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登山の入山料:富士山入山料は全国で必要

  ◇ ◇ ◇
以下の文章は、2013年4月3日に東京新聞首都圏版「談論誘発」に実名で寄稿したものである。
このブログ「日本に好奇心!」の性格とはいくらかずれるため後日自分のHPに掲載する構想でいたが、なかなか作業が進まず、富士山は世界遺産登録が秒読み、人に溢れるシーズンが近づいてくるという状況を考え、暫定的にここで紹介することにした。
記事が首都圏版限定で関東地方以外の人には目にできなかったため、全国の皆さんにお伝えしたいとの思いもある。
ブログ上のカテゴリーを「登山に関する一言」としたが、テーマ内容は登山という枠に留まることではない。日本の国土価値をどう考え、守っていくのか、問題意識が広く共有されることを願っている。



◎記事タイトル
■「入山料は自然保護の対価/国主導で全国実施を」

静岡県と山梨県が富士山入山料の徴収を検討し、早ければ今年夏にも試験導入されるという。これに対し一般からは概ね賛同の反応が多いとも報道されている。

同様の動きは日本アルプスを抱える長野県にもある。私はかねがね必要性を感じていたので歓迎だ。技術上の問題はICカードで可能だろう。ただし県独自でなく、国が主導して全国で実施するべきだと考えている。

なぜ入山料が必要なのだろうか。
人が入れば、どんなに注意しても自然環境には負荷がかかる。富士山五合目のように樹林帯より高い場所では生態系が脆弱(ぜいじゃく)で、一度崩壊すると元に戻らない。樹林帯以下にはある程度回復力があるが、対策がなければやはり負荷が上回る。植物が絶え土壌は流出し、地面がえぐれていく。

現状の保全活動はボランティア頼みで、補助金があってもわずかだ。国内各地の公園レンジャーからは乏しい予算への嘆きをよく耳にした。補助金はあてにできない。誰が環境保全のコストを負担するべきかを考えれば、縁のない人を含む国民全体より、誘因者であり受益者たる登山者がまず負うべきではないだろうか。

国が主導すべきなのは、全国に統一性を持たせること、保全活動に各地域が試行錯誤している現状を改め、情報交換と科学的検証により実効性を高めるためだ。生態系のコントロールは難しく、不十分な知見で取り組んでも実は上がらない。国が基本的な指針を示した上で、各現場に合った実行方法を決めるのが有効だろう。

注意するべきは、安全対策に深入りしないことだ。登山道を誰が作ってもその安全確保の責任を負わすべきでなく、登山者は自己責任の原則を忘れてはならない。遭難が起きた場合、救助費用を入山料収入で賄うことには反対だ。現在実質無料になっている公共ヘリを有料化し、民間保険への加入を奨励すればよい。ヘリは救急車とは違う。登山はレジャーであり、少額でも有料化して補助は最小限に抑えるべきだ。

入山料は、富士山五合目や長野県・上高地など環境負荷の高い場所では、観光客からも徴収するべきだろう。全国の国立・国定公園も、将来は徴収を視野に入れてほしい。
徴収への抵抗感は最初だけで、心配されるほど登山客の減少は起きないと思う。逆に、自然環境が改善されれば、山の魅力も高まるだろう。

徴収で環境保全が進むことはもちろん、私は登山者や観光客の意識向上にこそ実は期待を抱いている。山に登ることで得られる癒やしや壮快感は、人為に乱されていない自然だからこそだ。それを感じている自分(登山者)が今、自然を乱している。皆がその事実に気付いてもらいたい。そして、本来の姿に戻す費用をためらいなく出せるようになれば、次の世代に美しい日本を伝えていく展望も開けていくのではないだろうか。




◆補足

「談論誘発」は最初に一人が提起した問題に対して、別の1~2人が意見を述べる形式のコーナーである。
この時は筆者がまず4月3日に提起し、続いて雲取山荘経営者の新井氏(4月6日)、群馬県片品村村長・千明(ちぎら)氏が意見を述べ(4月7日)、さらに約3週間後、新聞読者から寄せられた意見をまとめた「反響編」(5月1日)が掲載された。
予想通り山荘経営者、村長ともに富士山以外での徴収には反対という立場だった。一方読者の登山愛好者や登山ガイドからはほぼ賛成の声が寄せられた。

以下では1200字の字数制限のため紙面に書き切れなかったことを補足したい。


一般登山者は気付かなかったはずだが、10年くらい前に山小屋へ用紙を配り、環境省がアンケートを取ったことがあった。
「もし入山料が制度化されたら、あなたは幾らなら払いますか?」
ちょうど滞在していた山小屋にも5枚くらい用紙が回ってきて、本当は登山者向けだったのに私やスタッフが記入して提出した。私は3000円とし、100円と書いた人もいた。集計結果は公表されていない。
環境省ではこのように登山者から何らかの料金を徴収する必要性を以前から認識しているのである。一向に具体化されない事情は解らない。

アメリカでは日本風の登山という文化はないが、国立公園に入るのに5ドルから15ドル程度の料金を払い、数多くのレンジャーたちが保全・監視・情報発信の活動をしている。それを経験した身には、日本で払わないのはなぜだろうと考えてしまったものだ。

私たちが登山するとき、交通費を別にすれば財布を出すのは食事・飲み物・お土産くらいで、節約を心掛ければ日帰りで歩き終わるまで出費ゼロにできる。最近増えてきたチップ制トイレでコインを払う程度である。
宿泊しなければ実質的に登山はタダなのだ。

では登山を可能たらしめる登山道設備や標識は誰が作ったのだろう?その労働は無料奉仕だったのだろうか?また痛んだ登山道の補修、踏みつけで死んでしまった高山植物を復元させる費用はどうなのか。植物は放っておけばまた生えるから費用は要らないと思ってはいけない。人が適切な処置をしない限り、放置するだけでは30年経っても元に戻らない。

反対論には徴収方法の問題を持ち出す人がいる。その点は鉄道改札で普及したICカードを応用すればよい。そういう新しい技術を知っていれば徴収困難というのは理由にのぼらない。
100%徴収しようとするとコストが飛躍的に増大するので、ルールとして払うことに決めて主要登山口や山小屋でカードをチェックするのに留め、漏れないように厳しくする必要はない。ポストへの入金より、登山中ずっと身に付けているカード方式のほうが心理的に有効である。支払うのがルールであると皆が解っている状況で、カードを持っていない者は後ろめたさを感じやすいはずである。
もともと登山者は一般平均よりモラルが高いので9割はルールを守ると想像している。

想定される金額は500円や1000円だろう。これで登山を中止する人はごく少数と思う。また一般へのアンケートでは60%が徴収に賛成と答えたという。
集まったお金をどう使ったのかは透明にしなければならない。復元が目に見えていけば、自分の負担がこうして山を生き返らせているという喜びになるものだ。

国主導を求める理由で新聞に書き切れなかったことに、地方行政の限界という点がある。県単位では反対意見に負けてしまうことが往々にしてある。事実、寄稿文でも触れているように長野県でも検討はしているが、報道を聞く範囲では実施の見込みは薄い。山小屋組合は特に反対している。
北アルプスの山小屋は10年以上前に地元新聞社の特集でし尿処理問題を指摘されて以来、バイオトイレを充実させてきた。コスト回収がおぼつかないチップ制トイレを作るほど環境保全に努力しているのだから、客が減るようなことはしてほしくないというのが本音だろう。入山料が導入されれば山小屋が負担することなくトイレも登山道も整備できるのだということまで、想像してほしいものだ。

そして登山領域だけでなく、マイカーで入れるような観光地でも保全の必要な場所では「入場料」として徴収するべきだろう。
富士山の五合目へやって来る人数は全体で年間約300万人(今夏からは大幅増加だろう)。一人1000円とすれば30億円、500円でも15億円が入り、かなりの保全活動ができる。
半年間しかオープンしない長野県上高地でも130万人が訪れている。
各地方の人気名山でも年間10万人くらいは登山するので、500円ずつとして5000万円になり、毎年の保全活動には十分である。

地道な啓発活動も必要かもしれない。登山を始めた初期のうちに基礎知識として環境保全の大切さや、登山者が入り込むことによって自然がどのように負担を受けているのかを理解したほうがよい。
筆者もそのような内容を発信していきたいと念じつつ時間を無為に過ごし、今年に入って静岡県知事が発表した入山料構想のニュースに刺激されて筆を執ったのであった。

富士山入山料について、残念ながら現実的には5月24日の報道によるとどうやら静岡・山梨の連繋が怪しい雲行きで、山梨県は今年の実施が難しくなり、静岡県が単独、それも寄付金形式になりそうだという。大幅後退と言えよう。
富士山の山梨側は静岡側よりも観光業の規模が数倍大きい。その勢力がやはり反対したのだろうか。世界遺産登録はもう確実となったので環境保全への熱意が冷めたのだろうか。国主導でやるべきだと主張したのはまさにこういう事態を心配したからだったのだが、杞憂が早くも現実となった。

子孫に伝える価値のある美しい国土は、努力しなければ守れない。一切人が触らない原始の状態ならともかく、大勢が出入りする以上は自然美を愛でるのと同じくらい積極的な保護活動も必要になる。

寄稿文末尾の繰り返しになるが、自然を乱しているのは自分であることに気付き、回復させるための費用を抵抗なく差し出せるように私たちの意識が高まっていくことを念じて止まない。 続きを読む
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テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術

天橋立(京都):天下の名勝はなぜ変わったのか

カテゴリー見出地形地質

天橋立代表
文殊側・天橋立ビューランドから

ーもくじー
・基本情報(表)
・天橋立の概要
・難読地名など
・見学詳細
・地形地質の概要
・天橋立の詳しい現況
・一般的に砂嘴の形成される仕組み
・各地の砂州
・天橋立付近の長期にわたる海岸の変遷
・天橋立はどのように形成されたか
・砂州の縮小問題
・磯清水の不思議
・クロマツの分布
・古代史舞台としての宮津
・現在と将来の天橋立


名称天橋立:あまのはしだて
国指定特別名勝 丹後天橋立大江山国定公園(2007年に若狭湾国定公園から独立) 地質百選 白砂青松百選 日本の道百選
「磯清水」は名水百選
所在地京都府宮津市文珠/江尻
交通機関      [文殊]
北近畿タンゴ鉄道宮津線・天橋立駅下車、天橋立へ渡る小天橋まで300m
[江尻]
バス停「神社前」または「江尻」から天橋立入口まで約500m
マイカー(文殊側、江尻側共通)
有料駐車場多数あり500-1000円、400台収容の智恩寺駐車場は600円
・無料駐車場なし
問合わせ[天橋立観光協会]
0772-22-8030
http://www.amanohashidate.jp/
[天橋立ビューランド]
0772-22-5304
http://www.viewland.jp/


天橋立代表地形図連結

■天橋立の概要

天橋立は海流によって運ばれた砂が厚く堆積し細長く延びた半島を形成した地形で、砂嘴と呼ばれる。
5000本とも8000本ともいう松林と砂浜による白砂青松の景観が松島、宮島と並ぶ日本三景のひとつに数えられ、古くから和歌や絵画の題材にされてきた。
結ばれた土地を指すとき、南側を文殊、北側は江尻、あるいは府中と呼ぶ。
晩年の雪舟の筆になる「天橋立図」は宮津湾を挟んだ東側から眺めた図で、永く籠神社が伝え、のち京都国立博物館が所蔵している。

■難読地名など
宮津:みやづ 与謝野町:よさのちょう 江尻:えじり 文殊:もんじゅ 阿蘇海:あそかい
世屋川:せやがわ 畑川:はたけかわ
智恩寺:ちおんじ 成相寺:なりあいじ 籠神社:このじんじゃ 
蛭子山:えびすやま 久美浜:くみはま 三方湖:みかたこ 気山川:きやまがわ
◇用語
砂嘴:さし 砂州:さす 釈日本紀:しゃくにほんぎ 堆砂堤:たいさてい
柳ヶ瀬断層:やながせだんそう 甲楽城断層:かぶらぎだんそう 三方断層:みかただんそう 


■見学詳細


・天橋立は入場自由、125cc以下の2輪を除く車両通行止、遊歩道あり
天橋立江尻側入口 江尻側の入口

・全長3.6km、休憩所・トイレあり
・横断距離は2.5km
・文殊側に2本の橋があり、回旋橋の「小天橋」は船舶通行時に待たされる。
天橋立廻船橋
「小天橋」:橋が90度回転して船を通し歩行者は待つことになる。観光用に演出効果を意図しているという

・観光客は文殊側に多く、江尻側では籠神社参拝客が多い。
→距離があるため全体を歩く観光客は少ない。文殊側から天橋立公園付近(約700m)まで往復する人が多い。

・もっとも一般的な見学方法は文殊側(南)でモノレールまたはリフトを利用して「天橋立ビューランド」に上がり、股覗き展望台から眺めること。
→天橋立駅から徒歩300m、モノレールとリフトは並んで運行し同料金。基本850円、HPに割引クーポンあり。観光案内所に割引券あり。
・ビューランドは営業時間のみ入場可能(そのため早朝・夜間の写真撮影などは不可)
天橋立股のぞき ビューランドの股のぞき

・江尻側では天橋立ケーブルカーまたはリフトで笠松公園から眺められる。
・両側を結ぶ観光船の運航あり。


■地形地質の概要

天橋立は若狭湾の西部、宮津湾に北から南へ発達した砂嘴と呼ばれる地形。
地形用語の「砂州」とも呼べる。砂州は砂嘴のうち、よく発達して内湾を形成しているものを指し、天橋立は該当する。
従来から言われている成因は、花崗岩の石英粒子を運んできた野田川からの流れが湾の中で反対から流れてくる沿岸流にぶつかり両者の砂が海底に堆積し、海面の低下したことで陸地となったとする。これに疑問が出されている(後述)。
天橋立地形図海流 天橋立へ向かう海流と、砂を供給する主要河川

■天橋立の詳しい現況

・北砂州と南砂州を合わせて天橋立と称する。
・阿蘇海は汽水。
・南砂州は江戸時代後期に出現し、明治にかけて発達した。新田開発で野田川からの土砂が増加した影響と言われている(異論もあり)。
・クロマツの枯れ死が増えている。マツクイムシの被害が拡大していることが主因と疑われ、処置の結果小康状態にあるという。

・内湾側の阿蘇海は水深が12m、外湾の宮津湾は20mある。天橋立は海抜1mで、海底からは約20mの盛り上がりである。

・北砂州は長さ2500m、幅は平均60m。高さ1.4m。10cmから30cm大の礫。、
・北砂州の南寄りでは徐々に幅が広がり、150m。礫も細かくなり、高さは0.5mまで下がる。
・南砂州は長さ900m、高さ0.4mほど。陸地とは30mの人口水路で隔てられている。
 天橋立南部拡大
天橋立の文殊側(南)拡大図。二つの橋が架かっている個所で、阿蘇海と宮津湾の水が出入りしている。南砂州の西側は人口の水路



◆一般的に砂嘴の形成される仕組み


水に巻き上げられ運ばれてきた砂は、流れが遅くなるにつれて重い粒から底へ沈殿していく。
天橋立では西南方向から野田川が陸地の砂を運び込み、また北方向から丹後半島を回り込んだ沿岸流が世屋川畑川のもたらした砂を運ぶ。この両者は正面からぶつかり、流れが減速するために砂が水底に沈殿し堆積していく。砂嘴が形成され始めると流れはそこで常に減速するようになり、さらに成長していく。

(砂は水が上下方向に渦の動きを続けている時に運ばれる。渦の上下動は、流れが表面付近では速く、水底付近では摩擦によって遅いために起きる。渦の上下動は幾層にもなり、水深が浅く流速が速いほど激しくなる)

そうした沈殿物が陸地になるためには、更に条件が要る。
海水の動きは表面に近いほど速いため、軟らかい堆積がゆっくり上昇してくれば海面近くになって削られる。弱い堆積層が続く限りいつまでも陸地にならず、遠浅の海ができる。砂嘴として成長するためには、堆積層が表層流の侵食作用に優越する必要がある。

天橋立の場合、ひとつには海面下に堆積の盛り上がりがあったところに海面の急速な低下が進んだため、侵食されるより早く波の届かない陸地になったと考えられる。それ以上の要因として注目されているのは、侵食されるはずの時期に、堆積の急激な進行があったらしいことが分かってきた(後述)。

◆各地の砂州

◇鳥取県弓ヶ浜
天橋立弓ヶ浜
弓ヶ浜は全長17kmになる大規模な砂嘴で、海抜は4mに過ぎないが堆積している土砂の量はかなり多い。その供給源は標高1700mの大山であり、数万年にわたって大山火山の崩壊した土砂が弓ヶ浜に打ち寄せられてきた。最近300年ではこれに砂鉄採取のため人為的に山を崩す「鉄穴(かんな)流し」が拍車を掛け、また大正以降は逆に浜が痩せてきている。

◇北海道野付半島 (砂嘴であり、砂州とは呼べない)
天橋立野付半島
砂嘴の長さは26km、根室海峡を北東から流れてくる海流によって運ばれた砂が堆積し、いったん海に向かって成長したものが内湾側へ大きく曲がる「鈎状砂嘴」となり、それが何段階にも連続した「複合鈎状砂嘴」になっている。野付湾内で枝のように派生している部分はかつての最先端で、それを残して新たに東へ成長を繰り返している。


■天橋立付近の長期にわたる海岸の変遷

◇地殻変動


・若狭湾周辺では地殻変動による長期的な陸地の上下動と、気候変動による短期的な海面変動が重なって起きている。
・若狭湾の東は柳ヶ瀬断層と甲楽城断層、西は山田断層があって、若狭湾の沈降地帯を囲っている。
・若狭湾全体では長期的に沈降し、リアス式海岸となっている。美浜や小浜では逆に隆起による海成段丘が分布している。
・これらの長期的地殻変動は数十万年単位の動きであり、1万年以内の天橋立形成に直接関係しない。

◇1万年以内の変遷

・1万8000年前をピークとする寒冷期には海面が100m以上下がり、若狭湾全体が陸地だった。
天橋立水深100m線 現在の水深100m線。縄文時代より前、少なくともこの位置までは陸地だった。水深140mとする考え方もある。

・その後6000年前をピークとする縄文海進までに海面は急速に上昇し現在より4mほど高くなり、海岸沿いの平地を水没させた。若狭湾に注ぐ川は多くが内陸に向かって深い入り江となった。
・天橋立はこの時期水没していた計算になり、水面下で堆積が進行しつつあったと考えられる。

・入り江は山から運ばれた土砂によって徐々に埋められていき、河口では干潟を形成した。
・河口に向かって進行する土砂堆積はダム建設の始まる近代まで続いていた。(野田川河口から8kmの蛭子山古墳の存在は、5世紀に阿蘇海からの入り江があって船が乗り付けていたことを想像させる)
・2000年前ころ、成長した天橋立が宮津湾と阿蘇海を隔ててからは、阿蘇海に注ぎ込んだ野田川が急速に流れを弱めるようになり、河口で三角州の成長が続いた。運搬されてきた土砂は三角州を広げることに使われ、阿蘇海の先にある天橋立まで土砂は届かなくなったと思われる。
(与謝野町役場付近などはこのころに陸地となった)

・雪舟が「天橋立図」を描いた16世紀初頭には、現在より短かった。
天橋立雪舟画


■天橋立はどのように形成されたか

◇従来の説明
・縄文海進のまだ始まらない約8000年前までは阿蘇海と宮津湾・栗田湾など、現在リアス海岸になっている若狭湾の大部分は陸地だった(上図)。
・その後縄文海進による急速な海面上昇で宮津湾と阿蘇海はひとつの湾を形成した。この時、海底に水中砂州が形成された。
・3000年前の寒冷期に海が後退したことで、海底にあった砂州が江尻から陸化した。
・有史以後、砂州はゆっくりと南へ延びていった。
・江戸時代から明治以後に南砂州が形成された。これは土地開発の増加で河川への土砂流れ込みが増加したことによる。

◇上の一般的説明への疑問
・武田一郎(2007):砂州は陸化した砂嘴が延びてできるものなので、水中にあったものが海面低下で出現するのは不自然。
・植村善博(2010):海面低下した3000年前からの寒冷期に砂礫供給が増加したはずである。近世後期の新田開発によっても砂礫供給は増加し、南砂州を形成したと思われる。


■有井広幸氏の説
◇要旨
・2200年前に発生した地震によって、世屋川中流域松尾付近に地滑りが発生し、その土砂が宮津湾へ流入して海底に溜まった。これがその後沿岸流によってゆっくりと供給され、砂州が成長するもととなった。
阿蘇海の汽水化は2200年前に急速に進んでいる。これが傍証と言える。

・天橋立を構成している砂は阿蘇海へ注ぐ河川でなく、宮津湾へ注いでいる河川からのものである(河口の堆積地形から)。
・江戸時代後半からの新田開発は表土を流出させるものではなかった。


有井氏の考え方は世屋川の地形にも整合し、かなり当を得ているように感じる。
通常地形形成を語ろうとすると日々進行する恒常的な作用に原因を求めがちであるが、一回の地震という突発的な事件に着目したのは慧眼と呼ぶべきだろう。
ただし不充分な点も残っている。


■砂州の縮小問題


天橋立では砂州が痩せていく現象が昭和初期から問題となり、昭和26年に堆砂堤(突堤)が設置された。これが遠くから眺めた様子から「天の串刺し」と揶揄されるように、景観を台無しにしている。
昭和61年からは砂を補うために「サンドバイパス」という砂を海流に乗せる手法も行われている。
縮小する原因は形成された原因と逆になるはずである。形成事情がいまだ判明していないままでは、試行錯誤している段階である。
対策が効果を上げているかどうかは、掲載した写真の通りである。

上に紹介した有井氏の論文でも、やせ細りの原因をはっきり指摘していない。
文意からは溜まっていた海底の土砂が2000年で少なくなったからとも類推できそうだが、明確に述べていない。Wikipediaなどではこの論文から「海流の変化」が原因と解釈しているが、具体的にどう海流が変化したのかには触れていないし、地形図を眺めても、大正・昭和に入ってから海流を変化させる原因として何が起きたのか見当がつかない。

痩せていくのは天橋立の宮津湾側
である。そこへ砂を運搬してきたのは丹後半島に沿って流れる沿岸流で、砂の主な供給元は有井氏論文にあるように世屋川・畑川だろう。
その川の上流に大型ダムはないが砂防堰堤が設置されているので、従来はこれが河川の土砂運搬量を減少させ、砂浜を細らせている原因であると、全国共通の問題にされてきた。
この堰堤の影響は小さいのだろうか。調べていないが堰堤建設時期は、砂州の退行が始まった大正から昭和初期に合致するのではなかろうか。

ポイントを整理しておく
・砂州の成長は2200年前の地震による砂の供給によるので、この供給が減ったことが関係しているかもしれない。
・「海流が変化した」という主張は具体的なイメージが不明なので、判断できない。
・川の上流に砂防堰堤が建設されたことも、やはり関係しているのではないか。


要するに砂州が縮小する原因は不明である。
現在採られている対策の有効性も怪しい。


■磯清水の不思議

天橋立磯清水
 井戸として使われてきた磯清水。今はポンプで水を汲み上げ、賞味できるようになっている。

「磯清水」は地下60cmから120cmの地下水で、砂州全般にわたって存在しクロマツを育てているとされる。海に囲まれているのに淡水で飲むこともできる。環境省認定名水百選。
もともと湧出していたのではなく井戸で汲み上げていた。現在はポンプを設置して、細い水を出している。渇水期で量は減っても涸れることはないという。

なぜ淡水があるのか、これまで十分な説明はなされていない。以下に勝手な推論を書いてみる。

・地表の砂層の下には、水を通しにくい粘土層があるものと推定できる。その上に水が滞留しているのであろう。
・陸地になる前は、宮津湾側と阿蘇海側からの両方の砂が混合して堆積していた。
・3000年ほど前、最初に半島状の陸地となった部分から、宮津湾側と阿蘇海側とでは別個に堆積するようになった。内湾である阿蘇海の側は水流が弱くなって粒子のごく細かい泥が堆積するようになり、粘土として不透水層となった。
・粘土層ができたあとで海面の上昇によって透水性の砂の層が表面を覆った。
・再び海面が下降し、砂層が陸地となり粘土層は表面から見えなくなった。

天橋立磯清水図解 天橋立の想像断面図。
阿蘇海側と宮津湾側では異なる堆積層になっているはずである。水を蓄えるためには粘土層が必ず存在する


帯水層ができるためにはこの図のように粘土層が凹地になっている必要がある。何度か海面が上昇下降する間に粘土層の一部が浸食される、あるいは陸化した時に水が流れて表面を浸食する、その後宮津湾側で砂層が新たに形成されるなど、複雑な経緯をたどっているように思われる。
正確な構造は数ヶ所でボーリング調査を行わないと判明しないだろう。

磯清水位置図 磯清水の位置 砂州の阿蘇海寄りにある


■クロマツの分布

◇不可解な報道

2013年4月、京都府立大学高原教授が土壌堆積物に含まれる花粉の分析からクロマツは3000年前から継続して存在しているという調査結果を発表した。
実は2月に同じ高原教授がほぼ同じ調査を行い、同じような報道がなされていた。
京都新聞サイトを見る限り、「続報」という形を採っていない上に、ふたつの報道で高原教授の述べたとされる説が矛盾していて、混乱させられた。

どちらもボーリング調査に基づき、クロマツが3000年前から途絶えることなく生育していることが解ったとしているのだが、人との関わりの部分が違う。

2月には白砂青松の景観が人の下草刈りによって縄文時代から維持されてきたと、高原教授が推論していように書かれていた。
4月には江尻地区(天橋立の付け根)でのボーリング調査の結果として、教授は「もし3000年前に天橋立があったなら、クロマツが分布していたと考えられる」というものだ。こちらでは人の関わりを考慮していない。
いったいこの報道はどうなっているのか。

一般にクロマツは直射光を必要とする陽樹のため、いずれ陰樹というタイプの樹木に置き換わるのが普通であり、植生遷移と言う。しかし人が下草を刈ったり枯葉の除去などをすれば陰樹に必要な土壌が形成されず遷移は進まなくなる。
4月にボーリング調査した江尻において、3000年間遷移が進まなかったというのが、4月の高原教授が出した調査結果だろう。こうも述べている「大波で枯葉などが取り除かれた可能性がある」

2月には遷移が進行しない理由を高原教授は人の関与だと、報道では伝えている。これを撤回したのだろうか?それともマスコミが誘導して言わせたのだろうか?

冷静に読めば、2月でも4月の調査でも判明したのはクロマツの継続的存在であって、人の関与を示す証拠は得られていないことが分かる。2月にどこをボーリング調査したのか不明だが、4月は天橋立でなく江尻でのボーリングであるから、教授のコメントのようにその時期に天橋立が存在したのかどうかも判断できないはずである。
「大波で~」のコメントは、自然現象で遷移が進まない可能性を示していて、科学的に至極普通の推論である。
とすると2月報道でなされた3000年前から人が関わってきたという主張は、白紙に戻されたとも読めてしまうのだ。

人が関与したという拡大解釈が報道されたのは、天橋立は3000年継続している文化的景観であるとして世界遺産登録を後押ししたい地元の意向に迎合したのではなかろうか。

◇天橋立における植生遷移

報道姿勢の問題は脇へ置き、植生遷移の点は自然観察の教材になりそうなので、少し触れておきたい。

森は数百年以上放置しておけばやがてブナやシイなどの陰樹が支配的になるのが普通である。その植生遷移が順調に進まず永くマツやクリなどの陽樹が継続しているのは、人の関与か、何らかの自然条件に原因がある。

天橋立は天然に任せておけば遷移が順調に進むはずの場所なのだろうか。
答えは明らかにノーだ。海抜1mしかなく、海水と汽水に囲まれた細長い土地で、海が荒れれば海水をかぶる。クロマツは痩せた土地に強く、少々海水を浴びても枯れないが、高原教授の言うように大波が一年に一日でも押し寄せれば枯葉は持ち去られ、陰樹が育つ肥沃な土壌は形成されない

上に書いた磯清水の元になっている帯水層がなければクロマツも生えないかもしれないくらい、天橋立は樹木の生育に厳しい土地だろう。
そのような特殊な条件が、陰樹への遷移を妨げ陽樹が継続している原因ではなかろうか。

むしろ人の関与としては伐採しなかったことが第一と言える。その理由は籠神社(このじんじゃ)などの神域として大切にされてきたことだろう。防風林や枯葉の燃料供給地としての意味はほとんどなかったと推測される。この場所は丹後半島の陰で季節風が弱く、燃料には針葉樹のマツよりも周辺に豊富なコナラなど広葉樹が使いやすいからである。
天橋立クロマツと遊歩道クロマツに囲まれる遊歩道。中間付近の様子


◆古代史舞台としての宮津

◇天橋立伝説
・鎌倉時代に編纂された『釈日本紀』には「丹後国風土記逸文」として天橋立の神話的な伝承が記され、それによればイザナギノミコトが天に通うため立てた梯子が、眠っている間に倒れてしまったものという。
この「倒れた」という表現を有井氏は大地震を示唆しているとする。地震の発生が2200年前というのが正しければ、震災を口承によって数百年の間伝えていったことも十分あり得ることだ。しかも地震の後で急速に成長したとすれば、それを天橋立が「出現した」と伝承しただろうとも氏は解釈している。信憑性が感じられる話だ。

紹介文によってはイザナギが天から地上へ通ったと、逆向きにも書かれている。或いは籠神社の伝承ではイザナギは天にあって地上の真名井神社に居る女神に会うために通っていたとも言う。真名井神社とは籠神社の500m奧にある神社である。

◇籠神社と伊勢神宮との関係
丹後の国一宮・籠神社は、「元伊勢」を名乗り、伊勢神宮が元々鎮座していた場所であるとしている。古代の丹後地方についてはまだまだ解らないことが多いが、弥生遺跡や大型古墳を見れば、倭国での重要な地位をしめた地域だったことはよく分かる。

国造りの神であるイザナギの伝説が天橋立に仮託されているのも籠神社の存在あってこそだろう。神社には神話時代の人物に始まる海部氏系図や前漢・後漢の青銅鏡が伝世され、これらは国宝に指定されている。
ちなみに宮津の「宮」とは籠神社を指しているという。
天橋立籠神社 丹後国一宮籠神社


■現在と将来の天橋立


現在の天橋立は、冒頭の紹介写真を見れば誰しも感じるように、もはや雪舟が描いたような景勝地ではない。石を並べた多数の堆砂堤はいかにも傷の縫い口にしか見えない。当地では世界遺産登録を目指しているが、賛同できない。
成因が上記のように地震という偶然の現象に因っているならば、将来やせ細って消滅するとしてもそれが自然の姿としてやむを得ないと考える。
しかし救いはある。

紹介した最近の研究によって、天橋立を形成した砂は長期間安定的に供給されたものでなく、大地震という突発事態でもたらされたものと判明しつつある。
一時的に誕生した姿を節理に反してでも保つとして、堆砂堤以外の優しい人工的手段を使って美観を維持することは可能なはずだ。

それは述べたように「サンドバイパス工法」と呼ばれて昭和60年代から実行されている。
この工法を採用することになったのも、堆砂堤という方法は効果がなく失敗だったと認めたのだろう。
(参考 http://www.pref.kyoto.jp/kowanji/documents/1204270523924.pdf)

沿岸流の通り道に砂を置いて、流れに運んでもらうのである。筆者は天橋立のやせ細りを最初に聞いたとき、単純に砂を海流の上流地点に置いていけば回復するだろうと想像した。その通りの方法がすでに採られていた。

これによって、京都府では「徐々に砂浜が回復している」としている。
しかしこれだけでは楽観できない。30年近く経過して「徐々に回復」とは遅すぎないか?それにご覧のように現状は、堤の前後の浜が海に突き出しているに過ぎない。
また逆に堆砂堤が直角に突きだしているために、浜に沿った海流が接近を阻まれ、堤のすぐ脇を除いて砂を陸地まで届かせられなくなっているようにも思える。
 天橋立堆砂堤

サンドバイパス工法を実施する前から堆砂堤は設置したままである。これで有効性を正しく判定できるのだろうかとの疑問も残る。

サンドバイパス工法の考え方には賛成できる。しかしさらなる研究や方法の工夫が必要なのではなかろうか。

筆者の感性では、自然の摂理で消滅していくものはそのまま消えても構わない。しかし多数派が人工的でも保存を望むのならば敢えて反対はしない。
ただし摂理に反する改変は容易に成功しないことをよく考えておくべきだ。自然はまだまだ人知の及ばない面が多いことを謙虚に弁えたうえで、さらなる調査研究によって科学的視点を深め、腰を据えて取り組んでいかなければならないだろう。


■最新訪問時期 2013年3月
■参考図書など
『日本の地形2北海道』『日本の地形6近畿・中国・四国』東大出版会
有井広幸「天橋立の形成過程について」京都府埋蔵文化財論集 
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/36arii.pdf
など



伊吹山(滋賀/岐阜):歴史を見つめてきた名峰

カテゴリー見出山岳
実際の踏破調査によるルートガイド地図、記入付き展望写真を使用しての登山ガイド、および山の歴史から文化・民俗・地質地形・自然観察・入浴情報まで含んだ伊吹山の総合紹介記事です

伊吹山代表

ー目次ー

【1】伊吹山の概要
1-1 あらまし
1-2 地名等読み方
【2】登山情報
2-1 登山道全般の概要と積雪
[広域アプローチ図]
2-2 上野口登山道
[登山道詳細図]
2-3 上野口登山道の写真
2-4 北尾根・笹又登山道
[登山道詳細図]
2-5 北尾根・笹又登山道の写真
2-6 頂上施設
2-7 頂上の写真
2-8 伊吹山ドライブウェイ
【3】伊吹山の歴史
3-1 ふたつの戦乱
3-2 修験の舞台
3-3 その他の史跡など
3-4 近代から現代
3-5 信長の薬草園説の検証
3-6 日本武尊と伊吹山
3-7 日本武尊伝承の解釈
【4】伊吹山の民俗
【5】伊吹山の地形地質
5-1 石灰岩の由来
5-2 笹又登山口のさざれ石
5-3 伊吹山の石灰岩地形
5-4 地形図から分かること
【6】伊吹山の植物・動物
【7】自然保護運動
7-1 自然保護運動の歴史
7-2 これからの伊吹山南西斜面
【8】周辺
8-1 入浴施設
8-2 資料館



 1 伊吹山の概要                   

1-1 あらまし
◇一言紹介
伊吹山は岐阜と滋賀の県境にまたがる伊吹山地の主峰。山頂は滋賀県米原市に属する。
古代から『古事記』『日本書紀』など文献に記録され、ヤマトタケルの伝説、修験道の修行場、関ヶ原の合戦など多くの歴史に彩られている。
山体の大部分は2億5000年前に赤道付近で形成されたサンゴ礁由来の石灰岩で成り立つ。
標高は1377mに過ぎないが、日本海から渡ってくる冬の季節風を受け山頂は豪雪をかぶる。石灰岩台地の透水性により樹木は育ちにくく、豊かなお花畑となる広い山地草原と特有の植生から山頂一帯が天然記念物に指定されている。

◇標高   1377.3m
◇山地名  伊吹山地

◇山名の由来
「いぶき」は「息吹き」、また「伊」は霊威のある状態を意味し、風が怖れられていたことを示す。
伊吹山と南の霊仙山とを隔てる関ヶ原は地峡になり、大陸からの季節風が集束し強風になることが古代から象徴されていたと窺える。
滋賀県では米原市伊吹に伊夫岐神社、岐阜県では垂井町伊吹に伊富岐神社があり、それぞれ伊吹山の神を祀っている。

◇別名  息吹山、伊夫岐山など多数

◇冠  琵琶湖国定公園、「伊吹山草原植物群落」として国指定天然記念物、日本百名山

◇行政区分
山頂を含む西側一帯:滋賀県米原市大久保
山頂を除く東側一帯:岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合
(旧住所:滋賀県坂田郡伊吹町、岐阜県揖斐郡春日村)

■1-2 地名等読み方
◇滋賀県
上野:うえの 春照:すいじょう 弥高:やたか 上平寺:じょうへいじ 玉倉部:たまくらべ 霊仙山:りょうぜんざん
◇岐阜県
笹又:ささまた 揖斐川:いびがわ 垂井:たるい 金生山:きんしょうざん 
◇上野口登山道
行導岩:ぎょうどういわ 平等岩:びょうどういわ
◇北尾根登山道
大禿山:おおはげやま 御座峰:ごぜみね 静馬ヶ原:しずうまがはら 鉈ヶ岩屋:なたがいわや
◇歴史用語
北国脇街道:ほっこくわきかいどう 


 2 登山情報                    

(この記事は筆者が2007年に仕事として作製した登山ガイドに大幅な追加取材を重ね、独自に編集したものを公開しています。
・特に注記のない写真画像撮影と地図への書込みは筆者によります。
・地図作製には国土地理院地形図とカシミール3Dを使用しています。
・地図上の赤実線で描かれた登山道は、実際に歩きGPS機で記録された線をなぞった正確なものです。
・コースタイムは現地で表示されている時間を基本にし、必要と感じる修正を加えています。
※地図画像はJpegファイルになっていて、印刷・登山での持参が可能です。ただしブログの制約上、画質が十分ではありません。後日開設のHPでは高解像度の画像を提供する予定です。
※地図画像をはじめ内容全般は一般登山愛好者の便宜になるようにと作製しています。旅行業関係者・職業ガイドの方など業務として使うためのダウンロードや印刷・使用は禁止です


■2-1 登山道全般の概要

広域地形図 伊吹山広域地図 (クリックで拡大)

整備された登山道は3本に分けられるが、山頂へ達するルートは上野口登山道のひとつしかない。春の連休までには雪が消え、大勢の登山者が往復で利用する。
山頂お花畑では登山者よりもドライブウェイ利用のハイカーが多い。
他の2ルートは公共交通機関がないか便数が少なく、車のアプローチが長くなる。主に5~6月の花の時期によく利用されている。山頂までは行かれないが静かに植物を観察する人向き。
いずれも整備され危険はない。また3ルートとも水場がない。北尾根と笹又登山道は携帯電話不能。
・営業小屋は山頂のみ。
・キャンプ地はない。

◇積雪
4月中旬には吹き溜まりを除いて積雪がほぼ消える。北尾根や笹又は少し遅れる。
11月に入って冬型気圧配置が強まれば山頂で降雪を見る。天候によって南斜面はすぐ融けるので上野口登山道は利用可能。しかし風は強く、雪が無くても防風防寒対策は冬山用が必要。
※伊吹山ドライブウェイは普通タイヤでの走行を前提としているので、営業期間中でも積雪があると通行止めとなる。

■2-2[上野口登山道]
上野口ルート詳細図 上野口登山道地形図(クリックで拡大) A4用紙に印刷適合

歩行距離(片道)6.2km 見通し高度差約1200m 累積高度差1390m(登り) 往復6時間(山頂散策を含まず)

上野口道全体像 上野口登山道の全体図(クリックで拡大)

頂上へつながる唯一のルート。枝分かれのない一本道で、自動車をドライブウェイに回しておくかバス便を利用する場合以外は往路を下山する。
三之宮神社を出発地とし、1合目から9合目まで表示が続き頂上が10合目になる。

登山口に「ケカチの水」という名水が湧いている。飲料水とは明記されないが汲んでいく人は多い。
1合目で樹林帯を出て4合目までスキー場跡を登り、まっすぐに伊吹山へ向かって進む。3合目は広い台地となり、壁のように山がせまる。変化に乏しい道を斜行で登るにつれて斜度が増し9合目で頂上台地へ上がる。
登山口以外に水場なし。実往復6-7時間、1合目から上は陽差しを遮る場所がなく、帽子が必要。暑い時期の登山は苦しい。道幅広く擦れ違いに困ることはなく、急傾斜の上部でも岩をよじるような箇所はほとんどない。
展望は1合目からよく開け、目指す頂上と琵琶湖から濃尾平野まで手に取るようである。

・スキー場施設だった1合目より上には5合目の簡素な売店、6合目の避難小屋があるだけで、食堂などは山頂までない。
・6合目の避難小屋は緊急時のみ利用のこと。
・トイレは三之宮神社前、1合目、3合目にきれいなものがあり、チップ制。
・休憩ベンチは3、5、8合目にある。

◇交通
・公共交通機関はJR近江長岡駅、米原駅などから湖国バス「伊吹登山口」下車
・マイカー駐車場は登山口の周辺に民営有料が数ヶ所、一日500円。観光案内所前は1000円
・3合目までの林道をタクシー利用可能。登り時間を4割ほど短縮できる
・1合目まで舗装路が通じるが一般通行禁止
・3合目まで運行していたゴンドラは2011年から運休。廃止予定
・タクシー料金は三之宮神社から3合目まで約2000円、近江長岡駅から3合目まで約3000円

<上野口(三之宮神社)から山頂往復>
[上り] 合計03:35
三之宮神社前→(00:40)1合目→(00:50)3合目→(00:35)5合目→(01:20)9合目→(00:10)頂上三角点
[下り]  合計02:30
頂上三角点→(00:10)9合目→(00:50)5合目→(00:25)3合目→(00:35)1合目→(00:30)三ノ宮神社前

■2-3 上野口登山道の写真

バス停 湖国バス「伊吹登山口」 三之宮神社すぐ前

三之宮神社
三之宮神社 左にバス停があり、登山は右へ向かう

登山口
三之宮神社のすぐ右手、画面右から登山が始まる。正面左は観光案内所。手前左に数台駐車可能、1000円。3分以内にある周辺駐車場は500円。

ケカチの泉
名水・ケカチの泉。登山入口の階段からすぐ先にあるが、気付かない人も多い。

1合目
40分で達する1合目。この上は開けたスキー場跡を登る。

5合目
5合目から頂上を見上げる。右は永く景観を害している自販機と休日営業の簡易売店。左に休憩ベンチあり。

6合目
6合目の避難小屋。緊急時利用のみ。 

行導岩
8合目の下から、行導岩(平等岩ともいう)。 円空上人など多くの修行僧がこの岩で瞑想したという。

(頂上の写真、記入付き展望写真
は「2-7 頂上の写真」にあります)

■2-4 北尾根登山道/笹又登山道


北尾根笹又ルート詳細図 北尾根/笹又登山道地形図(クリックで拡大)A4用紙に印刷適合

[北尾根登山道]
歩行距離(片道)5.8km 累積高度差1060m(往路) 往復6時間半


北尾根全体 頂上付近から見た北尾根全体 (クリックで拡大)

頂上から北へ5500m離れた国見峠から続く北尾根にあって、荒廃していたルートを大垣山岳協会が復刻させた。
何度か樹林に入るが大部分は展望の開けた気持ちのよい尾根道が続く。
ただし残念ながら伊吹山ドライブウェイに突き当たるまでしか歩くことはできず、路側帯スペースに待たせておいた車に乗るか、戻るしかない。ドライブウェイが歩行禁止のため、山頂へも駐車場までも進むことはできない。
出発地点の国見峠は標高840m、終着のドライブウェイは1120mだが、アップダウンが多く、往復での消耗度は小さくない。
終着箇所の静馬ヶ原で笹又登山道に繋がるので、笹又の登山口に車を用意してあればスタートの国見峠まで引き返さないプランも不可能ではない。
国見峠の手前で流水があるが、水は持参しておいたほうがよい。登山道に水場はない。
携帯電話は通じない。
視界不良時の現在位置把握に注意すること。

<北尾根縦走 国見峠から静馬ヶ原> 合計時間03:20
国見峠→(01:00)国見岳→(00:25)大禿山→(00:30)御座峰→(01:25)静馬ヶ原のコル

<北尾根縦走 静馬ヶ原から国見峠> 合計時間02:55
静馬ヶ原のコル→(01:20)御座峰→(00:30)大禿山→(00:30)国見岳→(35:00)国見峠

※鉈ヶ岩屋往復は00:20 

[笹又登山道]
歩行距離(片道)2.7km 見通し高度差約600m 累積高度差720m(登り) 往復3時間半

笹又を俯瞰 笹又登山道の下部を頂上付近から見下ろす (クリックで拡大)

長谷川上流の古屋バス停からさらに上部、廃村となった笹又集落にある「さざれ石公園」から、伊吹山ドライブウェイまで登るルート。最後は北尾根登山道と合流する。
より上部にも車を駐められるが、さざれ石公園に駐車することが望ましい。
北尾根登山道と同じく、頂上やドライブウェイ駐車場へは行かれない。
さざれ石公園には国歌「君が代」に歌われているさざれ石が大きな記念碑となって、中曽根康弘首相(当時)の揮毫付きで建てられている。

◇笹又登山口への路線バス

[揖斐川町コミュニティバス・春日線]
養老鉄道揖斐駅ー古屋
・平日・土日祝とも朝と午後の3便 登山には使いにくい
・バス停から登山口のさざれ石公園まで舗装路1500mの登り
時刻表
http://www1.town.ibigawa.lg.jp/cms/cmsfiles/contents/0000003/3838/H25.3.17comu.pdf

<笹又から静馬ヶ原(上り) 合計時間02:00
さざれ石公園→(00:40)駐車スペース→(01:00)支尾根のコル→(00:20)静馬ヶ原のコル(合計02:00)

<静馬ヶ原から笹又(下り)合計時間01:35
静馬ヶ原のコル→(00:20)支尾根のコル→(00:45)駐車スペース→(00:30)さざれ石公園

※静馬ヶ原のからドライブウェイ駐車帯までは50m、2分

◇笹又から北尾根縦走へ繋げて国見峠までの合計タイム  4:55
◇国見峠から北尾根縦走のち笹又下山での合計タイム  4:45



■2-5 北尾根/笹又登山道の写真

◇北尾根登山道

国見峠 国見峠の登山口 画面中央から尾根を登る。右に20台程度駐車可能な空き地、奧は伊吹山北面。

鉈ヶ岩屋分岐 国見峠にほど近い鉈ヶ岩屋への分岐点。岩屋まで下って戻りは登りになるので元気なうちに往復しておきたい。

鉈ヶ岩屋2 教如上人が数日を過ごしたという鉈ヶ岩屋

御座峰 御座峰のピーク 伊吹山側(南)から見ている。画面右にプレートあり。

静馬ヶ原 北尾根の終着で笹又登山道との合流点・静馬ヶ原を直前に見る。ドライブウェイまで50m。駐車帯があり、ここに車を置いて散策する人が多い。

◇笹又登山道
(さざれ石公園に設置されている大きな「さざれ石」画像は「5-2笹又登山道のさざれ石」にあります)

古屋バス停  終点の古屋バス停。さざれ石公園まで1500m。一日3便しかないので登山には難しい。

さざれ石公園1 さざれ石公園のすぐ先、歩道に設置された水場。

静馬ヶ原への分岐 笹又から登り切ったコルから、ドライブウェイ方向を見る。人物の立っている場所で90度右折して北尾根と合流する静馬ヶ原へ向かう。標識は設置していない。なおここでドライブウェイへ上がる意味はない。

斜面横断 北尾根と笹又登山道を接続する急斜面の横断。右奧に静馬ヶ原が見えている。4月で残雪のある時は注意。

■2-6 頂上施設

頂上部にはなだらかな台地が広がり、植物保護の柵が巡っている。
5軒の山小屋は中央付近に固まり、脇に公衆トイレ、大乗峰伊吹山寺、日本武尊石像が建つ。頂上三角点は山小屋群から東に少し離れている。

◇山小屋
頂上に営業小屋が5軒あり、売店・食堂のほか、夏期は終夜受付、仮眠宿泊ができる。通常の食事付き宿泊とは異なり食事は食堂メニュー、もちろん入浴はない。

・仮眠宿泊は2000円前後、原則予約不可、夏期以外の営業は要確認
・5軒の山小屋営業内容はそれぞれ異なるため、詳細は電話で確認のこと

雲上荘  0749-58-0257
エビスヤ 0749-58-0239
対山館  0749-58-0761
松仙館  0749-58-0153
宮崎屋  0749-58-0172
(いずれも事務所 山小屋直通電話なし)

・水場はなく、ボトル販売となる。
・山小屋休憩は有料
・公衆トイレはチップ制
・伊吹山寺はシーズン外に避難小屋として使える

◇山頂遊歩道と駐車場
遊歩道は東・中央・西の3本あり、観光客が多く散策している。東遊歩道は長く、歩く人が少ない。
※山頂→ドライブウェイ駐車場 00:10(中央遊歩道:最短距離)
※ドライブウェイ駐車場→山頂 00:20(中央遊歩道:最短距離)

※山頂遊歩道の周遊(01:30~02:30)

◇植物群落と遊歩道
山頂一帯は天然記念物に指定された植物の群落であり、遊歩道と区切るロープで保護されている。種類が350種に及ぶと言われ、8の字状に巡る遊歩道を全部歩くのは2時間ほどかかる。高山植物好きならば毎週でも散策して回りたい楽園であろう。

■2-7 頂上の写真

頂上パノラマ右 頂上からの記入付きパノラマ。南西方向(クリックで拡大)

頂上パノラマ南東方向  頂上からの記入付きパノラマ。南東方向(クリックで拡大)


伊吹山寺 大乗峰伊吹山寺 かつて石室のあった場所に建つ。シーズン外は避難小屋になる。背後は山小屋群

山小屋群 5軒が集まっている山小屋群

三角点 山小屋付近の賑わいに較べて静かな一等三角点。すぐ左に2007年まで測候所があったがきれいに撤去された。右遠方に琵琶湖が見えている。

■2-8 伊吹山ドライブウェイ

http://www.ibukiyama-driveway.jp/
山頂から北側へ10分・高度差100mを下ると広い駐車場に付属する売店・食堂施設「スカイテラス伊吹山」に行かれる。立派な展望台が新設されているが、登山者の立場からは展望が山頂と変わることはなく、バス便やタクシーを利用する場合以外に敢えて立ち寄る意味は余りない。20年ほど前までは北尾根登山道から道路を横断し、尾根上を山頂まで続く登山道があったが、完全に消滅している。

・ドライブウェイは歩行禁止
・ドライブウェイは夜間閉鎖、駐車場での夜間駐車及び車中泊は禁止


 3 伊吹山の歴史                  

(以下の史跡のほとんどは山頂から展望できる。「2-7」展望写真参照)

登山者は山頂に目を奪われがちであるが、山を山麓まで包括して見た場合、伊吹山ほど日本史を見つめてきた山は百名山の中で他にない。

■3-1 二つの戦乱

国を趨勢を賭けた二つの戦いが、この麓を舞台に行われた。

672年、壬申の乱
大海人皇子は10km東の野上行宮(のがみあんぐう)に滞在して美濃など東国の兵をまとめ、東8kmにある金生山の製鉄を管理下に置き武器を製造させ、西を向いては「息長横河(おきながよこかわ)の戦い」(米原市梓河地付近)など都へ侵攻する軍に指示を送った。

もうひとつは言わずと知れた関ヶ原の合戦。関ヶ原町では「石田三成陣跡」「家康最初陣跡」「最後決戦地」など多くの史跡を伝えているほか、石田三成の出生地も上野登山口の5km西・石田山の麓である。

■3-2修験の舞台

・仏教が伝わってからは山岳修験の聖地として多くの修行僧が伊吹山に入った。登山口にある「ケカチ(悔過池)の水」は上野集落の宿坊に泊まっていた修行者が身を清めた泉である。上野口ルート沿いに白山神社、行導岩(平等岩)、手掛岩、山頂には弥勒堂、南弥勒堂などが残されている。
・木彫りの仏像で知られる円空は伊吹山を見上げる岐阜県美濃地方の生まれで、寛文元年(1601年)、登山道八合目に近い「行導岩(平等岩)」で修行したと伝えられ、晩年も過ごした。
・山麓には「上平寺」「大平寺」「弥高(寺)」など、修験道の隆盛を伝える地名が残る。

■3-3 その他の史跡など


・山頂から南に延びる尾根に戦国時代の京極氏が城館を築き、「京極氏遺跡」として遺構が残されている。地元では上平寺から遺跡を巡る登山道を整備中である。
・16世紀半ばに織田信長が三合目に薬草園を作らせたとされるが、資料は江戸時代の文献であり、確証はない。ただし伊吹山にしかないオランダ原産の植物が3種類確認されていることが根拠とも言われている(後述)。
・北尾根登山口の国見峠付近に「教如上人御旧跡 鉈ヶ岩屋」がある。これは関ヶ原合戦の直前、西軍から追われた後の東本願寺開基・教如上人が春日村の人々の手で匿われて過ごした岩屋である。
・街道として東山道北国街道が通り、三関のひとつ「不破の関」は東国との境界とされた。江戸時代に入っては中山道と呼称され、現代は名神高速道路と東海道本線、新幹線という列島の大動脈が集中している。

■3-4 近代から現代

・明治政府によって修験道が禁止されると地元では登山者を誘致し、宿坊が民宿に変わっていった。
・大正に入り、教育者の中山再次郎が青年教育のために伊吹山スキー場を創設。スキー場は2008年まで営業し、4合目までリフトが架かっていた。2013年時点でリフトは撤去されていて、残る三合目へのゴンドラ施設はすでに運行予定がなくなっている。
・三角点の先に大正7年から建っていた気象測候所は役目を終え、2010年に完全撤去された。

・伊吹山ドライブウェイは1965年(昭和40年)開業した。この道路により北側から山頂への登山道が断たれ、観光客の増加の反面、登山対象としての魅力が減退したことは否めない。

◇西斜面のセメント鉱山による変形

地形の変容比較

歴史のある名山というイメージは大規模な採掘によって侵食を受けつつある。斜面への緑化も行われているが、誰の目にも明らかな山容の改変は、もはや伊吹山を「神の在す山」として見られなくしてしまった。
日本の石灰岩は品質が良く、輸出可能な天然資源として全国で採掘が続いている。伊吹山で採掘の始まったのは昭和27年、その2年前に指定された国定公園の領域は採掘範囲を除けている。その経緯はよく分からない。

■3-5 信長の薬草園説の検証

三合目を見下ろす 4合目付近から見下ろした3合目の広い台地。400年前、ここに広大な薬草園が本当にあったのか?

信長が3合目に広大な薬草園を拓き、オランダから取り寄せた薬草を栽培させていたと、多くのガイドブックに紹介されている。しかし上にも記したようにこれは未だ証拠がなく、一方で疑問も残り、信憑性のある異説も存在する。

疑問は文書記録が信長死後100年の書物にしかなく、信頼性の高い『信長公記』にはないこと、薬草の取り寄せを命じられたというオランダ人宣教師自身の日記に記録がないこと、取り寄せ日数がかかりすぎて困難なことなどである。
そして異説によれば、当時「薬」というのは人に施す薬だけの意味ではなかった。
信長の意図したもの、それは火薬製造だったというのである。

なるほど、鉄砲を大量発注した信長だけに火薬製造に熱心だったことも納得でき、記録が残らないのは秘密だったからとすれば、伊吹山三合目は人目に付かず面積が十分にとれるのも大量生産に好都合である。そして薬草であるヨモギから実際に火薬が作れ、後の加賀藩は大量に製造販売して富を得たという。
事実かどうか、好奇心を刺激される話である。
(伊吹山文化資料館より)

■3-6 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と伊吹山

・伊吹山山頂に建っている日本武尊像は、明治45年に尾張国御嶽照王教会員によって設置されたもの。製作は関ヶ原町の石工。作者名は不明。
・三合目の一角に大正時代に設置された「ヤマトタケル遭難伝承地」という祠があるが、史実性は無関係である。

伊吹山では史実よりもヤマトタケル伝説がよく伝えられ、山頂で大勢が記念写真を撮っているのは三角点でなく、タケルの一種愛らしい石像である。
日本武尊像 山小屋群のすぐ横に鎮座する日本武尊像

(注:同じ読みで「日本武尊」は『日本書紀』の、「倭建命」は『古事記』の記載方法。以下では日本武尊とする)

加えて最近は伝説に出てくる「白い猪」の像までが山頂に登場した。
山頂の白猪

むろん日本武尊は伝説上の人物で、そのような特定個人が実在したのではないとされている。設定では第12代景行天皇の皇子なので、『記紀』編纂を指示した壬申の乱勝利者である大海人皇子=第40代天武天皇からは28代も前、遙か昔の出来事となっている。

日本武尊と伊吹山の話は『古事記』に従えばこうである。

父親の景行天皇に命じられ出雲と九州、続いて東国の平定に派遣された日本武尊は都への帰途、草薙の剣を持たないまま素手で伊吹山の神に挑もうとする。山に登ると牛のように大きな白い猪が現れた。それが神の化身であると気付かない武尊は「帰りに殺してやる」と言い放って登り続けようとしたところ、降り注ぐ「大氷雨」に打たれ、意識を失ってしまう。たどりついた「玉倉部の清泉(たまくらべのしみず)」で目覚めたことから、その泉を「居醒の清泉(いさめのしみず)」と呼ぶようになった。武尊は痛手を抱えたまま都に向かうが消耗は激しく、能褒野(のぼの:三重県亀山市能褒野町)の地でついに亡くなってしまった。

・『日本書紀』では白い猪でなく、大蛇になっている。また氷雨に遭っただけでなく道を失って彷徨う。

・草薙の剣はこのとき尾張の美夜受姫(みやづひめ)の元に残していた。今も名古屋市の熱田神宮に所蔵されているという。
・「大氷雨」は霰・雹の意味も含む言葉。
・「玉倉部の清泉」が実際にどこを指すのか関心が持たれているが確定していない。宿場町でもあった醒ヶ井(さめがい:滋賀県米原市醒井)は候補地のひとつにすぎない。現在も玉倉部の泉と呼ばれる湧水が関ヶ原鍾乳洞の前にあり、こちらが地名考証から大海人皇子軍が訪れたと推測され、有力候補である。
・三重県能褒野町には宮内庁が管理する日本武尊陵「能褒野陵」がある。

玉倉部の清水 関ヶ原鍾乳洞の入口にある玉倉部の清泉。実際に大海人皇子がここで喉を潤した可能性は高く、それが日本武尊神話に持ちこまれたのかもしれない。

■3-7 日本武尊伝承をどう解釈するべきか

日本武尊伝承は『記紀』の編纂が始まった当時の天武天皇(=大海人皇子)が壬申の乱において取った行動の反映があると指摘されている。都から東へ向かって美濃へ回り、関ヶ原を経由して都へ戻る行程が似ているというのである。確かに大海人皇子も伊吹山の麓である野上行宮で数ヶ月を過ごしている。

しかし武尊を襲った「氷雨」は文字通り解釈すれば厳しい冬の気象となる。伊吹山の季節風は確かに厳しく、近年に11mの積雪を記録したという山頂の豪雪はもちろん、関ヶ原は東海道新幹線がもっとも雪を受ける場所である。しかし大海人皇子が伊吹山で何か困難に出遭ったという話は伝わってなく、野上行宮に滞在していたのは初夏なので、氷雨を経験したことはなかっただろう。
ではなぜ英雄の日本武尊を打ち負かすほど、伊吹山の神を持ち上げる説話が記載されたのだろうか?本当に伊吹山の気象を伝えるために書かれたのだろうか?

以下は筆者の推論を述べる。

日本武尊を苦しめた「氷雨」は伊吹山の気象を暗示しているのではないのではないか。
むしろ地元勢力とヤマト朝廷との関係を示唆しているように思われる。
神に姿を擬してはいるものの、地方勢力が天皇の皇子を打ち負かすというのは異例の扱いである。
ひとつには大海人皇子の政権奪取に貢献したことで、伊吹山付近の勢力が新しい体制の中で地位を得たという想像ができる。しかし貢献したのはむしろ岐阜県美濃地方の人々だった。その実力者ぶりを書き記すにしても、天皇の皇子を半死半生に遭わせるほどに描かれるのは疑問である。

もうひとつの想像としては、その当時から見て過去の豪族の存在だ。伊吹山の西麓・滋賀県側では宮内庁指定「息長広姫陵(おきながひろひめりょう)」など5~6世紀の有力豪族であった息長氏に関わる伝承や古墳が残る。この氏族名には「息吹山」の「息」の字が共通することに注目せねばならない。
息長広姫陵 滋賀県米原市村居田の宮内庁指定・息長広姫陵

息長氏は古代史好きでなければ聞いたことのない名前かもしれないが、宮内庁が古墳を陵墓指定しているほど、皇室とも縁の濃い豪族なのである。陵に葬られている(とされる)息長広姫は第30代敏達天皇の皇后であり、第34代舒明天皇の祖母になり、天智天皇からは曾祖母に当たる。その天智天皇の息子で後継者となった大友皇子を大海人皇子は壬申の乱で滅ぼした。

息長氏は壬申の乱より早く6世紀には継体天皇とも関わっていたと推定されているが、記録が乏しく謎の氏族と言われている。中央との関わりは謎でも、この氏族が現在の米原市一帯を根拠地としていたことは明らかとされている。

日本武尊は第12代景行天皇の息子だが、天皇ではなく武将として生涯を終えている。もし「伊吹の神」が地方勢力を指しているのなら、国家の歴史として地方勢力に天皇が倒されることはあってはならず、そんなストーリーを『記紀』に残すはずはない。朝廷としては天皇家の一員は傷ついたけれども政権中枢は動じなかったという設定を守りつつ、有力な地方勢力の記録を残したかったのではないか。

この伝承は「天皇家に関わる一部に強い影響を与えるほどの、伊吹山一帯に存在した過去の有力豪族(=息長氏)の記録」を描いていると思われるのである。


  伊吹山の民俗                

◇薬草

伊吹山では地質により樹林が発達しにくく特有の草が多いことから、修験者は早くから薬草栽培を行ってきた。「伊吹百草」と称される中でもヨモギは万能薬として神聖視され、今も老舗の数社がブランドを守っている。

◇ソバの発祥地
はっきりした根拠は不明だが、伊吹山は国内で最初にソバを栽培した土地だという説があり地元では誇っている。江戸時代、伊吹山の西麓や南麓では八合目付近までソバ畑が広がっていたといい、伊吹そばは辛みの強い伊吹大根とともに全国に知られていた。

◇草刈り
伝統的に伊吹山では1合目から山頂まで草刈りを行ってきた。水田の肥料や家畜の飼料として品質が優れ、6月から9月まで競うように入っていたという。この人による関わりが森林の育たなかった最大の理由と思われる。大正8年に史蹟名勝天然記念物に指定されて山頂付近での植物採取が禁止されるまで、草刈りが続いていた。

◇北国脇街道
脇街道とは江戸時代に主要五街道に次ぐ重要な街道に付けられた呼称であり、それ以前は北国街道と呼ばれ、美濃と北陸を結んでいた。登山口のすぐ南、春照(すいじょう)地区には脇本陣、常夜灯など、宿場町の名残が多い。もちろん東海道も通っており、関ヶ原町には「不破の関」が残っている。

◇弥三郎伝承
登山道とは離れているが山頂の東に「弥三郎の岩屋」という洞窟があいている。
『御伽草子』などに近江の弥三郎という伝承があり、大男で盗賊だとか、酒呑童子の原型であるとか、近くで営まれていた鉄鉱山の山師だなど、多様にアレンジされて正体が分からない。多くの地域で類似の伝承があり、ここでは伊吹弥三郎と名付けられているが、いずれにしろ架空の人物に民間伝承が仮託されたものであろう。


 5 伊吹山の地形地質               

■5-1 石灰岩の由来

伊吹山はほぼ石灰岩から成り立つ山で、付近には鍾乳洞と採掘場が多い。ここから関ヶ原を経て南へ連なる霊山から鈴鹿山脈北部も同じ石灰岩地帯である。

北尾根登山道の国見峠付近は花崗岩地帯になり、長石という粒子が大きい特徴を持つ諸家花崗岩(もろかかこうがん)と呼ばれている。

この類似する地質の連なりができたのは、同じ時期にまとまって形成された石灰岩がそのまま日本列島に付け加わったからである。
石灰岩に含まれる化石には2億5000万年前ころのフズリナなどが見つかる。
これらの石の起源はまず、当時の赤道付近で形成された「伊吹海山列(かいざんれつ)」と呼ばれる火山列島になる。
その火山列島はちょうど現在の伊豆諸島と似た状況にあり、プレート潜り込みに伴い多数の火山島が誕生していた。島の周辺に広がる浅い海で発達したサンゴ礁は、やがて火山活動を終えた島が沈降していくのと逆に海面へ向かっての成長を続け、厚い石灰岩となった。
プレートの運動に伴い、赤道付近にあった島々は1億年近くをかけて大陸の縁辺に乗り上げ、やがて大陸から分離した日本列島の一部になった。
火山島が起源になっているとはいえ、現在の伊吹山で火山岩はほとんど見つからない。火山だった部分は侵食で失われている。
石灰岩はサンゴ礁を元とし海洋生物の殻が集まっているため、豊富な化石を含む。上野口登山道はほとんどが石灰岩なので、上級者が探せば幾らでもウミユリやフズリナの化石が発見できるだろう。
ウミユリ化石 頂上の山小屋が屋外に展示してくれているウミユリの化石。縦長に2体が見られる。スケールの長さは10cm

■5-2 笹又登山口のさざれ石
笹又のさざれ石

◇さざれ石とは何か
笹又登山口の「さざれ石公園」には、2m高の大きなさざれ石が据えられている。さざれ石は「細れ石」とも書き、いったん細かい石になったものが再び接着して固まりになったものを指し、地質学では石灰質角礫岩(ーかくれきがん)と呼ぶ。
接着する仕組みは鍾乳洞でよく見るように、石灰岩の成分である炭酸カルシウムの凝固作用による。セメントと同じである。
「さざれ石」という言葉は一般名詞で、特定地方に限定されず用いられる。
国内各地の石灰岩地帯に見られ、伊吹山のものは特に国歌「君が代」に詠われているため、日本のさざれ石を代表するものとして、国内各地に運ばれている。石灰岩地帯の温泉施設などで「さざれ石 岐阜県揖斐川町産」と展示されているのをよく目にする。
なぜこの土地のさざれ石が君が代の題材になったのか。それは君が代の歌詞は「新古今和歌集」に収められた短歌を採用していて、「詠み人知らず」のこの作者はこの揖斐川町春日の地を訪れて詠んだとされるからである。
なお、さざれ石公園の展示には「このさざれ石」と書かれているが、特定の岩を短歌に詠んだはずはなく展示も新たに採掘した固まりと思われるので、正確には「この地域のさざれ石」と表現するべきだろう。
伊吹山では笹又以外でも山頂から山麓まで広く存在している。
頂上でのさざれ石 9合目付近での“さざれ石” 

■5-3 伊吹山の石灰岩地形

伊吹山の登山道では大部分石灰岩を歩く。三合目の一部で赤味を帯びた岩が露出しているのは、石灰岩の仲間でドロマイトという石と思われる。
三合目の石 3合目の登山道で露出している岩。正確な分類名は不詳。

頂上では一部に変成を受けた結晶質石灰岩(大理石)が見られ、これはサンゴ礁由来の石灰岩が日本列島に合わさる時に火山マグマに接触したのだと思われる。結晶質石灰岩になると侵食に多少強くなるため、山の尾根や頂上になりやすい。
結晶質石灰岩 山頂部で見られる結晶質石灰岩

9合目が近づくと一抱え程度の岩が地面から突き出ているものが目に付く。その多くの表面が降水に溶かされた曲面をしていて、石灰岩特有のカレン(岩塔)という。
それが多数集まっている地形をカレンフェルト地形と称し、山頂一帯も地味ながらカレンフェルトである。
溶蝕された岩塔 登山道に突き出た岩が永年の雨で溶かされている。近年は雨の酸性度が上がっているので加速していることだろう。

またところどころにドリーネという窪地もあり、集まった雨水に溶蝕されたり地下に生じた空間へ表面が落ち込んだものである。
頂上ドリーネ 東遊歩道でのドリーネ地形

■5-4 地形図から分かること

◇なぜ山頂は東西に細長いのか

8合目以上ではこのように東西方向に割れ目の走った、傾いた板のような岩が目立ってくる。
8合目の節理 8合目付近。岩の板が斜めになり、永年の侵食で崩れかけているように見える。

この構造は山頂全体に見られ、山頂が細長いこと、南に急な崖が多いこととも関係がありそうである。
同じ方向性は、山麓での地形、伊吹山ドライブウェイ入口付近の岩倉山、ドライブウェイの走っている尾根などでも見られる。
伊吹山では地層が強い力で曲げられ、山頂付近では上下が逆になり年代の古い地層が上に、新しい地層が下になっているという。本来は水平だった地層が変動を受け、曲がった一部が傾いたまま隆起して、周辺が削られ、山の形になったのである。
(以下は筆者推定です)
地層の傾きが北北西に向いているため、南南東は地層の断面が斜め上を向き、崩落で急な崖になってしまう。また地層に沿って侵食と風化が進むため、写真のような板状の岩ができる。同じ働きによって山頂部分も北北西に傾いた地層を基盤とし、東西は長細い板の両端として崩落している。
このように思えるのだが、どうだろうか。

◇上野口登山道の地形
三合目から上部を見る 3合目から上部のお椀型斜面を見上げる。左の建物はトイレ。
3合目から上部は、左右に張り出した尾根に囲まれた急斜面を登山道が上っていく。お椀状に窪んだ地形が氷河地形のカールを想像させるが、これは氷河とは関係ない。伊吹山に氷河の存在したことはない。
この地形は両側尾根の堅牢性がまずあって、地滑り、雪崩による侵食によって形成されたものと推定されるが、調べた範囲で答は見つからなかった。

◇せまっていた古琵琶湖
伊吹山の南は小高い山に囲まれた盆地状の地形になっている。ここは数十万年前にまだ東にあった琵琶湖の水に満たされていた土地である。その後滋賀県西部の地盤が沈降し、鈴鹿山脈が隆起するにつれて琵琶湖は西へ移動していった。弥高扇状地の地形を見ると数万年前までは湖が残っていたようでもある。

◇弥高川扇状地
弥高川扇状地

上野登山口から東南へ1200mの弥高集落を扇の要として、半径2000m程度の明瞭な扇状地地形が広がっている。いかにもかつて湖であった平坦な地面に扇が広げられたばかりに見える。扇状地では水が伏流し末端で湧き出すため、集落は弧状の末端に沿って営まれ、北国脇街道もそれをつないで通っている。

この扇状地を形成する土砂は湖の後退後に始まった土石流によって埋められたものであろう。それだけ弥高川の上流で山は削られていったことになる。登山道からは見えないが東側の谷では崖崩れの跡も多く、登山道が中央を通るカール状の広大な斜面も度々の崩落を繰り返し、膨大な土砂を流していったものと考えられる。扇状地地形の広がりを見ると、これだけの土砂を削り出すために伊吹山はどれほど変形したのか、想像もできない量である。

745年、関ヶ原古戦場付近を震源とするマグニチュード7.9の天平地震が起きている。内陸で起きた地震としては有史以来ベスト3に入る大地震だった。この地震とその後続いた余震によっても伊吹山は崩れ、弥高扇状地を広げたのではないかと思えるのだが、天平地震の文献記録は曖昧なものしか残っていないらしく、これといった研究記録を発見できなかった。
この地形と地震の関連を探ることは、土石流と地震という自然災害を防ぐために必要なことと思われるので、ぜひ研究を進めてほしい。

現在の弥高川は普段涸れている。山の中腹以上では石灰岩地帯特有の透水性で水は地中に染み込み、地表を余り流れない。加大雨に見舞われると涸れていた弥高川は急に増水し、扇の端で弥高川と天野川が合流する長岡では現在でもしばしば氾濫を起こす。
その一方、弥高扇状地を作ったはずの土石流は砂防堰堤の効果もあって、近年発生していない。


 6 伊吹山の植物・動物               

伊吹山全体に生育する植物の種数は1300種、山頂のお花畑に350種、そのうち7種類(9種類とも)は伊吹山にしか生育していない固有種。薬草の種類は280種。
名前に「イブキ」の付く植物は34種にのぼる。保水力が乏しく高木は育ちにくいのに加え、昔からかなり高い場所まで人が草刈りに入っていたため、森が成長しなかった。また伊吹山を南限とする北方系の植物と南方系の植物が混在している。これらの要素が伊吹山の豊かな植生を育むことになった。
また古来から都に近いこと、修行僧が多く入っていたことは、伊吹山の植物を世に知らしめ種名に「イブキ」が多く冠されることになった理由と思われる。

固有種7種は、ルリトラノオ、イブキアザミ、コイブキアザミ、ミヤマコアザミ、イブキレイジンソウ、コバノミミナグサ、イブキタンポポ。
ほかにイブキフウロ、イブキヒメヤマアザミ、イブキコゴメグサが挙げられることもある。

動物では石灰岩地帯の特性として、カタツムリや蝶が豊富である。カタツムリは約70種、蝶は108種が確認されている。
また石灰岩の崖を好むというイヌワシが2mにも及ぶ翼を広げ滑空している様がよく観察される。
 カタツムリ 資料館に展示されている伊吹山を代表するカタツムリの標本


 7 自然保護運動                 

■7-1 自然保護運動の歴史

伊吹山は独自の植生が歴史的に知られてきたことから、早くから国による規制が行われていた。その一方で昭和40年代に入って全国的な観光開発の潮流からドライブウェイが山頂直下まで通じ、また西山麓では石灰岩採掘が山の形を変えるほど進行するなど、急速な環境の悪化が懸念されるようになった(上記「3-4 近代から現代」参照)。
40年代の後半から保護運動が盛り上がりを見せるようになり、自由に歩き回っていた山頂お花畑に遊歩道を設置、外来種の駆除も行うなど、現在に至る活動となっている。

・大正8年に史蹟名勝天然記念物に指定されたことで、山頂一帯での植物採集は禁止となった。
・昭和25年、琵琶湖国定公園に指定され、新たに国による植物採集規制がなされた。
・昭和27年から西斜面で石灰岩採掘の開始。
・昭和32年、近江鉄道によるスキー場開業。
・昭和40年山頂付近の標高1200mから頂上までが「伊吹山地草原植物およびその自生地」として滋賀県指定天然記念物に指定。
・同年、伊吹山ドライブウェイが開通。
・昭和40年代に観光客と登山者が爆発的に増加、昭和46年には70万人が訪れ、環境保全の危機が言われ始めた。
・昭和47年、中日新聞による「伊吹山を守ろう」キャンペーンが反響を呼び、2月、官民一体の「伊吹山を守る会」が発足した。
・昭和57年から「伊吹山を守る会」による植生復元作業が始まる。
・平成15年、「伊吹山頂草原植物群落」が国の天然記念物に指定される。

◇公園の指定範囲
・国定公園領域は滋賀県側
・岐阜県側は伊吹県立自然公園
・山頂部は特別保護地区
・国定公園は上野登山口から山頂、北尾根国見峠の北までを含む。
・石灰岩採掘の行われている西斜面一帯は含まれない。

■7-2 これからの伊吹山南西斜面

上野口登山道が通る南西斜面一帯は国定公園第2種特別地域になっている。
国定公園で永く営業してきたスキー場はこの数年ですっかり終了し、2013年のGoogleマップには永く続いたスキー場の名称もリフト、ゴンドラも記載がなくなっている。リフトは2011年に撤去され、ゴンドラの架線は残っているが稼働の見通しはなく、撤去が予想される。
今後、スキー場閉鎖で廃業に迫られている1合目の民宿などのためにマイカー進入を認めるようになるのだろうか。マイカーを通すとなれば1合目から先の林道を舗装拡充し、3合目に駐車場を新設することになるだろう。どれほど利用があるのかは疑問だ。
また南西斜面は古くから人が立ち入ってきたことで植生遷移が進まず、森林にならなかった。樹木が育てないのではなく、4合目付近までは部分的に高木が茂っていることから、放置すればやがて森になることは十分予想される。
昔のように下草を利用することも薬草園を開くことも考えられず、今後どのように利用されるのかによって、登山者の目に写る景観が大きく変化していくことだろう。


 8 周 辺 (登山に関連する施設紹介)                     

■8-1 入浴施設

◆「ジョイいぶき 薬草湯」
伊吹山ジョイいぶき
滋賀県米原市春照37番地 伊吹薬草の里文化センター内 
TEL 0749-58-0105
東経136.22.58 北緯35.22.55
営業時間12:30-19:30 受付19:15まで
休館日 毎週月曜日、祝日はその翌日
料金 500円

伊吹山だけに、薬草を使ったお湯である。
文化センターという大きな建物内の一角にあり、登山口に近いので伊吹山登山者にはもっとも利用されている入浴施設。
道路際に「薬草湯」という幟旗がたくさん立っていなければ通過しそうなくらい初めてでは分かりにくい。写真の中央から右へ向かいまず建物に入り、左へ進むとフロ受付がある。駐車場は右後方。
内部は狭い。先日のこと、連休の夕方に入ろうとした時には何と順番待ちになった。

◆「グリーンパーク山東」
滋賀県米原市池下80-1
TEL 0749-55-3751
東経136.21.39 北緯35.22.22
平日 16:00~22:00 (受付21:30まで)
土日祝 13:00~22:00 (受付21:30まで)
休館日不明
料金500円
旅館・キャンプ場など総合施設の日帰り入浴
狭い。団体貸し切りの場合あり

伊吹山南麓では大型の入浴施設がない。
時間はかかるが岐阜県側で20kmほど離れると北東に「池田温泉」南東に「養老温泉ゆせんの里」がある。


◆「池田温泉」
岐阜県揖斐郡池田町片山 
TEL本館0585-45-1126 新館0585-45-0261
東経136.33.31 北緯35.25.10
平日10:00-2200 受付21:30まで
本館は月曜休み 新館は水曜休み 祝祭日は営業
500円
本館と新館に分かれ、内容はほぼ同じ。
駐車場が狭かったが交差点の向かいに道の駅が新設され、こちらにも置ける。
2館になったとはいえそれぞれは余り広くなく、混雑が多い。

◆「養老温泉ゆせんの里 みのり乃湯」
岐阜県養老郡養老町押越1522-1 TEL 0584-34-1313
東経136.33.27 北緯35.17.53
平日:6:00-22:00 土日祝:6:00-24:00(要確認)
第4木曜日休み 
650円 (2012年より実質値下げ)
ホテルに併設の入浴専用施設

■8-2 資料館

「伊吹山文化資料館」
伊吹山文化資料館
滋賀県米原市春照77番地  0749-58-0252
東経136.22.39 北緯35.22.57
9:00-17:00 入館16:30まで
月曜休み、祝日は開館・翌日休み
年末年始休み
入館料 200円

廃校となった小学校を利用した伊吹山に関連する自然・考古・歴史・民俗の資料館。
大型博物館のような設備はなく、大部分が手作り展示。情報量は豊富で、伊吹山登山の前後にぜひ立ち寄ることをお奨めしたい。
このブログ記事も伊吹山文化資料館がなければこれほど詳細に書けなかった。
なお米原市の運営なので岐阜側の情報は乏しい。

(「伊吹山」終了)

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