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寝覚ノ床(長野):木曽川が削りだした巨岩の淵

カテゴリー見出地形地質

■名所としての概要

「寝覚ノ床」は木曽川の河床に露出する巨岩の集まりで、古くから中山道木曽路の名所として文人・歌人が作品を残してきた。四角く割れた花崗岩の巨岩上には浦島堂と呼ばれる小さな祠があり、名称の由来となった浦島太郎伝説を伝えている。JR中央線の車窓からも眺められる。
寝覚ノ床代表
下流側から見た寝覚ノ床の中心部。人型は大きさを示すために合成したもの

名称寝覚ノ床 : ねざめのとこ
国指定史跡名勝天然記念物 中央アルプス県立公園
所在地長野県木曽郡上松町小川
交通機関JR中央線上松駅から南へ2km、徒歩30分
JR中央線木曽福島駅から南へ12km、車で20分
マイカー中央自動車道塩尻ICから国道19号線で南へ54km
中央自動車道中津川ICから国道19号線で北へ49km
国道脇に有料駐車場あり 寝覚ノ床へ徒歩200m
国道から外れて町営無料駐車場あり 徒歩800m
(国道の登坂車線途中から入る)
問合わせ上松町観光協会 0264-52-1133

寝覚ノ床広域地形図

■見学詳細
見学自由。遊歩道あり。
見学は木曽川の左岸のみ、右岸へは渡れない。
説明板の建つ中心部から下流800mに「裏寝覚」あり。
※2012年6月に浦島堂への遊歩道は通行止め解除。
※2013年春時点で裏寝覚への遊歩道は崩落のため通行止め。

■付帯施設
・寝覚ノ床を紹介する施設は特にない。
・「寝覚ノ床美術公園」 : 日時計、彫刻などのオブジェが展示されている。営業施設は特になく、普段は無人。この駐車場とトイレは町営・無料として寝覚ノ床・裏寝覚見学に利用できる。寝覚ノ床中心部まで徒歩800m。

◇難読地名
上松町:あげまつまち 御嶽山:おんたけさん 宝剣岳:ほうけんたけ
◇地学用語
方状節理:せつり 河岸段丘:かがんだんきゅう 河成段丘:かせいだんきゅう 扇状地:せんじょうち 
(河岸段丘と河成段丘はほぼ同じ意味)

■地質の概要

岩石に生じる規則的な割れ目を節理と呼び、寝覚ノ床は「方状節理」の見本とされる。方状とは直方体、つまり直角に割れた四角いブロックで、花崗岩に特有の割れ方である。
一般向きの説明では「岩盤を侵食してできた自然の彫刻」と言っているが、侵食されたのは周囲の弱い部分で、寝覚ノ床を構成する巨岩は侵食されずに残ったものである。
花崗岩という岩はマグマが地中深くでゆっくり固まったものであり、周辺の広い範囲が地殻変動で隆起する過程で上部を覆っていた岩が侵食され、露出した。
木曽山脈は大部分が花崗岩で成り立ち、最近の100万年で(地質学的に)急速な隆起をしている。もっとも高い木曽駒ヶ岳の頂上付近には花崗岩に接触した古い堆積岩が残っていて、隆起の中心部であると同時に大きな花崗岩体の頭部だったことを示唆している。
木曽谷でもかつては同じ花崗岩が分厚く重なっていたはずであり、それが侵食の集中によって消え去ったため現在の低い谷となった。

寝覚ノ床パノラマ
パノラマで見る寝覚ノ床中心部。巨岩は木曽川が大きく曲がる場所に集まっている

地形地質観察としては、なぜ寝覚ノ床では巨岩が残り、狭くなった隙間を縫うように木曽川が流れることになったのかを考察してみたい

なお、ほとんど見学者の来ない裏寝覚では四角い巨岩は少なく、複雑な節理と無数のポットホールが特徴である。これと同様の場所として、5km上流(北)に木曽の桟(かけはし)という名所もある。

寝覚ノ床裏寝覚
裏寝覚の様子。表面に多数見える凹みはポットホール。

木曽の桟
長野県史跡「木曽の桟跡」(下流側から)
江戸時代には右の崖に石積みを施し桟道を渡していた。今はコンクリートで覆って国道19号線が走っている。


◆ポットホールとは

流れてきた岩が亀裂などに引っかかってその場でゴロゴロと動き続け、長い時間をかけて穴を掘ったもの。その岩は削れて小さくなっていくので、やがて小石となって外へ飛びだしてしまい、残っていることはまずない。


■地形地質の考察:どうしてこの地形ができたのか

周辺地形の実際をGoogleEarthで見てみよう
寝覚ノ床GE基本
南側上空からの写真画像。右が木曽山脈側で、木曽川は画面上から下へ流れる。
川の左岸に上松町の市街地が展開している
のは、下記の理由による。

まずヒントとなりそうなポイントを挙げてみる。

・巨岩は運ばれてきたものではなく、もともとその地面にあったものである。
・寝覚ノ床の水面標高は660m、国道19号線やJR中央線の通る左岸は約710mと、50m差の河岸段丘(=河成段丘)になっている。この段丘は上流の上松町から寝覚ノ床まで約2km続いている。
上松町は平坦な段丘を利用して町が建設されている。
・ただし800m下流の裏寝覚付近(写真でのすぐ右)では平坦でなく、段丘地形の連続とは言えない。
・寝覚ノ床中心部は木曽川が(上流から見て)大きく右へ屈曲するポイントになっている。
・裏寝覚は反対に左へ緩く曲がっている。

また、次の事実も踏まえておきたい。

・約60km続く木曽谷の中で河床に見える岩はほとんどが花崗岩であるが、寝覚ノ床のような四角く巨大な岩はほかに見られない。
・木曽谷の東に走る木曽山脈(中央アルプス)は標高が2900mに達し、ほぼ全山が花崗岩でできた一連の山脈である。
・木曽谷の西には山脈と呼べる山並みはなく、1500~2000mの山地が広がる奧に火山である3000mを越える御嶽山と乗鞍岳が聳えている。その火山を除くと、木曽谷に近い山地の岩はやはり花崗岩でできている。

つまり寝覚ノ床の付近の岩石は、木曽川に露出しているのと同じ花崗岩が両側の山地を広く構成している。表面は樹木に覆われてよく見えないが、木曽川の河床がこの白い花崗岩で埋め尽くされていることからもこのことは明らかである。

寝覚ノ床GE段丘
ひとつ上の写真から、中央部の切り出し。上松町の乗っている河岸段丘(河成段丘)の地形

ではその広い花崗岩地帯で、寝覚ノ床ではなぜ特異な地形になっているのだろうか?

もっと大きなヒントになりそうなポイントを挙げる。

・寝覚ノ床では、木曽川全体でも特に水の流れる幅が狭くなっている。これは上流のダムによって水量が減ったということでなく、自然地形として両岸の斜面が迫り、幅が狭くなっているのである。
・地図で寝覚ノ床から東(右)へ目を移してみると、ほぼ真東に木曽駒ヶ岳や宝剣岳など、木曽山脈でもっとも高い部分が聳えている。
・寝覚ノ床の段丘は、上松町市街までの約2kmの間、高度を増さずにほぼ平坦である。
・この付近での河岸段丘は木曽川が左右に屈曲を繰り返しているにもかかわらず、左岸(木曽山脈側)だけにあって、右岸にはない。


★推論 (専門家の明確な答えを発見できなかったため、以下は筆者の考えです)

(時系列に述べる)
・この場所は急速に隆起する木曽山脈から継続的に多量の土砂が削り出されてきた。ある時期に特に大規模な土石流が集中し、木曽川本流の渓谷が埋められた。
・その埋積イベントが起きる前には木曽川は現在より数百メートル東、現在の段丘の下を流れていた。

・土砂の埋積によって、川は西へ押しやられ、さらに堰き止められた。
天然ダムの出現した位置は左岸の地形から、裏寝覚付近と考えられる。また土石流は滑川から流れ下ってきたと推定される。
・堰き止めによって、上流へかけて幅200-500m、長さ2500mの細長い湖が出現した。
・湖が存在する期間に、そこへ木曽山脈から流れ込む滑川、中沢、十王沢川では谷の堆積が進行し、現在集落が営まれている緩斜面が形成された。

・湖はやがて完全に埋まり、西へ押しやられて細くなったために浸食力を強めた木曽川が今度は河床を下へ掘り下げてゆき、現在の流路が定まった。
(段丘の高さが寝覚ノ床のすぐ近くと上流2kmの上松町市街地とで同じであることは、天然ダムが決壊することなく湖が完全に埋まったことを示している)
・木曽川は流路が細いまま固定されたことによって流速は速くなり、強い浸食が進行した。
・浸食によって、決壊することのなかった天然ダムの一部を構成していた土砂や脆弱な岩は削られ、地中に隠れていた強固な岩石が初めて露出した(寝覚ノ床の誕生)
(裏寝覚めの木曽山脈側が平坦でなく起伏を残していることは、ここが土石流の溜まりであり天然ダムの堤だったことを示す)
・この強固な岩石を迂回するため木曽川は屈曲することになった。

寝覚ノ床GE天然ダム

・花崗岩は本来頑丈な岩で、川の浸食には長期間耐える。ただし節理と呼ぶ元々の割れ目ができていればそこから崩壊し、細かい岩は流されていく。
・寝覚ノ床はそうした節理が少なかったために容易に浸食されず、木曽川は狭い割れ目をぬうように今も流れている。

・また頑丈な花崗岩といえども露出したのちは表面が風化し、角が丸くなっていくものである。それに反して寝覚ノ床で角張った形状をしているのは露出してからまだ時間が経っていないことを示している。
・このことから、上に書いた湖の形成時期は地質学的にはごく新しい時期と推定され、実際には木曽山脈からの土砂供給が急増した最終氷期後の8000-6000年前頃が有力視できる。

[まとめ]
・寝覚ノ床の巨岩は、地中に隠れていたものが最近になって表面が侵食されたことで露出した。
・侵食が起きた原因は、木曽山脈からの土石流によって木曽川の位置が変化したことである。

最初に問題として提示した巨岩が浸食されず残っている理由は、このように露出した時期が新しいという答で、ほぼ説明できると思っている。もちろん、これはあくまで筆者の見解である。今後専門家の意見を伺う機会があればここに追記・修正していきたい。


◆[付録] 木曽山脈での東西地形差

谷が広い平地に出る場所では、運ばれてきた土砂が扇状に広がる扇状地という地形のできることが普通である。
・東の伊那谷には扇状地地形が明瞭だが、西の木曽谷にはほとんど見られない。これは木曽谷が狭いためであり、扇状地を作るはずの土石流が流れてきても広い土地へ広がることができず谷に残ることと、木曽川によって末端が削られてはっきりした形にならないからである。
・これによって木曽川に近い谷では土石流に埋まった細長い緩斜面を利用して、谷の内部に集落が営まれている(上のGoogleEarth空撮画像も参照)。
・伊那谷ではそのような狭い谷を埋めた緩斜面は少なく、集落も谷ではなく広い天竜川近くにできている。
下に少々見にくいが木曽駒ヶ岳の西と東の地形図を2枚提示しておく。

木曽谷地形図 木曽谷・寝覚ノ床付近5万分1地形図

伊那谷地形図 伊那谷・伊那市から宮田村付近5万分1地形図


◆[付録] これからの寝覚ノ床

寝覚ノ床の巨岩の上面は、ダムの造られる以前にはしばしば増水した水に没することがあったために樹木が生えなかった。その頃は平穏時でも水量が多く、現在より水位が高かったはずである。もし高い位置で水位が長期間一定していれば、岩の表面にその位置を刻み残しただろう。これといった痕跡がないのは絶えず変動していたことを示す。
今では上流のダムによって、大雨で増水しても岩の上面を洗うことはないという。

とすると、岩の上部は運ばれてくる礫や砂に削られることがもう起きないということになる。岩の側面下部だけが削られることになって、上部の張りだした形状になっていくのだろうか。
少なくともポットホールは石が激流にゴロゴロ踊ることはなくなって、今後は発達しないと思われる。

寝覚ノ床・塔のへつり
水流の浸食で崖の側面がへこんだ例:福島県の「塔のへつり」。
ここでは凝灰岩という軟らかい岩のため水面位置がよく削られ、現在では水量低下でさらに低い位置に浸食が進行している。


■[付録] 浦島太郎伝承

亀の手引きで竜宮城を訪れたのち故郷に戻ると数百年が過ぎていて、開いた玉手箱の煙によって老人になるという浦島太郎の伝説は、丹後半島を本家として全国各地に伝わっている。平安時代に整えられた物語が全国に流布したのだろう。
この伝承がいつから木曽谷に取り入れられたのかはっきりしないが、おそらく木曽が中山道の一部として整備された徳川時代からと推定している。
江戸時代の商才に長けた人が観光振興に智恵を貸したのではなかろうか。

寝覚ノ床のすぐ東に寝覚山臨川寺(りんせんじ)という寺院があり、別名として浦島寺とも呼ばれている。ここでは寺の創建に浦島太郎が関わっているとしている。

[臨川寺]

拝観200円、8:00-1700
宝物館に浦島太郎が使ったという釣り竿などを展示している。
境内から浦島堂まで歩道あり。急な階段や不整地のため足元注意。


■訪問での印象

寝覚ノ床は大勢の観光客に溢れるというほどのことはないようだ。大多数の観光客は国道沿いの表ルートから巨岩の上に建つ浦島堂まで歩くだけである。
夕方に裏ルートである町営駐車場から寝覚ノ床中心部、戻って反対(下流)側の裏寝覚まで往復する間、誰にも会うことがなかった。裏寝覚への遊歩道は崩落通行止にされていたが注意すれば入れる状態だった。


■最新訪問時期:2012年12月




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琵琶湖博物館(滋賀):湖とともに歩む近江の国

カテゴリー見出し博物館
琵琶湖博代表

■概要
平成8年(1996年)滋賀県立の大型総合博物館として湖の畔に開館。前身は昭和36年からあった琵琶湖文化館水族部門。
名称からは湖の博物館というイメージになるが、滋賀県の文化は琵琶湖と切り離せず、内容は総合文化・自然を紹介する滋賀県総合博物館とも呼ぶべきものになっている。
A展示室「琵琶湖の生いたち」B展示室「人と琵琶湖の歴史」C展示室「湖の環境と人々のくらし/淡水の生き物たち」、無料の屋外展示として生態観察池、縄文・弥生の森などがある。

琵琶湖博代表地形図

名称滋賀県立琵琶湖博物館 
ジャンル総合 : 琵琶湖に関連する自然科学と人文・社会科学
所在地滋賀県草津市下物町1091
開館時間9:30-17:00 入館16:30まで
休館日毎週月曜日 年末年始
料金大人750円 (駐車場550円は入館者無料)
交通機関JR草津駅から近江鉄道バス25分、琵琶湖博物館前下車
マイカー・名神高速道大津IC、瀬田西IC、栗東IC、京滋バイパス瀬田東IC
・有料駐車場あり550円 入館者は受付印で無料
その他の基点・琵琶湖大橋(普通車200円)から南へ7km
・大津市中心部から琵琶湖大橋経由で22km、近江大橋(普通車150円)経由で17km
問合わせ077-568-4811
http://www.lbm.go.jp/index.html

◇地名・歴史用語等
ー地名ー
田上山:たなかみやま 南郷:なんごう 膳所:ぜぜ
逢坂山:おうさかやま 粟津:あわづ 螢谷:ほたるだに 葛籠尾崎:つづらおざき
ー歴史用語ー
百済:くだら/ひゃくさい 
壬申の乱:じんしんのらん 大友皇子:おおとものみこ 大海人皇子:おおあまのおうじ 
擬宝珠:ぎぼし 「信長公記」:しんちょうこうき 白村江:はくそんこう/はくすきのえ


■内容詳細

・館内十分に広く、念入りに見学すると半日必要
・屋外展示もあり。
・資料室(=図書室、情報センター)、学芸員による展示解説、展示室スタッフ(「展示交流員」)いずれもあり
・学芸員が常駐する「質問コーナー」あり
・その他、情報利用室、ディスカバリールームなど、食事・休憩・売店施設あり
・展示室撮影可

・展示の華やかさは最新施設よりやや見劣りしてきたが、掘り下げは深く滋賀県内の情報が豊富。
・地質面からの琵琶湖と滋賀県地域、琵琶湖の生態系、近江地域の近現代史と民俗などが充実している。
・2016年に20年ぶりの改装を予定している。

・「質問コーナー」では日替わりで学芸員が個別の質問に応対してくれる。
・「展示交流員」が一定の勉強をしてあり簡単な質問に即答してくれる。しかしユニフォームはもう少しセンスのあるものに替えたらどうか?

・琵琶湖博物館では滋賀県の全般を扱っているが、北東20kmの近江八幡市に滋賀県立安土城考古博物館があり、県内の考古学と安土城に関してはこちらが充実している。また大津市内の歴史については大津市歴史博物館がよい。


◆基礎知識 : 滋賀県地方をなぜ「近江」と言うのか?

「江」という字は、入り江の地形、陸地へ深く入り込む海や湖、沼を指す。淡水海水共に使われる。ただし川には用いない。
「近」は、大勢の人(文化の中心地とも言える)から見て近くにあるということで、「遠い」対象と比較している。基準となる「大勢の人」は、古代にはヤマト政権のあった奈良、中世では京都の視点になる。
では「遠い江」はどこを指しているのかと言えば「遠江(とおとうみ)」「遠州(えんしゅう)」と呼ばれた静岡県浜名湖である。近畿に住む古代人で浜名湖を見た人はわずかだろうが、伝聞で大きな湖のあることはよく知られていたことが窺える。
ただし「近江」は遠近だけの意味から付けられた地名ではなく、奈良時代の文献では「淡海」「近淡海」と表記され、淡水であることも含まれているらしい。

(以下は展示から気になったテーマを取り上げます。後半2つの項目は内容が「地形地質探訪記」になっています)


■Pick up! 「瀬田橋」: 日本史が激しく往来した橋
(瀬田橋は琵琶湖の水位変化や瀬田川にも関わるテーマですが、ここでは歴史面に注目します。他の観点からは次の項目や別記事を参照のこと)

瀬田の唐橋外観
現在の瀬田橋と量水標(=水位計:右下)琵琶湖の水位を測ってきた量水標も現在は使用されていない。

「瀬田の橋はもう過ぎたか・・・。見よ、京が見える!いまひと押し、我が旗を、京に立てよ!」
これは黒澤明の映画『影武者』で、いまわの際にあった仲代達矢演ずる武田信玄が虚空に向けて放つ言葉である。

「瀬田橋」「瀬田の長橋」、主に「瀬田の唐橋」として知られるこの橋の初見は『日本書紀』である。7世紀の壬申の乱のおり、大友皇子の近江軍は大海人皇子の軍が渡れないように橋を狭く切り落としたという。その甲斐無く大友皇子は敗れ、自害して果てた。
この記録では既に橋が架かっているので、いつから架橋されているのかなど、より古い時代の様子は分からない。現在は1979年(昭和54年)に架け替えられたコンクリート製の県道となり、欄干の擬宝珠に歴史への配慮が残っている。

東国から京へ入るのに、自然地形で最後に問題となるのはこの瀬田川の渡渉であり、瀬田の唐橋は都防衛のため重要な要衝とされてきた。瀬田川を渡れば残るは逢坂の関と東山のなだらかな丘陵を越えるだけとなり、守る側にとっては瀬田川を渡らせないことが肝要となる。そのため橋は何度も戦場となり、焼失しては再建を繰り返してきた。

戦国時代、信玄など東国の戦国大名にとって「瀬田の橋を渡る」とは、京へ上洛し足利将軍家から天下人として承認を受けることであり、それは全国制覇への最有力者となることを意味していた。

尾張・美濃を地盤とし地勢的に有利だった織田信長は永禄11年(1568年)、将軍家嫡流の足利義昭を伴って京に入っている。『信長公記』によれば、その際現在見るような形状に架け直させた瀬田の唐橋を渡ったという。
一方、遠方の甲斐という不利な条件下にあった信玄にその日はついに訪れることなく、信長上洛の5年後、元亀4年(1573年)、病を得て帰国の途中、信濃に没した。

琵琶湖博瀬田橋基礎  博物館に展示されている瀬田橋基礎構造。柱は復元。

上の画像は1988年に発見された基礎材の実物で、現在の唐橋から下流側80mの川底に沈んでいた。7世紀のものと鑑定されたので壬申の乱前後に設置されたものになる。水没していたために腐らず、また固定するための重し石も当時のままだった。
その形状から朝鮮半島より伝わった技術を用いていることが分かるという。
7世紀には白村江の戦い百済の滅亡という対外関係の節目があり、琵琶湖沿岸には百済王朝の官吏を含む多くの渡来人が居住していた。大津市では朝鮮半島特有の「オンドル」らしき遺構も発見されている。半島技術者の指導を受けながら建設されたことが想像できる。

現在の唐橋は全長260m、日本三名橋、日本三古橋、日本の道百選。
片側一車線と広くはないが普通に通行できる県道であり、かなりの交通量をこなしている。しかも現代社会では南に名神高速道路と東海道新幹線、北に国道1号線とJR東海道線まで集中し、瀬田川をまたいで人や物が激しく往来することは1400年前と同じである。

瀬田橋模型
展示されている橋の模型。ここでは『石山寺縁起絵巻』から南北朝時代の場面を再現している。


■Pick up!  「琵琶湖の地殻変動」:左右非対称の仕組み

地形地質のテーマになるが、ここで琵琶湖地域の大地が現在どのように動いているのかを簡単に紹介しておきたい。広範囲や地中深くは省略し、ぜひともこれは知っておくべきだという範囲で述べておく。自然災害や土地改良に直面したとき、幾らかでも地形の仕組みを知っておくと新しい視点が開けるはずである。

◇琵琶湖を挟んで東に平地と緩やかな山、西に急な山という対照的な地形なのはなぜか?

琵琶湖博地形図3

琵琶湖の東岸は広い平地と鈴鹿山脈まで緩やかに高度を増す山が続いているのに対し、西岸では比良山地と比叡山地が急峻に聳えている。西の湖岸沿いで平地のように見えているのは山地からの土砂が堆積したものに過ぎず、この図では描かれていないが湖の西寄りで水深は急に増している。
この地形図上で東西に直線を引き、地中の断面図を見てみると興味深いことが分かる。
地形図と断面図2

愛知県から琵琶湖西部にかけて蛇腹のように凸凹が反復し、それぞれの山は東へ傾いている。
これは恣意的な描画でなく、実際に確認されている地殻変動を示している。すなわち東から、

・濃尾平野は東が隆起し西へ傾くように沈降し、養老山地は隆起している。
・養老山地の西部と鈴鹿山脈も同じ動きをしている。
・鈴鹿山脈西部と琵琶湖も同じ動きをしている。
・琵琶湖は西へ傾くように沈降し、比良山地は隆起している(濃尾平野と養老山地の関係に同じ)。


地質学によって次のことがすでに知られている。

・この動きは100万年以上続いていて、隆起部分と沈降部分とが接する面は断層となっている。
・琵琶湖の湖底も東が浅く西が深く、水を除けば同じ構造が続いている。
・隆起する部分は垂直に上昇するのでなく、西へ傾く動きをしている。このことは同じ地層が平地部と山頂部に分離していることからも分かる。
・養老山地・鈴鹿山脈ではこの構造のため、東斜面は急峻で西斜面はなだらかという非対称である。一方、比良山地では南北に走る断層活動のため非対称の様子は不明瞭である。
・琵琶湖はかつて現在より東南にあって、鈴鹿山脈の隆起と滋賀県西部の沈降によって移動してきたものである。
・この地域の断層活動で隆起と沈降を起こしているのは大きく見れば東西圧縮力による逆断層の動きが中心であり、また琵琶湖から比良山地・比叡山地にかけては若狭湾から大阪平野にかけて「琵琶湖西岸断層帯」と呼ばれる横ずれ/逆断層が多数走っている。これらの断層はしばしば歴史に残る大地震を起こしている。


断層と震源図 展示から近畿地方の地震震源分布と断層図 (クリックで拡大)

滋賀県全体の地図を見ると、全体がひとつの盆地であることが見て取れる。琵琶湖はその底に水が溜まったもので、湖底の最深部は海面より50mも低い。
この構造は数百万年以上続く地殻変動が作ったもので、滋賀県だけでなく、京都盆地、山科盆地、大阪平野、奈良盆地も同じように地面の沈降と水の作用によってできた地形である。

ちなみに、山科盆地は標高40-50mで、水面高さ83mの琵琶湖より低い。その間にある170mの逢坂山(逢坂の関)が沈降していないことで、洪水を免れている。
その逢坂山は北の比叡山地、南の醍醐山地に挟まれた鞍部であり、この2つの山地とも、やはり琵琶湖側が沈降、山側が隆起するという逆断層の活動で盛り上がってきた山なのである。
この変動は次に述べる水位変化と密接に関わっている。

琵琶湖南部と山科盆地など
琵琶湖南部から山科盆地にかけての拡大図。膳所断層は知られている多くの断層から代表として記入した。
この図は次の「水位変化の原因」でも参照してほしい。



■Pick up! 「水位変化の原因」 : 4500年前の大地震か?
(未解明のため筆者による推論を含みます)

瀬田橋近くに位置する粟津湖底遺跡は、4500年前の縄文時代の大きな貝塚を伴い水面下2-3mにある。貝殻のほかに7000年前にもさかのぼる植物、堅果、人骨も含み、ここが当時陸地だったことを示している。加えて地上では分解されてしまう有機物まで残っていたのは、あまり時間を置かずに水没したことを示している。この遺跡が水没したという点については意見が一致していることである。

粟津湖底遺跡写真
粟津湖底遺跡は貝塚を含む縄文時代早期の遺跡。1990-91年に塀で囲み排水して調査された。

琵琶湖では多くの湖底遺跡が存在し、中世の集落が沈んでいるものについての原因は大地震による地滑り説があるもののまだ定かでないうえに、それで説明できない遺跡も多い。
粟津湖底遺跡など縄文時代の遺跡については水位上昇によって水没したと広く言われている。ところが水位が上がった原因についてはまだ定説がない。

ところでこの付近には粟津貝塚のほか、上図のように2つの貝塚がある。
ひとつは石山寺の前、石山貝塚で縄文早期(6000-7000年前)、もうひとつは小型の蛍谷貝塚で同じ縄文早期(6000年前)、この3つは瀬田川に沿うわずか2.5kmの範囲内にあり、石山貝塚と蛍谷貝塚は現在も陸地である。時期を考えると石山貝塚→蛍谷貝塚→粟津湖底遺跡の貝塚、という順番に使われたようにも見える。

湖の水位が上がる場合、どのようなケースが考えられるのか?
水の出口は必ず1ヶ所である。その出口が塞がれるか高くなる場合以外に水位の上昇する理由があり得るのだろうか?
下がるケースはよくあるが、上昇した例というのは古今東西でどれほどあるのか、それすら疑問だ。

新しく湖が誕生することは、川が土砂崩れや溶岩でせき止められて時々起こる。同じ仕組みで、既にある湖の流出口付近が堰き止められれば結果的に湖の拡大上昇になるだろう。しかし琵琶湖のように水量豊かな湖の下流では、土砂程度ではすぐに削られ元に戻るはずである。また縄文時代以後に溶岩の流れた形跡はまったくない。

残る原因としては、地盤の隆起以外に考えられないのではないか。琵琶湖そのものの地盤は動かずに、出口から下流側だけの隆起である。それも水没した粟津湖底遺跡と水没しなかった蛍谷貝塚と石山貝塚との間に境界(断層)のある可能性が高そうだ。

そもそも琵琶湖は200万年前ころは南東に存在し(「古琵琶湖」と呼ぶ)、徐々に現在の位置へ移動してきた。そうなったのは先述のように西で地盤が沈降すると同時に東は鈴鹿山脈にかけて隆起を続けてきたからで、その動きは現在も続いている。
数万年のスケールで見れば確かにこの地域は隆起している。とはいえ隆起するのは大地震によって一瞬に動く現象なので、問題は粟津貝塚の遺棄された時期にそれが起きたかどうかである。

大津市東南部には琵琶湖湖岸に平行して、琵琶湖西岸断層帯南部に属する膳所断層という逆断層があり、最近では1185年に地震を起こして西側(醍醐山地)が6-8m隆起した可能性があると言われている。この断層そのもの、または近縁の断層が4500年前に動いた可能性も少なくないと思えるのである。ここに焦点を絞った断層調査はなされていないようだ。
(上図参照)

現時点では琵琶湖として本当に水位が上昇したのかどうかも見解が分かれている。もし上昇説が正しいのならば、琵琶湖から流れ出る瀬田川上流域は5000年前の縄文時代以後の間もなく、おそらく粟津貝塚が遺棄される4500年前に地震によって4mほど隆起し、直後に琵琶湖の水位が上昇したのではないだろうか。
貝塚は短時間で水没しなければ表層の速い水流に浸食されて消滅するはずなので、これも地震説の根拠になる。

このように湖底遺跡のうち縄文遺跡が水没しているのは地殻変動説が考えられる。しかし有史以降、中世の遺跡まで琵琶湖に沈んでいることは、同じ原因では説明できない。それらは別の考え方が必要になるだろう。

なお、特に有名な琵琶湖北端の葛籠尾崎湖底遺跡は現在も「定説無し」「謎」とされているが、損傷のない土器が多いこと、水深が深く生活していたと考えられないこと、遺物の範囲が広いことなどから、ここでは人が居住したのでなく器物を水上から投下したものと考えるべきだろう。他の湖底遺跡とは別枠としたほうがよい。
竹生島と葛籠尾崎
琵琶湖北部、竹生島(左)と葛籠尾崎(右の半島)を東から見る。湖底遺跡は突き出た岬の手前、水深19-70mで広範囲に渡っている。

■補足


館内展示では湖畔の人々が洪水に苦しんできたことも紹介されている。河川氾濫は珍しいことではないから余り気に留めることがなかったが、むしろ湖底遺跡の存在を知ったことで、琵琶湖の水位変化→湖水の流出路としての瀬田川、人と瀬田川の関わり→田上山の伐採→瀬田川の氾濫→南郷洗堰を中心とする治水事業、といった関心が次々に刺激され、瀬田川の「アクア琵琶」(大津市)という国交省のPR施設まで見学へ行くことになった。

琵琶湖・瀬田川の洪水は、田上山伐採の問題にも直結している。田上山は人の活動によって瀬田川の流れがどう変化し、人の生活にどう跳ね返ってきたのかを学習する好例である。この琵琶湖博物館の記事に取り上げる構想だったが、アクア琵琶の展示で非常に詳しく解説されていることから、そちらの博物館訪問記で紹介することにする。

興味の発端となった湖底遺跡がなぜ存在するのかという疑問に加え、琵琶湖の水位が古代から上昇したのか、遺跡が丸々地盤沈下したのか?ある地質学者は地震による地滑りで琵琶湖にスライド水没したのだと言うが事実だろうかなど、琵琶湖博物館に踏み込んだがために、多くの疑問を与えられてしまった。今後も折に触れ探求を継続していくことになりそうだ。

(アクア琵琶は博物館訪問記として、瀬田川は地形地質探訪記としていずれ別稿にまとめるつもりです。また瀬田川沿いにある石山寺は地形地質探訪記:「石山寺珪灰石」として掲載済みです)

■最新訪問時期:2013年1月

■当ブログ関連記事

地形地質訪問記「石山寺硅灰石」

■参考資料
『日本の地形6 近畿・中国・四国』(東大出版会 2004年)
「琵琶湖西岸断層帯の長期評価の一部改訂について」
平成21年8月27日 地震調査研究推進本部/地震調査委員会
石山寺観光案内所・石山貝塚パネル展(近江しじみ貝塚研究会 2012年)
など




三内丸山遺跡(青森):縄文大集落と大型建造物の謎

カテゴリー見出古代史

三内丸山遺跡広場
三内丸山遺跡を代表する大型竪穴住居(左)と六本柱遺構(=大型掘立柱建物:右)

■概要

三内丸山遺跡は古くから土器や土偶の出土で知られ、平成に入って野球場建設のための予備調査で大きな発見が相次いだことから計画は変更され、遺跡公園として保存されることになった。多量の石器・土器・土偶の発見、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、墓地、大型掘立柱建物跡、道路跡などが検出された縄文中期の約1500年間に渡る大規模な集落遺跡である。
太い柱穴から推定復元された大型建物、大型櫓は大人数でなければ建造できないものであり、DNA分析によってクリの植栽が明らかになったことも含め、社会単位が数十人と考えられていた縄文時代のイメージを大きく変えることになった。

(この記事では初訪問者への助言、概要の紹介と、個人的に注目するポイントだけを取り上げます)



名称三内丸山遺跡:さんないまるやま いせき
国指定特別史跡 
所在地青森県青森市三内丸山
対象年代縄文時代中期(5500年前~4000年前)
交通機関JR青森駅から西南へ7km、車で20分
JR新青森駅から南へ2.5km、車で10分
青森空港から北へ8.5km、車で30分
市営バス「三内丸山遺跡」下車
マイカー・青森自動車道青森ICから東南へ1km
・青森市中心部から西南へ4km
・東北新幹線新青森駅から南へ2km
・無料駐車場あり
付帯施設縄文の丘 三内まほろばパーク「縄文時遊館」
 ◇開館時間::4月1日~5月31日 午前9時~午後5時
          6月1日~9月30日 午前9時~午後6時
          10月1日~3月31日 午前9時~午後5時
          (※入場は終了時間の30分前まで)
 ◇休館日・休園日:年末年始休館
 ◇入場料:無料
・縄文の食材を使用するというレストラン、図書室、体験工房などあり
問合わせ縄文時遊館 017-781-6078
                 017-782-9462
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

◇遺跡名称読み方
三内丸山:さんないまるやま  亀ヶ岡:かめがおか  大湯:おおゆ 
伊勢堂岱:いせどうたい  御所野:ごしょの


■見学詳細

遺跡エリア、関連施設など全体が「縄文の丘 三内まほろばパーク『縄文時遊館』」という公園になっている。
入場、駐車場はすべて無料
・夜間は公園全体が閉園される。

三内丸山駐車場から入口 駐車場から縄文時遊館への入口

・「縄文時遊館」がビジターセンターとして施設全体の入口になり、遺跡へは建物を通過して向かう。展示施設「さんまるライブラリー」は時遊館の一部。いずれも無料。
・遺跡エリアでは多くの建造物が復元されていて、見学は所要1時間。無料のボランティアガイドツアーあり。
・主な出土品を展示する「さんまるライブラリー」の見学は30分から1時間程度必要。展示解説が随時行われている。
・撮影可能

・遺跡の本格的な調査が最近なので施設も新しく立派。駐車場も見学も無料なのは青森県議会が議論の末に決めた。
・復元された大型建物と櫓は国内の縄文遺跡で例を見ないものである。これを前にしてどれだけ想像力を広げられるかで、満足度は左右されると言ってよい。

・展示施設の「さんまるライブラリー」だけでも学べるものは多い。
・「縄文時遊館」HPで16ページ構成の冊子がPDFファイルとしてダウンロードできる。

<周辺広域地図>
三内丸山遺跡広域地図 三内丸山遺跡と周辺の主な縄文遺跡

■遺跡内容詳細

・この遺跡が注目された第1要因である大型建物は二つあり、現在「大型竪穴住居」「六本柱遺構・大型掘立柱建物」として推定復元されている(冒頭写真の建物)。

「大型竪穴住居」の用途は共同住宅、集会場、作業場などの説があるが、多用途を兼ねたとも考えられる。想像だが、積雪の多い冬期に生活効率を上げるため集まって暮らしていた季節集合住居の目的があったのではないか。
 
「六本柱遺構」は用途も想像の域を出ず、復元のように壁のない櫓状だったか、壁のある建物だったのか、さらに屋根の有無も分かっていない。復元されている高さになっていたとすると、当時迫っていた青森湾が見えたという。見張りや目印かもしれない(後述)。
残念ながら見学者が登ることはできない。


・発見された有力者を葬ったと見られる墓地に直径4mと小型の環状列石が施されていた。三内丸山より後になると秋田・大湯環状列石のように規模が大きくなるが、墓地として石で円形を描くという様式がすでに始まっていたとも言える。

・縄文集落遺跡は全国で無数に見つかっていて、多くが人口数十名止まりである。当時は親族でひとつの集落を構成していたらしく、婚姻は近隣の他集落と交わしたと推測される。その時代に人口200名以上とされる三内丸山遺跡は異例の大規模な集落である。

・この人口推定は、大型建物を建造するに必要な人数から算出されたもので、根拠がやや弱い。建造時にだけ近隣から手伝いが集まった可能性もある。大きい数で500人とする意見があるが、建造年を正確に決められないまま「同時期の家屋」を単純に考え過ぎていて簡単に同意できない。

・三内丸山遺跡の出土品からは、列島全体の縄文文化から大きく離れる思想や様式は見受けられない。規模は大きいが文化は共通の範疇である。このように縄文文化が日本列島全体でほぼ一様であることは、当時の交流の多さを物語っている。

・三内丸山が注目された第2要因として、クリ材のDNA鑑定から、人為的にクリが多く植えられていたことが判明した。クリは石器時代から茹でなくても食用にできる貴重なエネルギー源であり、材木としても役立つことから、広範囲に植えられていたらしい。

・植栽を最初の農業と呼ぶのは無理があるが、有用な植物を集落の近くに移植し増やしていたという発見は国内初のものであった。なお、周辺の自然植生は花粉分析からもともとブナ林であり、三内丸山に人がいなくなった後にはブナ林に戻ったことが確かめられている。

【キソの確認1】建物の推定方法
どの遺跡でも建物に関して発見されるのは柱の穴に過ぎず、その並び方や太さで地上に構築されたものを推測する。三内丸山では一部で柱材の根元が当時のまま残っていたが、稀なことである。太い柱は大きく重たい物が乗っていたとか、整列した柱はひとつの建物だとか、細くて一列だけなのは塀であるなどといった公式から当時の様子を考古学者が類推している。想像の及ばない意外な建造物もあったのかもしれない。

【キソの確認2】縄文時代の遠距離移動
古代では遠方へ赴くのに陸地を歩くより、舟で沿岸を辿るのが主な交通手段だった。縄文時代では簡単な丸木船を用いたとされる(ちなみに横転防止の「アウトリガー」は未発見)。縄文集落はそういった交流に便利な海岸沿いで、高い波の寄せない内湾のあるところに多い。また、地域ごとの独立した社会だったらしいが、遠方との交流は想像以上に盛んだった。

【キソの確認3】金属のない時代
縄文時代はまだ金属を使えず、また農業を営んでいない。ふたつとも紀元前600年頃からの弥生時代以後の文化であり、縄文時代における木の加工は石器で行っている黒曜石(こくようせき)というガラス質の石はナイフのように鋭く、欠かせない道具だった。その産地は限られるため、どこの黒曜石が出土したかで交流の様子が推し量れる。三内丸山からは北海道・白滝や、長野県・和田峠のものが出土している。


■Pic Up!

◆六本柱遺構(大型掘立柱建物)はどんな建造物だったのか?
(注意:遺跡のHP冒頭に載っている写真で六本柱遺構が傾いているように見えているのは画像の歪みです。実物はまっすぐ建っています)

三内丸山六本柱 推定復元された六本柱遺構:クリックで拡大
三内丸山のシンボルとも呼ぶべき高さ20mの櫓を「六本柱遺構」と呼んでいる。様々な議論を経た折衷案(または妥協案)として今は暫定的な姿に復元されている。
発掘作業で古代の建造物跡として見つかるのは、いつでも柱の穴だけである。その穴の太さ、深さ、傾き、並び方、配置から想像力を巡らし、幾多の調査済み遺跡も参考にしながら柱は何を乗せていたのかを類推していく。ここは考古学者の才能が問われる重要な作業だ。
復元に際し一番議論が交わされたのは、屋根があったのかどうかという点だったという。現在は屋根無しになっている。

この柱穴では柱自体の根が6つのうち2つで残っていた。
三内丸山柱穴残存 柱の根が残っていた穴の一つ(実物)。穴の直径2m。

この6つの穴が他の建物跡と違う点がいくつかある。
    ・柱で直径1m、穴は2mと太く、深さが2mと、堅牢性が高い
    ・内側へわずかに傾けてある
    ・竪穴住居のような、地面全体を掘り下げた様子がない

すぐ隣に復元されている大型竪穴式住居とはこの3点が異なっている。
大型竪穴式住居ではカマド跡も見つかっていることから、人々が居住、または長時間屋内で過ごしていたことが明らかなのに対し、六本柱は地面に柱穴以外の遺構がなく、第2層以上に目的があったと窺える。

太さ1mの栗の木を6本用いれば、相当な重量も乗せることができたはずである。ただし注意しておくべきことは、柱が頑丈だったことで復元のように20m近くの高層を目的にしていたと単純に断定はできない。
なぜなら太い栗の木を縦割りにしたり、外回りをそぎ落として扱いやすい細さに加工することは石器しかない縄文時代の技術ではかなりの手間がかるため、必要以上に過度な太さをそのまま使用したとも考えられるからである。
この可能性は踏まえておくが、それでも筆者は高層建築だったという考えに賛成である。それは目的から考えてのことで、望楼であり、また目印だったと想像している。

◇六本柱高層建造物の目的(筆者推論)

三内丸山の人からは遠くを見通すために、そして来訪者からは目標地点を目視するための構造物だったのではないか。
根拠は縄文時代の主たる交易ルートである青森湾からよく見える位置が選ばれていることである。
地形図を見ると、遺跡のすぐ北に接する運転免許センターは海抜4mしかない。そのまま青森市街から青森湾まで、3m、2mと下げ、4kmで海に届く。三内丸山が栄えていた時期は縄文海進という海が数メートル高かった時代であり、青森市街は大部分が海、運転免許センターも含め、ここを流れる沖館川(おきだてがわ)が入江だったことは間違いない。三内丸山遺跡のすぐ横に港があったはずである。
三内丸山海岸線入り地形図当時の海岸線と遺跡の位置:クリックで拡大
下北半島と津軽半島の間・平舘海峡を通過して青森湾に入ってきた船からは天気が良ければ30km先からでもこの「櫓(やぐら)」が見えたのではないか。また櫓の見張りからも船の接近が見え、迎える準備ができる。また火を焚けば日暮れの到着者に大きな便宜となる。
もちろん、祭祀など他の用途を兼用した可能性は高い。しかし大勢が苦労して他の地区で類のない構造物を作り上げた目的として、実用的な展望台と同時に異国からの来訪者に自分たちの先進技術を見せつけることは大きな効果があったのではないか。古墳時代の仁徳陵と同じである。


なおその入江地形に合流するひとつの支谷として小さな「北の谷」があり、ここは排泄やゴミ捨て場とされていたらしく多くの遺物が発見されている。


■青森の地勢的な意味

当ブログ「亀ヶ岡遺跡」にも書いたことだが、青森は北海道との交易窓口として重要な拠点だったと想像できる。青森湾周辺の人々にとってだけでなく、本州全体の縄文人と北海道との交易を仲介していたのではないだろうか。

縄文時代は陸路よりも沿岸を船で移動した交易が盛んで、岩手や秋田の内陸に居住する人々にとっては徒歩で津軽へ出て、三内丸山の人々と友好関係を築いて海産物や北海道など遠方の品物を入手したと思われる。

発見されている代表的な遠方の品物は、北海道黒滝の黒曜石ナイフ新潟のヒスイ(宝飾品)秋田のアスファルト(接着剤、防水剤)がある。これらは船でなければまとめて運ぶことが困難で、海岸に住んで船の技術を持つ人々が先進文化を担ったことだろう。三内丸山はその意味で好条件の場所にあった。


◆東北の縄文遺跡

(冒頭の周辺広域地図を参照)
この三内丸山以外にも、青森・秋田・岩手の東北三県には注目すべき縄文遺跡が多い。例えば遮光器土偶の出土した亀ヶ岡遺跡、ストーンサークルの大湯環状列石伊勢堂岱遺跡御所野遺跡などである。
また三内丸山からわずか10km南には時期の継続する小牧野遺跡があり、ここの環状列石の並べ方は三内丸山と共通していることなどから関連が注目される。。
縄文遺跡は特定の地方に集中したり、価値の高い遺物がまとまっていたりということはなく、海岸沿いに限らず魚介類を採れないような山間地にも分布している。縄文時代は現代のように大都会に人が集まってくるという動きがないのである。
それらこれまで発見された中で、三内丸山遺跡はもっとも規模が大きい。


◆クリDNAの誤解

クリのDNA分析という科学的手法によって、集落周辺にはクリの木が多く人為的に植えられていたことが分かった。これは三内丸山遺跡が注目を集める大きな要素になっている。
このニュースは「農耕」の始まりだったと解釈する説を呼び、マスコミが好んで取り上げることになった。しかしこれをもって「農耕」というのは飛躍し過ぎであり、科学者の取るべきスタンスではない。「栽培」と呼ぶのも難しく、「植栽」とするのが良いのではないか。これらの語句は人の関わる程度によって、使い分けるべきである。

種や枝を埋めることで木が育ってくることは、縄文人も容易に気付くはずである。ポイントは生育を助けるために、地面を耕したり水を撒いたりといった労務作業を行ったのかどうかという点で、作業に注ぐ手間が多ければ「農耕」が相応しいし、植えただけならば「植栽」だろう。その作業痕跡は発見困難かもしれないが、見つからない以上は農耕と表現するべきでない。

縄文人がそういった成長要素まで考えずに、クリの木を増やそうという意図で手当たり次第に枝を地面に差し込み、あとは放置していったとしても、その一部は育ったことだろう。しかしこの程度の関わりを弥生時代に始まる稲作のように大きな手間をかけ、大集団を形成する契機となっていく“農耕”と同じ範疇に入れることは無理がある。

またDNAの揃っていることから「選別されたクリ」と表現する文献もある。わざわざ離れた場所のクリの木を取りに行くはずはないから、狭い範囲のクリが起源となってDNAも揃うのは当然である。一般的なクリより優良な性質であると証明できない限り、多くの中から「選別した」と考えるのは強引な想像である。


■三内丸山はなぜ終焉したのか
三内丸山年表  

古代史に関心を持つならば、それぞれの遺跡がなぜ終焉したのかは必ず考察するべきテーマである。
三内丸山遺跡は今から4500年前にもっとも人口が多く、その後徐々に衰退して4000年前に終焉したらしい。その時期は全国的に縄文遺跡の規模が縮小している時期とも一致する。
原因としてもっぱら言われているのは気候の寒冷化であり、この気温低下は地質学でも確かめられている事実である。しかしそれが三内丸山の衰退原因と断定できるかどうかはわからない。
ひとつの考えとして、遺跡周辺に広く植栽されていたクリは、寒冷化してしまうとうまく育たない可能性がある。しかしこれもはっきりしていない。
もし寒冷化が深刻な問題になるのなら、三内丸山だけでなく東北全体、及び北海道の縄文遺跡でも衰退が現れるはずである。ほかの遺跡では住居跡が減少しても一時的で、のちに生活が再開される例が多い。三内丸山ではなぜ再開がなかったのだろうか。ライバル集落に敗退したのだろうか。
戦乱の形跡はないので、そうなると考えられるのは、大集落として担っていた(委ねられていた)重要な機能を何らかの事情で果たせなくなったか、もっと有能な他地域に機能が移転したのではないか(ここには三内丸山が単なる大型集落でなく機能都市だったという前提がある)。

終焉の事情について、公式にはまだほとんど分かっていない。筆者は移転説を考えている。
いずれ改めてこの事情は考察することにしておこう。

重要拠点の移動という観点からは次のことも考慮しておきたい。
当ブログの「亀ヶ岡遺跡」記事でも触れたことだが、三内丸山がほぼ放棄された後、1000年経って亀ヶ岡が栄え始めている。地形的・地理的に考察して、筆者は全盛期の三内丸山のように本州と北海道をむすぶ交易拠点としての役目を亀ヶ岡が担ったのではないかと想像している。亀ヶ岡が栄え始めるまで空白の1000年間はどこが担っていたのかが問題だが、知られている遺跡には相応しいものがなく、まだ発見されていない(あるいは破壊されてしまった)重要遺跡が隠れているのではないだろうか。

筆者が作製した上の縄文年表では、三内丸山遺跡の直後に小牧野遺跡が出現するように描いた。遺跡の調査から年代を単純に当てはめればこのようになるが、人々が引っ越し・継続したと短絡に考えることはできない。三内丸山に想定している交易拠点としての機能を果たすには小牧野では疑問が多いからである。


【縄文社会の謎1】雪国に縄文人はどう適応していたのか?

東北地方の縄文遺跡からは土偶を始め、際立った遺物が多く発見されている。それに対し西日本の縄文遺跡はあまり注目されることがない。
素朴な疑問は、南国に較べて雪の多さや寒冷で暮らしにくいであろう東北や北海道でなぜこれほど縄文文化が栄えたのかということである。
そして三内丸山にはなぜ大規模な集団(人口200人程度)ができたのだろうか。

まず、東北・北海道で栄えているというのは、そう見えるだけかもしれない。西日本の縄文遺跡から耳目を集める発見が少なかったり、弥生遺跡に研究が偏っているのかもしれず、即断できない。
それにしても雪の多く寒い土地で縄文人はどのように耐えていたのかは気になるところだ。

筆者の想像ではむしろ積雪によって「引き籠もり」時間が多くなったことが、土偶などの非実用生産を発達させ、冬季用の保存食技術も進歩した可能性がある。
上にも述べたように、三内丸山で復元されている大型建物はこの籠もり施設だったのではなかろうか。小型住居に分散しているより暖房の燃料が少なく済み、コミュニケーションも取りやすい。ほかの縄文遺跡で類似の大型建物が見つからないのは単に建築技術上の問題で、三内丸山の技術が優れていたとも考えられる。

三内丸山大型住居内部 大型竪穴住居の内部。冬の間ここに籠もっていたのだろうか?

これは偶然かもしれないが、いずれも際立った芸術品と呼べる新潟の火焔土器、長野の土偶「縄文のヴィーナス」などは、冬に積雪に閉じこめられる地域の遺跡から見つかっている。外出の難しい冬に屋内で時間を過ごすことによって、縄文人は精神文化を深めていったとは考えられないだろうか?

新潟の火焔土器
新潟県馬高遺跡出土の火焔土器。屋内に籠もって冬を過ごす縄文人にとり、炎はどのような存在だったのか?

雪国での保存食について2点指摘しておきたい。

話が脱線するようだが、日本人が塩分を摂り過ぎる原因は、漬け物文化にあると思う。作物の採れない冬季をしのぐために、先人は塩を使って保存する方法を多用してきた。海に囲まれた日本では入手が容易な塩を保存手段に使うことが適していた。
漬け物に慣れた日本人の味覚が、現代でも塩気の多い食品を好むように仕向けているのではないだろうか。そしてこの伝統はすでに縄文時代から始まっているのではないか。

もう一点、多雪地では食品を雪の中に保存する方法が使える。冷蔵庫が普及した現在では必要性も薄れてしまったが、今でも実行している地域がある。方法は積雪がまとまり始めたタイミングで地面に食品を置き、雪で覆うだけである。地面のわずかな熱が雪の断熱効果で保温され、凍ることなく1~3度が保たれるために傷まず、かえって糖分が増えて野菜は美味しくなるともいう。この方法を縄文人は当然知っていただろう。
これらの点を考慮に入れると、多雪地という条件は縄文人にとってハンディキャップとも言い切れないようである。


【縄文社会の謎2】なぜ小規模社会だったのか?

三内丸山に限定することではないのだが、縄文時代の文明について想像することがある。
縄文時代は1万年の永きに渡っている。その間、少しでも暮らしやすい場所に人々が集まって大集団になっていく行動はなかったのだろうか

社会は総人口があっても人口密度が低い間は発明や革新は生まれにくく、集団規模が拡大すれば発達が加速する。世界の古代文明を見ても、川のほとりに人が集まることで文明と呼べる大きな社会が築かれている。

集団の人数が大きくなれば社会が階層分化し、支配者として「王」が生まれる。
階層が分かれると、職業としての兵士や官僚、職人が現れる。それぞれが専門分野に特化して技術を向上させることで、従来になかった文化が誕生するものだ。

規模の拡大した社会が自ずとこの方向に向かうのは、おそらく世界共通の原理だろう。人口200人と見積もられている三内丸山でも、埋葬の様子から幾らかの階層構造があったようである。

発見される遺跡を観察する限り、縄文時代は最後まで列島各地で小単位に人が分散していたかのようである。その要因は必要性に迫られず、少人数の集団のままで特に困らなかったからだと考えるのが順当であろう。
だが本当に困らなかったのだろうか。

縄文時代後期には遺跡の数が急減していることから、人口が減ったと推測されている。その時期は気候が寒冷化したことがわかっていて、食料に困ったのではないかと想像される。そのような困窮に陥って、集団の規模を増やして解決を求めようとする行動はなかったのだろうか。

人口が減ったのはおそらく確かだ。それでも縄文人は分散したままだったのだろうか。或いは小規模の集落を放棄して集まろうとしたが、遺跡として発見されるほどの「町」を作る時間がなかったのか、発見されていないだけなのか。

もし縄文人がどこかに大きな集団を形成し安定的に活動していたならば、朝鮮半島からの渡来人によって扉の開けられる弥生時代を待たずに、新しい文化が展開されていたのかもしれない。

◇この三内丸山遺跡は縄文時代を代表する遺跡であり、この一本記事で終了させず、今後も追加取材・掲載をしていきます。

三内丸山板状土偶
「さんまるライブラリー」に展示されている板状土偶。
高さ32cm。首で上下に分割され、離れた場所で発見された。分割されたことも離れて埋められていたことも意図的であり、全国に共通する縄文期の宗教観を示している。
(板状土偶とは一枚の板になっているもの。三内丸山では中空になった立体構造の土偶は見つかっていない)

■筆者の最新訪問時期:2012年10月


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