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古代出雲歴史博物館(島根):古代史の鍵を握る出雲


カテゴリー見出し博物館
※内容的には古代史探訪です


古代出雲歴博代表

名称島根県立古代出雲歴史博物館
ジャンル歴史文化系・島根県を中心とする古代の歴史
所在地島根県出雲市大社町杵築東99番地4
交通機関・JR出雲市駅から、一畑電車「出雲大社前駅」降車 徒歩7分
・一畑バス「古代出雲歴史博物館前」下車すぐ
・出雲空港から 一畑バス空港連絡バス35分「出雲大社」
マイカー・山陰自動車道出雲ICから15分
・国道9号線から約5km
・JR出雲市駅から8km
無料駐車場あり
その他の基点・出雲大社正門大鳥居から博物館入り口まで400m
・出雲大社拝殿前から博物館入り口まで400m
開館時間9:00~18:00(11月~2月は9:00~17:00)入館は30分前まで
休館日第3火曜日、祝日は翌日休み
入館料大人600円、年間券1500円あり
問合わせ0853-53-8600
http://www.izm.ed.jp/

■概要

出雲大社に隣接する土地で島根県により2007年開館した大型の歴史系博物館。
名称の示す通り出雲地方を中心とする古代に焦点を絞り、神庭荒神谷(かんばこ うじんだに)遺跡で1984年に発見された大量の銅剣類(国宝)、1996年に加茂岩倉(かもいわくら)遺跡での銅鐸類(国宝)、加えて2000年に出雲大社境内で発見された宇豆柱(うずばしら)を目玉展示としている。

(おことわり : 問合わせた結果館内写真のブログ掲載は不可ということなので、銅剣・銅鐸・三角縁神獣鏡などの青銅器類、墳墓模型など、目を惹く画像を載せられません。ご了承下さい)

◆難読読み方

◇地名
杵築:きづき 因幡:いなば 神庭荒神谷:かんばこうじんだに 加茂岩倉:かもいわくら
西谷:にしだに 神原:かんばら 石見:いわみ 斐伊川:ひいがわ
◇歴史用語等
国造家:こくぞうけ 宇豆柱:うずばしら 四隅突出型墳丘墓:よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ 大国主命:おおくにぬしのみこと 大神:おおかみ

■博物館内容

・平屋造りながら館内は広い 
・出雲大社境内出土の宇豆柱はロビーのガラスケースに収められている。
◇上記「概要」以外での主な展示
四隅突出型墳丘墓の西谷(にしだに)3号墓模型、石見銀山、『出雲風土記』時代の島根地方の様子、実物大に再現したタタラ製鉄のふいご、古代出雲大社の高層神殿説模型5案、神原(かんばら)神社古墳出土の「景初三年」銘入り三角縁神獣鏡、4本用意されている神話シアターなど。

・音声ガイド機の無料貸し出しあり
・資料室は「情報交流室」という名称で、質問に応じる学芸員が一人常駐する。
・不定期ボランティアガイドあり。
・展示室の撮影可(2011年から)。ブログ等掲載は不可。

・新しい博物館でかなり予算を投入しているらしく、建物、スタッフ、展示とも充実している。
・古代史知識が初級の人でも、高層出雲大社模型や宇豆柱、神話シアター、実物と並んでいる大量の復元銅剣の輝きは見物。展示室にはアテンダント嬢が控えていて質問に答えてくれる。
・古代史中級者以上では、有名な青銅器類、「景初三年」銘入り三角縁神獣鏡の実物、古文献、豊富なジオラマなどで想像を膨らませていると、館内一通り見学するのに半日くらい必要になる。

・なお、県が作ったこの博物館から東南方向に8km離れた西谷墳墓群の地に、出雲市が2010年「弥生の森博物館」という古代史博物館をオープンさせている。こちらもいずれ別稿で紹介する。



 出雲地方の古代史について                     

■前書き:出雲への注目度

(この記事は2013年2月ー3月に作製しています)
2013年5月に出雲大社は60年に一度という遷宮を行う。祭神である大國主大神が仮の住まいから新装なった本殿に還るのが5月10日となっている。

古代出雲歴史博物館は出雲大社の隣で2007年に開館した。

従来、出雲大社というと縁結びで有名な神社として名を馳せても、古代史研究の視点からは注目されて来なかった。大社だけでなく、出雲や島根全体が神話の舞台であっても史実の舞台としては北部九州や近畿地方の陰になり、目を向ける研究者が少なかった。

それが激変したのは1984年から相次いだ神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡での青銅器類の発見による。当時は全国のメディアがトップニュースで報道していた。
加えて2000年、出雲大社での宇豆柱の発見は古代高層神殿説に現実性を与えることになった。本当に高さ48mの“空中神殿”があったのか?

古代出雲宇豆柱
2000年に発見された柱。一本の直径1.35mが3本で一体となり、周囲を石で囲ってあった。博物館ロビーに実物を展示中。

島根県はこれらの新発見を通じて古代出雲地方の繁栄ぶりに光を当て、今は経済後進地域と扱われてしまう島根県に誇りを取り戻したい思惑があるようだ。この博物館は十分にその役目を果たしていると思う。

しかし博物館を訪問する側は、島根県の経済状況や出雲大社の遷宮よりも、古代出雲の史実に興味がある。
関心の向かうのは、青銅器の新発見も、古代空中神殿の存在も、古代の出雲地方・山陰地方が全国から見て特別な地位にあったことの傍証なのかという点だ。

これらの発見以前からも、ヤマト朝廷が国家事業として自らの歴史を記録した『古事記』『日本書紀』の中で出雲が“神話”の舞台として頁を大きく割かれていることについて、一定の注目はあった。しかし古代史研究の世界では脇に置かれていたと言っていいのではないだろうか。出土物を重視する考古学者は近畿や北部九州に向かい、山陰は重視されていなかったようだ。

その状況は出雲大社が前回遷宮した1953年とは大きく変わっている。
神庭荒神谷の銅剣358本、加茂岩倉遺跡の銅鐸39口だけではなく、平成に入ってから青谷上寺地遺跡妻木晩田遺跡など山陰地方での重要な発見は数え切れない。大型古墳は丹後地方にしかなく、鳥取や島根では100m級止まりなのが古代山陰を不当に低く評価させた理由のひとつだろうが、古墳は古墳時代の遺物であり、相次いだ大きな発見はもっと古い弥生時代のものばかりである。ここに鍵がある。

ヤマト朝廷が国史を作るにあたって“過去”の情報を蒐集したとき、すでに大型古墳を作り始めた時期から300年が、その前の弥生時代からは400-600年以上が過ぎていた。文字がなく世代間による口承のみで情報相伝という時代。古墳の時期でさえ記憶の曖昧な状況で、より古い時代の山陰地方はどのように扱われたのだろうか?結果として出雲の出来事が“神話”となったのはなぜなのか?

発見によって、山陰は弥生時代に北部九州と同等、近畿地方と同等かそれ以上の文化があったことが濃厚になっている。ここで言う山陰とは、東は丹後地方まで含む。日本史の教科書で現在、山陰地方が記述されるのはどの出来事だろうか。古代の一時期、国内で最先端地域だった可能性もあるくらいだ。この想像には十分に根拠がある。

この稿は「博物館訪問記」のカテゴリーなので、以下では古代出雲歴史博物館の展示の幾つかから想像を膨らませてみる。
山陰地方の他の地域はそれぞれに記事にまとめていくつもりである。
出雲についてもこの記事一本ではとても扱いきれないので、それぞれの遺跡として、また他の展示館などもいずれ改めて採り上げることにする。


■基礎の確認

◇『古事記』『日本書紀』での出雲の扱い

(以下ではこの両者をまとめて『記紀』と表記する)

『記紀』では初代天皇である神武より前は「神代紀(じんだいき)」と呼ばれ、ここまでが神話とされる(この区分は虚構であるか史実であるかには無関係であることに注意)。神話の約三分の一は出雲が舞台になっていて、他地域に較べ異例に扱いが大きい。
(考古学的には圧倒的な先進地域だったはずの北部九州の伝承が、ほとんど『記紀』に反映されていないことは注目するべき)

出雲はまず天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟である素戔嗚尊(スサノオノミコト)が高天原を追放されて降り立った場所として描かれる。
そこでスサノオは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、その尾から3種の神器となる「草薙の剣」が現れる。

スサノオから6代目に生まれるのが出雲大社の主祭神である大国主命(オオクニヌシノミコト、またオオアナムヂ、その他別名多数)である。
オオクニヌシは因幡の白兎説話、北陸地方との交流を示す高志(こし)の国との婚姻、渡来人を表すと思われるスクナビコナの神との美保関での出逢いなど、いくつものエピソードに彩られている。

高天原にあって地上を見ていたアマテラスはその地(「豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国」)を直接に治めようと考えた。紆余曲折の末、遣わされた建御雷神(タケミカヅチノカミ)の前でオオクニヌシはそれまで自分の統治していた国を差し出すことになるのである。これがいわゆる「国譲り神話」である。

この時、オオクニヌシは自分の遁世する住居として立派な神殿を建ててほしいという希望を述べた。これが聞き入れられたものが、出雲大社の起源であると言われる。

古代出雲稲佐浜
出雲大社にほど近い稲佐浜。国譲りの交渉がなされた場所と伝わる。毎年11月に「神迎え神事」が執り行われる。

ここまでが出雲を舞台にした神話である。ここにはかなり端折って書いたが、『記紀』では出雲を舞台にした部分に多大な字数を費やして、多くのエピソードが描かれている。
この続きは瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨に繋がり、舞台は九州の日向(ひむか)へ移る。

出雲神話に登場する中で際立っているのはスサノオノミコトとオオクニヌシノミコトの2神であり、古代出雲歴史博物館の神話シアターで用意されている上映プログラム4本のうち、2本は「スサノヲ神話」「オオクニヌシ神話」となっている。

◆出雲大社の創建はいつか?

古代出雲大社拝殿 出雲大社拝殿(2009年)

創建時期は上記の通り『記紀』を素直に読めば「国譲り」の時点で大型建造物として建立されたことになるのだが、時期は2~5世紀のどこかとしか解らない。
第10代崇神天皇の紀における出雲征伐の件で、「出雲の大神の宮」という語句があり、「Wikipedia」ではこれを出雲大社と断定しているが、八束郡の熊野大社とも考えられ(『日本書紀』岩波文庫の注釈より)、この時期に大社が存在していたとは言い切れない。もとより崇神天皇の実在も時期も不明である。非実在としても、仮象されたモデルや出来事は3世紀から4世紀前半と筆者は考えている。
また米子市角田(すみだ)遺跡から出土した弥生土器には高層神殿らしき絵画が描かれていて、これが出雲大社であれば3世紀には建っていたことになるのだが、有力な材料とまでは言えない。
確実な記録は7世紀中頃、斉明天皇の時代に修築したというもので、このしばらく前に創建されていたことは確かだろう。

出雲大社はもと「杵築大社(きづきのおおやしろ)」と呼ばれていて、明治以後に「出雲」となった。


■Pic Up! 出雲大社の古代高層神殿説

現在の出雲大社は高さ24m。これが古代には16丈(48m)あったとするのが高層神殿説。奈良大仏殿の高さが47mであり、これとほぼ同じ高さにある神殿を丸太組合わせによる単純な柱に乗せるという、一見倒れやすい構造だったことになる。否定論者には古代でも現在と同じ24mだったという意見が多い。

筆者は高層神殿が実在した可能性は高いと考えている。その根拠を簡単に述べておく。

・出土した宇豆柱の太さは高層建築を支えるためでしかあり得ない。
・古文献に、大風で「倒壊した」と記述されている。24m程度で現在のような建物なら「倒壊」と表現しないはずだ。
・伝わっている図面に高層神殿が記され、出土した宇豆柱は図面の正確さを示している。
・平安時代に使われた貴族師弟の教材「口遊(くちずさみ)」で「大きな建物の三つ」に「雲太(出雲大社の本殿)」「和二(東大寺大仏殿)」「京三(平安宮の大極殿)」が挙げられている。
・当時すでに建っている法隆寺五重塔で31mの高さがあるので、これより低ければ大きな建物の三傑に挙がるはずがない。

最後の法隆寺より高いはずだというのは筆者の発想である。

古代出雲高層神殿想像
高さ48mという高層神殿の想像図。階段途中の神官から大きさを実感できる。


ちなみに、上に挙がった建築物よりも巨大なものが、古代の奈良にあったらしい。奈良県広陵町吉備池廃寺跡で7世紀に建っていたと推定される百済大寺(くだらおおでら)の七重塔がそれで、高さ100m近いという。法隆寺五重塔の3倍に及ぶ建造物である。正統の学者が推定していることで信憑性は高いのだろうが、まだ本当かどうか分からない。


■ Pic Up !  神話シアター「オオクニヌシ神話」から、背景に見える九州の影

オオクニヌシノミコト(大国主命)は、「因幡の白兎」の人物として子供にもピンと来るはずのキャラクターである。大己貴命(オホナムチ)、大物主神(オオモノヌシ)など多くの名前を持ち、出雲大社の祭神でありつつ『古事記』『日本書紀』に描かれる日本の主要な神の一人である。

古代出雲白兎海岸2枚

このオオクニヌシは因幡の白兎を助けたあと、兄たちから虐められて二度死んでしまう。二度とも生き返るのだが、死亡原因は一度が太い木を縦に裂く時に間に挟まって潰される。もう一度は山から転がってきた燃える岩を抱き止めて焼け死ぬ。

この死因の背後に興味深いことが読み取れる。
ひとつめは当たり前のことだが、太い樹木を材木として利用するため縦割りにする際、事故が多かったということ。建築材を加工する作業中に死んでしまった職人も多かったに違いない。

もうひとつは、九州地方の伝承を出雲神話に取り込んだ証拠に見える。
“燃える岩が落ちてくる”現象とは現実で何を指すか?
火山活動しかないだろう。
ところが中国地方で活動した火山は島根県三瓶山(さんべさん)が最後で、紀元前1500年の活動の後、静まりかえっている。弥生時代までの約1500年という長期間、噴火の事件を伝承し続けることはあり得ない。したがって出雲の人々が火山活動を目にしたはずはなく、発想できるかどうか疑問である。
熊本の阿蘇、または宮崎の霧島付近の伝承が伝わり、人が悲劇的な事故で死ぬ場面として採用されたのではないか。九州の伝承を出雲に移植してしまうのは、編纂当時の朝廷内で九州勢力の地位が低く、出雲の優位性があったとも受け取れる


◆推論・古代出雲とヤマトの関係

出雲地方は古代の日本、倭国の時代にどのような存在だったのか?なぜ出雲神話は特別な扱いなのか?

日本の最先進地域は3世紀を境に北部九州から近畿へ移った。それ以外の地域が日本の首都のような力を持ったことはないとされる。
学校で教えられる日本史でも、島根はもちろん山陰地方が舞台になることはほとんどない。せいぜい神話であり、この神話が以前は想像の産物であるかのように見なされてきた。

ちょっと考えてみよう。北部九州が先進地域であった理由は、朝鮮半島に近いからである。その条件は山口でも島根でも、船の航続距離を長く取るか沿岸に沿って運行できるなら日本海側一帯で大差ないのではないか?

実際に調べ始めると山陰地方の遺跡の豊富さは驚くほどであり、その流れは北陸地方にまで及ぶ。例えば奈良盆地に本拠を置いたヤマト政権にとって、朝鮮半島との交渉ルートは九州の北端から関門海峡を抜ける瀬戸内ルートだけでなく、福井の若狭地方から琵琶湖経由ルートも同時に使われていた。聖徳太子の家庭教師だった高句麗の高僧はそのルートで来朝したらしいし、もっと古い時代でも渡来人の痕跡、有力者の墳墓、伝承まで、材料は幾らでもある。

古代出雲地形図 島根県地方の主な弥生遺跡分布図(クリックで拡大)

地図を眺めるだけでも、中央政府からの制約を受けない限り、出雲など山陰地方が半島と直接に交渉していたことは否定するのがむしろ非現実的だと言ってよい。神話とはいえ人の往来場面が記録に残されている。
歴史学として史実を探求するためには、むしろなぜ現実性を離れた神話の扱いになったのかを考察することが必要なのではないか。

筆者は出雲地域は弥生時代末期に安定した地方政権を持ち、そのまま平和理にヤマト政権に融合していったという印象を持っている。その際多くの出雲発の文化が持ちこまれ、出雲出身者はヤマトで高い地位を得たと見ている。その後の出雲は古墳時代に入り、吉備や丹後のような大型古墳を残していないことから、大きく繁栄することはなかったようだ。

なお松江市に田和山(たわやま)遺跡という、防御用環濠を幾重にも巡らした弥生集落遺跡がある。環濠で集落を囲むのは戦乱の証拠と見なされる。しかしこの遺跡は紀元前後の弥生中期の遺構であり、弥生末期に安定したという想定とは矛盾しない。

ところで上の推論とどう関係するか想像の域を出ないが、出雲から西南へ30km、大田(おおだ)市の山間に石見の国一の宮・物部神社が鎮座する。蘇我氏に滅ぼされた古代豪族物部氏の祖神・宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を祀る神社がここにあることは気になる問題である。


◆出雲国造家という存在

出雲を初めて訪問する前に、ある書籍で出雲国造家の存在を知った。国造とは、古代に中央政府から地方の行政全般を委任された現地豪族による役職のことである。地位は世襲され、今の県知事より実質の権限は強かっただろう。

そこには天皇家のように出雲の人々から崇敬される千家(せんげ)家という、代々宮司を務める家系が紹介されていた。伝承によれば大国主命が出雲大社に祀られた時に世話を任された天穂日命(アメノホヒノミコト)を祖とし、国造という地位が大化改新で廃止されるまでは地方支配者として権力を有していた。

国内には辿れる限りずっと特定の家系が宮司を務めているという神社が幾つも存在する。訪問した中では阿蘇神社、丹後の籠(この)神社が一例だ。
それらは家系図も備えているらしく、科学的に否定することも肯定することも困難である。1000年ならあり得ても2000年はあり得ないように思うが、こういうことは客観的に事実かどうかよりも、人々が受容するかどうかだけの問題と割り切って良いだろう。

ところでそのような存在があるというだけで興味を惹かれた筆者は何人かの地元の人に聞いてみた。本当に天皇のように慕われ、尊敬されているのだろうか。結果、何人目かで出雲大社に関わりの深い人物から話を聞くことができた。
どうやら書籍にあった「出雲で」というのは若干正確さを欠き、出雲市のうち大社町での大きな存在であるらしい。

大社町は人口16000人と小さな町だが、出雲大社の存在は大きな誇りと団結心を生んでいるようだ。その一種の象徴として国造家の千家家があり、政治的な実権はないものの様々な行事で役割を担う当主を住民は慕い、現在の第84代尊祐(たかまさ)氏もそれに応えているという。氏は穏やかな人物で、問題なく将来に渡って期待される役目を続けていくだろうということだった。町の規模や経済が小さかろうと、歴史を伝え、共通する誇りを持っている土地の住民は強い。ぜひそのような文化を大切にしていってもらいたい。

なお、出雲大社付近の詳しい地図を見ると、大社の西に「千家国造家」、東に「北島国造家」と表示される。なぜ二つの国造家があるのかと言えば、南北朝時代の14世紀に分かれてしまったからである。その後二つの家が共存してきたが、明治からは神祇官によって千家家が大宮司、北島家が少宮司と決められ、現在に至っている。

この出雲国造家は、単なる地方文化ではない。一般には知られていないようだが、日本の国にとってどれほどの存在かは、代替わり毎に当主が皇居へ出向き、天皇の前で『出雲国造神賀詞(いずもこくぞう かむよごと)』という祝詞を奏上するという事実が示している。これは天皇が千家国造家の歴史的な地位を認めているということである。
次にこの内容を簡単に紹介しておく。

◆『出雲国造神賀詞』と神話との一致

天皇の御前で読み上げるという、これは一体何なのか。
まず「神賀詞」という言葉が示すようにこれは天皇家繁栄へのお祝いである。同時に、この点こそ注目するべきなのだが、日本国の主である天皇に対してこの国を譲りますという宣誓を、それまで支配していた出雲の神の代理として出雲国造が申し上げるという服属儀礼なのである。

この儀礼は9世紀から永く途絶えていたものを、戦後になって復活したのだという。古代の国造家が天皇家に初めて服属した時点から、中断を挟んではいるが同じ宣誓を繰り返しているということだ。
これは記紀神話でいう、大国主から建御雷(タケミカヅチ)への「国譲り」そのものである。
そのまま解釈すれば、独立国であった出雲は新しい支配者の下に服属しますという宣誓であり、ヤマト政権による国土統一の場面ということである。武力統一なのか交渉なのか『神賀詞』の文面からは解らない。

この『神賀詞』の中味は平安時代から変わらないもので、漢文による長い文面には、出雲の神がいかにして出雲地方を治めたか、国造家はどのような活動をしてきたか、また新しい支配者に国を譲るに至った経緯が記され、しかもヤマト政権の正史である『記紀』とは似て非なる歴史が語られている。

『記紀』はヤマト政権側が作った記録であり、『神賀詞』は地方権力がヤマト政権に対して忠誠を約束するために作った文章である。立場の異なる主体が同じ時期の歴史を語っている点が注目される。そこには古代史の隠された史実が隠れているはずだ。文面は公開されているので、研究の進むことを期待したい。


■ Pic Up! 巨大墳墓・西谷3号墓の意味

この墳丘墓の模型が、古代出雲博物館の一室に展示されている。
(実は出雲市運営の「弥生の森博物館」で、さらに精緻で見応えのある模型が展示されている)

古代史好きでなければ、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがた ふんきゅうぼ)という名前も馴染みがないだろう。
文字通り、長方形の四隅が外へ突き出すように延びた墳丘を指し、弥生時代末に山陰から北陸で築かれ、3世紀後半の古墳時代に入ると作られなくなる。古墳時代より前のため「古墳」でなく「墳丘墓」と呼ぶのが通例である。

古代出雲西谷3号墓 復元された西谷3号墓の突出部。上にも登れる。

その形状の西谷3号墓になぜ注目するべきなのか?
それは作られた時期が2世紀末から3世紀初頭という、卑弥呼が即位する前後であり、その時点で前例のない国内最大の墓であるからだ。また岡山県吉備地方、京都府丹後地方の土器が出土していることから交流が窺われる。

その時点で史上最大の墓が造られる場合、造る人々も意識するだろうし、そのニュースが1年以内に全国に知れ渡ることも予想するものだ。後の時代に造られることになる奈良の箸墓(はしはか)古墳や、現在でも最大の大仙陵古墳(仁徳陵)も、同様の計算のもとに計画されただろう。

西谷3号墓の立地は、斐伊川出雲平野へ出る狭隘部を見下ろす丘にある。大きさは長方形部が30m×40m、高さ4.5mと、近畿地方に多い巨大古墳とは比較にならないが、弥生時代では最大である。この3号墓に隣接していくつもの同様の墳墓が残され、現在、弥生の森公園として整備されている。

同類型の墳墓が幾つも連続しているのはひとつの王統が数世代続いていたことを示し、社会の安定を意味する。しかも当時最大級の墳墓が連続するからには現在の出雲市エリアだけでなく、もっと広範囲の社会共同体でなければ必要な作業人数を動員できない。

また立地にも注目するべきである。スサノオが八岐大蛇を退治した説話は斐伊川の氾濫を制御した土木事業の成果とも解釈されている。西谷墳墓群はその斐伊川が山地から出雲平野に飛び出る狭い谷を見下ろす位置にあり、出雲平野の住民を苦しめ続ける河川の制御をまさに象徴している。また土木事業の成功には鉄を使う道具が欠かせないはずであり、倒されたヤマタノオロチから出現したとは金属器の利用を象徴しているとも読める。

西谷3号墓と時期が重なるはずの邪馬台国・卑弥呼の即位年はほぼ確かに、西暦190年代の半ばである。一方、西谷3号墓の築造年は正確にはまだ確定できず幾分古いのかもしれない。その前後関係が大事である。

『魏志倭人伝』に順えば卑弥呼の即位前は「倭国大乱」、戦乱が絶えなかったはずであるが、西谷墳墓群ではなぜか武具の出土が少なく、戦乱の気配が薄い。
もし強大な軍事力が安定政権の礎であったなら、墓にも武具が副葬されているはずであり、逆に軍事力が弱ければ「倭国大乱」の状況で政権は維持できず、長い期間に渡って墳墓群を築くのは難しい。おそらくわずかな軍事力で安定社会が維持できる状況だったのだろう。

また邪馬台国畿内説を前提に考えれば、卑弥呼の即位後には連合体とはいえ西日本が統一政体になったはずなので、その一地域である出雲が国内最大の墓を作ることは許されないのではないか。仮にこの出雲地域が例外的な不服従地域だったとすると、墳丘から土器の出土している吉備勢力や丹後勢力も同調して不服従だったことになり、邪馬台国の50年に渡る統治が可能だったのか怪しくなる。

では卑弥呼即位の前に作られたのだろうか?その後のいくつもの同型墳丘墓は許され、邪馬台国の一地域でありながらに大量の人員を集めて営々と築かれていったのだろうか。それほどの国力を持つ地域で邪馬台国連合の一員なら、『魏志倭人伝』に国名が載っていなければおかしいが、国名の載っていて場所がはっきりしている伊都国や奴国では、この時期に西谷墳墓群に匹敵する大型墳墓はひとつも見つかっていない。

実はそれ以外にも、いずれ別稿にするつもりだが、西谷墳墓群時代の出雲地方が邪馬台国の支配を受けていないことを示唆する材料は存在する。

どの筋書きにも矛盾が生じるのは、前提のどこかが間違っているのだろう。
筆者には出雲地方が卑弥呼・邪馬台国の影響下にあったという点が間違っているように思える。
出雲は「倭国大乱」からも「邪馬台国」からも文化的かつ距離的に遠かったのではないのか。

いずれにしろ、史上最大の墳墓を作る人物は新時代を切り拓いた偉大な人物と相場が決まっている。この主は何を成し遂げたのだろうか?
これらの疑問を解くことは出雲神話に隠された史実の謎、大量青銅器の謎、邪馬台国所在地の謎ともリンクし、古代出雲地方の真実に迫ることに等しい。

古代出雲西谷3号墓説明板 西谷3号墓の墳丘上に設置されている説明板(クリックで拡大)

古代出雲歴史博物館の展示から広がる古代出雲への想像。ここでは際限がないので区切りとし、いずれ改めて勉強し、考察を試みることにする。


■付録:山陰地方の主な弥生時代遺跡

京都府与謝野町:日吉ヶ丘遺跡
       京丹後市:赤坂今井墳丘墓扇谷(おうぎだに)遺跡
鳥取県鳥取市:西桂見(にしかつらみ)墳丘墓跡白兎(はくと)海岸青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡
       湯梨浜町:長瀬高浜遺跡
       米子市:妻木晩田(むきばんだ)遺跡角田(すみた)遺跡
島根県松江市:黄泉比良坂(よもつひらさか)田和山(たわやま)遺跡玉造(たまつくり)温泉史跡
       雲南市:加茂岩倉遺跡
       出雲市:神庭荒神谷遺跡西谷墳墓群猪目(いのめ)洞窟稲佐浜(いなさはま)
山口県下関市:土井ヶ浜遺跡中ノ浜遺跡
    

◆最新訪問時期:2014年10月

◆主要参考資料など
『古代出雲歴史博物館展示ガイド』島根県立古代出雲歴史博物館発行 2007年
『ブックスエソテリカ古事記の本』学研 2006年
『図説出雲の神々と古代日本の謎』瀧音能之 青春出版社 2007年
『古代出雲を知る事典』瀧音能之 東京堂出版 2010年
『出雲神話の誕生』鳥越憲三郎 講談社学術文庫 2006年
『古代出雲』門脇禎二 講談社学術文庫 2003年
『日本書紀(一)』坂本太郎他 岩波文庫 1994年
古代出雲歴史博物館、弥生の森博物館の関係者の方々
出雲市の方々

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