戸籍を整え、中央から派遣された官僚が地方の統治を行うというものだった。
多胡碑に刻まれている内容はまさにこれである。朝廷からは今の県知事に近い要職の「国司」が派遣され、小単位である多胡郡のような郡では土着の有力者に任せるもののその権限は国司によって管理され、国司は朝廷によって管理され、数年で交代していく。
多胡碑にある「羊」が任命された人物であるとして、同じように郡の統治者を任命することはこの時期に全国に対し何百とあったのだろう。多胡郡では独自に石碑を刻んだために後世に伝わった。この土地でも石碑と別に木簡に墨で書かれた文書や、民衆に知らせるための高札もあったのかも知れない。民衆が文字を読めないことを考えれば、通達するために集会を催したことだろう。
石碑が保存されてきたことからは、「羊」が民衆の反感を余り受けることなく無難に任務を果たし、職務を世襲していったことが想像できる。


■多胡碑はなぜ1300年も伝えられているのか

文字を刻んだ石碑で平安時代以前と確かめられているものは全国で18、或いは20しか残っていない。高崎市にはそのうち3つが現存する(「上野三碑」後述)。
雨の多い日本では野外の石碑は風化が早く、文字は読めなくなってしまうものである。多胡碑は帽子のような笠石を乗せていたことも好条件になった。
しかし現在まで残ってきたのは石の耐久性のお陰でというよりも、中世から継続されてきた地元民を中心とした保護活動の賜である。
地元では奈良時代の伝説的人物である「羊太夫(ひつじだゆう)」の墓とされて古くから崇拝の対象となり、江戸時代には拝殿が作られ、明治には官費から柵や覆い屋などが整えられ、終戦時には米軍による棄却命令を怖れて一時埋蔵されたとも言う。
今日ではもちろん墓とは考えられていない。


■当時の日本史・飛鳥時代から奈良時代
多胡碑年表

645年 乙巳の変(=大化改新)
663年 白村江の戦い、朝鮮半島からの撤退、緊張
672年 壬申の乱、天武・持統朝の開始
694年 藤原京造営
708年 武蔵国秩父郡から和銅を献上
710年 平城京造営・遷都 奈良時代開始と律令体制の整備
741年 聖武天皇国分寺建立の詔、国家仏教の整備


■多胡碑はいつ建てられたか

多胡郡建郡の年である711年は元明天皇の5年であり、前年の3月に平城京へ遷都し、石碑に名前のある藤原不比等が52歳にして事実上の最高権力者になっている。
藤原氏の全盛期はこの不比等から始まると言っても良く、708年に就任した右大臣藤原不比等という名が全国の庶民にまで聞こえていたことは想像に難くない。
ところでその不比等は720年に死去している。
また「左大臣正二位石上尊」と記されている石上朝臣(いそのかみのあそん)は、717年に死去している。この右大臣という地位は不比等の左大臣よりさらに上位の地位であり、国家主席のようなものであった。
石碑にすでに死亡した権力者名を刻むだろうかと考えれば、多胡碑の造立時期は建郡の711年以後で、石上朝臣が死去する717年以前のはずである。まして不比等の死去する720年より何十年も後とは思えない。これが、Wikipediaの「8世紀後半」ではなく、8世紀前半であると筆者が推論している根拠である。


■多胡碑は当初からその位置にあるのか

移動したという記録は伝わっていないが、現在の所在地周辺は充分な発掘調査がなされておらず、動かされていないかどうかは判断できない。もし初めからこの位置にあったのなら、すぐ周辺に郡の役所を示す建物跡が発見できるはずなのである。
また石碑の目的は人に見せることにあるので地元民や旅行者が往来していたか、遠くから目立つ場所でもあったはずで、確かに鏑川(かぶらがわ)から見上げる丘の上である。
調査が途上である現状では、動いたかどうか分からない。動いていないとしても不自然な場所ではない。


■多胡碑を造立した人物は何者か

この石碑は朝廷が設置したものではないとされる。その理由はまず文面、そして朝廷の記録にないこと、全国で他に存在しないことなどである。
とすると建郡の指示を受けた人物が建てたと考えるべきであろうし、その事蹟を誇り伝える目的だったと想像できる。
文章にある「羊」がその人物を指すというのが有力な説である。またその人物は遠くない時代に朝鮮半島から帰化してきた渡来系だったとするのが筋の通る解釈であるが、確証はない。慎重に考慮するべきだが、多胡郡の「胡」という文字は異民族を意味する文字なので、この地方はすでに異国からの流入者が多く住んでいたことが窺えるのは状況証拠のひとつである。

また、なぜ有力者なのに「○○氏」といった氏(うじ)や姓(かばね)を付けていないのかが疑問になるが、まだ充分な評価を与えられない地方在住の渡来人には、朝廷が認めなかったということもあり得る。
その傍証として、『続日本紀』766年に、上野の国にいる新羅系の一団に対して「吉井連(よしいのむらじ)」を授けるという記事があり、それまで姓を名乗れなかった一族が初めて連という姓を賜ったことが分かる。
この吉井連が多胡碑を建てた人物の子孫なのかどうかも確証はないが、少なくとも8世紀後半で上野国に住む新羅系渡来人の子孫グループが地方豪族として朝廷にも地位を認められる存在になっていたことははっきり解る。

一方、「羊」が人物でないとする解釈では南南西の方角、動物の羊、「祥」「蓋」「群」の略字、誤字という諸説がある。詳しい論拠が解らないが、説得力が不足しているのではなかろうか。誤字説などは考えられない。

多胡碑資料館 多胡碑記念館


■書としての価値

筆者のような門外漢が多胡碑を見ても、上手な書体には感じられない。しかし書道を嗜む人はこの記念館にやってくると学習のために拓本のコピーを購入して行くのだそうだ。
また江戸時代、朝鮮半島と交流のあった文人は多胡碑の拓本を贈り、それが中国まで伝わって書道史に残ることになったという。
書体は楷書体で中国の六朝風を遺すと言われている。
当時の地方権力者が一世一代の記念碑を建てようとして、国内屈指の文章家と書家を朝廷のあった奈良から招いたのかもしれない。


◆上野三碑(こうずけさんぴ)


上野三碑とは、上野国地域(高崎市南部)に残る三つの古代石碑のことで、ここ多胡碑のほか、山上碑、金井沢碑のことである。いずれも国指定特別史跡。

◇山上碑(やまのうえひ)
所在:高崎市山名町字山神谷2104
高さ111センチの安山岩に53文字が刻まれている。
内容は当時隆盛していた寺院の僧侶である長利(ちょうり)が、自らの母「黒売(くろめ)」の供養と一族の系譜を述べた私的なもの。
造立時期は三つの中でもっとも早く、辛巳歳(西暦681年)と記されている。
また、この石碑に隣接している径15mの円墳である山上古墳は、石碑を建てた一族が埋葬されたもので 供養されている黒売の父のために築かれ、のち黒売が追葬されたと推定されている。

◇金井沢碑(かないざわひ)
所在:高崎市山名町字金井沢2334
高さ110センチの安山岩に112文字が刻まれている。
内容は豪族であった三家氏(みやけし)が仏教の教えに則って一族の繁栄を願うという私的なものである。文面中に地名としての「群馬」が初めて使用されている。
造立時期は神亀三年(西暦726年)と記されている。

三碑の中で、内容が公的なものは多胡碑だけで、またほかの二つが風化で判読しにくくなっているのに較べて、多胡碑は笠石という帽子のような石が載せられていたためであろう、幾らか保存状態がよい。

[三碑から考察する上野の状況]

平安時代以前の碑文は、全国で20ほどしかなく、そのうちの三つが上野に残っているのはなぜなのか。
文書を練り上げ石碑を造立するというのは、当時の知識層の人にしかできないことだったろう。また、石碑に記録を残すという習慣は日本で発生したのでなく半島から渡来したものと言われる。
この7世紀ころの渡来人には半島の戦乱から脱出した新羅や百済の上層階層の者が多く含まれ、在来の日本人よりも豊かな教養を持っていた。日本の朝廷は彼らの能力を活用し、要職に多数採用したと言われている。
群馬でも新羅系の渡来人が多く居住していたと推定され、その影響から私的な造立も含め多数の石碑が造られたのではないか。
群馬・埼玉では大型の古墳も多く、稲荷山古墳から5世紀の雄略天皇の名を記した鉄剣が出土しているように、石碑を造った8世紀より300年以上前から国内でも先進的な地域だったことが窺える。
周辺地域で直前の古墳時代末期に大型墳墓が残されていることから有力な豪族が割拠していたことが想像でき、その周辺地域にあたる多胡郡は戸数が300とあるので人口は1500人程度だろう。上野国ではひとつの狭い領域に過ぎなかったはずである。上野国の中心とは言えなさそうである。
多胡碑が711年から10年以内に造られたとして、上野三碑でもっとも古い山上碑は約30年前の681年に建てられている。4kmしか離れていない山上碑の存在は当然知っていたであろうから、「ではわれわれも」という一種の流行がこの地方で発生したのではなかろうか。


◆多胡碑を含む日本三古碑とは何か


日本三古碑とは、8世紀前後に刻まれた多胡碑、那須国造碑(なすのくにのみやつこひ)、多賀城碑(たがじょうひ)の3つで、考古学の見地でなく主に書道史の観点から選ばれたものである。これらより古い文字石碑、金属に刻まれた文字記録は多数存在する。

◇那須国造碑
(なすのくにの みやつこひ)
所在地:栃木県大田原市湯津上429
笠石神社に祀られる石碑で、高さ148センチの花崗岩に152文字が刻まれている。内容は7世紀の国造だった人物を後継者が讃えるもの。西暦700年の建立とされる。多胡碑のように帽子状の笠石を乗せていて、石碑自体が「笠石」と通称されている。国宝指定。

◇多賀城碑(たがじょうひ)
所在地:宮城県多賀城市市川字田屋場
多賀城の南門近くの堂内部に建つ8世紀の石碑で、高さ196センチの砂岩に141文字が刻まれている。内容は多賀城の位置と設置の経緯で、762年建立と記されている。重文指定。


◆[余談]文字を後世に残す手段

問い:日本で最古の文字は何か

答:志賀島の金印、1世紀。ただし作製したのは中国、作製した人物も中国人。
(本ブログ「古代史探訪 金印公園」参照)

金印は製造当時の輝きのまま、今も福岡市博物館で展示されている。これは金という化学的に安定した金属のお陰である。
では永く文字を残すには金を使うのが最高かというと、金は軟らかいため金槌で叩くと変形して文字が消えてしまったり、ひとつの固まりが小さいため盗難され作り替えられてしまうなどの弱点もあり、世界の最古級文字を伝えてはいない。

実は世界で5000年以上文字を残した実績のあるのは、古代エジプトやメソポタミアで残っている、まさに石に刻んだもの、そして粘土板を焼成したものである。メソポタミアでは単に粘土に刻んだものが偶然の火災で瓦のように強固な陶板になり、解読し切れないほど大量に残っている。
古代エジプトでは多くの石造品が石灰岩を使用していて、もし日本であれば降水で溶蝕され文字は消えているはずなのに、雨の少ない土地ゆえに残っている。
一方、現在の我々がもっとも多く文字を記入している手段は、デジタルデータである。これは何年保つだろうかと考えれば、新しい媒体へ次々コピー保存を続けていくというメンテナンス作業を継続しない限り、50年は保たないだろう。仮にデータが残っていても読み出す方法がなくなっていく。最初の持ち運べるデジタル媒体であったフロッピーディスクはすでに一般において、読めなくなっている。CDもブルーレイも50年後に読める展望があるのだろうか。学校の卒業アルバムをCD-Rで渡したりするのはデジタルの弱さを知らない発想である。

もし私たちが自分の家族の記録などを後世に遺したければ、古代メソポタミアを参考に、刻んだ文字を陶器で焼成し瓦のようなセラミックに作っておくことがもっとも確実である。費用も安い。最近は写真もモノクロならば陶板に焼成できる。災害に遭わない場所に大きな倉庫を確保し、板を大量に保管すればよい。雨は避けた方がよい。または地面に埋めておくのもよく、5000年後に考古学者がいて発見してくれれば、解読に努めてくれるだろう。
多胡碑を残した「羊」に負けない長期保存に挑戦してみてはいかがか。


◆最新訪問時期 : 2013年8月
◆参考文献  『列島の古代史6 言語と文字』岩波書店
         多胡碑記念館冊子・図録類

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