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青谷上寺地遺跡(鳥取):弥生の殺傷痕人骨は何を語るか

カテゴリー見出古代史

青谷上寺地遺跡現場 自動車道の高架下が遺跡発掘現場

■遺跡の概要 
青谷上寺地遺跡は日本海に面する鳥取県青谷町で発見された弥生時代の集落・祭祀遺跡。これまで道路建設予定地の発掘だけで多量の鉄製品・土器に加え、水湿地で有機物の腐敗が抑えられたため、木製品・骨角製品・人骨などが数多く発見された。人骨には多くの殺傷痕が見られ戦乱の様子がうかがえるほか、国内で初めてが3人分発見され話題となるなど、出土物の豊富さから地元では「弥生の博物館」と称している。

名称青谷上寺地遺跡 : あおや かみじち いせき
国指定史跡
所在地鳥取県鳥取市青谷町青谷
対象年代弥生時代中期から後期・古墳時代初期(紀元前150年から紀元250年の約400年間)
交通機関  JR山陰本線青谷駅下車、遺跡発掘地は南西へ500m、
展示館は北東へ200m。
マイカー山陰自動車道青谷ICから展示館まで1km
・鳥取市街から25km
・倉吉市街から17km
付帯施設    [青谷上寺地遺跡展示館]
開館時間 午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 無料
・展示館はプレハブ造りで仮設のような外観だが、内容は小規模な博物館に劣らない。じっくり見学するには1時間必要。
問合わせ青谷上寺地遺跡展示館 0857-85-0841
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php

 青谷上寺地遺跡周辺遺跡 青谷上寺地遺跡と周辺の主な弥生遺跡

■見学詳細

発掘場所は調査実施日に原則として見学可能。ただし説明案内などは未整備なので、一般の考古学ファンが見学しても状況判断は難しいと思われる。調査日は要問い合わせ。
これまでの調査成果は青谷上寺地遺跡展示館に展示。
遺跡展示館と発掘地は直線で700m、徒歩15分。発掘地に駐車場はないので車は展示館に置く。
青谷上寺地遺跡展示館外観 青谷上寺地遺跡展示館

■遺跡について補足

青谷上寺地遺跡の立地は現在でも日本海に面した狭い平地であるが、弥生時代には海が陸側に入江となって、波を避ける港としてもうまく機能していた。
弥生人の暮らしを支えた稲作は内陸へ細長く延びる平地で営まれていたと推定される。調査されている遺跡部分は主に港湾だった見られ、集落跡は発見されていない。
これまでの調査は道路建設に伴って道路部分の真下を発掘しているだけで、遺跡エリアと推定される範囲内のごく一部に留まっている。それにも関わらず多量の出土品が見つかったのは、水没した木材が腐敗せずに残っていたことと、発掘位置が偶然にも当時の港湾施設に当たったこと、そしてこれも偶然ながら遺体や廃棄物がまとめて棄てられた当時の湿地に当たったことによるらしい。

出土物には他の遺跡では滅多に見られない貴重なものが多いのだが、ここでは以下の数点に絞って注目してみたい。


■注目の出土物1 脳


出土した多くの人骨の中から、3人の脳が発見された。古代人の脳が発見されることは世界でも数例しかなく、日本では初めてのことだった。
固い化石になっていたのではなく、軟組織を残している。
3体の内容は次の通り。

・30~40代男性:脳全体の五分の一、230グラム
・40~50代男性:わずか、10グラム
・30代女性:脳全体の四分の一、300グラム

写真にある展示はレプリカ。別に小瓶に封入した実物細片を展示してある。
青谷上寺地遺跡脳展示ケース

脳の発見直後には核DNAを抽出して弥生人のルーツ探索に役立つと期待されていた。
その後、2003年には核DNAの抽出はできなかったという報道があり、代わりに骨からミトコンドリアDNAの抽出は成功したという。期待された十分な遺伝子情報は得られなかったが、ミトコンドリアDNAの情報から佐賀県の弥生遺跡人骨と近似し、現在の本州や朝鮮半島の人々に近いことが分かったという。
残念ながらこの成果は従来から推測されている範囲内のものである。
核DNA抽出に失敗した事情はよく解らない。脳組織からSFのように記憶を取り出せれば素晴らしいが、現状で成果を出すのは難しいのではないか。

この脳は現在、氷温保存という凍らない0度付近の温度を保つ方法で鳥取大学に保存されている。この方法は現状でベストの方法とは言えるが、ごくわずかな経年劣化は防げないので、100年後まで保つことは困難と思われる。


■注目の出土物2 多量の人骨など出土物の豊富さ

発掘によって通常の遺跡ではあり得ないほど多くの遺物が発見されている。人骨はバラバラで人数にすれば100体以上、ほかに原型を保った建築物の屋根や壁、絹織物、木製品、鉄器、土器など。人骨は埋葬でなく、雑然と棄てられているように見える。

◇人骨群から想像できること

・100体のうち、少なくとも10体からは殺傷痕が見つかっている。生前に骨に至る大きな外傷を負い、治癒痕のないことからそれが致命傷となってほぼ即死していることが分かる。
・人骨は重なっていることから、何度かに分けたのでなく一括に棄てられている。
・人骨には幼児のものが3体、女性や高齢者も含まれていた。
・同一人物の骨が離れて分散し、囓られた跡はないことから、死亡後に体がバラバラになる(軟組織がほぼなくなる)まで、獣に荒らされない別の場所に地中保管した可能性が言われている。この集落の運命を想像するに非常に興味深い点である。

100名という人数は集落のうち戦闘参加が可能な人数に匹敵すると推測できる。それほどの人数が一度に集められ棄てられるのはどんな事情があり得るのか?
一般的に考え得るのは、伝染病か戦争のいずれかであろう。そして殺傷痕の多さから、戦争の結果と断定しても良いのではなかろうか。
そして地元側が勝利したのなら大事な港湾施設の一角に棄てるはずはないから、攻め込んだ側が勝利し、遺体は地元側の人々であろう。


■注目の出土物3  殺傷痕のある頭蓋骨

この頭蓋骨の主は成人女性であることが分かっている。遺体となってから傷付けられることは考えにくいので、生きている状態で、殺害のために武器を額に打ち込んだものだろう。この傷からは様々な想像が広がり、筆者が特に好奇心を刺激されたものである。

青谷上寺地遺跡頭蓋骨
展示館で殺傷痕のある頭蓋骨が二つ並べてある。左は男性、右後頭部という位置も戦闘中の傷として自然に見える

青谷上寺地遺跡頭蓋骨拡大 上の右、女性頭蓋骨の拡大

◇用いられた武器とは


弥生時代の武器は、(ほこ:槍のようなもの)、金属の矢じり(=「」)を付けた弓矢、そして下の写真にある「戈(か)」であった。
この頭蓋骨の傷を付けられるのは傷の形から「戈」の可能性が高い。戈は振り回して深い刺し傷を負わせ、そのまま引き寄せることができる。腕を振る力が使えるので、深く刺すという目的では当時で一番の道具である。

青谷上寺地遺跡銅戈 青銅で復元された「戈」

弥生遺跡からは青銅製の「銅戈」が多く発見され、鉄製の「鉄戈」はごくわずかしか見つかっていない。それは鉄が錆びて消えるからでなく、実用的な武器として余り使われなかったからという見方がなされている。
青銅製の剣や矛などは武器の形をしていても主として儀仗用の道具として製作され、実戦向きにはずっと固い鉄で同じ形状のものを作ったというのが定説である。青銅製の剣などには研磨した形跡の見られない例が多いというのも根拠になっている。青谷上寺地遺跡の時代は弥生時代の後半で、すでに戈は実用品でなくなっていた可能性が高い。

なぜこの傷を付けたのが戈であると考えられるのか。実用の武器でないかも知れぬ戈を使うとはどういうことか。
この頭蓋骨の傷はなでるような斬り方でなく突き刺したものなので、剣を突き刺したか、金属の矢じりを付けた矢で射たか、戈を打ち込んだかのいずれかである。
また何度も攻撃した痕はなく、この1個所だけが深く傷つけられている。角度が悪ければ傷を付けるだけで刺さらないはずの頭部に対して、一撃で深い致命傷を与えていることには注目したい。

頭蓋骨に一撃で穴を開けた道具はどれか。剣を突き立てたり矢を射たりするより、振り回せる戈を使ったほうが勢いと重量があり、固い頭蓋骨を貫通させやすい。
このように考えれば、この傷を付けた武器は戈であると断定して良さそうに思える。

なお、戈の装着方法は復元では上の写真の角度に作られるケースが多いが、下の写真のように鋭角だった可能性もある。柄が付いたまま発見された例はないはずであり、取付部分の構造からもいずれかと断定できる材料はない。
青谷上寺地遺跡銅戈反転

◇額に致命傷を受ける状況とは

額に戈を打ち込まれるとしたらどんな場合だろうか。
敵と真正面に向き合って振り下ろした場合、刃は額でなく頭頂に刺さるはずである。しかしこの頭蓋骨の傷は頭頂でなく、額に開いている。
そして一撃で命中させるのは、戦闘中で相手が激しく動いている状況では至難の業だろう。
この傷は、正面に向き合い、静止して、しかも攻撃者がやや低い位置から、あるいは受ける側が横たわった状態で打ち込まれたのではなかろうか?
そんなことが起こりうるのだろうか。
ここで上に記した、戈は実戦用の道具でなく、儀仗用の道具だったことを考え合わせてみたい。
筆者はこれは儀式として行われた「処刑」だったと考えている。

◇被害者はどんな人物なのか


他にも多数発見されている殺傷痕を受けた人骨と違い、この人物は額への傷を受ける前には生きていたと考えられる。それが処刑という、異例な殺され方をしたとしよう。
この人物は15から18歳の成人女性であることが骨組織から判明している。
女性が男性に混じって戦闘に参加したとも思えない。なぜこの人物は殺されなければならなかったのか。それも公開処刑のような方法で。

発見された100体に上る人骨は、一度に雑然と集められた様子で発見されていて、敬意を払った埋葬には見えない。あたかも大きな戦いの後で勝者側が敗者側の遺体をまとめて処分したようである。おそらく大きな戦争の結末なのだろう。

そして女性が処刑されるのは、それによって相手を完全に征服したという象徴の意味があるのではないか。すなわち女性は戦闘では死なない立場にあり、集団を象徴する指導的存在、つまり弥生時代においては司祭者、シャーマン、巫女しかない。
この女性は処刑された巫女ではないのか?

◇弥生文化として見た場合

山口県・土井ヶ浜遺跡は青谷上寺地遺跡から時期がやや古い、同じ弥生時代の遺跡である。ここからも頭部に類似の傷を負った人骨が出土している。筆者が最初に処刑による傷を発想したのは土井ヶ浜遺跡での人骨を見てのことだった。
もちろんどちらの遺跡でも本当の事情は解っていない。しかし弥生時代の文化は距離が離れていても共通する要素を持っている場合が多く、戦争の終わりに巫女が処刑され、処刑方法として頭部へ戈を打ち込む方法がよく採用されていたとしても不思議はない。否定できる材料はないはずである。
少なくとも以下の事情は、すでに定説となっている。

・弥生時代の共同体はそれぞれに一種の霊能力を備えた独身女性が巫女として武人の統治に加担していた。
・巫女は戦闘に参加しない。
・巫女による託宣や予言が共同体の方針を決定し、それが的中せずに大きな損害を被った時には責任を取らされ、殺される場合があった。


ちなみに、邪馬台国の卑弥呼は晩年に狗奴国という地域との戦争に苦しんだと言われ死因も解らないことから、研究者の一部では敗戦の結果、処刑されたのではとの意見も出されている。これも簡単に否定できない。
もしそうならば卑弥呼も同様の方法で額から傷を受けたのだろうか。

いずれにしろ弥生時代の人骨は発見されること自体が稀であり、貴重な青谷上寺地遺跡での発見を更に調査し、弥生時代の様子が明らかにされていくことを期待している。

青谷上寺地遺跡弥生年表

■最新訪問時期   2012年3月

■参考 『青谷の骨の物語』井上貴夫 鳥取市社会教育事業団 2009年



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宝永山(静岡):[富士山シリーズ2]富士山でもっとも新しい噴火

カテゴリー見出地形地質

宝永山代表
愛鷹山から見た初冬の富士山と宝永火口・宝永山


ーもくじー
◆基本情報(表)
■見学詳細 付帯施設 難読地名など
■宝永山の概要
■富士山の側火山分布
■宝永噴火の概要
◇注意事項:「火山灰」は細かな砂
■宝永山と火口を観察する
◇火口を埋めているもの
◇小石の色と「赤富士」
◇山体崩壊の壁面
■宝永火口の東西で、なぜ地形が違うのか?
◇地下にはどんな地形が隠れているのか
◆NHK番組「富士山・絶景の秘密」での説
◆御殿場口五合目にはなぜ植物が少ないのか
◆[付録]植生観察:地を這うカラマツ
■宝永噴火とこれからの富士山噴火



名称       
宝永山:ほうえいさん
(富士山として)
国指定特別名勝 富士箱根伊豆国立公園 世界遺産選定予定 
活火山指定 地質百選 百名山
所在地 静岡県御殿場市中畑


交通機関              
・JR新富士駅から富士急行バス2時間10分終点「新五合目」下車
・JR新三島駅から富士急行バス2時間5分終点「新五合目」下車
※混雑時間を含まず
マイカー・東名高速道路裾野ICから1時間10分 など
・新五合目駐車場500台無料
・夏期はマイカー規制あり、富士山スカイラインの水ヶ塚駐車場に駐車(有料)、新五合目までシャトルバスまたはタクシー利用となる。駐車1000円+バス往復1300円(2012年)
・2013年は7月12日から9月1日まで52日間を規制予定
・新五合目までの登山区間は11月下旬から4月下旬まで冬期通行止め。
・御殿場ー富士宮の富士山スカイラインは通年利用可能(冬期は積雪・凍結用装備必須)
・規制期間以外でも混雑あり、路上駐車厳禁
問合わせ◇道路状況について
[静岡県富士土木事務所]
0545-65-2237
[静岡県・富士山スカイライン交通情報]
http://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-840/skylinedourojyouhou.html

■見学詳細
※登山者・観光客の急増により、シーズンの道路混雑が激しいことに注意
※2013年夏からバス、マイカーともに富士山入山料の試験導入が計画されている

・宝永山・宝永火口を見学するには富士山スカイライン新五合目(標高2400m)からの往復となる。
・徒歩片道1時間 宝永山頂上までは加算50分、上り下り多い。
・登山道なので縁の高い歩きやすい靴が必要。宝永山頂上までは砂に深く潜るため、スパッツ使用を推奨
・途中に山小屋「六合目雲海荘」「宝永山荘」が期間営業している。
・トイレは有料チップ制

・宝永山頂上付近でガスに巻かれると迷う。
・気象変化が激しく落石の危険もある。標高は2500mあり登山領域であることに十分留意すること。
・第二・第三火口には表富士周遊道路・水ヶ塚の近くから延びる登山道があるが、展望の利かない樹林帯のため迷いやすい。第一火口からの往復が無難。

※宝永山は東南斜面にあるため、富士登山でもっとも利用者の多い中央自動車道・富士山スバルライン・吉田口登山道からはまったく見えない。

■付帯施設

新五合目に売店・食堂あり 
富士山の静岡県側で地質面を紹介する良い施設は見あたらない。

◇難読地名など
御殿場:ごてんば 裾野:すその 西湖:さいこ 精進湖:しょうじこ 
北鑵子山:きたかんすやま 大室山:おおむろやま 片蓋山:かたぶたやま 愛鷹山:あしたかやま

側火山:そくかざん 小御岳:こみたけ 貞観噴火:じょうがんふんか 溶岩原:ようがんげん 

宝永山Googleearth

■宝永山の概要


宝永山は江戸時代の1707年、富士山中腹から噴火したことにより火口の側壁が突き出した地形。独立した火山ではなく富士火山の一部とみなされる。

富士山では北西から南東のラインに沿って多くの火口が並び、これらを地学用語で「側火山」と呼ぶ。側火山それぞれの活動はいずれも一回の噴火で終わっている。
100を数える側火山の中でもっとも新しく大きいのが宝永火口であり、爆発の勢いで捲れ上がった部分が火口縁を形成し見る角度によって山の形になる場所が宝永山と呼ばれている。頂上地形の実際はほぼ水平な尾根で、末端にある2693mの最高地点を山頂としている。

宝永火口は上から第一、第二、第三と3つが並び、噴火の順番は形状から第二、第三、第一だったとされている。
第一火口がもっとも大きく、火口直径約1200m、火口底の標高は2420mで宝永山頂上と270mの高度差がある。先に噴火していた第二・第三火口は第一火口からの噴出物によってかなり埋められ、爆発時の形が分かりにくい。
なお第二・第三火口の右に隣接する窪地状の地形は火口ではない(後述)。

この記事では散策の容易な第一火口に注目する。


■富士山の側火山分布
 宝永山側火山分布
主な側火山分布図。側火山の数は数え方によって70から100まで幅がある。この図のように北西から南東のライン上に集まっているとされてきたが、最近になって北東(富士吉田側)にも存在すると言われ始めた。

小御岳火山・古富士火山・新富士火山という3段階の成長史を経てきた富士山は1万年前頃にはほぼ現在の姿になっていた。山頂からの噴火活動は約3000年前までに終わり、その後は側火山での活動に移る。
9世紀の貞観噴火では西北の長尾山から大規模に流れた溶岩によって「せの海」という大きな湖が西湖精進湖に分断され、また広がった溶岩原が青木ヶ原となった。
その後宝永噴火までの約800年間は記録があいまいになるが、伝承や地形に残っている側火山の様子から、数回の小規模な噴火があったと推定されている。
宝永噴火から現在までの300年間に噴火と呼べる活動はないが、山頂付近に「荒巻」と呼ばれる高温の蒸気を噴き出す場所があり、昭和中期まで続いていたという。頂上にその痕跡が残っている。

■宝永噴火の概要
(ここでは大まかな紹介に留める。詳細はWikipediaなどを参照)

・1707(宝永4年)年10月、東海地方の沖でM8.6(8.7とも言う)の宝永地震が発生、倒壊や津波で大きな被害が出た。この地震が富士山の噴火に影響したことは確実視されている。
・この地震の後、富士山付近では群発地震が続き、次第に大きくなった。
・翌11月23日(旧暦)、大きな地震に続いて噴火が始まり、黒煙を噴き上げ周辺地域に軽石を降らせた。飛来した軽石は落下後も高温のガスを噴き出しつつ火事を発生させた。
・最初数日間の噴火が激しく、その後しばらく落ち着き、再び活発化して赤い固まり(火山弾)の噴出が観察された後、16日後の12月8日に終了した。
・溶岩は流れていない。噴火様式としては火山灰や軽石を大量に噴出するタイプで、「プリニー式噴火」と分類される。

・江戸には最初は灰色の火山灰、その後黒い火山灰が降り、2~3cmほど積もった。
・富士山麓の御殿場では噴火位置に近いうえに風下に当たり、大量の降下物によって多くの集落が壊滅的被害を受けた。
・噴火の収まった後も積もった火山灰が降雨によって泥流となり、度々の洪水被害をもたらした。
・多数出たはずの犠牲者数は記録されていない。


◇注意事項:「火山灰」は細かな砂

私たちが普通にイメージする「灰」は、紙や枯葉が燃え尽きて残る灰白色でサラサラのものではないだろうか。
これに対して「火山灰」は、ザラザラした「粒の細かい砂」と言うべきもので、実は成分もまったく異なっている。

地質学では粒の大きさによって呼び方が定義されていて、火山灰は2mm以下の粒子を指し、2mmから64mmまでを「火山礫(れき)」とする。
1~2mmの粒は一般の感覚では「砂」のはずだが「灰」と扱い、2mm以上になると6㎝の小石までが一括して「火山礫」と称される(下で述べるスコリアも火山礫)。この分類呼称が地質学・火山学で標準とされ、専門家が一般向きに説明するときにも使われている。
地質学のうち「堆積学」という分野ではこの火山灰の積もったものを3つに細分し、大きい順に「火山砂」「火山シルト」「火山粘土」と呼び分けることがあり、むしろこの呼称のほうが一般向きに適しているように思えるのだが、普及していない。

火山の本で「火山灰」と書かれているものは、サラサラの白い灰でなくザラザラの細かい砂であることを承知しておいてほしい。

宝永山・桜島の火山灰 鹿児島・桜島の道路に積もった火山灰。一般の感覚では砂に見えるが、これが典型的な「火山灰」


■宝永山と火口を観察する
宝永山登山道1 左奧が宝永山の山頂、右に降りると第一火口がある。山頂から下山する途中に撮影。中央に登山者。

◇火口を埋めているもの


・宝永山の山頂付近は弧を描き水平に続く痩せ尾根に過ぎない。弧の形から、最大の噴火中心は現在の火口内で一番窪んでいる位置よりも富士山山頂寄りだったことが推定できる。今は落下物の斜面に隠れている。
・火口側の斜面角度は約28度。一方、富士山頂上方向から火口底へ向かう急斜面は上部を除いて、約33度の斜度で直線的になっている。これは安息角という、崩落物が積もってできた斜面の角度である。
実際の火口底を覆っているのはほとんどが斜面と同じく、細かい砂礫と1~2mの岩で、中間サイズが少ない。これは細かいものが噴火で噴き出したもの、大きいものは以前から地中にあって上部から転がってきたものと、出自が2系統だからだろう。
画像にはないが火山弾など空中で溶岩の固まった岩も分布するというのは、噴火の最後に赤熱したものが飛んでいたという目撃情報と一致する。

◇小石の色と「赤富士」


宝永山火口底 第一火口の中心部

この写真で地面を覆っている小石は赤く、大きな岩は灰色をしている。

これら指先程度の小石をスコリアと呼び、富士山では細かい火山灰や溶岩とも重なり合って山全体に層を成している。
宝永噴火のように斜面がえぐれると層構造が露出し、断面から色々なタイプの石や岩が崩れ落ちてくる。
灰色の岩は噴火前から固まっていた溶岩である。空中に舞い上がることのなかった大きな岩があとになって順次砕けつつ落下してきたものであろう。その供給源は上部に見えている岩脈と思われる(後述)。

宝永火口の岩と人

さて、細かいスコリアが赤いのは熱いうちに鉄分が酸化したからで、大きな岩が赤くないのはひとつには酸素の届かない地中で冷え固まったからである。もうひとつの理由はこの岩に鉄分が少ないためと推測する。
同じ火山でも赤いスコリアと黒いスコリアが両方見られることは普通であり、よく酸化したものは赤く、不充分なものは黒くなる。この分かれる要因は幾つもあり、温度、鉄の含有率、降り積もる早さによって左右されると思われる。富士山のスコリアすべてが赤いわけではない。

宝永山スコリア丘 第一火口の凹地

この写真で中央に盛り上がっているのは、「スコリア丘」と呼ばれる地形で、このすぐ脇でスコリアを噴き上げる噴火があったことを示す。形が整っていないのは、そのあとの爆発で壊されたからと考えられ、これが宝永噴火の一番最後の噴火だったと思われる。すぐ右で平坦に見えている部分は最後に残った窪地がしばらくの間池になり、細かい砂礫に埋められたものだろう。

下の写真のように火口壁の地層断面では赤い部分と黒や灰色の部分とが層になっている。
宝永噴火のように数日間にまとまった噴出物があった場合は次々と積もっていくので、空気に触れている時間が短く、酸化はあまり進まない。
赤い地層はもう少し時間をかけながら積もっていったものと考えられる。同種のスコリアを吹き上げながらも数週間や数ヶ月をかけて噴火していれば、表面から赤く酸化し、その上へまた降り積もって赤くなることを繰り返し、赤い層が厚みを増すことになる。
しかし全国の火山でもそのような赤く分厚いスコリア層は少なく、そのタイプの噴火は余りないようである。十分に高熱であっても酸化は進むが、その場合は互いにくっついてしまう(溶結)ので、細かいスコリアはあまり生成されない。

スコリア丘の写真でも黒っぽい線のように見える丘の断面は赤くない。このスコリア丘の表層だけが特に赤くなっているようである。

もう一点、赤いのが鉄分の酸化であるからには、マグマに鉄の豊富な火山は、赤くなりやすいはずである。
現在の日本列島では富士山と伊豆諸島だけが玄武岩マグマで活動していて、これはもともとマグネシウムの多いマグマである。一方大部分の火山では安山岩マグマという、鉄やマグネシウムを喪失した灰色の岩が支配的となっている。

浮世絵に描かれた「赤富士」は朝日に染まった様子と言われるが、朝夕でなくても、富士山は国内で特異的に赤いのである。

◇崩壊の壁面


火口壁の上部では山体崩壊した様が明瞭である。上部の急斜面には崩れかけた噴出物地層の断面と、屏風のように立ったギザギザしたものが見られ、これが岩脈である。高い場所で5mはありそうな脈が多数走っている。方向は写真の手前から奧に向かい、斜面の最大傾斜線に沿い、つまり側火山の配列する方向に延びている。
火口底に転がっている2mを越すような岩はここから崩れてきたものであろう。

宝永火口の岩脈

岩脈とは地中で通り道を充填したマグマがそのまま固まったもので、軟らかい回りが崩れ落ちたことで浮き彫りのように姿を現した。
活動中の火山でマグマがどこを通っているのか、通常はほとんど分からない。ここではその通路をマグマ自体が化石として残してくれたのである。岩脈自体は国内でさほど珍しいものではないが、これだけ多数が露出しているのは滅多になく、注目されても良いはずなのに何故か一般に紹介されることがない。

そのマグマはもう少し勢いがあれば地表に噴き出し、溶岩を流したはずだった。
その噴火寸前だったのがどの時期なのかは、地層の重なった時期から推定できるはずである。岩脈は液体として流れてきたものなので、当然地層の重なりより後に上ってきている。地層を形成したのは1万年前以後の新富士火山と呼ばれる時期になるので、それより新しい。
なおかつ、宝永噴火にはすでに固まっていたことになるので、頂上からの噴火が続いていた1万年ー5000年前ころの可能性が高く、下で触れる三島溶岩流の発生源かもしれない。

これがいつ固結したのか調べれば、山頂噴火の終焉と側火山の活発化の関係を知る好材料となるだろう。

なおこの岩脈への道はなく落石の危険が高いので、接近しようと踏み込んではならない。

■宝永火口の東西で、なぜ地形が違うのか?

火口の東には斜面から突きだした宝永山があるが、新五合目に向かう西側にはそのような出っ張りがない。なぜ非対称になったのだろう?
 
(以下筆者の推定)
火山の爆発が真上でなく斜面に応じて傾くことはありそうだが、富士山のようにきれいな円錐形の山で左右に傾くことは不自然である。

ここでもし、斜面が不均質に盛り上がっていたり、へこんでいたり、大きな岩体が乗っていたら非対称な地形ができることもありそうに思える。
この宝永火口が非対称になっていることを説明する文献を筆者は発見できなかった。ヒントになりそうな材料が幾つかあっただけなので、そこから勝手に想像するしかない。

この記事の最初のほうで、ほぼ定説になっていることとして「爆発の勢いで捲れ上がった部分が火口縁を形成したもの」と書いた。この東側だけが捲れ上がった事実に鍵がありそうだ。

「捲れ上がる」のはバラバラでないひと固まりがあったということで、それが噴火の勢いで横になっていた姿勢から立ち上がった、ということだ。
そのようなまとまった固まりを作るのは、溶岩しかあり得ない。この高さで溶岩が流れたとすれば、8000年前までの山頂付近から流れた「旧期溶岩」であり、1万4000年前(1万年前とも8500年前とも)とされる有名な「三島溶岩流」が残されている。
(三島溶岩流については、本ブログ「猿橋溶岩」でも触れている)

宝永山三島溶岩流

その後の山頂からの活動は溶岩でなく軽石や火山灰を降らせる活動に変わり、溶岩流を覆い隠している。
三島溶岩流の正確な噴出位置は分かっていないが、流れた位置は判明していて、山頂付近から愛鷹山(あしたかやま)の東山麓を回って三島市街へ届き、楽寿園などにその姿を残している。
ちょど宝永山の位置を通過しているはずなのである。
その溶岩が斜面で固まり、その上を後のスコリアや火山灰が覆って隠したまま数千年が過ぎ、宝永噴火で動かされたのではなかろうか。

宝永山の頂上は、先端が急に切れ落ちている。この崖を観察すれば溶岩の固まりが見えるかもしれない。それが三島溶岩と一致すれば、この仮説は信憑性を増す。
筆者はまだここに接近したことがなく、これ以上のことは書けないのが残念である。書籍によれば専門家の間でもこの崖に「古富士火山の噴出物が露出している可能性」が言われている。
(「フィールドガイド日本の火山」1998)

◇地下にはどんな地形が隠れているのか


冒頭の代表写真を拡大して下に示した。
第三火口の右にある特徴的な地形はなぜできたのだろうか?窪んでいても誰もここが火口だとは言っていない。

3つある宝永火口のうち、最上部で大きく開いている第一火口は原型を残し理解しやすい。
注意しなければならないのは第二・第三火口で、自らの噴火が終わった後第一火口からの噴出物で分厚く覆われてしまったために、爆発時の形状が解りにくくなっている。

(以下筆者推定)
尾根の形がはっきり浮き立っている盛り上がりは、右側斜面が急角度になっていることから、スコリア層の下に固い板状の岩盤が傾いて隠れているような気がしている。宝永山から一体として続いていた岩が、第三火口の噴火で捲れ上がったのではないだろうか。そして宝永山と繋がっていた少し上の部分はそれより先に第二火口での噴火によって吹き飛ばされたのではないか。

地形観察から噴火順序が第二・第三・第一だったとされている。残された文書記録からは、どの火口からの噴火が激しかったのかは分からない。現在の地形は第一火口が非常に大きくなっているが、第二や第三も激しい爆発を起こして当初は数倍規模の窪地を作っていたという可能性は否定できない。

現在の地形は最後の第一火口から大量のスコリアや岩が降り積り、崩れ落ちてきて定まったものなので、隠された地下の様子を正しく想像することは噴火の実態を知る大事な鍵となる。
右の盛り上がりの左下で狭い谷のようになっている部分などは、地形が安定した後、水が流れて作られた谷だろう。
また地形図やGooglEearth画像からは第二火口・第三火口とも東側の半分を埋められてしまったように見えるが、はっきりとは分からない。

この複雑な地形形成をうまく説明できれば三島溶岩流説の正否もはっきりしそうだ。
今後の課題にしておきたい。
宝永山拡大写真記入付

宝永山25000地形図



◆NHK番組「富士山・絶景の秘密」での説

この番組内で、1万5000年前に活動を終えた古富士火山が宝永山付近にあったという説が紹介されていた。
従来の考え方は、古富士火山も現在の新富士火山と同じ位置に中心があり、新富士火山の噴出物がちょうどすっぽりと古富士火山を覆っているというものだった。

もしこの新説が正しければ、宝永噴火で捲れ上がったのは古富士火山表面の一部で、1万5000年以上前にその頂上火口から流していた溶岩流だということになる。
しかしこの説には幾つか疑問がある。

一番の疑問は、火山体の成長である。
宝永山と新富士火山の中心である現在の頂上火口とは、水平距離で2500m離れている。仮説に従って2500mずれた位置で新富士火山が誕生したとすれば山の中腹斜度から考えて標高1800m前後から成長を始めなければならず、現在見る山を形成するために膨大な噴出が必要とされ、活動の始まったとされる1万3000年前(この数値は早めに考えての値)以後の期間にそれが果たして可能なのか疑問である。

ここで新富士火山が成長する「期間」は、1万3000年もない。三島溶岩流は早くて1万4000年、遅く見て8500年前に流下しているから、その噴出口はそれまでに宝永山付近に残っていた古富士火山を十分に上回っていなければ古富士火山に遮られて溶岩が三島へ届かないはずである。すると「期間」はほとんどゼロか、1万3000から8500を引いた、わずか4500年間になってしまう。その時間で約2000m高くなることがあり得るのだろうか。
宝永山断面図
  もし宝永山付近に古富士火山があったと仮定すると、その後成長した新富士火山はその山体の大部分を4500年以内で作ったことになるので、現実的でないように思われる。

テレビ番組では詳しい説明がなく断定できないが、古富士火山が宝永山付近にあったとする仮説はにわかには受け容れ難い。


◆御殿場口五合目はなぜ植物が少ないのか
御殿場口登山道
御殿場口五合目の上部から山頂方向を見る。左寄りが宝永山。道のように見えているのは資材運搬用のブルドーザー道。地面に手前から奧へ筋ができているのは大雨の流水が作ったものであろう。

時間があれば御殿場口五合目にも寄ってみるとよい。
ここには広い駐車場があるのにあまり訪問者はなく、観光施設も乏しい。かつてはスキー場があって、閉鎖後もしばらくリフトの支柱が残されていた。広い斜面では雪解けによる泥流災害を起こしたことがある。

新五合目が標高2400mで森林限界なのに対して、御殿場口は標高1400mしかないのに樹木が生えず展望が開けている。これは宝永噴火で枯死したからである。300年が経過してもほとんど回復していない。

広い緩斜面を宝永噴火によるスコリアが埋めているために、頂上への登山道は「砂走り」となって、登りには苦労する。筆者はここから4回ほど登山した。
ここでは「富士登山駅伝」が毎年行われ下りを転びながら走るランナーの姿がテレビ中継されたり、また荒涼とした風景を利用してロケもよく行われる。
黒澤明の『乱』では再現した城を炎上させ、仲代達也演じる気のふれた殿様の彷徨う場面が撮影された。

◆[付録]植生観察:地を這うカラマツ
宝永山のカラマツ

新五合目と宝永火口を結ぶ登山道の途中に、高さ1m程度で横に成長しているカラマツ群が分布している。もちろん高山植物の「ハイマツ」とは違い、秋に黄色に染まったのち落葉するカラマツである。
まっすぐ上に延びるはずのカラマツが這うようになったのは冬の強風のせいである。同じようなカラマツは日本アルプスなど高い山でよく見かける。分類上は別種にならないようであるが、この株を普通の山地へ移植したら真上へ延びるようになるのか、実験してみたいものだ。


■宝永噴火とこれからの富士山噴火

最近は自然災害に関心が向いた影響で、富士山の噴火までがあれこれと取り沙汰されている。
しかし残念ながら多くのメディアに載っている記事は耳目を惹かんがためにセンセーショナルな表現に傾くばかりで、科学的視点を欠いている。
以下に、冷静に直視した事実を箇条書きにしてみる。

・富士山はまだ活動中であり、将来必ず噴火する。
・いつ噴火するのか、数年も前から予測することは現在の技術ではできない。

・現在の観測システムは万全であり、噴火の前に前兆現象を捉えられる。
・噴火の予報は早ければ数ヶ月前から、接近すれば数日前に警報を出すことができる。

・山頂から噴火する可能性は低い。宝永山のような側火山が予想される。
・宝永噴火で大地震の直後に噴火が起きたといって、次回の噴火前に地震があるとは言えない。また地震があれば噴火するとも言えない。この関係はほとんど未解明である。

・避難体制が整備されていれば、落ち着いて避難する時間は十分確保できる。
・予報が出ても半分程度は外れると考えておく。半分は当たる。外れても非難するべきではない。


宝永噴火は噴火史の中で規模の大きなものだった。これより小規模な噴火であればかなりの対処ができるだろう。
もし不幸にして宝永噴火と同規模の噴火が起きれば、大混乱は避けられない。混乱を防ぐ体制を予め用意しておくことはコスト的に困難で、被害数兆円に上ったとしても諦めたほうがよい。
人命を救うことは十分可能である。財産被害、経済被害は軽減できれば幸い、日本に住んでいる以上仕方がないと受け容れるべきである。

宝永噴火は、現在の私たちが噴火に備える非常に良い教材となっている。先人の犠牲の上に遺された教訓を十分に生かし、私たちはこの国土と付き合っていかなければならない。

■最新訪問時期
2011年9月

■参考図書:
「フィールドガイド日本の火山 関東・甲信越の火山Ⅱ」(築地書館1998年)
「新版地学教育シリーズ2 地震と火山」東海大学出版会
「富士火山1707年噴火(宝永噴火)についての最近の研究成果」宮地直道・小山真人
http://www.yies.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P339-348.pdf
など

◇本ブログ関連記事
「富士山シリーズ・猿橋溶岩」