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東尋坊(福井):断崖絶壁の奇観

カテゴリー見出地形地質

東尋坊火代表画像

【この「カテゴリ地形地質探訪記」はこれまで地学に馴染みのなかった方に、大地の成り立ちの面白さを伝えるために作製しています】


名称東尋坊:とうじんぼう
越前加賀海岸国定公園
国指定天然記念物
国指定名勝
地質百選
所在地福井県坂井市三国町安島
交通機関小松空港からJR北陸本線で芦原温泉駅へ
JR芦原温泉駅から京福バス40分「東尋坊」バス停下車
小松空港から東尋坊は車で45km50分
マイカー北陸自動車道金津ICから15km、20分
市営駐車場有料500円。店舗駐車場は利用者無料。
駐車場から東尋坊海岸まで徒歩400m
その他の基点福井市中心部から25km
金沢市中心部から70km
勝山市の恐竜博物館から40km
付帯施設特になし
問合せ先坂井市三国観光協会 TEL:0776-82-5515
http://www.mikuni.org/index.php

◇見学詳細

・自然地形なので入場は自由。遊歩道外の岩場へも行動可能。
・案内板・自然解説板・文学碑など多数あり(身投げ防止の呼びかけもある)。
・観光地としての東尋坊エリアは500m四方程度。
・北へ2kmの雄島、さらに東へ2.5kmの越前松島へも遊歩道が通じる

・遊覧船は30分コースで大人1200円など。東尋坊観光遊覧船HPに情報あり。
・地上55mに上がれる東尋坊タワーの入場は500円

◇地名読み方/地質用語

坂井市:さかいし 三国:みくに 雄島:おしま 九頭竜川:くずりゅうがわ
柱状節理:ちゅうじょうせつり 輝石:きせき 橄欖岩:かんらんがん

東尋坊地形図


■東尋坊の概要

◇現地石碑による説明文

東尋坊説明石碑

◆石碑説明文
「天然記念物名勝東尋坊
九頭竜川河口三国港から雄島を経て梶浦に至る間の海岸はその基盤が第三紀層より成り柱状節理を成せる種々の火山岩が之を貫いている。その中東尋坊岬に近く露出しているのは直立粗大なる柱状節理を呈せる複輝石安山岩で、その海に面した絶壁の部分を東尋坊といっている。雄島は一種の橄欖輝石安山岩よりなり、その柱状節理は斜走して豪快なる波蝕を呈しその東崎梶の海岸には美麗な柱状節理をした玄武岩輝石安山岩の大小の岩礁散在し、所々に波蝕による幾多の洞窟石門を呈し奇景を極めている。 昭和43年3月 管理団体 三国町」


これを現代風に言い換えると次のようになる。

3km南になる九頭竜川の河口から雄島を経て梶浦港まで8kmの海岸は、数千万年前に海に堆積した地層と、それを地下から貫いた火山岩が露出している。
東尋坊の岬では柱を並べたような柱状節理と呼ばれる特徴のある岩が絶壁を成し、岩石の種類は複輝石安山岩という。
また陸地から離れている雄島は橄欖石(かんらんせき)安山岩、東の梶浦では玄武岩輝石安山岩という、同様の柱状節理ながらやや異なった種類の岩石が見られる。海岸沿いではそれらの岩が波に浸食され、洞窟や門のような奇観を呈している。


さらに上の文意にこだわらず東尋坊の成り立ちを紹介してみると、次のようになる。

東尋坊の絶壁を成す岩石は、火山活動によって地下から上昇したマグマが地表まで溢れることなくそのまま冷え固まったものである。固まる過程で岩石は収縮するため、亀裂が生じて柱状節理という規則的な割れ目ができた。その後地面が隆起したことで海面から姿を現し、波によってまず周囲を覆っていた古い岩が削られ、柱状節理の岩も少しずつ削られたり崩れたりして現在の姿になった。

◇補足

・上記の地面が隆起したという部分は筆者の加筆で、石碑の文章にはない。しかし現在では定説であり、隆起していなければ今でも地中に隠れているはずである。
・岩石の種類が安山岩というのは、最近になって「デイサイト」という種類に見直された(デイサイトについては後述)。
・三国町は現在、坂井市に合併している。

東尋坊説明板加筆 岩の成り立ちについて現地説明板の画像(クリックで拡大)

■基礎の確認:「柱状節理」


「節理」とは岩石にできている規則的な割れ目のことで、岩石の種類によって特有の節理ができる。東尋坊のように長い柱になるものを柱状節理と呼び、一本の柱の断面は主に五角形から八角形までの多角形になっている。柱の太さは数センチと細いものから1m以上に及ぶものまで様々。
柱状節理ができるのは火山に関係があり、溶岩や火山灰が固まった岩石によく見られる。
でき方については後述する。


■東尋坊の隆起運動

この柱状節理の岩は地中で形成され、その後隆起して地表に現れたと上に書いた。これはもちろん想像でなく、定説である。
現在の岩は海面から30mほど高くなっているので、少なくとも100m以上、数百メートルは上昇しているかもしれない。
この隆起の力はどこから来たのか。

地図で見ると東尋坊付近は海に突き出しており、しかも周辺より高い丘陵になっている。南北の海岸線には浜があり、断崖地形は長く続いていない。丘陵の高い場所は標高80m、範囲は4km四方であり、この狭い地域を加越台地という(上図参照)。
ここから東北に向けて徐々に高度が下がり、10kmほど先でまた上げる。そこには複数の逆断層が存在し、この断層位置を支点として南西側が傾きながら隆起しているという見方がある。ただしその運動領域は地形で見る限り、ごく狭い。

実は北陸地方の海岸付近は隆起や沈降が様々で複雑な地殻変動を続けている場所である。その中で東尋坊付近は隆起し、すぐ南の坂井市から福井市街は沈降して盆地となっている。そういった変動は大きく見れば日本列島にかかるプレート運動による水平圧縮力に原因があり、伊勢湾から若狭湾にかけて本州のくびれていることとも関係がありそうだ。
限られたエリア毎にどのような動きをしているか、どこに断層が隠れていつ動いたかはまだ調査の途上にある。
東尋坊のように狭い範囲で独自に動いているように見える現象は、大きな変動の一部分として、乱れた動きをしていると考えてもよいかもしれない。


■柱状節理の形はなぜできるのかの簡単な説明

誰でもこの岩を目にすれば、どうやってできるのか不思議を感じることだろう。
遊歩道沿いの説明板に、地質解説には珍しく詳しいことが書いてあった。
「横断面が六角形になる原因についての定説は今のところありません。一つの仮説として、安山岩が冷えるとき、冷却面上に冷却の中心が、互いに等間隔に発生します。そして安山岩が冷え固まるとき、冷却の中心に向かって収縮するとすれば、中心間に割れ目が生じます。そのとき一番効率的な割れ方は、正三角形が組み合わさってできる六角形になると考えられます」

以下で筆者の言葉と画像に置き換えて、解説を試みる。

1:断面が六角形になる理由

問題:平面上に多くの点を互いに等間隔になるように配置するとどうなるか

東尋坊柱状節理冷却点分布のQ
 ↑このように考えるのは、間違いである。これでは縦と横の間隔に較べて斜め方向が遠くなる。



 東尋坊柱状節理冷却点の並び方
右図が正解。ひとつの点に対して、6つの点が等間隔になる。

このとき、点と点を仮の線で結んでみると、正三角形の連続になっている。

東尋坊柱状節理冷却点を結ぶ正三角形



さて、岩石はマグマとなっている液体から冷却して固まるとき、収縮する。
最初に冷え始める表面は一定以上の広さがあればひとつの固まりとして小さくなるのでなく、小面積ごとに収縮しようとし、それぞれで収縮の中心ができる。
一点に収縮の中心が発生するとき、周囲のあらゆる方向から中心へ向かおうとする力が生じる。特定の角度に限定されることはない。

東尋坊柱状節理ひとつの冷却点イメージ

収縮する岩石で、成分や力に偏りがなく全体に均一であれば、多数発生した収縮中心点は、上の図のように自然に等間隔で並ぶはずである。

ここで、ある点と点の間に注目してみる。そこでは両側から引っ張りの力を受けるため、中心に亀裂が始まり、中心を結ぶ線と直角に延びていくはずである。

東尋坊柱状節理ふたつの冷却点間の亀裂

同じことがすべての点と点の間で起きる。その結果、下図のように、点と点の間で亀裂が生まれていく。

東尋坊柱状節理冷却点多数の亀裂

延びていく亀裂は斜め120度から延びてきた2本の亀裂と出会い、そこで成長は止まり、六角形として独立する。

以上が、断面の六角形になる理由である。大前提は均質であることで、実際の自然状態ではなかなかそのような理想条件がないために六角形以外の不規則な多角形が多くなる。

次に、この表面にできた亀裂が地中に延びて柱を作る仕組みを見てみる。こちらのほうが易しい。

2:長い柱状になる理由

    冷却が表面から徐々に進むにつれて、亀裂がその方向に深まっていく

  東尋坊柱状節理柱状になる仕組み 
・均等に冷却が進行する限り、亀裂も隣同士で均等の間隔のまま深まる
・冷却の進行方向によって亀裂の進む方向も左右され、曲がることもある。

(自然の仕組みで「3」というのは一種の神秘性を感じさせる。植物で「単子葉類」と分類されるユリやランの仲間は、花弁の数が3の倍数になっている。この植物形態も意外と単純な物理法則に原因があるのかもしれない)

・柱状節理については火山列島日本の重要な岩石形態なので、別稿でも改めて紹介する予定である。


■マグマが地表を流れてきたのか、地下から上昇して貫入したのかの判別

ある専門家の書いた本では、東尋坊の岩石を「マグマが地表に噴出してできた安山岩で~」と書いてあったが、この「地表に噴出してできた」というのは間違っている。地表に噴出することなく、蓋をされた地中で空間を満たし、そのまま冷え固まったというのが定説である。
国内各地で見られる柱状節理の大部分は、確かに地表に噴出したマグマが流れ、ある程度の厚みになって止まった後、冷えて固まったものである。その先入観で東尋坊も見てしまうと間違える。

定説の根拠はこうである。
現在、海岸のすぐ上部で柱状節理岩の上に乗っている堆積岩の様子を見ると、接触面には熱による変質が認められる。
もしマグマが地表を流れたとすると、その上に堆積岩が乗るためには固まったマグマが一度海中に没してからでなければ、その上に砂や泥が堆積することはない。しかし海中に没するには時間がかかる上に海水ですぐに冷えてしまうから、砂や泥が堆積しても熱変質を起こすはずはない。
よって、堆積岩と柱状節理を作った岩との接触面での熱変質を観察した結果から、柱状節理を作ることになったマグマは地中から上昇して、すでに上部にあった堆積岩層に突き当たったものだと考えられる、ということである。
(参考:福井市自然史博物館研究報告2005 吉澤康暢)


■福井平野の断層活動

福井平野北部の坂井市周辺は、現在の海抜が4m。6000年前の縄文時代、海水準が数メートル高かった時期にはだった。そのころの東尋坊付近は東から長く延びた半島になっていた。波の浸食に強い岩だったからである。

福井平野が縄文時代に海で、今でも10mに満たない低地なのは、隆起する東尋坊付近とは逆に土地が沈降しているからである。その境界には断層があり、地震の度に隆起する部分もあれば、下がっていく部分もある。沈降した土地には九頭竜川などが山から削り取った土砂を運び込んで埋めていき、現在の平野を作ってきた(上の地形図参照)。東には1000m以上の山地から2700mの白山など侵食を受けやすい火山地形が隣接しているため、低地を埋めるに十分な土砂が供給されてきた。

そのような成り行きで形成された福井平野の地下構造は、最深で地下400mまで土砂の溜まりである。そのため福井地震では液状化を起こし被害が大きくなった。
もう言われているかもしれないが、福井市と坂井市に住んでいる方は河川氾濫への対策と自宅が耐震構造なのかを確かめたほうがよい。

[福井地震]
昭和23年(1948年)6月28日に福井平野を震源に起きたマグニチュード7.3の地震。4000名の犠牲者を出し、平野の中心に25kmに渡る地割れが生じた。この地震が起きたため、今後しばらく同程度の地震は起きないのではないかとの見方がある。


■補足:岩石の種類と固まり方

東尋坊の説明で「『輝石安山岩の柱状節理』という、地質学的にも珍しい奇岩」と紹介されているのは、いま修正を迫られている。

東尋坊の遊歩道に設置されている説明板でも「安山岩」と書かれているが、これは古い考え方で、新しい分析によって今では「デイサイト」という岩であるとされた。デイサイトは標準的な安山岩よりもケイ素(SiO2)の量が多い岩と定義され、成分的には流紋岩や花崗岩に近い。安山岩と分かれる理由は地中深くから上昇する前に温度が下がるなど、固まる前に成分の分離が進んだことによる。

東尋坊火成岩分類

火成岩の分類に深入りすると一般向きには難しいハナシになってしまうのでこれ以上は省略しておく。
岩の種類が見直されたことは地形形成を語る上で大きな変化にはならないと思われる。
ただ東尋坊柱状節理の成り立ちが、「地質学的にも珍しい奇岩」ではなくなり、より自然に考えられるようになった。



◆奇観体験を大切にしよう

東尋坊は古くから知られているために、柱状節理構造で代表的な海岸奇観となっている。火山国日本では各地で有名になっている地形なので観光旅行を繰り返せば何度もお目にかかるだろう。一般的にはなぜそのような形ができたのか、不思議に感じたまま、やがて思い出さなくなってしまう人が大部分に違いない。

家族で観光に訪れて、どうしてできるのか子供が質問したとき、親は何と答えるだろうか?
ある程度地学を学んだ人でも、正しく答えることは非常に難しいはずである。
その疑問を大切にし、一緒に考えてみるという姿勢を持てる家族からは科学者が育っていくのではないだろうか。“不思議”と出逢った体験をどれだけ大切にできるかである。
有名な観光地である東尋坊の見学をきっかけに、岩の形状から火山活動、地中内部の構造へと興味をつなげていくことができれば、その一日は有意義な体験になることだろう。


◆東尋坊という名称の由来

由来には諸説ある中で、事実かどうかは別に次の説話がよく語られる。
現・勝山市にあって中世に隆盛を誇った平泉寺(へいせんじ)に、乱暴で手に負えない東尋坊という僧がいた。ある日同僚の僧侶たちは東尋坊を海岸見物に誘い出し、酒に酔わせたところを崖から突き落としてしまった。以後その4月5日になると海が荒れるという。

◇話が脇へ逸れるが、上の「平泉寺」は、岩手県で世界遺産にもなった奥州藤原氏の遺産と同じ文字で、読み方が異なっている。実は同じ「平泉」なのは偶然でなく、福井の文化が藤原氏によって奥州へ持ちこまれたという説が有力である。

◆蛇足
海に面した柱状節理の崖として東尋坊は高さ25mと国内有数なのは確かだが、宮崎県には高さ70mの馬ヶ背という崖が存在している。おそらくこちらが柱状節理では日本一の高さであろう。いずれ当ブログで採り上げる。


■最新訪問時期:2007年5月

■参考図書など
『日本列島ロマンの旅 景勝・奇岩の地学探訪』友成才 東洋館出版社 1998年
『日曜の地学6北陸の地質をめぐって』絈野義夫 築地書館 1979年
『日本の地形5中部』東京大学出版会 2006年
福井市自然史博物館




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亀ヶ岡遺跡(青森):遮光器土偶を残した津軽の縄文遺跡

カテゴリー見出古代史

亀ヶ岡しゃこちゃん
遺跡地である「しゃこちゃん広場」に設置された遮光器土偶の拡大石像

名称亀ヶ岡石器時代遺跡
国指定史跡 遮光器土偶は重要文化財
所在地青森県つがる市木造亀ヶ岡
対象年代縄文時代晩期(紀元前1000年-紀元前300年)
交通機関       JR五能線木造駅より車20分
マイカー東北自動車道浪岡JCから津軽自動車道へ入り、五所川原北ICで下車してから20分15km 道が分かりにくい
しゃこちゃん広場に数台駐車可能
その他の基点五所川原市中心部から15km
青森市中心部から50km
弘前市中心部から40km
付帯施設1「縄文館(考古資料館)」しゃこちゃん広場から2km
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
付帯施設2「つがる市縄文住居展示資料館 カルコ」
亀ヶ岡遺跡から8km、木造駅近く
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
問合わせ縄文館 0173-45-3450
HPなし
縄文住居展示資料館カルコ 0173-42-6490
HP:http://www.city.tsugaru.aomori.jp/sisetu/00006.html

◆地名読み方
木造:きづくり 田小屋野:たごやの 七里長浜:しちりながはま 十三湊:じゅうさんみなと 三内丸山:さんないまるやま

亀ヶ岡遺跡地図

■概要


亀ヶ岡遺跡は遮光器(しゃこうき)土偶が出土したことで知られる、青森県津軽地方の縄文遺跡。
江戸時代から多数の土偶や土器類が掘り出され、高価値の「亀ヶ岡もの」として好事家のあいだで盛んに取引されたため出土品の相当数が散逸してしまった。

明治以降に学術的な調査で発見された遺物は盗掘を免れた一部ということになり、その中に明治20年発見の「遮光器土偶」も含まれていた。木製品などの有機物も水質地に没したことで腐敗が抑えられ多数発見されている。
ほかにも岩偶(がんぐう:石を削った土偶)、玉類、漆器、彩色土器、ガラス玉、秋田から入手したアスファルト塗装など優れた技術を窺わせる遺物が多数出土しているほか、近年には土壙墓群(どこうぼ:地面に掘った穴に埋葬した墓)や、炭化米も見つかっている。
東北地方の縄文晩期遺跡から出土する土器類はここ亀ヶ岡を標識として「亀ヶ岡式土器」と呼ばれる。

「亀ヶ岡」という地名は縄文土器の瓶(かめ)がよく見つかったことに由来する。
また「木造」(きづくり)の地名は広がる湿地帯に木を敷いて通行したためで、遺跡微高地の周囲は今も低湿地の水田が広がっている。

亀ヶ岡遠景 東から見た亀ヶ岡遺跡のある微高地

■見学詳細

亀ヶ岡遺跡の北200mに隣接して、国史跡・田小屋野貝塚も存在する。
通常、地図で表示される遺跡ポイントは掲載した冒頭写真の「しゃこちゃん広場」で、土偶のモニュメント、説明案内板、公衆トイレ、少数の駐車場が整備されている。実際の遺跡はその背後に広がる丘陵全体で、現在は大部分が民家や畑に利用されており、古代をイメージさせる雰囲気はほとんどない。

亀ヶ岡しゃこちゃん広場 しゃこちゃん広場。左に土偶の石像が見える。

詳細な発掘資料が残らなかったため、明治20年に遮光器土偶の出土した地点も「推定地点」と図に示されているだけである。
展示施設の縄文館へは集落間の細い道を案内標識に従って、東南方向へ2km行く。
遺跡見学のつもりで訪問すると肩透かしに遭う。縄文館も特にお奨めはしない。


■遮光器土偶の性格

亀ヶ岡遮光器土偶 しゃこちゃん広場の説明板より現品は東京国立博物館所蔵

高さは34.2cm。中空に焼かれ、もとはベンガラ(酸化鉄を含む石から採取する赤い顔料)で彩色されていたらしい。ゴーグルのような目元が北方イヌイット民族の道具で太陽光と積雪の反射光除けに使用する遮光器に似ていることから呼称がついた。東北地方で広くこのタイプの土偶が見つかっている中で、この亀ヶ岡のものが芸術性において傑出している。

・縄文人が本当に遮光器を使用していたかどうかはわからない。北海道アイヌに伝わっていないことから否定的に考えられている。
・特徴から、女性を表現していると見なされている。
片足なのは当初から。製作後に除去したとも言われる。このように体の一部を欠いた土偶は縄文土偶全般に見られ、表現意図は不明なのだが、縄文社会に共通した思想や宗教観のようなものがあったらしい。

・このような人型の土偶をどんな目的で製作したのかもはっきりとは分からない。もちろん実用品ではなく宗教的な用途と推定され、他遺跡の出土状況からは死者の埋葬時に一緒に埋めた例が見られる。
・ただしもし遺体の傍らで土に埋めたとしても、遺体はすっかり分解されるため検出されず、通常の発掘調査では土偶だけが発見される。最近の注意深い発掘では遺体痕跡の検出方法があるらしいが、実施しない調査も少なくないという。明治時代に発掘されたこの遮光器土偶の場合も埋葬に伴っていた可能性はあるが、今となっては確かめられない。
(東北に多い環状列石遺構が墓地だと確認される例が近年増えているのは、検出方法の進歩による)

※「遮光器土偶」は類似の土偶全般を指す一般名称なので、厳密には「亀ヶ岡の遮光器土偶」と呼んだほうがよい。



■縄文期における亀ヶ岡の重要性

遺跡の所在する屏風山丘陵は海抜16mの高さで、西へ4km行くと日本海に面する七里長浜という南北に長い浜、浜沿いに北へ15km行くと十三湊遺跡がある。
また東側はすぐに海抜1-2mの低地が南北に広がっている。

縄文時代晩期には西に日本海、東に長い入江があって、南から北に延びる半島地形だった。入江は波の穏やかな内湾として、交易の船(縄文時代は単純な丸木船)が着岸していただろう。この立地と地形が亀ヶ岡を拠点に育てたと言える。

縄文時代は遠方との文化交流が盛んで、その主たる交通手段は沿岸をたどる海のルートだったと考えられている。遠方との交易例として、沖縄の海に産するイモ貝で作った腕輪が北海道の縄文遺跡で見つかっている。

亀ヶ岡遺跡の北に位置し中世にアイヌ文化との交流窓口となった十三湊遺跡は鎌倉時代に設置され繁栄した場所だが、地形的に天然の良港という条件では縄文時代の亀ヶ岡も同じだったはずである。十三湊の地が交易拠点に定められたのは、すでに亀ヶ岡の入江が岩木山からの土砂により埋まって陸化していたからとも考えられる。

亀ヶ岡地形図2  縄文時代の入江地形想像図

これらの材料から、亀ヶ岡は縄文時代に日本海側を行き来したネットワークの中継地として機能し、特に本州島と北海道を結ぶ重要な拠点だったと想像できる。そして津軽平野の縄文人にとっても、中部地方や西日本の文化が入ってくる窓口になったはずである。

亀ヶ岡遺跡からは最近になって炭化米や籾殻まで発見されている。米を扱う時代は弥生時代と呼ぶのが慣例なので、縄文から弥生への移行期に入っていたと言える。青森では弥生時代前期に稲作を行っていた形跡がすでに津軽平野の砂沢遺跡などで見つかっていて、佐賀県菜畑遺跡を最古とする稲作開始から100-200年程度で稲作文化が到達したと推測されている。この早さも、日本海側ネットワークと亀ヶ岡の位置を考えれば納得できそうである。むしろ亀ヶ岡という窓口があったことで、青森の縄文文化は豊かに発達し、速やかに稲作を始めとする弥生文化へ移行できたと言えるかもしれない。


■亀ヶ岡の縄文遺跡としての価値

青森の縄文遺跡と言えば知名度も予算の投入額も、三内丸山遺跡が際立っている。
今回亀ヶ岡へ車で接近しても案内表示がほとんどなく、ナビがなければ訪問は難しかった。着いてみた「しゃこちゃん広場」は交通の休憩所という雰囲気に過ぎず、設置された説明板と石像模型が歴史愛好者には救いだった。
そんな不遇の亀ヶ岡遺跡も、本来は三内丸山遺跡に匹敵するほど豊かで重要な遺物を秘めていたのではなかろうか。

有史以来現在まで遺跡の上に人々が居住して調査も自由にならず、また「概要」に書いたように、長い期間に渡って盗掘を受け多数の出土品が失われてしまったことは返す返すも残念でならない。
(江戸時代には法規制がなかったらしく堂々と行われていたので、「盗掘」でないかもしれないのだが)
遮光器土偶の実物も東京国立博物館が所蔵し、青森県立郷土館にはレプリカ展示、現場の亀ヶ岡にはここに紹介している模型と写真だけというのも寂しい。

しかし残された出土品には遮光器土偶のほかにも漆塗り壷形土器、彩文皿形土器など、精巧で華麗な意匠を施したものも多数含まれている。近くの「縄文館」、木造駅近くの「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」、青森市の青森県立郷土館に収蔵・展示されていて、それらの技巧と芸術性の高さには驚くばかりだ。

亀ヶ岡遺跡は通常「集落遺跡」と分類されているが、遺跡エリアの狭さに比較して出土物の内容が豊かであること、散逸したものを含めれば数倍量が想定できることから、単なる集落でなく「祭祀遺跡」の性格も濃い。その祭祀は狭く見ても津軽地方全域、ことによると東北三県を総括するイベントだったのではなかろうか。
現在あまり日の当たらなくなっている亀ヶ岡遺跡であるが、縄文史を探究する上での重要性は高い。


◆隣接する田小屋野貝塚

田小屋野貝塚は以前から日本海側では珍しい縄文貝塚として知られていた。平成に入ってからの再調査で、縄文時代前期中頃の竪穴住居跡などが発見された。貝は淡水から汽水域に棲息する種類が中心で、当時は汽水域が広がっていたことが分かる。魚類や日本海側で座礁したと推測されるクジラの骨も見つかっている(座礁と推測するのは縄文時代の技術でクジラ漁は不可能と考えられるため)。


■近郊遺跡との関係と謎

亀ヶ岡の稼働していた縄文晩期(前1000年から)には、三内丸山(前3500-前2000年まで)の活動は終焉している。三内丸山では人口200人の共同体を成立させ、大型建造物を造る技術があった。その後亀ヶ岡時代が始まるまでの1000年以上、縄文人は同程度の、あるいはそれ以上の建造物を造らなかったのだろうか?造った遺跡が発見されていないだけなのか?

また亀ヶ岡のすぐ北に隣接する田小屋野貝塚は、三内丸山とほぼ同時期の貝塚であり、出土物からの推定で当時は多数の定住者がいても祭祀を行うような重要な場所ではなかったらしい。その後、亀ヶ岡が重要になる時期には、貝塚として使われていなかった。
人々はなぜ移動したのだろうか、生活様式が変わったのだろうか?海岸線はどの時期に変化したのだろうか?

上図のように、三内丸山遺跡は青森湾にほど近く、港を持った拠点だったと思われる。三内丸山の出土物からは遠方との交易が盛んに行われたことがはっきり分かり、最盛期には本州島と北海道が交流する中継地機能を一手に引き受けるほどだった可能性がある。その時期には逆に亀ヶ岡は港としての必要性も生じなかったはずである。

紀元前2000年に三内丸山の活動が終わってから、必要なはずの中継地はどこへ移ったのだろうか?亀ヶ岡が先述の想像通り後にその機能を請け負ったとしても、その間1000年の空白期間はどうなっていたのか?
未発見の遺跡が役目を担っていたのだろうか。
永く活用した拠点を放棄し、人々の移動した事情は何か。まだ隠れている重要な遺跡があるとしたらどこか。

青森・秋田・岩手の東北三県には重要な縄文遺跡が幾つもある。それらの前後関係を整理し、文化がどの方向に伝わってどう影響したかを推定することができれば、環境変化と文明の消長という、現代にも通じる問題が見えてくるはずである。

亀ヶ岡年表  


◆蛇足

遺跡の正式名称は「史跡亀ヶ岡石器時代遺跡」という。
考古館の事務員に尋ねてみたところ、この命名は「間違い」がそのまま使われているのだそうだ。
直さないのも不思議、冗談のようなハナシ。
念のため、亀ヶ岡遺跡は石器時代でなく、縄文時代の遺跡である。


■最新訪問時期:2012年10月




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庄内米歴史資料館(山形):庄内で知る誇るべきコメ文化

カテゴリー見出し博物館

庄内米資料館正面

■概要
米作りの歴史と文化、博物館の原型である山居倉庫の歴史を紹介するJA全農山形運営の博物館。
江戸時代、東北で随一の産地だった庄内地方と最上川水運で結ばれた山形平野の米はここ酒田に集められ、廻船で全国に運ばれた。明治になってこの地に集散拠点として建設されたのが今も使われている山居(さんきょ)倉庫で、博物館はその一部を利用している。
なお現在は大部分がトラック輸送となり、船で運び出す米はわずかになった。

名称庄内米歴史資料館 施設名は山居(さんきょ)倉庫
ジャンル歴史文化系 山形県庄内地方の米作り文化
所在地山形県酒田市山居町1-1-8
開館時間9:00~17:00(12~2月は16:30まで)入館は30分前まで
休館日年末年始を除き無休
料金大人300円
交通機関・JR酒田駅からバス10分「山居町(さんきょまち)」下車1分
・庄内空港からバス20分「山居町」下車3分
マイカー山形自動車道酒田ICから酒田市街地方面へ10分
駐車場狭く台数わずか
その他の基点JR酒田駅から南へ2km徒歩30分
問合わせ0234-23-7470
http://shonai.zennoh-yamagata.or.jp/gallery/index.html

◇地名
山居:さんきょ 月山:がっさん 鳥海山:ちょうかいさん
三川町:みかわまち 

■内容詳細

・館内広さは中程度。公立の大型博物館のようなものではないが、稲作初心者に分かりやすく多くのジオラマや説明が配置されている。
・内容は山居倉庫の歴史、古代からの稲作伝播、米の種類、庄内米の歴史、庄内地方の風土、庄内米の品種、品種改良史、保管と流通の実際、「俵をかついでみよう!」、米のおいしさと栄養、米作りの一年、米作農家の実物大ジオラマなど。
・展示室要員なし。解説ツアーなし。撮影可。
・山形での品種を中心に、流通の始まった最新銘柄「つや姫」などについても紹介している。
・稲作文化の初歩と庄内米の伝統を学ぶには十分。
庄内米館内俵
左の模型女性が背負っている米俵5俵は300kg。倉庫でこうして運ぶのは女性の仕事だったという。
右に1983年山形を舞台にしたNHKドラマ『おしん』のポスター。
おしんが奉公したのはこの酒田市だった。



庄内米地形図と記入


■山形県のお米ブランド

いま最も評判の高いお米と言えば新潟県の農業試験場が開発した魚沼コシヒカリであると、多くの人が認めるだろう。しかし購入者の立場からはブランド化してしまって高価なために敷居が高い。

庄内米歴史資料館を訪問した筆者は平成4年から生産されている「はえぬき」という品種を知って以来、これを求めるようになった。なぜなら平均的な価格でありながら、「食味評価」(後述)は魚沼コシヒカリと同様の「特A」認定を毎年受けるほど美味しく、コストパフォーマンスが最高だからだ。
庄内米はえぬきぱっく
愛知県のスーパーで販売されていたはえぬき

ただ「はえぬき」はどうやら山形県以外では余り生産されていないらしく、愛知の店では不定期にしか入らないし、西日本では見ることも希である。どうやら「はえぬき」は県内生産にこだわった結果知名度が上がらず、価格も低くなってしまったのだという。

そこで捲土重来、山形県は平成10年、新しいブランドをまたも開発し、今度は県外にも広く生産してもらい名称を流布させる戦略を採ることとなった。これが「つや姫」である。
庄内米つや姫パッケージ2
平成22年本格生産を始めたというからまだ3年に過ぎないが、おそらくもう全国の米売り場に並んでいるのではないか。山形県は営業活動に力を入れ、希望する土地にはどんどん「つや姫」を売り込んでいった。希少価値が減退するので、本家・県内産のものだけは「山形産つや姫」というブランドを育てるため、生産体制を厳しく査定し、合格した県内生産者だけにこの名称を使わせるようにしているという。「特別栽培米」という低農薬・安全を売り物にしたブランド米が各地にあるが、山形県産のつや姫はすべて特別栽培米である。

これから山形産が特に成功するかどうかは未知数だが、現在の販売価格で「つや姫」は10kg4800円ほどと、魚沼コシヒカリより安く、標準ブレンド米より幾分高いところにある。山形県の思惑はまずまず成果を挙げていると言えそうだ。

庄内米館内稲各種
品種改良の歴史を語る稲の展示

◇補足・食味ランキングとは

米の出来について、日本穀物検定協会が毎年全国の主な品種を審査し、前年の品種について「特A」「A」「B」「B’」の4段階を毎年2月に公表する。客観的な審査として一定の信頼性が認められている。
11年産米では129銘柄を審査して26銘柄が特Aとされた。
2013年2月14日に発表された12年産米では128銘柄を審査して29銘柄が特Aとされた。
「魚沼コシヒカリ」と「はえぬき」はずっと特A評価を続け、最新の「つや姫」も2008年参考品種としての登場からずっと特Aである。


■新潟と山形の風土

庄内米月山から

新潟県の中で魚沼コシヒカリが評価されるのと、東北地方で庄内米が優良であるのとは同じ理由に因るようだ。
それは豊富な残雪による雪解け水と日照時間、昼夜の温度差である。水は温度の低い方が微生物の繁殖が抑えられるため、徐々に暖まってゆく下流より上流の山岳に近い場所が有利となる。新潟県で広い平野部よりも山に迫る魚沼地方が好適なのはこれによる。

そして残雪を蓄えるためには冬に日本海を渡る季節風が強いことと、高い山岳の存在が重要となる。新潟では越後山脈、魚沼丘陵、庄内では鳥海山と月山という2000m級の山が聳え高所では10m近い積雪となる。残雪が豊富な土地では日照りに左右されず、夏までの雪解け水と地中を潜る伏流水によって安定給水が続く。

国内で似たような風土となる場所を探すと、富山平野、金沢平野、福井平野、津軽平野などが思い当たる。詳細に調べていないが、平坦な地形の広さ、日照時間といった色々な要素が関係しているのではなかろうか。
むろん、それら自然条件だけでなく、庄内や新潟では明治以来の関係者の努力こそ品質向上の原動力だったようだ。

■稲作文化の歴史

庄内米菜畑遺跡
[佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡] 国内最古(2600年前)の水田が発見された場所
 
この庄内米歴史資料館を訪問した理由は美食願望よりも古代史の観点から稲作に関心があったからである。

弥生時代から古墳時代のハナシをしてみる。

古代の倭国(日本)では、近畿地方を中心に西日本一帯がほぼ統一された3~4世紀ころ、紀元前の弥生時代から継続していた鉄の輸入が急増していった。朝鮮半島南部で海に面する「伽耶(かや)」という土地で鉄を豊富に産出し、倭を含む多くのクニが持ち帰ったと、中国の史書にある。どの国家でも鉄を多量に使うことは国力を充実させる絶対条件だった。
(注:鉄の用途が武器だとイメージするのは間違いで、第一は農耕具、第二が武器だった)

ところでこの時点で、もし倭国が半島を支配していたなら鉄資源を「収奪」し、他国には取らせないはずなのだが、そんな形跡はない。とすれば入手方法は「交易」のはずだ。
では鉄と何を交換したのか。それがコメであったと筆者は確信している。

コメは証拠を残さないため、このことは学者の間でいまだ定説とは言えない。しかし他に交換できる物品は見当たらない。
鉄を求めた多くのクニの中で倭国が大量に入手できたほど、相手には価値のあった交換品、それがコメではなかったか。

コメなら朝鮮半島でも生産しただろうと思うかもしれないが、ここに日本で稲作文化の発展した鍵が隠れている。半島は稲作に不利なのだ。
その理由は朝鮮半島では地形的に水田に適する低湿地が少なく、また平均気温が低いためで、当時の稲作は低調だった。
そのため倭国産のコメは歓迎され、また倭国は低湿地を利用して稲作に励み、入手した鉄で農耕具を作り、土木工事を行ってまた大量にコメを生産し輸出した。

4世紀、奈良盆地や河内平野に築かれた大型古墳の濠は潅漑用の溜め池を兼ね、墳丘の高まりは土地改造で余った土砂の積み上げで造られたものだと、筆者は見ている。もともと河内平野は河内湖という広大な湖だったのを古代人が干拓した土地である。古代の日本は米作りで国を発展させていったと言って良いのではなかろうか。


■「はえぬき」の味

筆者は2年前に庄内を訪れて「はえぬき」を知って以来、愛知でもできるだけこれを求めるようになった。生産量の制約であろう、数軒回っても見つからないこともある。

それほど違いがあるのかと問われれば、はっきり違うと言える。名前を伏せて無名米と食べ比べてみれば、10人中10人とも分かるはずである。筆者宅では特別な自然水を使いガス釜で焚くというこだわり方だが、一般的な水道水と電気釜でも、違いは出るはずである。

「はえぬき」は粒が大きく粘りがあり、ほんのりとした甘みが感じられる。そして炊きあがりすぐでなくとも冷えたままでも味が落ちないのが、他品種にない特徴とされる。

滅多に高級外食の機会はないのだが、味を気にするようになった2年前以後、「はえぬき」に匹敵する美味しいご飯を食べたのは、一人5000円のコースを頼んだ一回しかない。この時のブランドは不明。ほかの外食店、弁当などの味はいずれも及ばない。

「つや姫」「魚沼コシヒカリ」は高価なためいまだに試してなく、更に美味しいのかどうか分からないが、価格面を考えれば「はえぬき」で十分な幸福感を得られている。

ひとつ心配なのは、山形県の戦略商品でもある「つや姫」が増えてくれば利幅の少ない「はえぬき」が消えてしまうのではないかということだ。美味しいコメが全部高価になってしまうのは困る。
もうひとつ、このブログは少数の読者しかいないと思って書いているが、万一「はえぬき」が急に大人気になって私が買えなくなるのも困る。
ゆえに大きな声では言いたくないが、価格と味を考えれば「はえぬき」は最高のお奨め品種である。

(注:よくブログにありがちな、商品の使用レポート形式を装って購入を誘い収益を得るという意図はありません。この小稿は筆者の日本文化・稲作文化への誇りと愛情だけで作製しています)


■偽装米に注意

2012年12月、旅行先の岡山で耳にしたラジオ放送で、岡山県内の業者が魚沼コシヒカリの偽物を販売した容疑で逮捕されたというニュースが流れていた。
業者は無名のブレンド米を魚沼コシヒカリの袋に入れて販売し、以前より美味しくないという購入者からの通報で発覚したという。

このニュースはローカル放送のため、岡山県以外には伝わっていないらしかった。察するに同様の事件は知られていなくとも多数あるのではないか。そしてその陰には発覚しない偽装米が相当量出回っていると推定できる。

あるジャーナリストの書いた本によれば、生産されている2~3倍の量が魚沼コシヒカリとして販売されているという。本物より多量の偽物が流通しているということだ。

岡山の事件で偽物に気付いたのは舌の肥えた人だろう。しかし、その人でももし本物を半分混ぜた「半偽物」だったら分かっただろうか。ばれたくなければ完全に入れ替えるのでなく、いくらか真性も混ぜておけば、利益が減る替わりにリスクも小さくできる。

技術的にはDNA鑑定によって偽装を見抜けるはずだが、実際には検査に時間を要したりして相当なコストがかかる。偽装米の存在は長くささやかれ、昨年の事件からすると今でも出回っているらしい。買うときには気をつけたいが、私たちには見分けるすべがない。安心して購入できる有効な防止策がないものだろうか。


■補足・2012年の値上がり

2012年の夏前から、米の小売価格が急上昇している。新米が出回る前からのことで、10月からの新米はさらに上がり、一年前に普及価格帯で10kg3300円くらいだったものが約4000円と、2~3割高くなった。

11月26日読売新聞の記事によれば、その原因は北海道などで優良なブランド米が増えたことが第一で、背景に民主党政権が導入した農家の戸別所得保障制度があるという。減反に応じる農家に交付金が支給されるため、米の作付け面積は減少し無名ブランド米の生産が減り、相対的にもともと高いブランド米の比率が上がったという。
また同記事では米を集荷する農業団体である全農の前渡し金戦略が作用したことも示唆しつつ、詳細は不明だとしている。

ここに書かれた値上がり理由はどうも分からない。ブランド米の比率が高くなった程度で、これほどの全体値上がりは起きないはずだ。小さな上昇傾向に目を付けた投機の影響なのだろうか?いずれにしろ、少量生産でも一定の収益を確保したい農家の思惑もあっての価格高ブレ現象のようだ。
国内の米需要は長期的にゆっくりと下降線をたどっている。もし値上がりが定着してしまえば下降の傾きがもっと強くなるだろう。

茶碗一杯のご飯を食べる時、米の値段は約30円というのが昨年までの計算だった。値上がりによって40円になった。カロリーは200kcal。同じカロリーを食パンで摂ると1斤の三分の一として40円ほど。パンはそのまま食べられるが、米は燃料・水・手間・時間、それに炊飯器が必要なので割高になる。どっちを選ぶか?
一般の米離れが進んでしまわないか、心配である。


■コメを輸出戦略商品に育てよう!

選挙のたびに声の上がる景気対策および日本経済の復興のためには、他国に真似のできない輸出品を作って外国にどんどん売ればよい。これが古代から変わらぬ、もっとも確実で正当な、国が豊かになる方法である。
コメはそれができると、本気で思っている。

日本産米の強みとして、日本のコメは世界で一番美味しいこと、気候風土が違うのでたとえ遺伝子を盗まれても外国では同じ品質を生産できないことがある。

また海外の購入者は富裕層を想定できるので、安くしなくても十分販売できるだろう。
ただし国内向けの値上がりを防ぐ措置は必要。国民の栄養源として最重要の食糧であることを考慮し、消費税は特別扱いしてほしい。

当然、減反政策はやめる。輸出が増えれば生産拡大のため、土地が必要となって遊休地は活用され、就業者も増えるだろう。若者が参入しやすい環境を整備すれば、地方の過疎対策・雇用対策にもなる。

コメ生産・消費を優遇することは他にも国土景観の保全、健康な食生活にメリットが大きい。コメ文化を見直し、日々積極的に食べることは将来世代のためにも大きな意義があると考えている。
私たちは先人の努力に感謝し、稲作文化を誇り、これからも米食を大切にしていきたいものだ。

■最新訪問時期:2012年10月





猿橋溶岩(山梨):[富士山シリーズ]山頂から流れた8000年前の溶岩の崖

カテゴリー見出地形地質

猿橋代表

【この「カテゴリ地形地質探訪記」はこれまで地学に馴染みのなかった方に、大地の成り立ちの面白さを伝えるために作製しています】

名称猿橋溶岩流 : さるはしようがんりゅう
地質百選Ⅱ (猿橋は周辺景観も含めて国指定名勝史跡特別天然記念物)
所在地山梨県大月市猿橋町猿橋
交通機関富士急山梨バス:猿橋バス停下車、猿橋へ100m、猿橋から遊歩道あり
中央高速バス:猿橋バス停から東南へ500m・徒歩10分
マイカー中央道大月ICから国道20号線を東京方面へ6km
駐車場:猿橋公園郷土資料館前に10台ほど、ほかに数台程度の駐車場が幾つかある。いずれも無料。
その他の基点JR猿橋駅から東へ1200m、猿橋公園の先から遊歩道へ入る
JR大月駅から東へ4km
付帯施設特になし
問合わせ大月市観光産業課
0554-20-1829

◇地名等読み方
桂川:かつらがわ 葛野川:くずのがわ 都留市:つるし 
楽寿園:らくじゅえん 愛鷹山:あしたかやま 玄武洞:げんぶどう 神鍋山:かんなべやま 大谷石:おおやいし 凝灰岩:ぎょうかいがん 柱状節理:ちゅうじょうせつり 

猿橋地形図
 

■概要

猿橋現地説明板 設置されている説明板
[説明板の文章]
今より約6000年前の新富士火山古期溶岩流が、富士山より延々30km以上を桂川に沿って流下してきた溶岩流の末端部です。この溶岩は、厚さ約9mの玄武岩からなり、上・下限は岩さい状の溶岩で、冷却固化した時に中の揮発性のガスが逃げた穴が無数に見られます。溶岩流中心部には材木を並べたように見える柱状節理がきれいに発達しています。 大月市


(筆者による注)
・流れた時期について現地説明板では上記のように「6000年前」と書かれているが、通常は8000-8500年前とされている。
・富士山が1万年前ころに四方八方へ流した溶岩流のうち、最も北で残っているものが猿橋溶岩。逆方向で南に達したものが三島市の楽寿園に残っている。

■見学詳細

猿橋遊歩道 遊歩道の様子。画面右に柱状節理の崖がある

溶岩末端は垂直な崖として残り、舗装された遊歩道が猿橋から溶岩流の露頭、猿橋公園にかけて上り下りしながら通じている。木が茂って近づきにくく、岩の様子がよく見えないのが惜しい。観光客は国指定名勝である猿橋に集まり、溶岩流は注目されていない。30分で橋と岩の両方を鑑賞できる。


■崖の構造

猿橋崖縦位置 柱状節理を含む溶岩が固まった玄武岩の崖。上は民家らしい。

・画面下部で並んだ柱に見える柱状節理は高さ2m程度。すぐ下は節理にならず細かく砕けた様子を見せ、さらに下層は細かい土砂に河床の転石らしき丸い岩が混じっている。この下層は溶岩流の来る前の桂川河床であり、もともとこの位置を川が流れていた。溶岩流の影響で川は低くなったのである(後述)。
柱状節理の上は同じ玄武岩ながら柱状でなく不定形に割れている。溶岩流が落ち着いたあとの岩屑(がんせつ)であろう。


■対岸の緑色を帯びた白い岩は何か

左岸の凝灰岩 猿橋溶岩に向き合う左岸の様子甌穴も見られる。

猿橋溶岩流は桂川の右岸(富士山寄り)だけにある。富士山から流れてきた溶岩がここで川に流れ込み、激しい蒸気を上げながら急冷され、すぐに固まっていったことが想像できる。溶岩流を直接に止めたのは桂川の水で、桂川をここに流していたのはこの写真で白い岩肌を見せている凝灰岩である。

凝灰岩とは基本的に火山灰の固まったものである。ただし、ここの凝灰岩は富士山が形もなかった遠い昔に、海中の火山活動で作られた岩だ。写真でも見て取れる緑色を帯びているのは、水中での火山活動の証拠である。緑色凝灰岩、またグリーンタフとも言われ、壁材に多用される大谷石と同じタイプの岩である。

なぜこの内陸の地に海底火山の岩があるのか?それは富士山がなぜそこにできたのかを語るのと同じくらい複雑な問題になってしまうので、ここでは深入りできない。「地形地質探訪記」の[富士山シリーズ]として徐々に考察していきたい。

これだけは覚えておきたい。富士山はそれら周辺の山や岩よりも、遙かに新しい山である。火山活動をしていた海底が陸地となって火山活動を終えたあと、遅れて始まった噴火によって富士山は成長していった。わずか8000年前、猿橋溶岩をもたらした噴火活動を縄文人は目撃している。


■猿橋が架けられることと溶岩流の因果関係

猿橋 名勝・猿橋

橋の建設には長さが短くて済む狭い場所を選ぶものである。名勝・猿橋がこの位置にあるのは必然による。
長さは31m。短いゆえに特有の「肘木構造」という工法が採用されている。
ではなぜここが狭い谷になったのだろうか。

地形的に何が起きたのかをたどってみる。
流れ込んできた溶岩流によって桂川、そしてすぐ上流で合流する葛野川は一時的にせき止められ、上流側に長さ1000m程度の湖が出現しただろう。
その時、ダムに溜まった水の出口では狭い隙間になったことで流速が増し、凝灰岩層は下への浸食が進んだ。凝灰岩は溶岩の固まった玄武岩より軟らかいので浸食作用が集中する。流出口が徐々に削られ低くなっていくことで湖は土砂に埋まり切る前に消滅し、現在の峡谷と川に沿ったなだらかな河岸段丘を残した。

川は狭くなると流速が増し、浸食力が強くなる。水に接しない上方では浸食は起きず、川床が弱ければどんどん下へ掘り下げられ狭くて深い峡谷ができる。崖が崩れなければ上部は狭いまま保たれる。やがて桂川は元の河床より低い位置を流れるようになった。

猿橋から上流側と新猿橋 猿橋から上流側を見る

このように溶岩流がやってきたことは桂川を狭く深くし、猿橋は中でも一番狭い位置を選んで架橋されることとなった。上にある崖を縦に写した写真で柱状節理のすぐ下が溶岩流以前に川の流れていた高さに該当し、そのあと現在の水位まで下方浸食で5mくらい低くなったらしい。


■溶岩が遠くまで届いた理由

富士山の頂上から猿橋まで地図上で30kmある。流出口は山頂付近と言われている。これほどの長距離を流れた溶岩は国内であまり例がなく富士火山の特殊性を物語る。

さらさらと速く流れる性質でなければ空気に冷やされて短時間に固まってしまう。火山の溶岩には玄武岩質から安山岩質やデイサイト質まで様々にタイプがあり、猿橋溶岩は流動性の高い玄武岩質である。

このタイプは国内で現在活動している火山としては富士山から伊豆諸島しかない。他の火山はほとんどが安山岩質のため流動性がやや低く、玄武岩質マグマより流れが遅い。猿橋溶岩は富士山特有の玄武岩質だったため、遠距離を到達したと言える。

なお30kmの距離を地表で流れたように想像すると誤解が混じる。溶岩流の表面が空気に触れて固まり、固まっていない内部が「溶岩トンネル」となって、遠くまで届いたとイメージするほうが正確である。

山頂からの流路白山岳から

■猿橋溶岩はどこから流れ出たのか?

溶岩は8000年から8500年前に固結したとされる。噴火口から流れ出して猿橋に至り冷え固まるまでは、溶岩の流速から考えて遅くとも数日、おそらく1日以内と見られるので噴火時期も同じである。富士山成長史の通説によればその時期は頂上付近からの噴火を続けていて、標高を間もなく3700mまで届かせようという成長期だった。

猿橋溶岩も頂上から流れ出たと推定されているが、はっきりしない。
なぜなら流れているものは急斜面に残らないし、その後も激しい噴火活動を続けたため地形が変わり、表層が新しい噴出物で覆われてしまっているからである。しかし頂上に残る溶岩の痕跡をよく鑑定すれば、判明するのではないかと期待もしている。


■猿橋溶岩と富士火山の特殊性について

富士山が国内で特別な火山であることは明白で、色々な観点から興味をかき立てられる。猿橋溶岩の流動性からは何が類推できるのだろう。

昭和に入って溶岩を流した鹿児島の桜島(別稿参照)も秋田の秋田駒ヶ岳も、溶岩は安山岩質で流動性が低く、ゆっくりと動いた。桜島の噴火では流速が歩く程度だったため、溶岩に巻き込まれての犠牲者はいなかった。秋田駒ヶ岳は量が少なかったこともあり、600m先の斜面途中で止まってしまった。

なぜ、国内で富士山から伊豆諸島だけが玄武岩質溶岩を出すのか?
その鍵はユーラシアプレートへ潜り込むフィリピン海プレートの動き、フィリピン海プレートに潜り込む太平洋プレートの動きに関係してくるのだが、筆者の知識では十分答えられないというだけでなく、実はまだ未解明の部分が多い。富士山がなぜそこに誕生したのかを誰も説明できないのと同じである。

ちなみに、玄武岩質溶岩の地形は他の場所にもたくさんある。山陰地方・兵庫県の玄武洞は100万年以上前の見事な柱状節理であるし、近くの神鍋山は2万年前まで溶岩を流していた。しかし現在は静穏になった。これら山陰地方に明瞭な形を残している火山が玄武岩溶岩を出した理由に加え、なぜ活動しなくなったのかも、納得いく説明はなされていない。

火山を表面的に見て分類することは簡単だが、その根源的な説明となるとまだまだ謎の多いのが現状である。それだけに想像が面白い。


■三島溶岩流について

猿橋溶岩流は先に流れた静岡県三島市の楽寿園に残る三島溶岩流も一緒に考えると良い。

三島楽寿園 楽寿園内に残る溶岩流

猿橋に流れた8500年前と言えば地質学ではごく最近の出来事で、富士山の成長過程では「新富士火山」と呼ばれ現在とほぼ同じ姿になっていた。
三島市の溶岩も同じ新富士火山期だが、時期は2000-3000年ほど早く、現在から10500年前と測定されている(現地説明板では14000年前としている)。
やはり富士山の山頂から流れ出た玄武岩質の溶岩が、南東斜面を流れ下り、聳えていた愛鷹山の東麓を回って、三島に至った。ここでは厚みがないためきれいな柱状節理ではないが縄状や餅状を呈している。


◇訪問散策雑感

猿橋溶岩流や三島溶岩流は観察範囲がわずかで、この地点だけと考えるとわざわざ手間をかけて訪れるほどではない。猿橋溶岩は猿橋を、三島溶岩は楽寿園を見学するつもりで訪問したほうがよさそうだ。筆者の訪問時にはいずれも岩を見学する人はほとんどいなかった。地学の鑑賞ポイントはまだまだPRが不足しているのだろうか。

いずれ別稿で頂上の観察や本記事で触れた玄武洞などについても紹介を試みる予定である。


■最新訪問時期:2012年8月

■主な参考図書
『伊豆・小笠原弧の衝突』藤岡換太郎ほか、有隣親書
『山梨県地学のガイド』田中収編著 コロナ社
『火山を読む』守屋以智雄 岩波書店
ほか、多数のHPも参考にさせていただきました。


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石山寺の珪灰石(滋賀):名刹を招き寄せた奇岩

カテゴリー見出地形地質

石山寺代表
石山寺境内で柵に囲まれている巨石。背後の建物は多宝塔。

【このカテゴリ「地形地質探訪記」はこれまで地学に馴染みのなかった方に、大地の成り立ちの面白さを伝えるために作製しています】

名称石山寺珪灰石  (いしやまでら けいかいせき)
国指定天然記念物 地質百選
所在地滋賀県大津市石山寺1-1-1 (主な珪灰石は寺の境内)
交通機関JR石山駅にて京阪電車石坂線に乗り換え→石山寺駅下車、徒歩10分
JR石山駅から京阪バス10分「石山寺山門前」下車すぐ
マイカー名神高速道路瀬田西ICから10分、瀬田東ICから15分
京滋バイパス石山ICから10分、
駐車場有料600円
その他の基点京都市中心部から20km
大津市中心部から9km
見学・拝観時間午前8時~午後4時30分(入山は午後4時まで)
入山料:500円(珪灰石見学でも同じ)
付帯施設石山寺観光案内所(石山寺観光会館内):境内入口手前(珪灰石の情報は詳しくない)
問合わせ石山寺 077-537-0013 http://www.ishiyamadera.or.jp
石山寺観光協会 077-537-1105

◇地名読み方
石山寺:いしやまでら 粟津:あわづ 
鹿跳橋:ししとびばし 一老坊:いちろぼう 鈴鹿:すずか 綿向山:わたむきやま   
◇地質用語・歴史用語等
珪灰石:けいかいせき 緑簾石:りょくれんせき 褶曲:しゅうきょく 銅鐸:どうたく 閃石:せんせき
良弁上人:ろうべんしょうにん

石山寺地形図

■石山寺とは

関西では知らぬ者のない由緒ある名刹。
良弁上人を開基とする石山寺は、天平勝宝1年(749年)、大仏造立を発願した聖武天皇の勅願により瀬田川西岸の景勝地に開創された。
以来朝廷や貴族の尊崇を受け、西国三十三所観音霊場として参詣者を集めている。
創建時は東大寺華厳宗、9世紀から真言宗の寺院となる。
平安期の内陣を残す本堂、頼朝寄進による鎌倉期の多宝塔、古文書類などの国宝、『石山寺縁起絵巻』、『源氏物語絵巻』などの重要文化財多数を蔵する。紫式部は本堂に籠もって『源氏物語』を構想したと伝える。

石山寺多宝塔 12世紀に源頼朝が寄進した多宝塔(国宝)

■考古学の面から

◇ 貝 塚

石山寺の面する瀬田川河岸では縄文時代早期(6000-7000年前)の貝塚と、埋葬された縄文人骨が発見されている。琵琶湖周辺から瀬田川にかけては縄文遺跡が多く、瀬田橋上流側の湖底で平成2年から調査された粟津湖底遺跡などは大量のシジミ貝殻や土器類などが発見され、琵琶湖博物館で常設展示されている。貝塚の存在は数千年前から豊かで住みやすい土地だったことを物語る。石山寺前の貝塚は「石山貝塚」と名付けられたが、今は駐車場の地下に隠れていて見ることはできず、記念碑が建っている。

石山寺貝塚記念碑 境内へ入る手前、駐車場近くの貝塚記念碑。

◇ 銅 鐸

8世紀に石山寺を建立する際に地中から五尺(150cm)の銅鐸が出土したと『石山寺縁起絵巻』が伝える。ただし石山寺に重文として現在所蔵されている高さ91cmの銅鐸は11世紀に1km離れた一老坊(いちのごう)遺跡で発見されたもので、『石山寺縁起絵巻』に伝わる物とは別とされている。
『縁起』の記述で五尺という国内最大となるサイズは信頼できないが、大型の銅鐸が出土したことは事実だろう。その銅鐸はほどなく行方不明になったと考えられる。11世紀に近くで発見された銅鐸は、すでに不明となっていた銅鐸の代替品として扱われた可能性が高い。
いずれにしても謎の多い弥生の祭器である銅鐸が埋まっていたのは非常に興味深い。

石山寺Wiki銅鐸 一般的な大型銅鐸。8世紀に出土した物も所蔵されている物もほぼ同型と推定される。

当地は古代から奇岩景勝地として知られていたらしく、その場所を選んで石山寺は建立されたと考えられる。奇岩怪石が神秘性を感じさせたのだろう。古来から巨岩などの自然造形に神が宿るとする思想は普遍的にあり、石山寺創建の以前にも何らかの祭祀施設があったことは十分想像できる。

石山寺は歴史の面からも特筆すべき場所だが、ここでは寺号の由来にもなった奇岩に象徴される地質面から注目してみる。


■石山寺の珪灰石とは

◇[説明板の記述]

「天然記念物 石山寺硅灰石  大津市石山寺1丁目
硅灰石は石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは珍しいものです。
石山寺の硅灰石は20ミリメートル大の短い柱状の結晶となったものや、5ミリメートル大のものが50ミリメートル大に集合したものがあって、表面は淡黄色あるいは淡褐色をしています。しかし新鮮なものは純白色をしています。
また、この硅灰石のほか大理石、ベープ石、石灰岩からなる大岩塊は褶曲のありさまが明らかにわかるものとして貴重なものであり、石山寺の「石山」の起こりとなったものです。
大正11年3月に国の天然記念物に指定されました。
大津市教育委員会  昭和59年2月」


※石山寺では「硅灰石」の字を用い、地質の本では「珪灰石」と書いている。


◇珪灰石を正しく見分けるには

説明板の文面は地質の解説文として解りやすいほうだが、幾らか補足しておかないと誤解しやすい。冒頭で多宝塔をバックにした写真に写っている高さ数メートルの巨岩群の一部に珪灰石が含まれている、というのが正しい表現で、岩の大部分は大理石である。珪灰石の部分は画像の通り。大きく褶曲し、汚れて黒っぽく見えている。

石山寺珪灰石文字入 

さて、この珪灰石から地学の面白さを提供できるだろうか?
まず以下で一般に解るように説明を試みる。

■珪灰石の元となった石灰岩とはどんな岩か

石灰岩は海洋においてサンゴを中心とする多くの生物が堆積し、殻や骨といった固い部分が固まり、長い年月を経て岩になったものである。カルシウム成分に富み、化石を多く含む。一般にサンゴ礁は熱帯から温帯の海まで広く分布するが、日本での石灰岩はほとんどが赤道付近に成育する種のサンゴ礁で成り立っている。温帯に位置する日本列島の内陸に存在する理由は、海洋のプレートが動くことで運ばれて、陸上にのし上げたからである。
(このプレートの動きを説明するのが「プレート・テクトニクス」だが、その説明は後日へ)

石灰岩は周知の通りセメントの原料になるため、多くの石灰岩地帯では大規模に採掘されている。もうひとつ付きものなのは鍾乳洞で、見学できるような場所がないとしても、地中には洞窟ができている。

■石灰岩地帯のカルスト地形

石山寺珪灰石裏側 珪灰石を反対側から見下ろす

やはり石灰岩地帯である山口県秋吉台に代表されるカルスト地形は、この石山寺の珪灰石とよく似ている。カルスト地形というのは石灰岩地帯が雨にさらされるうちに溶かされ、地表で多くの岩が空に向かって突きだすものが典型的な姿である。石山寺のように一部が珪灰石や大理石になっているとその部分は侵食に強いため丸い頭になる。弱い部分がどんどん雨に溶かされて強い頭部に守られた固まりが背の高いまま残るため、目を引く奇観となる。
石山寺の岩もいわば「溶け残り」であり、小規模なカルスト地形と言ってよい。
ただし地下には熱を与えた花崗岩が広がっていると推定されていて、画像にある「くぐり岩」のほかに人の入れるような鍾乳洞はなさそうである。

石山寺くぐり岩 境内入口近くにある「くぐり岩」。手書き説明板に「大理石です」と書いてあるが、正しくは石灰岩(後述)。

■石灰岩が変質するとはどういうことか


石灰岩は岩となる過程で熱を受けることがなかったために、高温にさらされると変質する。「接触した花崗岩」というのは地中深くにあるマグマの固まった岩であり、このマグマは固まる前に地中の亀裂を伝って上昇してくる。ここでは上昇した先に偶然あったのが石灰岩の固まりで、マグマはそこで動きを止められゆっくりと冷却され、固まって花崗岩となっていった。石灰岩の一部は融けてマグマに取り込まれてしまっただろう。融けなかった部分はマグマが固まってからも熱を受け続けて変質し、石灰岩由来の珪灰石や大理石となった。

また、説明板に「通常できる大理石」とあるのは装飾によく使われる白色度の高い石で、珪灰石よりも広く分布している。大理石という呼び方は建築で好まれる通称で、地質学では結晶質石灰岩と呼ぶ(ここでは一般に馴染みやすい大理石という呼び方を用いておく)。

「変質」というのは珪灰石でも大理石でも熱を受けることで粒が揃って大きな結晶構造となることを指し、その過程を経ると石灰岩の時には含まれていた生物化石が消えてしまう。
このように融けることなく結晶構造が変化することを「変成」と呼び、岩石を三大別するときの「変成岩」は熱や圧力で結晶の変化した岩石を指している。なお結晶構造が変化するというのは分子の並び方が変わるということで、化学組成は変化しない。見た目には別の物質のようになってしまうことが多い。

境内や周辺では珪灰石ばかりでなく、大理石や、熱をあまり受けていない石灰岩、海で堆積した石灰岩以外のチャートや泥岩、それらが熱や圧力で変質した岩、また熱を与えた側の花崗岩もわずかに露出している。見えている岩が全部珪灰石や石灰岩なのではない。

石山寺チャート 多宝塔の東で露出しているチャート


■大理石と珪灰石ではどう違うのか?

大理石も珪灰石も、元となった石灰岩は海洋生物の積み重なったものである。生物の軟らかい部分は分解されてしまうので、殻や骨といったカルシウムに富む固い部分が残って石となった。化学的に言えば主成分は炭酸カルシウム(CaCO3)である。これが長い時間を経て細かい方解石という鉱物の集合になったものが石灰岩である。時には泥や砂など不純物の混じることがあり、石灰岩の中でも純度の高いものから低いものまで様々である。
そこから熱によって変成されるのは次の構図となる。
石山寺化学式
・大理石は方解石(CaCO3)のまま、熱変成によって結晶が大きくなったもの。石灰岩に不純物がなく十分な変成を受ければ、きれいな白色の大理石ができる。

元の石灰岩に不純物が多かったかどうかで、熱を受けたときに大理石になるか、珪灰石になるかが分かれる。中間的な状態も多い。
そして、熱が少なかったときには緑簾石やアクチノ閃石という石になるはずなので、珪灰石は変質するに十分な、それでいて融けない範囲の熱にさらされたということになる。

珪灰石自体は、鉱物として特に珍しいとは言えない。石灰岩地帯で規模は小さくともよく見つかるものである。
母岩である石灰岩は国内各地にあり、石山寺の近くでも東に広がる鈴鹿山脈の北部から関ヶ原を経て伊吹山まで続いている(下の地図参照)。
ちなみに石灰岩の採掘から始まるセメント産業は実は有力な輸出産業であり、純度の高い日本の石灰岩は数少ない高品質天然資源として世界に流通している。


■不純物が石灰岩に混じる状況

純度が高ければ熱によって大理石ができ、珪灰石はできないはずである。
なぜ石山寺付近では珪灰石になるような純度の低い石灰岩なのか?
それは何を物語るのか?

純粋な石灰岩ができるには、きれいなサンゴ礁があればよい。きれいという意味は生物の殻などの炭酸カルシウム(CaCO3)以外の物質が混ざらないことであり、実際の海洋では陸地の河川から泥や砂が不純物として入ってくる。

サンゴ礁が陸地から遠いか、または小さな陸地であることが不純物を避ける条件となる。
ただしサンゴは浅い海に生育するものなので自ずと陸地が近いということになり、現に熱帯地域の大陸縁辺に発達しているサンゴ礁からは、混ざりもの付きの石灰岩が生まれていく。

これに対し日本に多いという純度の高い石灰岩は、赤道付近で小さな火山島を中心とした浅い海で発達したサンゴ礁に由来すると言われている。
そして石山寺地域のように不純物が混じっている石灰岩は、どこかの段階で砂や泥が混入してきたということになる。そのポイントが判明すれば、近畿地方東部の大地がどのような過程を経て現在の姿になったのかのヒントが見えてくるはずなのだが、この点はまだはっきり解らない。

それ以前に問題もある。「不純物」と述べてきたが、この実体は砂や泥だけでなく、熱を与えた花崗岩そのものだという考え方もある。また、チャートという、石灰岩とは別の海洋性堆積岩が不純物として関与している可能性も高い。
まだまだ未解明の問題を残しているのである。


◇天然記念物・綿向山の接触変成岩との関係

石山寺から東南東40km、鈴鹿山脈の西麓にある天然記念物「綿向山麓の接触変質地帯」でも同様の珪灰石が存在している(下図)。この付近は鈴鹿山脈北部から伊吹山へ続く石灰岩地帯の南端に当たる。ここでは珪灰石だけでなく、石灰岩以外の砂岩や泥岩といった堆積岩が熱変成を受けた様子が見られる(総称として「ホルンフェルス」と呼ばれている)。
熱で変質する化学的な仕組みは同じであり、どちらも次に述べる遙か昔の火山活動が根本原因と疑われている。


◇8000万年前の大規模火山活動


石山寺珪灰石を生むことになった熱源のマグマは、火山活動の一環として地下から上昇したきたものだった。
その火山活動は滋賀県南東部一帯で直径30km以上に円形の痕跡を残している。
余りに古いため地形では分からないものの、巨大なカルデラを形成したことを示すリング状の分布が残り「湖東コールドロン」と呼ばれている。時期は恐竜も歩いていた白亜紀後期で、まだ日本列島の形になっていなかった。

コールドロンという言葉は一般に馴染みがないがすでに全国で見つかっていて、1億年くらい前に盛んだった大規模な火山活動の跡である。
湖東コールドロンに残っている火山岩の分析では石山寺付近の熱源となった花崗岩と共通する要素が見られることから、当時の同じ火山活動によって石山寺珪灰石の生まれた可能性が言われている。

石山寺コールドロン地形図

なお、この時期の大規模火山活動というのは日本列島だけでなく、全地球的な広がりがあったと言われている。時期は白亜紀後期。6500万年前に隕石衝突で絶滅する恐竜たちは、火山噴火と隣り合わせに生きていたのである。

◇現在の姿になるまでをたどる

・8000万年より古い時期、この石灰岩を含む大きな岩の集まりが海からやって来て陸地に付け加えられた(「付加作用」「付加体」と呼ぶ)。このときはまだ地表に出ず、地中にあった。

・8000万年前頃、盛んな火山活動の中でマグマに接し、一部が変成した。

・この時期に前後して、強い地殻変動の力を受けて地層は褶曲した。褶曲は一定以上の熱がないとできないので、熱変成と褶曲は同時に作用していたと推定される。

・火山活動が終焉してから長い間、岩はそれ以上変化していないことから大きな出来事はなかったと推定され、比較的最近の200万年前ころになって隆起が始まった。

・地表に露出した石灰岩や珪灰石などは雨や河川による侵食を受け、残った部分が現在見るような奇岩になった。

・確認ができないが、石山寺建立に際しても岩の一部は削られたことだろう。冒頭写真にある多宝塔前の岩は意図して残されたと想像している。


◇蛇足1:石の汚れ

掲載写真にあるように、大理石は白いのに珪灰石は随分黒く見える。しかし本来は珪灰石も白いのであって、黒いのは汚れである。結晶の向きで凸凹面が外を向き、ゴミが入り込んでしまうらしい。
この汚れはブラシで落とせるのかもしれないが、現代社会の問題として知っておいてもらいたいことは酸性雨による化学的な劣化である。
通常の雨でも少しずつ石灰岩や珪灰石は溶けていくのだが、近年は雨の酸性度が上がっているために加速している。鎌倉大仏など野天の金属類、セメントが原料であるコンクリート構造物、丈夫なはずの花崗岩を利用した墓石も同じ状況にさらされている。
石山寺建立から1200年、同じ程度の溶解が今後100年で進むのだろうか。


◇蛇足2:本当の「大理石」

述べてきたように、もともと大理石という言葉は熱変成を受けて変質した石灰岩を指していた。だから地質学では「結晶質石灰岩」と呼ぶ。「ミロのビーナス」など彫刻の材料に好まれる均一な白色になるのはこうした真の大理石であって、熱変成していない石灰岩では不規則な模様が残り、純白とはいかない。イタリアは石灰岩を多量に産する土地で、その一部が熱変成された大理石になっている。古代ギリシャやローマの彫像・建築は高級な大理石を惜しげもなく使用したものである。

ところが建築の世界ではいつのまにか普通の石灰岩も「大理石」と呼ぶようになり、すでに市民権を得たようである。例えばデパートの壁石も大理石とされている。デパートの壁で化石を探そうという“科学的な”催しが時々ある。もし本当の大理石であれば熱を受けて残っているはずはない。石灰岩だから化石が見つかるのである。


◆最新訪問時期:2012年11月

◆主要参考図書
『改訂・滋賀県地学のガイド』(上・下)コロナ社2002年滋賀県高等学校理科教育会編
『日本列島ジオサイト地質百選』オーム社 平成19年
『日本の変成岩』橋本光男 岩波書店 1987年
『新版地学教育講座8日本列島のおいたち』地学団体研究会編1995年

◇当ブログ関連記事へのリンク
博物館訪問記:琵琶湖博物館
山岳探勝:伊吹山



上野原遺跡(鹿児島):火山噴火と同居した縄文人

カテゴリー見出古代史

上野原遺跡屋外展示

■概要
上野原遺跡は鹿児島湾を見下ろす250mの台地状に残る縄文・弥生から中世までの複合遺跡。工業団地造成に先立つ調査によって発見された。定住していたことがはっきり分かる縄文遺跡では早期前葉(9500年前)と国内最古級であることがわかり、注目された。

名称上野原遺跡 (うえのはらー)
国指定史跡
出土品767点が重要文化財指定
日本の歴史公園100選
所在地鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森
(旧・鹿児島県国分市)
対象年代縄文時代早期(9500年前~6000年前)、および弥生時代から中世
交通機関JR国分駅から「いわさきバス」、「上野原遺跡」バス停下車(便数等不明)
マイカー九州自動車道溝辺鹿児島空港ICから40分
東九州自動車道国分ICから15分
無料駐車場あり
(注:国道10号線で丘陵の東に回り「テクノパーク入口」交差点から入る)
その他の基点JR国分駅から8km、20分
鹿児島空港から20km、40分
鹿児島市中心部から40km、1時間20分
付帯施設[上野原縄文の森]:遺跡・展示館・埋蔵文化財センターを含む公園全体を指す
開園時間:9:00ー17:00 
休園日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月30日ー1月1日
入園無料

[縄文の森上野原遺跡展示館]、「埋蔵文化財センター」など
問合わせ[上野原縄文の森総合案内]
0995-48-5701
http://www.jomon-no-mori.jp/

◇地名読み方
国分:こくぶ 鬼界:きかい 日向:ひゅうが 錦江湾:きんこうわん

◆見学詳細

・遺跡全体が「上野原縄文の森」という公園として平成14年開園した。
・公園の入園・駐車場は無料
・復元家屋のある園地も含め、公園の開園時間しか入れない。

◇縄文の森展示館
展示館
・縄文の森展示館は当ブログ「博物館訪問記」で取り上げるに相応しい施設だが、展示内容が遺跡と重複するため、ここで紹介する。

・開館時間:9:00ー17:00、入館は16:30まで 
・休館日:休園日と同じ
・入館料:大人300円
・シアター、レストラン、売店、展望所併設、図書室あり
・展示室内撮影可
・見学要1時間程度
・年数回、企画展を開催
・展示館では土器や石器など出土品の実物に丁寧な解説を付けて、当時のムラの様子を再現したジオラマと共に展示している。
・奄美地方も含む鹿児島の縄文遺跡全般を紹介している。
・展示館とは離れて公園内にも実際の発掘場所に覆い屋根を設置した「地層観察館」「遺跡展示館」が設置されている。

◇遺跡保存館
遺跡保存館
縄文時代の遺構を発掘時の状態で見学できる。

◇地層観察館
上野原地層観察館
遺跡のある台地に降り積もった火山灰など、2万年以上前から堆積した地層の実物を観察できる。
火山灰・軽石などの火山噴出物層から土器類が発見されることで人の暮らしていた時期がはっきり分かる。


■遺跡内容

・発掘調査により石器時代の生活痕から中世の遺物まで発見され、長期に渡る複合遺跡に分類される。学術的に注目されるのは縄文時代早期から中期で、復元家屋もその時期を想定している。

上野原年表  

・発見が昭和61年と新しい。縄文時代の遺跡はそれまで東日本に多く、九州では数少なかった。しかも早期から中期という早い時期の集落ということで注目された。

・復元家屋の形状は「砲弾型」と呼ばれるタイプ。根拠は、柱の穴が細く円形に多数並んでいたことだという。本当にこの形状だったという証拠はない。家屋の復元はよく遺跡のオリジナリティーとして表現される傾向があり多分に想像が加わっているため、真に受けることは禁物である。

・集落の規模は52棟の住居跡が発見されているが同時期に使われていたのは5棟程度、人口は数十名と推定されている。建て直しが繰り返されて長い期間で52棟分の痕跡が残った。
時代が下る青森の三内丸山遺跡(当ブログ別記事)では人口200名と推定され、大勢で協力しないと造れない大型建造物跡が見つかってるが、上野原遺跡では家族で暮らす住居よりも大きな建物跡は発見されていない。集落規模としては縄文時代に全国で見られる平均的なものだったようだ。

・地形はシラスと呼ばれる2万年以上前に形成された火砕流台地(※)が侵食から残ったもので、鹿児島湾(錦江湾)から250mの崖にそびえ、内陸側には丘陵が続いている。交易や漁のため海に出るには崖を迂回して上り下りする必要があった。生活用水は内陸側の少し低い谷筋で細い湧水があり、少人数であれば足りただろうと推定されている。逆に大人数には不足で、この水場の制限が、居住可能人数を決めていたかもしれない。
全国で見れば古代の遺跡は川に近い微高地に多い。高台での居住は本来不便で、敢えて選んだ理由について詳しくは解っていない。

・縄文の森展示館の内容は非常に立派で充実しているのだが、遺跡は一時騒がれたほどの大発見ではないと感じている。目玉となるような際立った遺物がなく、一般受けは難しそうである。しかし学問というのはこういった地味な作業の積み重ねから大きな成果を生むのだろう。


(※シラス、火砕流については当ブログ別記事「地形地質探訪・桜島」参照)


■鬼界カルデラ噴火と上野原

地図

この遺跡が貴重なひとつの理由は、地質学によって時期の判明している火山灰が厚く堆積し、遺物の埋没時期がはっきり分かることである。周辺は南部九州の活火山銀座で、縄文人が居住していた数千年の間には幾度となく桜島の大噴火に直面したことが火山灰や軽石の層から分かる。それでも集落が継続したのは大噴火の間隙が100年でもあれば十分暮らせたからだろう。

その噴火の中でも樹木が全滅するような大きな災害となったのが7300年前(館内展示では6300年前と表示)の海底火山による鬼界カルデラ噴火である。このとき、住民がどのような運命をたどったのかはっきり分かっていないが、その後もしばらくして生活が再開されている。火山災害といっても高熱の火砕流に直撃されでもしないと全滅はあり得ないので、縄文人は一時的に避難し、植生の回復とともに帰ってきたと考えられている。あるいは子孫でなく、別系統の集団が移住してきた可能性も大きい。
注目しておきたい問題は、南部九州全体で社会の進歩するペースが落ちたのかしれないということだ。

鬼界カルデラ大噴火の火山灰は関東まで降り積もっていて、国内での火山噴火では縄文期から現在までの1万年間で最大のものと言われている。
一般に火山噴火で火砕流や噴石の直撃を受けるのは至近距離に限る。鬼界カルデラ噴火中心位置と上野原遺跡では100km離れているので噴石はまず飛んでこないし、250mもの高台なので、海を渡るという火砕流も、津波も届かないはずである。灰が降り積もっても犠牲者は普通出ない。
(イタリアのポンペイ遺跡はベスビオ山から10kmの位置にあり、火山灰が数メートルの厚みに積もったことと、不運にも火砕流が向かってきたことにより被害が大きくなったと考えられている)
しかし噴火が治まるまで無事だったとしても、植物が全滅してしまったら、動物も人も暮らせない。
この災厄は南部九州の文化にどんな影響を与えたのだろうか?

(当ブログ別記事「博物館訪問記」に取り上げた九州国立博物館で、この鬼界カルデラ大噴火から人々や動物の逃げまどう場面がシアター上映されている)

※鬼界カルデラ噴火の年代
地質学ではC14年代法暦年較正によってこれを7300年前とするのが一般的となっているため、ここでもそれを採用した。考古学では考え方が分かれ、上野原遺跡の展示館では6300年前と表示されている。



■推論:社会の発達境界を考える

鬼界カルデラ大噴火を受けた後、上野原遺跡および鹿児島湾周辺から発見される土器には変化が見られ、全国に共通する様式になったという。これは避難先で影響されたというより、他地域から新たに移入してきた人々が持ち込んで来たと解釈するほうが自然であろう。

大噴火を目の当たりにして生き残った人々もそれを伝え聞いた人も、そんな土地には住めないと考えるのが当然である。森からの採集ができなくなった以上、鹿児島湾周辺は無人の野になったと考えられる。
そして災厄の記憶が薄れ、森が豊かさを取り戻した頃に戻ってきたのではないか。

福岡や佐賀といった北部九州に半島から稲作が伝来して以後は弥生時代となる。時期は最近の研究で徐々に遡り、紀元前600-700年とされているので、鬼界カルデラ大噴火から3500年後である。

弥生時代からは福岡佐賀を中心とした北部九州が日本の先進地域として栄え、3世紀後半からは近畿地方に移る。その間、鹿児島や宮崎の南部九州はまるで日本史から取り残されたように考古学的に語るものが乏しくなる。

「日向」という言葉は今では宮崎地方を指すが、古代においては鹿児島地方も含んだ南部九州一帯を指した。このことは地域の独自性がヤマト朝廷の置かれた国内中心地まで伝わらなかったことを示し、交流の乏しさが窺える。日向において弥生時代の遺物は北部九州とまるで異質で、大陸との交流の証拠である青銅器もほとんどない。日本の中心と関連するようになるのは古墳時代に入る4世紀からであり、3世紀までの南部九州は日本史から蚊帳の外に置かれているかのようだ。

北部九州と南部九州との境界は熊本県南部と、その東で火山の存在しない九州山地にあるようだ。この“文化断層”の原因が霧島火山群、桜島、海中に隠れている鬼界カルデラによる火山活動にあるという気がしてならない。

■最新訪問時期:2012年6月





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九州国立博物館(福岡):歴史の地に建てられた大型博物館

カテゴリー見出し博物館

九州国立博物館

名称九州国立博物館
ジャンル歴史文化系 主に九州地方の歴史全般 特別展では美術も扱う
所在地福岡県太宰府市石坂4-7-2
開館時間9:30-17:00(入館は16:30まで)
休館日月曜休館、祝日の場合は翌日休み
入館料大人420円、学生130円 特別展は別料金
交通機関西鉄・太宰府駅から600m、徒歩10分
マイカー・太宰府ICから東南へ12km、20分
・駐車場500円/1回、(入館者割引なし) 収容313台
その他の基点太宰府天満宮から東南へ500m徒歩10分
福岡市中心部から15km
問合わせ092ー918ー2807(代)
http://www.kyuhaku.jp/


■概要

従来例のなかった地方での歴史系国立博物館として、平成17年(2005年)大宰府天満宮の隣に誕生した豪華な博物館。2km西で礎石だけが残っている大宰府政庁址は古代から中世まで九州の首都として、また朝鮮半島や中国文化の玄関口として永く機能してきた。九州国立博物館はこの歴史を踏まえ、国内各地及び海外との「交流」を基本テーマにしている。屋根のうねりは波をイメージさせる。
国庫は赤字のはずだが国の威信を賭けたかのような巨大な造りで、いつも団体客で賑わっている。2007年には天皇も訪れた。

■内容詳細

・館内は広くすべてを見るには半日程度必要。
・展示室内の撮影は不可。ボールペン使用不可。
・展示室案内員少数、ボランティアガイド常時あり。
・資料室なし
・レストラン、カフェあり

・特別展を一年の半分以上開催、歴史と離れた企画もある。
・常設展示での展示替えを随時行う。HPに情報あり。
・週末には小規模な各種イベント開催、毎週火曜に展示解説ツアー開催。
・2度目からは事前にHPで展示内容を調べておいたほうがよい。

◇駐車場の注意

・収容台数は多いがイベント期間の週末などは満車、渋滞となる。
・博物館HPの駐車場地図は使いにくいので注意。
・第1駐車場が太宰府方面から入りやすいが、渋滞が多い上に歩行距離が長い。
・第2駐車場は太宰府方面と反対の北東側からアプローチするため博物館自体を目指しているとかなり大回りさせられる。
・第1・第2駐車場ともカーナビでは東から入るように設定しておくとよい。


■評価&所感

歴史全般を広く扱っているので、上級者は自分の関心分野にヒットする展示があれば楽しめる。ひとつひとつの展示物や展示方法は実に立派である。
古代史というひとつの分野に関心の高い筆者には量が物足りなかった。
こういった大規模な施設では全体を眺め回しても予め関連知識がないと得るものが少ない。むしろ初心者はひとつでも興味惹かれる対象を発見できれば成功だろう。

投影スクリーンが幾つかあり、CGと実写による映像をシアター感覚で楽しめる。
展示室にボランティアガイドが何人かいるので、積極的に質問してみるのもよいだろう。
博物館では展示を見て記載文章を読むだけでは印象に残りにくい。人との会話があるとよい勉強になる。ただしボランティアガイドには個人差があることに注意しておこう。


◆Pic up!

◇シアター4000

展示室の一角にある小規模な上映施設。筆者は「シアター4000」のスーパーハイビジョン映像に興味があった。これはハイビジョンに較べて縦4倍、横4倍、面積で16倍の解像度という高精細画像である。
幾つか用意されているプログラムのうち「海の正倉院・沖ノ島」「不思議・再発見!200年前の日本地図」という2本を観たが、残念なことに動画ではなく、静止画にナレーションの入ったものだった。精細さは言うまでなく細部までじっくり観察したくなる高画質なのだが、これでは一眼レフデジカメの写真を投影したのと同じことだ。動画での超高精細映像を見たい自分は期待が外れた。

◇海・森・火山


こちらは横長のスクリーンで古代九州のCG映像を見せてくれる部屋。
このブログ内の別稿「古代史探訪」で取り上げた鹿児島の上野原遺跡が登場し、その遺跡に壊滅的被害を与えた鬼界カルデラ噴火から人々が逃げまどう場面がある。

◇「ダンワラ古墳出土鉄鏡」との出逢い

この名称を聞いて何のことか解るのは古代史マニアだけだろう。
2008年に初めて九州国立博物館を訪れた時、九州地方古代史のコーナーで数枚の青銅鏡が並ぶ中に異質な鏡が一枚混じっていた。

九州国立博ダンワラ古墳出土鉄橋

表示にはたしか「大分県日田市」としかなかった。青銅鏡に較べて破損が大きく、破片をパズルのように並べた状態に置かれ、青銅の青緑色とは異なる鉄サビの赤茶けた色の中に、玉のごとき小さな埋め込みがポツポツと鮮やかな赤色や緑色を放っている。

当時古代史の知識が乏しかった筆者だが妙に気になって、ボランティアガイドに訊ねてみた。数名をリレーしてたどり着いた博識の人によれば、これは大分県日田市で鉄道工事中に見つかった遺物で、出土場所はすぐ壊されてしまったため古墳があったのかどうかも含め発見状況は不明、同時出土は小さな帯金具だけが博物館に所蔵されているという。発見者の報告はあるが調査がなされなかったので、考古資料としては謎ばかりだという。

青銅製の鏡は国内で2000枚も発見されているが、鉄製の鏡はほんのわずかに過ぎない(枚数不詳)。鉄がボロボロに酸化し発見にならないという理由だけではなく、古代の鏡は青銅で作るのが普通だったからだ。日田にもたらされたものはなぜ鉄なのか。

その鉄鏡は紀元前、前漢時代中国製と言われ、類似品は国内未発見。その時代の日本は弥生時代で先進地域の佐賀や福岡では1世紀に金印を受領した「奴国(なこく)」などの地域国家が成立していたかどうか不詳という時期に当たる。

名称を「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)」という。国指定重要文化財。
これほどの高度な製品が中国や朝鮮半島の窓口である北部九州地方を通過して大分県日田盆地に至ったのはなぜだろうか、関門海峡を通り海路で運ばれたのだろうか。想像の仮説ばかりが飛び交うミステリーである。

ここでは以上の簡単な紹介に留めるが、また稿を改めて推理してみたい題材のひとつだ。
九州国立博物館で常設とされているが、2010年の訪問時は収蔵庫にしまわれていて会えなかった。

2010年頃、なぜか朝日新聞に大きな写真でこの鉄鏡が紹介されていた。古代史の謎といったテーマ記事だったと思う。これで少し有名になったかもしれない。

◇学術的質問への丁寧な対応

2度目の訪問時、展示での文章説明に興味を惹かれるものがあった。
筆者はたいていの博物館で学芸員に質問しているが、九州国立博物館では来場者への質問に面談するという体制はとっていない。代わりに受付で用紙に記入しておくと、後日メールなどで回答してくれる。
その手間をかけてまで答えてもらうには些細な疑問で気が引けたが、試したところ1週間くらいで丁寧なメールが届いて、長文で説明がなされていた。回答者の名前は博物館の研究員でも高いポジションの人であった。恐縮しながらお礼のメールを送ったのは言うまでもない。
ちなみにその質問とは「海上他界観」
弥生時代の北部九州では、人は死んだ後に海の向こうにある別世界へ旅立つという思想があったのではないかという仮説である。
簡単に書くが、筆者が惹かれたのは弥生時代に船葬があったのではないかという意見を聞いていたからだった。証拠がないので断定はされないが、地上にこれといった墳墓の残っていない社会集団は遺体を海に流した可能性がささやかれている。海に沈んでしまっては現在の考古学で調査できないのがもどかしいが、古代社会を想像する時にひとつの可能性として、念頭に置いておくべきことだろう。

九州の北部は弥生時代、日本の最先端地域だった。その後の歴史においても朝鮮半島と中国大陸への窓口になって重要な事件がたくさん起きた。九州国立博物館はそういった九州の歴史を広く伝える存在として永く活躍して欲しい。

■筆者の最新利用時期:2010年11月



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琴引浜(京都):丹後で守られている歌う砂浜

カテゴリー見出地形地質

琴引浜景観画像

■概要
琴引浜は丹後半島の西部、日本海に面した全長1.8kmに渡る自然の砂浜で、人が歩くなどの刺激を受けると砂が「クィックィッ」という印象的な音を発する。
このような特徴的な音を発する砂を一般に「鳴き砂」と呼ぶ。海が汚れると鳴かなくなってしまうが、琴引浜では開発の影響が少なく、地元活動などにより鳴き砂の環境が維持されている。
特定のスポットでは、上からこぶしなどで叩くと太鼓のような反響音が返ってくる。その場所を太鼓浜と呼んでいる。
琴引浜は鳴き砂と景勝で古くから知られ、室町時代の武将で歌人の細川幽斉、与謝野晶子などの歌碑が建っている。

名称琴引浜の鳴き砂(通称):ことひきはま
丹後天橋立大江山国定公園(2007年8月に若狭湾国定公園から独立)
全国白砂青松百選
日本の渚百選
残したい日本の音風景百選
国指定天然記念物
国指定名勝
京都府景観資産
山陰海岸ジオパーク
所在地京都府京丹後市網野町掛津および遊
(旧町名は京都府竹野郡網野町)
交通機関           ・JR豊岡駅・福知山駅・西舞鶴駅→北近畿タンゴ鉄道(略称KTR)網野駅下車→丹後海陸交通バス15分「琴引浜」下車(本数少ない)→浜まで徒歩1km
・大阪神戸から直行バス「ブルーライナー」あり
[網野町HP交通案内]
http://www.amino-info.gr.jp/access/index.html
マイカー・京都縦貫自動車道・宮津天橋立ICから30km、40分
・豊岡市中心部から35km、50分
・駐車場あり(有料)
その他の基点・鳥取市中心部から100km、2時間
・舞鶴市中心部から50km、1時間10分
見学詳細・浜は入場自由。ただし駐車場有料500円、原則的に砂浜のスタッフ簡易解説付き
・浜は1.8kmあり、全体が鳴き砂。太鼓のように響くのは細川幽斉歌碑付近の特定スポットに限られる。
・訪問時の注意として、良い音を発するには同じ場所でも条件が必要で、いつ行ってもよく聞こえるとは限らない。
付帯施設「琴引浜鳴き砂文化館」
開館時間9:00-17:00、入場16:30まで
火曜・年末年始休館、夏休み期間は無休
入館料300円、駐車場無料、浜の駐車場支払い証で入館無料。
・文化館から琴引浜まで1km
問合わせ「琴引浜鳴き砂文化館」
0772-72-5511
http://www.nakisuna.jp/
京丹後市観光協会網野町支部
0772-72-0900
http://www.amino-info.gr.jp/kankou/index.html

■地名読み方
京丹後:きょうたんご 掛津:かけづ 遊:あそび


琴引浜地形図


■ガイダンス施設「琴引浜鳴き砂文化館」
鳴き砂文化館正面
内陸側に少し離れて、2002年にオープンした展示・体験施設。網野町が建設し、財団法人ナショナルトラスト・ヘリテイジセンターが運営している。
入館者にはスタッフが見本の砂で実演しながら、鳴き砂のしくみを説明してくれる。また展示では容器に盛った砂で音を疑似体験できたり、鳴き砂の科学的な説明から全国の分布、世界の鳴き砂、保全のために取り組んでいる活動なども細かく解説している。
浜で楽しんだ日も、鳴らなくて不満の残った日も、ここに寄ってみるとよい。

鳴き砂文化館展示ドレミ音階 鳴き砂でドレミの音階を奏でる(?)

鳴き砂文化館展示カエルの揺りかご 鳴き砂と水を入れた容器。揺らすと水中の砂が鳴る

◆鳴き砂の科学1;どうして鳴るのか? 
展示解説プラス、冊子『鳴き砂の不思議』に加えて、館長さんから教わったことを集約すると次の通りである。

どこの砂浜を歩いても「ザクッザクッ」と音がするのは当たり前である。鳴き砂の音はこれとまったく違い、「保ち堪えられず急に動き始めた粒の摩擦音」として、「クイックイッ」「ブッブッ」「キュッキュッ」など、人それぞれの擬声語に表現される音で、不思議と耳に心地よい響きである。
鳴き砂文化館でのサンプル音(mp3ファイル)

この音が出るには、砂粒の表面摩擦が大きいことが必要である。摩擦の踏ん張りが限度を超えて急に動き出す時に、多くの粒が振動して音を発するのである。
表面に微細な水分や埃が付いていると潤滑剤の作用をしてしまい、摩擦が小さくなる。そのために降雨中や降雨の後も細かな汚れが付くので、鳴らなくなる。

実は全国の多くの海岸で以前には同じように鳴き砂があったのだという。それが消えていったのは目に見えない汚れが増えたことによる。
「鳴き砂ネットワーク」に登録されている場所(下記参照)は大都会付近にはなく、その中でも良好な場所はさらに人口の少ない地域になる。

この砂浜の砂は大部分が石英の粒である。石英が主体の砂浜は珍しいものではなく、これが半透明のため全体に白く見えることから「白砂青松」或いは「真砂(まさ、まさご)」という呼び方が各地の景勝地で使われ、それなりに砂が鳴いていた。

石英はもともと花崗岩を構成する粒子で、花崗岩が露出してボロボロに風化することで小さな粒になり、川が運んでくる。花崗岩の中で石英粒子は重く、他の軽い粒子は遠方に流れてしまうために石英が残りやすい。
 鳴き砂顕微鏡写真
その石英粒子が集まって砂浜を形成したのは、地形に沿った沿岸流で運ばれた粒が、波によって陸に打ち上げられた結果である。砂は静かな水中では沈んでしまうが、海が荒れたときには波に持ち上げられる。その時大き過ぎる粒は持ち上がらず、一定以下の粒が選別される

砂浜になった砂はやがて波にさらわれて海に戻り、また打ち上げられることを繰り返している。実はこれが鳴き砂を維持する大切な「クリーニング作用」で、海水に洗われることで汚れを落とし、摩擦力を回復しているのである。

そのクリーニングは主に冬に行われる。日本海を渡る季節風が荒波を巻き上げるためで、そのため冬から春にかけてはよく音が鳴るという。これも日本海側が鳴き砂に有利な条件のようだ。

他の条件として砂を供給する河川が大きすぎても急流であっても、汚れを一緒に運んできてしまうため不利になる。丹後半島は高い山がなく、流域面積(一つの川に降水の集まる面積)も広すぎず、花崗岩質の地質という好条件にある。

そしてもちろん人為面の影響が少ないことも必要である。土地開発があれば土が混ざってくるし、住民が増えすぎても汚濁が進む。近代以後、国内で鳴き砂が減った一番の理由はこれであり、すぐ西の八丁浜や80km西の鳥取砂丘が鳴らない理由も同じだろうという。

◆鳴き砂の科学2;太鼓浜はなぜ響くのか?
琴引浜太鼓浜 太鼓浜を鳴らしているガイドさん

ドンドンと、太鼓を叩くがごとき反響音の返ってくる場所がある。
この音は鳴き砂の「クィックィッ」という音とはかなり違う。
その場を掘るなどの調査をしたことはないということで、音が響く正確な理由は解っていないが、砂の下に平たい岩盤があり、震動が共鳴しているのではないかという説明がなされている。
私は以下のように推定している。(図)
太鼓浜空洞の図
・砂の下に、薄く平たい岩盤が層をなしている
・一番上の板と二番目の板の間に空洞がある
・その空洞が太鼓の胴のように音を反響させる

太鼓浜の岩盤 太鼓浜の岩礁
写真のように、現場の海面際には平たい岩礁がのぞいている。この下には同じように板状の岩が重なっているのではないか。実際、周囲の岩にはこのような板状の節理の入ったものが見られる。反響音があるからには空洞があると考えたい。
空洞内部は砂で完全に充填されず、幾らかの海水で満ちた空間が残っているのだろう。

◆鳴き砂の科学付録;石英結晶の形状について

石英の結晶は通常「水晶」として知られるように、六角柱が基本形である。説明によれば琴引浜の砂には通常の石英とは異なる、丸みを帯びた粒が多く含まれるという。この丸い粒を特に「高温石英」と呼ぶ。
鳴き砂文化館展示高温石英
冊子によれば「地球のマグマが冷却するとき最初に結晶化するのが高温石英」「高温で液体状態のマグマの中に浮いて結晶化した珍しいもの」だという。別の専門書によれば地中の高温マグマにはよく生じ、冷却する過程で結晶構造が変化し普通の石英になってしまうため発見が難しいということらしい。「地球誕生の時代に生成された」とは考えないほうがよさそう。
この高温石英は地質的に珍しいものとして文化館の展示で紹介されているが、鳴き砂の必要条件ということではないようだ。


◇地元の保全活動と漂着ゴミ

ここ琴引浜では地元民が清掃活動を行っている。日本海側では漂着物が多くゴミ拾いも大変だが、目に見えない汚れがあっても砂は鳴かなくなるので、周辺の広範囲に渡る環境保全も必要であろう。

日本の海岸を歩いてみると遠目に綺麗と思えても実際にはビニルや、缶、ボトル、釣り道具など、拾いきれないほどゴミが砂に混じっているものである。絶えず清掃していないとゴミのない海岸は実現できないというのは残念なことだ。

鳴き砂文化館ではそういった活動ぶりと、拾われた粗大ゴミの一部も展示している。そして大きなゴミの大部分は、隣国の文字が書かれた物であるという。この日本海側全体の迷惑は国際問題になって久しいが、一向に改善される様子がない。

その一方で、平成19年(2007年)には海の漂着でなく、空から飛来した大きな懸垂幕が琴引浜の林で発見されるという出来事があり、韓国の都市と交流を始めるきっかけになった。この懸垂幕も文化館で展示されている。
鳴き砂文化館展示の懸垂幕 朝鮮半島から飛来した懸垂幕など


◇国内各地の鳴き砂

平成20年現在、「全国鳴き砂ネットワーク」に加盟しているのは18市町村、17個所の浜、未加盟の場所を加えると30個所以上が鳴き砂として知られている。ただし、その中でも今は鳴かなくなった個所や、知られていない所もあるらしい。
全国鳴き砂分布図  全国の鳴き砂分布図(クリックで拡大)

それらの中でベスト3として文化館のスタッフが挙げたのは、ここ丹後の琴引浜と島根の琴ヶ浜、宮城の十八鳴浜(くぐなりはま)である。宮城の十八鳴浜は2011年の震災で津波を被ったが、すぐに回復したらしい。

筆者は島根の琴ヶ浜も2012年、訪問してみた。ここには「仁摩サンドミュージアム」という立派な博物館が建てられ、最近では映画の舞台にもなった。
島根琴ヶ浜 島根県大田市仁摩町の琴ヶ浜


◇付記

琴引浜は「山陰海岸ジオパーク」に含まれている。しかしこの「地質地形探訪記」で取り上げるにはややそぐわない面もある。それは音を出す砂浜というものは先述のように本来各地に存在したからで、背後の丹後半島に広がる花崗岩の山地も付近の海岸地形も国内各地によくあるものである。

ポイントは各地で失われていった環境がここでは維持されて、希少価値を持つようになったことだろう。その意味では文化的遺産の性格が強い。とはいえ地元の人々にとって砂浜が音を出すことは当たり前で、意識することは少なかったという。

物事の価値は少し離れた立場から見て、あるいは失ってから気付くことが多い。筆者は琴引浜を訪れて初めて、かつて日本中に鳴き砂の浜があったことを知った。それらは気付かぬうちに消え去り、鳴かない浜を当然と思い続けていた。
完全に鳴かなくなった砂浜を昔の姿に戻すことは無理だろう。せめて残っている鳴き砂を大切に保全し、次世代に伝えていきたいものだ。

浜で案内してくれるガイド氏、文化館のスタッフなど地元の資産を誇りにし広報活動を仕事とする人々は情熱的だ。館長さんは私の訪問時にたまたまほかの来客がなかったらしくて、たっぷり30分以上マンツーマンで教授して頂いた。感謝申し上げます。

■最新訪問時期:2012年11月

■参考図書:
『鳴き砂の不思議』全国鳴砂ネットワーク

『新版地学教育講座3 鉱物の科学』地学団体研究会 東海大学出版会 1995年





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金印公園(福岡):2000年変わらぬ輝きが秘める謎

カテゴリー見出古代史  

金印Wikipediaから
福岡市博物館所蔵の金印(通常のPC画面でほぼ実物大に表示される)

名称金印公園、金印出土伝承地
所在地福岡県福岡市東区志賀島
対象年代弥生時代中期(1世紀半ば);中国における金印の製作時期。出土地での埋設時期は不明。
国宝
交通機関西鉄バス「金印塚」下車すぐ
マイカー福岡市中心部から20km 駐車場あり
付帯施設特になし
見学詳細    見学自由。海岸沿いの車道に面して小さい公園が作られている。印影面の拡大模型を埋め込んだ「金印の碑」などあり。
遺跡としての面影は乏しい。

金印公園地図  

■地名・歴史用語など
志賀島:しかのしま 糸島市:いとしまし 前原市(旧地名):まえばるし
後漢書:ごかんじょ 東夷伝:とういでん 光武帝:こうぶてい 奴国:なこく 倭国:わこく 狗奴国:くなこく
金隈遺跡:かねのくまいせき 三雲南小路遺跡:みくもみなみしょうじいせき 須玖岡本遺跡:すぐおかもといせき 
甕棺墓:かめかんぼ


概要
江戸時代の天明4年(1784年)、この地で甚兵衛という農民によって金印が発見されたと伝わる。国宝に指定され現在は福岡市博物館が所蔵し、当地は福岡市によって小さな公園として整備され記念碑などが建立されている。

金印公園と湾
金印公園と博多湾。海岸沿いに県道が走り、遠方に福岡市街がある。

金印は永く偽作説も論じられていたが、後漢の光武帝から北部九州の有力な地域国家(注:北部九州全域を統一するような国家ではない)に対して下賜された『後漢書東夷伝』に記載のある実物であることは、現在では定説となっている。

その一方で本当にこの公園の位置から出土したのか、発見した農民の「口上書」は信頼できるのかなど発見状況には疑問が多く、そもそもなぜ離れ小島であった志賀島に埋まっていたのかは大きな謎である。

これらの疑問点は当時の日本国家=倭国の状況にどう絡んでくるのだろうか。
「金印公園訪問記」ではあるが、ここでは当時の歴史背景を想像して楽しんでみることにする。



 ■歴史背景

◆中国の記録

中国の文献『後漢書倭伝』「建武中元二年、倭奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」

中国の歴史書は信頼性が高く、記録が一切残っていない日本国内の様子は中国の文献が貴重な情報である。
この文章を要約すると、西暦57年「倭国の極南界」にある「倭奴国」の使者「大夫(たゆう)」が貢ぎ物を持って挨拶に来た。漢帝国の王・光武帝は「印綬」を与えた、ということである。
(「極南界」の解釈にも議論があるが、ここでは割愛する)

中国の文献に日本が登場するのは、知られている範囲でこれが2度目である。
最初の記録は『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり・・・」とあるもので、内容は西暦紀元前後の時代、小国分立のそれぞれが挨拶に来るとごく簡単に記録されている。

このふたつ『前漢書』と『後漢書倭伝』との時代差は約60年、二つの文書に日本の地域勢力が中国の王朝に挨拶に来ていたという記録が残っているわけだ。

◆倭国側にとっての外交の意義


日本側の地域勢力それぞれが危険を冒して海を渡り、はるばる中国の都まで詣でるのは、もちろん単純な挨拶でなく国と国の外交交渉の性格を帯び、日本の側は超大国の「臣下」になることで日本国(倭国)内における地位を高め、近隣のライバル国に対して優位に立つという意図があったはずである。
中国側にとっても遙か遠方の国にまで王朝の権威が及ぶことに意義を計算し、臣従関係の証しとしてよそで真似のできない貴重な物品を授けるのが通例だった。古代中国のどの王朝も、相手の国力や地勢関係に応じて微妙な差をつけながら、関係を構築している。

『後漢書倭伝』には授けた品物について「印綬」としか記載がないが、その一品しか与えなかったはずはなく、その他の宝飾品や実用品もあったろう。その中でも印綬(=金印)という下賜品は当時の倭国で目にすることのできない眩しい輝きを放つ、権威付けの象徴だった。

■金印

時代を経ても輝きの変わらない金印は受け取った王が世代交代しても、相伝させて使うことができる。一説では倭国の王が交替したら返却して改めて新しい印をもらうはずだとも言うが、そのような様子は文献に確認できないので、やはり志賀島の金印は光武帝が授けて『後漢書』に記載されたそのものだと考えておくべきだろう。

発見当初、江戸時代の日本でも歴史学者はこの中国古文献をよく勉強してあって、知らせからすぐに光武帝から下賜された印綬だろうと評判になり、学者が競うように論文を発表したという。

金印の実物は通常(貸出中でなければ)福岡市博物館のガラスケースに保護された状態で見ることができる。また複製品が各地の博物館で展示されている。寸法は一辺2.35cm、高さ2.236cmと小さい。しかし2000年を経て制作時同様の輝きを保ち、光武帝の王朝から授けられたそのものであることを想像すると歴史の重みを感じずにはいられない。偶然にもよくぞ発見されたものだ。

金印面KanWikipedia
金印の印影(一辺は2.35cmなので、通常のPC画面では大きく表示される)

古代史で単に「金印」と言うと、実は約200年後に例の卑弥呼も魏王朝から「親魏倭王」という金印を与えられたことが『魏志倭人伝』に記録されている。この所在は不明のままである。
まだ発見されない「卑弥呼の金印」の詳細は解らないが、それと区別するためには「志賀島の金印」または「漢委奴国王印」と呼ぶ。


「志賀島の金印」は小学生でも教わる有名な古代遺物だが、中国側の文献の他には文字記録がなく、周辺状況はまだまだ解らない点が多い。謎とされている要点をざっと見てみよう。

■金印にまつわる謎

◇当時の状況
・金印を授かった日本側の勢力は北部九州全体の代表だったのか、一部の地域だったのか?後者の考えが有力である。
・一部の地域だったとすれば、他の地域は同様の使者を送らなかったのか、送れなかったのか?中国側に記録がない以上、他地域は送っていないと考えるのが自然である。とすると、奴国は最大の勢力だったのか?

◇文字の解釈
・読み方は「漢のワのナの国王」で正しいのか。「漢のイト国王」とも読めるのではないか?

補足説明「ナ国(奴国)」であれば春日市・須玖岡本遺跡に王墓の発見されているクニを指し、もし「イト国(伊都国)」であれば糸島市(旧・前原町)・三雲南小路遺跡などのクニを指す。両地域は20kmほど離れ、『魏志倭人伝』にもそれぞれ国名が出てくる。ともに金印の1世紀から『魏志倭人伝』の3世紀に至るまで北部九州を代表する有力なクニだったと推定され、墓地遺跡から発見される副葬品に大陸からもたらされた貴重品が含まれていることから、それぞれに海を越えた交易を行っていたらしい。

金印須玖岡本覆屋A棟甕棺墓
須玖岡本遺跡でドームに保護されている王墓と見られる甕棺墓。
当時はこのような陶器による甕を使った埋葬が多かった。

◇発見時の状況
・発見者として口上書を提出した「甚兵衛」は実在した証拠が掴めない。
→記されているはずの寺の過去帳に名前が見つからない。
・発見者として別人の名を伝える文書も存在する。

◇甚兵衛口上書の信頼性
・提出された記録は正直な内容なのか?
口上書では発見場所を「叶崎(かなのさき)」としていて、これが金印公園の場所を指すことはほぼ確かである。しかし地形的に貴重な金印を隠したり埋納する場所にふさわしくない。棄てるように扱われたとは考えにくく「大きな岩の下にあった」との報告もあり計画的に埋められたはずなのに、最近の調査でも遺構らしいものが発見できない。

◇なぜその場所にあったのか
・金印はなぜ、離れ小島で漁業の避難港に過ぎなかった志賀島に埋められたのか。いつ、誰(どのクニ)が埋めたのか。これが最大の謎であり、奴国(または伊都国)のその後の運命を知ることと同義だ。解明できれば邪馬台国時代に至る北部九州の動勢を解く鍵になるだろう。

これらの疑問点の中でも、出土状況が不明であることは通常なら考古資料として価値を数段落としめる要素である。それにも関わらず重要視されている理由は、光武帝が下賜したまさに実物であることが疑われていないからで、これも珍しい現象であると言えよう。


■推論

◇真贋問題について
研究者間でも真作であると見解がほぼ一致している。根拠の詳細をここに書くのは大変なので省略するが、幾つもの論理的な材料が示している。それだけに、『後漢書』に記載された品物が本当に見つかったということは驚くべき幸運だろう。
念のため付記しておくが、今でも偽造説を主張する研究者はいる。しかしその論拠は筆者が考えても浅薄に過ぎないので、ここには紹介しない。

◇発見の経緯について
甚兵衛の口上書は不確かな部分があり、ことによると別の場所で以前に発見されていて、黙って所持していたために罰せられることを怖れて発見ストーリーを創作したのかもしれない。
場所の候補地は金印公園のほかに、北へ500mの叶の浜(かなのはま)、さらに島の北端に近い勝馬地区も可能性がある。志賀島であることは疑わなくてよいだろう。
また「大きな岩の下」という重要な口上は事実であると考えてよいのではなかろうか。小さな金印が長期間動かなかった原因として納得できるし、以下に検討する埋納説がもし正しければ辻褄が合う。

◇なぜ志賀島にあったのかの諸説
「遺棄説」「漂着説」「埋納説」「墳墓説(この場合は副葬品となる)」を検討してみる。

「遺棄説」はゴミのように軽く投げ捨てるというニュアンスが伴う。しかし価値を失ったとしても、大きな役目を果たしてきた物品をぞんざいに捨てるとは考えにくく、遺棄するにしても丁寧に、「埋納」するはずである。

「漂着説」では、金印単独では沈むから木箱に入って漂流し、偶然志賀島に着岸して地滑りに埋まり、偶然巨石が上に乗ったという。普通、漂着したものは大雨によって再び海に出るはずである。また小さい島で地滑り土砂崩れが都合よく起きすぐ掘れる浅さに埋まることは、まずない。

よって、金印を主役として埋めた「埋納説」と人を主役として埋めた副葬品としての「墳墓説」のふたつが残る。

そして墳墓説は難しい。考え得るのは、西暦220年に漢帝国が消滅したことで金印の政治的価値がなくなり、その時点でクニの王だった人物が数年後か数十年後に埋葬されるにあたって副葬されたというストーリーだけである。
そのストーリーがなぜ難しいのか。

志賀島では北部の勝馬地区に積石塚という形式の古墳が発見されていて、その石積の特徴は甚兵衛の口上書に似ているという。墳墓説では同様の発見されていない古墳が幾つもあって、その一つから出たということになる。

ただし発見された古墳は形式鑑定から後の時代のものである。3世紀以前の埋葬施設で巨石を使用した例というのは、島ではまだ報告がないはずだ(手元の資料では)。つまり西暦220年に近い墳墓は見つかっていない。

また当時の北部九州では墓は須玖岡本遺跡や金隈遺跡に見るような甕棺墓と呼ばれる形式がほとんどで、通常その甕の内部に貴重な副葬品も収納する。しかし金印発見時に甕もあったという報告はない。
金印金隈遺跡
金隈遺跡の集団墓 金印受領時代を含む弥生時代の墓地遺跡

そして人を埋葬した墳墓ならば見つかるはずの玉類・青銅器などについて口上書に報告がないのはなぜなのか。その前に墓泥棒が荒らして持ち去ったから甚兵衛は玉類を見つけなかったと言うのなら、墓泥棒が金印を残すはずがない。甚兵衛たちが金印以外のお宝を隠匿したと言うほうがむしろ可能性がある。

金印公園下から
海岸沿いの県道から見上げた金印公園

それに見つかっている勝馬地区の墳墓はひとつに過ぎず、人手のかかっていない状況からこれは志賀島の人物であろう。これと別に有力なクニの王が一人だけ志賀島に埋葬されるとは考えにくく、また立地としても金印公園や叶の浜といった浸食を受け易い海岸のすぐそばは避け、盛り上がった土地に作るはずである。そうすると水田だったという口上書とは食い違い、甚兵衛の報告が大部分虚偽だったと見なければならない。墳墓説を採るならば、口上書を強く疑うことから再検討が必要だろう。

こう考えてくると一番ありそうなのは、密かに「隠匿」した可能性も含めて、丁寧に埋めた「埋納」ではないか。

◇志賀島に「埋納」するべき事情は何か
「埋納」ならば、場所は検討の末選ばれたということだ。クニは博多湾の向こう、九州本土にあるのに、小さな島を選んだのはなぜなのか。

「神域説」:現在の志賀島には大きな神社がないが、当時もそうだったとは言い切れない。しかしこれといった宗教的な遺構が島内で発見されていないことは、聖地とされていなかったことを示している。

「第三者保有説」:何らかの経緯で、もともと授与されたクニの王以外の人物が保有し、自分にゆかりの志賀島に埋めたという説。あり得なくはないが、こういった偶然が重なった説はここでは検討しない。

「緊急避難説」:戦乱で危機に陥ったクニが、見つからないように隠匿したという考え。実はこれが一番ありそうに見える。緊急といっても候補地を絞り込む時間はあったろうが、隠す目的だから知っている者以外には見つからない地味な形態にしたのだろう。そしてそのまま掘り返すことはなかったと。

これら仮説は幾つも浮かぶが、なぜ志賀島が選ばれたのかについて結論は容易に出せない。

◇金印が忘れられる時代背景とは
上記諸説に共通する事情は、金印が必要なくなった、または価値を失ったということだ。
所有していた奴国(または伊都国)がそのまま存続したのかも重要だが不明な点である。後世の『魏志倭人伝』で同じ国名が記載されているからと言って、約200年の間、別の王統に替わっていない保証はない。

どちらにせよ220年に漢王朝が消滅したことで金印の権威は消え、保持している意味はなくなった。新興勢力が軍事支配したとして金印を奪ったとしても、権威を失ったうえに授与された国名が刻まれているものは使いようがない。

他国の支配下に入ったとすると、当の奴国(または伊都国)は一時避難のつもりで志賀島に隠匿したかもしれない。クニが盛り返せばまた掘り返すはずだから、埋まったままになったのはクニは消滅、少なくとも独立を失ったことになる。
またそういった支配を受けなくても、漢王朝消滅の情報を受け、所有していたクニが自分から埋納することもあり得るし、新支配国が取り上げてから埋納することもあり得る。

こう考えてくれば金印が保有されるべき価値を失い、埋納されたという事情はすんなり理解されることと思う。
地面に埋められてしまえば、文字記録のなかった当時、人々の記憶からも消え去ることは時間の問題だったろう。
前時代の権威は新時代の潮流に呑まれて消滅した。

◇金印の示す時代転換
ここまでは時代転換の要因を漢王朝の滅亡と想定してみた。
その時期、倭国国内でどのような社会現象があったのだろうか、判断材料になにがあるのだろうか。
年代ははっきりしている。漢王朝の消滅する220年という時期、倭国国内では何が起きていたのか。
その様子をイメージしてみる時、重要な古代史案件と直接にリンクすることになる。
中国で漢が消滅したあとは、魏・呉・蜀の三国時代となる。
その魏王朝の公式記録に、当時の倭国の様子が詳しく記されている。
邪馬台国である。

3世紀の北部九州事情を推論する
(以下は邪馬台国の所在が畿内か九州かに関わらずの話である)

金印弥生年表  
◇中国側の記録
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は西暦239年に魏王朝へ最初の遣使をしている。その後数度の遣使があり、248年頃に卑弥呼は死去するのだが、倭国の女王となった時期は幾つかの材料から、ずっと早く190年ごろだろうと目されている。その即位前は「倭国大乱」と記された分裂期である。

2世紀末に女王となって最初の遣使まで40年近くかかっているのは中国国内が後漢の末期から三国時代へ移る混乱に陥っていたという事情があり、238年に至って国力の安定した魏が朝鮮半島の窓口となる楽浪郡・帯方郡をおさえてルートが確保されたからこそ派遣が可能となったらしい。
魏が出先機関を確保した直後に遣使しているのは、卑弥呼の下にそういった中国の動勢が正確かつ迅速に伝わっていたことを示している。

◇倭国内の体制
そして『魏志倭人伝』には邪馬台国へ至るルート解説として「奴国」「伊都国」も記載があり、その場所は先に触れたように奴国が博多平野、伊都国が現・糸島市ということに、見解は一致している。

そこでは奴国、伊都国の両国ともに邪馬台国という大きな枠に属する地方政権という地位が読み取れる(伊都国は独立性が高かったとの考えもある)。卑弥呼は190年に女王となっているのだから、この時点で、両国の独立地位は前時代から大きく低下しているはずだろう。

邪馬台国は連合体制でそれぞれの地方政権は独立性を持っていたというのが有力な考え方であるが、少なくとも勝手な外交は許されない。終末期の漢帝国が220年まで命脈を保っていたとしても、「漢委奴国王」印は「委奴国」が190年頃に邪馬台国の傘下に入った以上、もう神通力を発揮する場がなくなったのだ。発行者の漢が滅ぶことより先に、受領者の側が力を失ったことが、金印の無価値化を決定したと考えられる。
時代の波に揉まれて、古い時代の遺物となった「漢委奴国王」印はどう扱われたのだろうか。

◇新体制の威信材
先に記した、金印を保有していたクニが新興勢力の支配下に組み込まれたという考えが事実ならば、その新興勢力こそ邪馬台国である。
邪馬台国は卑弥呼の即位後、倭国全体を代表できる国となり、魏に遣使した239年からは中国王朝の後ろ盾を振りかざせる唯一の勢力となった。卑弥呼が魏から下賜された金印「親魏倭王」は、邪馬台国連合を構成する各国に対して新世代の神通力を発揮したことだろう。

古い金印の埋納を前提に想像できる運命はふたつ。強制されて埋納したか、その前に自発的に埋納したか。
軍事侵攻を受けたか、穏当な体制移行での判断だったか、推定は難しい。いずれにしろ上記想像による埋納時期は卑弥呼が女王となった190年前後となる。

志賀島に金印が埋められたことは、それぞれの地域政権が半島や大陸の王朝と独自に交渉できた分国時代の終焉を意味する。これ以降は倭国内のより大きなまとまりが代表して外国に接することになった。


それにしても、魏王朝の後ろ盾をもらった卑弥呼が数年後には狗奴国という不服従勢力との戦争に苦しみ、10年と経たずに死去して国が乱れることになるのは皮肉である。金印の輝きを見ることのなかった狗奴国には中国王朝の威光が届かなかったようだ。

「漢委奴国王」印は奇跡的な発見がなされた。卑弥呼の「親魏倭王」印はどこに眠っているのだろうか。

[蛇足]
必要のなくなった神器を埋納したという推定から、島根県・神庭荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡での銅剣・銅鐸も同様の埋納だったと考え得る。弥生時代末期に西日本全域で銅鐸が消え去る現象にも通じるのかもしれない。どれも共通して、弥生時代の末期を象徴する物品である。



■筆者の最新訪問時期:2008年6月

主要参考文献:
「郷土歴史シリーズ2 謎とミステリーだらけ 志賀島の金印」岡本顕實著 さわらび社
「日本の歴史1 神話から歴史へ」井上光貞 中公文庫






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八甲田山雪中行軍遭難資料館(青森):大寒波に呑まれた199の命

カテゴリー見出し博物館  

 雪中行軍資料館前景

概要

明治35年に起きた、軍事訓練によって陸軍の歩兵第五連隊199名が死亡するという遭難事故を記録する資料館。
以前からあったものを平成16年にリニューアルし、規模は小さいながら非常に綺麗で解りやすくなっている。
事件は後の小説と映画によって今でも広く知られることになった。
資料館は遭難現場から12kmほど青森市街寄りで、遭難隊が出発し、捜索隊の集まった場所に建ち、犠牲者の墓地が隣接している。現場まで一本道の県道40号線が延びている(冬期通行止め)。

名称青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館(~はっこうださん せっちゅうこうぐん~)
所在地青森県青森市幸畑字阿部野163-4
ジャンル歴史文化 特定事件の記念館
開館時間9:00~18:00(4月~10月)・9:00~16:30(11月~3月)
休館日12/31、1/1、2月の第4水・木曜日
料金大人260円
交通機関JR青森駅からバス30分、「幸畑墓地」下車すぐ
マイカー・青森自動車道青森中央ICから東南へ4km15分
・JR青森駅から東南へ8km
駐車場あり
その他の基点・青森空港から東北方向へ14km車40分
問合わせ017-728-7063
http://www.moyahills.jp/hakkoda/index.html

◆地名読み方
八甲田山:はっこうださん 幸畑:こうはた 田茂木野:たもぎの
 三本木:さんぼんぎ 小峠:ことうげ 大峠:おおとうげ
 

(記念館のテーマに即し、ここでは館内容よりも事件および現場の情報を多く記載します)

■遭難事故の概要

明治34年、陸軍はロシアとの緊張状態の中、冬期に青森と八戸を連絡するために深雪の八甲田山を軍隊が通行できるかどうか確かめ、合わせて雪中での戦闘を研究する必要を考えていた。1月、第五連隊と第三一連隊の二つの部隊が同時期にそれぞれ行動訓練を行うことになった。

雪中行路図 両軍の行軍経路図(クリックで拡大)

 少数精鋭の37名とした第三一連隊は弘前を出発して十和田湖畔を回り、現・十和田市の三本木で折り返し、八甲田連峰を越えて青森へ帰るという10日間の長期計画。一方、総勢210名の第五連隊は12日、青森から八甲田を越えて田代(現在田代平と呼ばれる場所)まで20kmの短い行程を予定していた。

遭難に至ったのは大所帯の第五連隊で、第三一連隊は1名が途中で脱落したものの、残り36名は全員が行程をこなして無事帰着している。
なお当時は無線機がなく、連絡手段は人里での電信だけだった


◇第五連隊遭難の経緯

23日:青森市の屯営地から出発。午後から非常な悪天候となり、先遣隊は目的の田代へのルートを見つけられず、混乱の中、食事や休養も満足にとれない厳しい露営となる。
24日:未明から予定を中止して戻ろうとするが迷い、大勢が倒れる。
25日:元気のある者は帰路を求めるが迷い続け分散する。
26日:残った70名ほどで行動するが混乱が続く。連絡のないことから捜索隊が編成されたが、悪天候のため途中で引き返した。
27日:残った30名で出発するが多くが行き詰まる。捜索隊によって瀕死の後藤伍長が発見され、その報告で初めて遭難の全容が伝わる。

 その後大規模な捜索が続き、最終的に5月までかかって193名が遺体で収容され、搬送先で6名が死亡、犠牲者は合計199にのぼった。その中には部隊の指揮官であり収容先の病院で不審死した山口少佐も含まれる(後述)。

 二つの連隊は同時期に行動し、第三一連隊は行軍の終盤で第五連隊の遭難場所を通り、遺体二つを目撃したと報告している。ただし、事前にお互いの行動計画は知らされていなかった。映画に描かれている相互の交流はフィクションである。

 ■遭難現場の今

県道40号線に沿って進むと簡単な表示の「後藤伍長発見の地」、その先にレストハウスや展示館、記念碑、後藤伍長の銅像が集まる「雪中行軍遭難の地」がある。この場所から東へ1kmの鳴沢で多くの犠牲者が発見された。
地形図遭難現場付近広域地形図(クリックで拡大)

雪中銅像茶屋  

基壇読み下し文  後藤伍長銅像の基壇に記された漢文の読み下し文(クリックで拡大)

救助を求めに行った後藤伍長が仮死状態で立ったまま発見されたというのは事実らしい。半身が雪に埋もれていたため倒れなかったらしい。
後藤伍長発見の地

一般の地図で「雪中行軍遭難の地」とされているのは、ドライブインと記念館を兼ねる銅像茶屋と後藤伍長銅像の建っている場所になる。銅像は発見時の姿勢を模している。

 ※遭難地点は一般に登山される八甲田山からは北へ数キロ離れている。県道が連絡しているので、マイカーで登山帰りに訪ねることは容易。

 ■事件の概要補足

・行軍隊は登山をしていたわけではないが、雪山での遭難として、また軍事訓練中としても近代史上最大の事故とされる。これまで登山で一度に20人以上が死亡した事故はない。

 ・遭難事故の起きたのは明治35年(1902年)123日から26日。訓練は現在の青森市幸畑から駒込(田代牧場付近)まで雪中の20kmを一泊で踏破するという計画だった。背景には緊張の高まる日露関係があり、青森の陸軍では雪山での行動訓練がすでに何度も行われていた。行動計画が無謀・杜撰であったとは言えない。

 ・事故が起きた主因は記録的な寒波である。日本列島は23日から厳しい寒気に覆われ青森地方も大雪と強風に見舞われた。この時の北日本各地では現在に至るまでの史上最低気温を記録している。

 ・出発した日の夜から遭難に陥った第五連隊に対し、同時期にほぼ同じ場所で12日間を行軍した第三一連隊は同じ気象条件だったにも関わらず、全員無事に行軍を終えている。この両者の比較が様々な論議になって、第五連隊の責任問題を大きくした。


■生存者のその後


第五連隊の犠牲者は
199名、生存者11名。
生存者の多くは障害で兵役免除となり、昭和30年代まで存命していた者もいる。
銅像となった後藤房ノ助伍長は手指・両足を切断して宮城に帰郷し、結婚、村会議員も務め、大正13年に46歳で病没した。
全員の帰還を果たした第三一連隊の指揮官・福島大尉は日露戦争に出征し、明治38年、40歳で戦死した。
 

 ■小説と映画について

・事件が1977年に森谷司郎監督・高倉健主演『八甲田山』として映画化され広く知られることになったのは、流行作家であった新田次郎『八甲田山死の彷徨』として小説化したことが寄与している。

 ・注意が必要なのはこの小説にフィクションが織り交ぜてあることで、別行動していた連隊が遭遇したり、それぞれに所属していた兄弟が邂逅するといった劇的な場面は創作である。小説を読む限り創作と事実の区別はできない。新田作品ではこのような面が多い。

 ・映画も小説の延長上にあり、第三一連隊・高倉健と第五連隊・北大路欣也の交流や案内人の女性に敬礼する場面、高倉健指揮下の部隊が大量の遭難者を見る場面など、映画としての見せ所は大部分が事実ではない。また昭和43年(1968年)開業の八甲田ロープウェイに緒方拳扮する生存者が乗る場面があるが、66年を経過しており、Wikipedia指摘の通り当時者全員が他界している。

 ◆冬山登山の観点からの所感

・予定されたコースは当時すでに現在と同じ車道ができていて、険しい上り下りはなく、天候が良ければ多量の積雪でも行動可能であったろう。しかし、現在は樹林帯なので積雪があっても道路が判別できるが、捜索中の写真を見ると広い雪原に見える。どうやら当時は炭焼きで伐採が進み、開けた景観だったという。これでは視界の利かない状況で進路を誤ったのも無理はない。
捜索の様子

 ・雪上での炊事は熱で雪が融けて傾くためうまくできなかったという。雪山経験者には当たり前のことで、熱を遮断する物を敷くなど工夫せねばならない。隊は地面が出るまで掘って行うつもりだったというのは見通しが甘かった。

 ・初日に配られたおにぎりがボロボロになって食べられず、多くの者が捨ててしまったという。低温でご飯がバラバラになるのは、冬の山小屋でご飯の弁当を出された経験者なら解る。バラバラになっても、エネルギー確保のため少しずつ口に入れ、暖めながら食べるべきだった。

 ・風を避けるため塹壕のような避難空間を掘って立ったまま休んだという。これでは風は避けられても頭上からの寒気は防げない。冬山登山者なら完全に風を避けられる雪洞やイグルーを知っている。せめて秋田の“かまくら”という発想ができれば大勢が助かったのではないか。
模型

 ◆教訓 リーダーの責任

・主因は大寒波だと言って良い。しかし人為面に原因がないかと問われれば、あとからの理屈になってしまうかもしれないが、この第五連隊は登山で言う“遭難予備軍”だったようだ。好条件下では無事に終えるが状況が悪化すれば対応できず遭難するであろう集まり、という意味である。

 無事帰還した第三一連隊はそうでなかった。予備軍になるかならないかを決めるのは、メンバーの力量よりもリーダーの総合的な知見・判断力・指導力だ。

永井という軍医は、天候悪化後間もなく中止を進言しているが、指揮官である山口少佐は聞き入れなかった。中止の判断は確かに難しい。軍人の誇りも作用するだろう。永井軍医自身も結局犠牲者に入ってしまった。

 しかしこのケースでは、現場での判断ミスよりも、事前準備から隙があったように思える。雪のなかで休憩する手段、かんじき、食料、地元案内人の質、事前の注意喚起、悪天候への想定である。

 軍隊の訓練として統括責任者と現場指揮官が別になるのは普通だが、現場の指揮官は計画段階からすべてを把握し、検証しておくべきだろう。その当人や周辺にどれだけ経験や知識があったのだろうか。詳しくは解らないが、第三一連隊と大きな違いがあったことは明らかになってしまった。

 ■歴史ミステリー:山口少佐の死は謀殺か?

犠牲者199名はいったん救助された後死亡した者も含んだ数である。そこには131日に救助され、22日に病院で死去した指揮官・山口少佐も含まれている。

 この死は当初心臓発作と発表され、のちジャーナリストの小笠原氏が遺族からピストルを受け取ったことや証言から、ピストル自殺であると公式に認められた。

ところが2000年代になって、弘前大学の松木明知氏が謀殺説を唱えている。資料館の展示はこの新説を受けて書き換えられたそうだ。

 論旨は以下の通り。

・山口少佐の指は重度の凍傷のため、拳銃の引き金が引けないはずだ。
・死亡の直前に主治医が陸軍によって山形から呼ばれた麻酔医に交替されている。
・麻酔薬を使って死亡させれば、当時は心臓発作と簡単に見分けられない。
・陸軍は大量遭難の責任問題が軍全体に及ぶことを危惧し、責任者の“自殺”で幕引きを図りたかった。

 当時は軍の力が強く、客観的な取材などは限界があった。ピストル自殺説による銃創の有無なども不明のまま。第三一連隊の指揮官でさえ行軍中に遭難者を目撃したことの発言を封じられていたなど、真相はいまだ藪の中である。なお映画『八甲田山』ではピストル自殺説を採り、三國連太郎が演じている。

 自費出版による松木明知氏の著書が、資料館に置いてある。筆者は開いていないが、詳細を知りたい人は青森まで読みに行こう。

余談1

 ・人気作家であった新田次郎は小説執筆に際し、この事件を詳細に調べ上げ5部作のうち2部まで出版していた小笠原弧酒(こしゅう)という青森のジャーナリストに取材した。その後新田次郎の作品はベストセラーになったが、小笠原氏は構想していた残りの3部を出版せずに終わった。蒐集資料を新田次郎に提供したことがアダになったのではないかと推測されている。

 しかし小笠原氏の遺した出版物は事実を詳細かつ客観的に記録していて、フィクションに仕上げた新田作品に対して高い資料価値を認められているという(ボランティアガイドからの情報)。

 小笠原弧酒の著書2冊は資料館に置いてあり、各1200円+税で販売もしている。
またAmazon.comで高額の古書として扱われている(20132月時点)

余談2

映画『八甲田山』は史実に忠実でないことや映画としての出来に大いに不満があるのに、つい見入ってしまう。冒頭や末尾に挿入された緑に満ち錦秋に染まった八甲田の山、哀切な音楽、軍人らしい折り目正しい応答にも爽快さを覚える。名作だとは言わないが、忘れられない映画となった。悲しい出来事の舞台には違いないが、あくまで八甲田は美しく人の営みと時代を黙って見つめている、そのように描かれているようだ。
製作されて35年が過ぎ、森谷司郎監督や丹波哲郎など主役級数名が他界した。やがてはこの映画も遭難事故と同じように遠い記念碑に昇華していくのだろう。

銅像と八甲田山
 
 ◆銅像は明治37年竣工。像と重なる背景の山は前岳、左に雲に隠れて高田大岳がある。最高点の八甲田大岳は陰で見えない。

 ■筆者の最新訪問時期:201210月

◇2013年4月14日、映画『八甲田山』で連隊の責任者・山口少佐(役名は山田少佐)を演じた三国連太朗氏が亡くなられました。ご冥福をお祈りします。


白瀬南極探検隊記念館(秋田):極地踏破に生涯を賭けた男

カテゴリー見出し博物館

白瀬記念館前景

名称白瀬南極探検隊記念館
所在地秋田県にかほ市黒川字岩潟15-3
(旧町名:秋田県由利郡金浦町(このうらまち))
ジャンル歴史文化 特定個人・白瀬矗(しらせのぶ)の記念館
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
料金大人300円
鉄道とバス・JR羽越本線・金浦駅、「駅前」バス停から乗車、「白瀬記念館入口」下車徒歩3分
・金浦駅から距離1.5km徒歩25分
マイカー                    ・日本海に沿う国道7号線から案内にしたがって入る
・自動車専用道路は2013年時点でまだ通じていないため、北からの秋田自動車道、または南からの山形自動車道を利用した後、国道7号線に乗る。駐車場あり
その他の基点・秋田空港から金浦駅まで合同タクシー、エアポートライナーあり
・秋田市街から南へ50km
・山形県酒田市から北へ40km
問合わせ0184-38-3765
HPhttp://hyper.city.nikaho.akita.jp/shirase/

◇地名読み方
金浦:このうら 由利:ゆり  


■博物館の概要

・1990年(平成2年)開館 規模は中程度  設立運営は金浦町、平成合併により、にかほ市へ移管
・まだ近代装備の整わなかった明治期に、日本人として初めて南極探検に業績を上げた当地出身の白瀬中尉を記念した博物館。白瀬中尉の半生をたどる記念品多数を展示のほか、南極探検史、科学的な側面も解説。
・白瀬中尉は使用していないが、近年に使われていた雪上車を展示している。
・小型シアター「オーロラドーム」でハイビジョン記録されたオーロラ映像を見せてくれる。
・レストランなし、展示室要員は必要に応じて受付が兼ねる
・館内撮影不可


基礎知識
(白瀬の経歴は記念館HPWikipediaに詳細あり)
 
・白瀬矗は文久元年(1861年)、秋田県由利郡金浦村の生まれ。
・「中尉」という呼び方は軍人時代からの通称。
 白瀬ポートレイト
(経歴抄録)
少年時代から北極探検を志し、意識して陸軍に入る。明治26年、郡司海軍大尉の千島探検計画を知り、これに参加。ところがずさんな計画のために多くの隊員が死亡、救出された白瀬にとって多くを学ぶ経験になった。
 
明治38年、日露戦争の会戦で負傷した後、中尉となる。
明治42年、アメリカの探検隊が北極点を初踏破したため、目標を人類未踏の南極点に転換。
大隈重信や乃木希典の援助、国民の募金を得て明治4311月、隊員27名で芝浦を出航、オーストラリア経由で南極を目指す(国の支援は得られなかった)。この時、折しもイギリス・スコット隊、ノルウェー・アムンセン隊も南極に迫っていた。
 
明治44年(1911年)11月、シドニーを出航(白瀬50歳)。
12月、アムンセン隊が南極点を踏破、のち全員帰還。
明治451月、スコット隊5名が南極点に到達、のち全員死亡。
当時は持ち運べる通信機がなく、これらの情報を白瀬隊は知らなかった。
 
スコット隊が極点到達する前日に、白瀬隊は南極ロス海に到着、上陸開始。
ブリザードや雪盲に苦しみ、9日目の128日ついに前進を断念、野営地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名付けて、3日後船へ引き返した。
 大和雪原
この野営地は残念ながら南極大陸ではなく棚氷だったことが後に判明した。真の極点踏破は56年後に村山雅美隊長(この記念館の名誉館長、2006年死去)らが達成することになる。
帰国した白瀬らは熱狂に迎えられたが、のちの半生は20年以上かかって借金の返済に追われ、全国を講演して回る日々が続いた。
昭和21年死去。享年85歳。
 
■館の内容について
 
明治期の南極探索の様子、南極の自然、現在にいたる科学調査の概要が詳しく説明されていて、それだけでも見応えがある。
・同時期に南極点到達を競ったスコット隊、アムンセン隊と白瀬隊の記録フィルムをテレビ画面で見ることができる。
 ・オーロラドームという部屋があり、ドーム形の壁面スクリーンにオーロラ映像を上映してくれる。ただし白瀬本人は南極の夏に行っているのでオーロラを見ていないはずであるし、関心を持っていたという情報もない。
・記念館は黒川紀章の設計になり、氷山と宇宙をイメージしたドーナツ型の外形、中央のオーロラドームが円錐形に尖っている。
  
◆所感

・記念館の立地が東北地方の日本海側という場所柄に加えて展示材料が新しく増えることもなさそうなので、来訪者の誘致は苦しいのではなかろうか。それでも地元としては郷土の英雄として、ムラ興しの目玉にしたかったのか もしれない。経営が黒字かどうかはわからない。しかし個人的に、こういった記念館はずっと維持してもらいたい。全国は無理でも地元の子供たちに必修としてほしい。
 
・記念館としては開館から22年が経過し、最新施設のような華やかさに欠ける。ここで何を得るかは、白瀬中尉という人物の生涯に共鳴できるかどうかにかかっている。展示室に架けられている晩年の白瀬夫妻の写真を前に、何を感じられるだろうか。

◇白瀬に聞いてみたいこと

リーダーの仲間に対する責任と自身の夢の実現という観点から。
白瀬は若い軍人時代に参加した千島探検で死に瀕した時、責任者を強く批判したという。その経験があって自分がリーダーとして南極に挑むには重い責任を自覚していたことだろう。結果として全員の生還と引き替えに、極点到達を断念することになった。
彼にとって南極点到達は人生のすべてを賭けた挑戦であり、二度目のチャンスはないことも十分解っていただろう。しかもスコット隊、アムンセン隊が先に到達したことは知らず、自らが人類初という快挙を実現できる寸前まで近づいていた。
隊員の募集にあたっては「係累無きこと」を条件にしてあり、最終隊員の5名は当然危険を覚悟していたはずだった。
もし、命と引き替えてもよいと考えたなら、前進を続けたのではないか。
後の白瀬はこの決断についてどう語ったのだろう。触れたくない記憶だったのか、誇りある決断として話せただろうか。
展示館の見学ではわからない。


■最新訪問時期:20127
■参考資料:『白瀬南極探検隊記念館総合案内』平成33月・白瀬南極探検隊記念館発行 


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桜島(鹿児島):生活圏の隣で噴火と成長を続ける火山

カテゴリー見出地形地質

  桜島吉野町から2

九州の南端に位置する桜島を訪れる機会は、大多数の人にとって滅多にないことかもしれない。しかし火山列島日本でも桜島は特に活発な噴火活動を続け、背中合わせに大勢の生活が営まれていることでは、国内随一の注目するべき火山と言うべきであろう。ここでは初訪問者向けの情報と、噴火活動と特有の火山構造を中心に紹介してみる。長文となったが、桜島への興味を惹き起こし、火山列島日本への関心を高めていただけることを期待している。 
名称桜島(さくらじま)
霧島錦江湾国立公園(2012年3月16日に霧島屋久国立公園から分離)
活火山指定Aランク(最高ランク) 
地質百選
日本200名山(御岳)
所在地鹿児島県鹿児島市(全体が鹿児島市に属する。島の西半分は旧桜島町)
交通機関鹿児島市中心部から桜島フェリーで所要15分、一人150円、車一台1480円
島内の定期観光バス、レンタカー、レンタサイクルもあり
マイカー鹿児島空港から国道220号経由で80分、島内の各ポイントに駐車場あり
地名等の読み方
[島内地名]
袴腰:はかまごし 黒神:くろかみ 有村:ありむら 古里:ふるさと 御岳:おんたけ
鍋山:なべやま 
新島:しんじま 燃島:もえじま
[周辺地名]
錦江湾:きんこうわん 肝属:きもつき 姶良:あいら  鬼界:きかい 加久藤:かくとう
新燃岳:しんもえたけ
[歴史的語句]
天平宝字:てんぴょうほうじ 安永:あんえい

 桜島九州広域図九州広域図(クリックで拡大)

桜島は錦江湾(鹿児島湾)の海底から盛り上がる楕円形の火山で、霧島火山帯の中央部に聳える。海上の山体は1万3000年前(2万年前とも)から成長を始め、北岳(=御岳:1117m)・南岳・中岳といった別個に成長した高まりが積み重なっている。国内でも有数な活動度を保ち、日常的に噴火して火山灰を島内はもとより鹿児島市など周辺一帯に降らせる。噴火の回数(※)は1年で数百回、最近数年は活発になり2011年には1355回を数えた。

もとは島だったが、大正3年の溶岩流で大隅半島と陸続きになった。その繋がった場所で国道224号線が渡っている。
溶岩の流れる噴火は昭和21年から止んでいて、その後は噴石を飛ばし灰を降らせる噴火が続いている。
鹿児島を知らない人には桜島は無人というイメージがあるかもしれないが、太古から人が住み続け、現在は人口約5000人が辛抱強く火山灰と共生している。

植生は乏しく、中腹以上は赤茶色や灰色の岩しか見えない。人の居住も海岸沿いに限られる。
なお地形としては大正噴火で半島となったが、慣例的に「島」と呼ばれる。ここでも島と表記する。

※噴火回数の数え方
桜島では噴煙が噴火口から1000m上がると1回と数える。目視観測によるので、実際には雲に隠れて数えられなかった噴火もある。

 
■主な付帯施設
 
◇袴腰(桜島港周辺)地区(島の西部:住所は桜島横山町)
(この地区の施設は大正溶岩の上に建っている)
 
桜島ビジターセンター
桜島ビジターセンター
9:00-17:00、無料、無休、
鹿児島市桜島横山町1722番地29 099-293-2443
桜島港フェリーターミナルから500m、駐車場あり
 
・国民宿舎レインボー桜島
日帰り入浴・宿泊施設
入浴:1000-2200、不定休、300円  099-293-2323
桜島港フェリーターミナルから400m、駐車場あり
 
・桜島溶岩なぎさ公園・足湯
桜島なぎさ公園
海岸沿いの溶岩原を散策する遊歩道。全長3km、入場自由。
ビジターセンターのすぐ裏
 
・湯之平展望所
標高373m、北岳から2.5kmの展望所。鹿児島市街地も良好。入場自由。
 
◇有村地区(島の東南部)
 
・有村溶岩展望所
桜島有村展望所
大正3年の溶岩地帯に設けられた全長1kmの遊歩道。溶岩原を観察するスポットでは島内でいちばん広い。
駐車場あり、入場自由
 
◇野尻地区(島の西南部)
 
・国際火山砂防センター
野尻川の土石流に対する防災活動を紹介する展示施設。
9:30-1700、月曜休み、無料 099-221-2030
桜島野尻川
 
■見学のガイド
 
◇見学コース
海岸線に沿った島の外周は36km。マイカー利用ならば半日で主なポイントを巡ることが可能。見学スポットは全部自由、無料。一般向きのスポットは島の西と南側に多い。火口は見学できないので、火山観察としては主に溶岩原に注目することになる。学習施設として袴腰のビジターセンターは必修である。
 
◇火山への観察ヒント
要所ごとに説明板が設置されている。岩石の科学的な観察は予備知識がないと難しいが、各時代の溶岩原分布の図(下に掲載)を入手して海岸沿いを巡れば、島を拡大していく火山活動のダイナミズムを想像できる。
 
◇火山岩以外の注目ポイン
溶岩原にはそれぞれ時代差があり、時間経過による植生遷移を観察する好適地にもなっている。200年前の安永溶岩ではすでに中高木の森に覆われ、もっとも新しい昭和溶岩は70年を経て、中低木が成長を始めている。
 
◇立入禁止エリア
現在の噴火活動は南岳と昭和火口からで、そこから半径2kmは立入禁止である。主要な山頂部全体が立入禁止区域に含まれ、以前は北岳(御岳)まで登山ができたが、昭和30年の噴火で犠牲者が出て以来、登山禁止になっている。もちろん登山道も消滅した。
 
◇火山灰への注意
2011年ころから噴火回数が多くなり、訪問時に火山灰に降られることがある。灰がどこに降るかは風向き次第であり、鹿児島のラジオ放送を聞いていると降灰情報が流れている。灰にまみれると髪はジャリジャリ、服はザラザラ、クルマは灰色になることを覚悟しておくこと。運転もスリップ注意である。なお島内に洗車場はない。
桜島噴火見上げる
 
 
 桜島の成り立ち                 

■火山構造の基本
 
錦江湾(=鹿児島湾)は大きな火山が陥没してできたカルデラ地形と呼ばれる窪地で、姶良カルデラと称される(後に詳述)。陥没しても火山活動は続き、再び盛り上がった部分が桜島で一般に中央火口丘と呼ばれる。周囲を取り囲む錦江湾は最大水深206m・平均120mあるので、海水を抜いて窪地状のカルデラ底から見た場合、山の高さは1300mになるとも言える。

桜島溶岩分布図 桜島溶岩分布図(クリックで拡大)
 
■噴火史
 
有史(文字記録開始)から明治までの噴火一覧
 
・和銅元年(708)地方史文書に「向島湧出」と最古の記録あり。「向島」とは桜島のこと。
8世紀中に『続日本紀』など数件の記録あり。主に海底噴火と思われ、犠牲者被害もあり。天平堂宇8(764)噴火では溶岩流が今も残る。
 
・応仁2(1468)山頂での噴火。これは3年後の大噴火への前兆現象ともみなせる。
・文明3(1471)~文明10(1478)いわゆる文明大噴火
              今に残る溶岩流出、被害甚大。
・寛永19(1642)から30年程度の間隔で小噴火を続ける。
・安永8(1779)から安永9(1780)安永の大噴火
              溶岩流出、大量の軽石、関東までの火山灰降下、新島など安永諸島の出現、津波の発生(海底での陥没が原因か)、農作物被害、死者約150名。その後寛政年間まで約60年活動が続く。
 
・万延元年(1860)山頂噴火
・明治32(1899)山頂噴火
 
大正以後の噴火詳細
 
<1>大正3(1914)112日~4(1915) 山頂噴火
 
この噴火は国内有史以来、最大級の噴火となった。科学的な記録、気象台の予測誤り、多くの前兆現象、地震や津波災害など、多くの教訓を残している。
 
◇前兆現象
・前年から南部九州一帯で地震が多発
・前年7月に有毒ガス噴出によって死亡事故が起きる
・前年11月に40km離れた霧島のお鉢で爆発
・前年から桜島の井戸水が減水や増水する、錦江湾の対岸でも同様
・噴火の20日ほど前に海水が熱水となり、生け簀の魚類が死ぬ。各地で触れないほど地熱が高まり、冬なのに虫が出てきた
・噴火の前日に山の斜面から崩落激しくなり、地鳴り響き、大きな雷音が発生
・噴火直前に火口から白煙が立ち上った
 
◇噴火の経緯
112日午前8時、鍋山の西と西桜島の500m地点という山頂部を挟んだ2個所でほぼ同時に噴煙が上がる
2時間後の1005分、西桜島の噴煙位置やや下から黒煙に続いて大爆発。10分遅れて、鍋山付近でも黒煙を噴出、全島が黒煙に覆われ夜のようになる
8時間後の午後6時、桜島と鹿児島市の中間付近を震源としてM7.1の地震が発生。この地震による死傷者がもっとも多かった。
・午後7時半、津波の発生
113日午前1時、最大の爆発が起きる。午後8時まで爆発が続く。噴煙は上空8000mまで届き、噴石落下無数、火砕流や火災で幾つかの部落が消失。夜間から爆発は収まり、溶岩の流出が始まる
114日 溶岩流は袴腰(現在フェリー乗り場のある地区)へ迫る
115日 溶岩流が海に到達、小島を飲み込んで広がる
2月上旬になって溶岩流出は停止
・東部の鍋山付近から流出した溶岩は500mあった瀬戸海峡を埋めていき、129日に大隅半島と陸続きになった
・鍋山付近では2月に入って新しい火口から溶岩が流出し始め、翌大正4年にかけて先の溶岩流を覆っていった。
 
◇被害
・島内の8部落が全滅、島内家屋の約半数が焼失、犠牲者は58名(半分以上は島外にて)、21000人いた住民の3分の2が島を離れた
 
◇地殻の変動
大正噴火では安永噴火のような島の出現はなかった代わりに、最大2.6mの地盤沈降、4.53mの水平移動が観測された。鹿児島市中心部で40cmほど低くなった。
注目すべきことに、沈降量を地図に記入していくと同心円の中心が桜島のやや北の海になる。これは姶良カルデラの中心部である。噴火によって中心地下の溶岩が地表に吐き出された分、地中に生じた空洞を埋めるように地盤が沈降したものと推定される。地震と津波の発生はこの沈降が瞬時に起きたことが直接原因と疑われるが確証はない。
また水平移動は西桜島の噴火位置を中心として、島が主に南北方向へ膨らむように動いている。これは溶岩ドームのように、深部からの膨張圧力が作用していると考えられるが、これも確証はない。この推定のように膨張力が作用するならば山頂も高くなっていくように思われるが、実際噴火前には隆起がゆっくり進み、噴火後に低くなっていたことが観測されている。噴火で低くなるのは姶良カルデラの沈降に伴った動きと考えられ、水平方向に一度膨らんだものは簡単に戻らないのだとも解釈できそうである。
大正噴火ではこれらの科学的なデータが記録されたことで後世の研究に大きな意義を残している。
◇気象台の予報失敗
・大正3の噴火では気象台が「噴火のおそれなし」と活動予想を低く発表したために被害が拡大し、犠牲者も出たことが問題となった。信じたために逃げ遅れた人もいる一 方、大多数の住民は経験則から独自判断で避難した。現在のような観測技術がない時代、正しい予報を出すのは困難。それでも安全だと断言してしまったのは批 判を免れないだろう。その後気象台がどう責任を取ったかは不明である。

<2>昭和21(1946)3月山頂噴火
 
大正噴火のあとしばし平穏の後、昭和10年から活動が再開された。
・昭和10(1935)南岳付近で小規模の爆発、火山灰の降下
・昭和13(1938)~昭和14(1939)黒煙の噴出、南岳の南東に火口ができて爆発。火柱を上げ火山弾を降らせる。
・昭和15(1940)~昭和20(1945)南岳付近で更に火口を作り黒煙を上げる
・昭和21(1946)39日、爆発、大きな噴煙、夜になって溶岩が黒神方面と有村方面に流出。黒神では今に残る埋没鳥居が生成された。
・溶岩流は2ヶ月以上をかけて黒神と有村にあった集落を埋めながら海に達して島を広げ、停止した。この後現在まで溶岩の流出する噴火は起きていない。
 
[大正噴火と昭和噴火との関連]
・大正噴火で顕著だった前兆現象は昭和噴火でほとんどなかった。その原因は32年前の大正噴火によって火道(マグマの通路)が拡大されていて溶岩がスムーズに上昇したから(『桜島~噴火と災害の歴史』による)と言われるが、定かでない。
・前兆現象が少なかった理由には発散されたエネルギー規模が比較的小さかったこともありそうである。流出した溶岩の量も大正噴火より少なく、被害も軽微に収まっている。
 
<3>昭和23年から現在までの活動
 
・昭和23(1948)小爆発、噴煙活動続く
・昭和30(1955)1013日、南岳の火口から爆発。登山者が死傷(以後、登山禁止)。
・昭和40(1965)南東側に新しい火口が誕生。昭和30年爆発の火口と交替に活動を始め、現在まで続いている。
・平成20年頃から噴火回数が急増している原因は不明。霧島の新燃岳が活発化していることとの関連が疑われているが確証はなく、近い将来大爆発が起きるかどうかも不明。
・将来、数千年後までに島は溶岩によってさらに拡大していくと予想される。
 
 
■地質面からの注目点
桜島はなぜこれほど活発な活動を続けるのか?九州南部で火山帯が発達している原因はどこにあるのか?火山としての仕組みを覗いてみたい。
 
■桜島を含む姶良カルデラとは何か
 姶良カルデラは錦江湾(鹿児島湾)のうち、桜島の北側にあたる円形部分で重なる、火山活動によって陥没した直径約20kmのお椀型(正確には“じょうご形”)の地形である。大部分は海中にあるのでお椀型の様子を目で見ることはできないが、鹿児島市街から湾に沿って北へ続く急な崖はカルデラの西縁である。
 桜島アースから文字入り01
カルデラとは地中のマグマ物質の放出によってできた空隙が上部の崩落することで埋められた地形で、本来は窪地になる。阿蘇のカルデラなどは窪地が土砂に埋まったために平坦になったものである。鹿児島の池田湖や青森の十和田湖は水の溜まったカルデラ湖である。
 
姶良カルデラの場合、28000年前から25000年前の期間に大噴火を繰り返したことで、現在の地形を残すことになった。この噴火は現在に至るまでの25000年間で国内最大噴火とされ、九州南部の広い範囲に火山灰や火砕流からなる「シラス台地」を形成した。錦江湾の北で鹿児島空港のある台地や、縄文時代の上野原遺跡(訪問記参照)が乗っている台地もこのシラス台地の一部で、250mの高さ(厚み)がある。
桜島牧園シラス  
ただし姶良カルデラの地形はこの時期の噴火活動だけでなく、それ以前の長い期間続いていた活動で作られたものであり、東の肝属半島、西の薩摩半島に挟まれた錦江湾の低い地形は数十万年前から存在していた。
錦江湾の地形は直接には噴火活動が作っているかのようであるが、その火山活動を誘発する原因として地殻の動きがあることも注目しておくべきである。
  
■姶良カルデラができた原因
姶良カルデラを誕生させ、桜島などの火山活動の原因となった数十万年以上続いている地殻変動とは何か。
それは宮崎県えびの市の加久藤カルデラから錦江湾南部に至る南北75kmの低い地形(「鹿児島地溝」と呼ぶ)を作った動きで、簡単に言えば、この地域は東西に広がろうとしている。引き伸ばす力が働いているために、正断層を発達させ、陥没を続けているのである。そういう場所では表層の地殻が薄くなり亀裂としての断層も多いため、深部のマグマが噴出して火山を生みやすい。
この根本的な動きこそ、霧島火山~桜島~開聞岳~硫黄島、加久藤カルデラ、小林カルデラ、姶良カルデラ、阿多カルデラ、池田カルデラ、鬼界カルデラといった火山地形を生んだ原因である。
九州では同様な別の地域「別府島原地溝」が中部にもあるが、ここでは触れない。
(別府島原地溝については、構想している阿蘇山の小稿に盛り込む予定です)
 
桜島広域火山分布地溝帯図
 
■原因の原因、および第2原因について
鹿児島地溝が東西に広がる動きをしているのならば、その動きの原因は何なのか?
また、このような地溝帯で火山が誕生し易いと書いたが、この場所で火山活動の多いことを一般的に説明する場合は、沖合でのフィリピン海プレートの潜り込みが語られるものだ。これが第2原因というよりも第1原因として説明されることが多い。ここで地殻の東西広がりを強調したのはこの限られた地域の特殊性に注目したためであり、プレート潜り込みは一般的な火山発生原因には違いないものの、この鹿児島地溝という構造に注目しなければ説明として不充分だと考えるからである。
それではこの地域はなぜ広がっていくのか?これこそ日本列島全体から東アジアの地質活動に繋がる興味深いところなのだが、ここで述べるのは難しい。筆者の勉強も専門家の探求もまだ途上である。いずれ想像も含めて取り上げるつもりではある。
ヒントとなりそうなのはプレートのせめぎ合いである。日本列島に東南から押し寄せているプレートの力は地殻の圧縮オンリーで作用しているのではなく、複雑な絡み合いで一種の間隙になった部分では逆に地殻が広がろうとしているからである。
 
■姶良カルデラと桜島の特殊な関係(筆者の推論が入っています)
よくあるカルデラでは、大噴火→陥没→活動再開→カルデラ内部に新しい火山の成長、という順序に進み、新しい火山の高まりを中央火口丘と呼び、カルデラ内の中程にできることが多い。しかし桜島は姶良カルデラの南端に位置している。これはどう解釈するべきか。
 
調査によれば、湾の最深部である姶良カルデラ中心部と別に、桜島の下部にも噴火エネルギーの元であるマグマ溜まりが存在するらしい。マグマ溜まりとは液体状のマグマが溜まっている空間で、何らかの理由で圧力が高まると膨張し、噴火に至る。その深さはカルデラ中心部の地下が10km、桜島の地下はずっと浅く2-6kmと推定されている。
 
また、25000年前の大爆発を含む激しい活動の際、噴出物は現在海底にあるカルデラ中心部と別に、現桜島の位置からも大量に供給されていることが、分布の調査からわかっている。これは複数の離れた場所で噴火活動があったことを示している(ただし一連の噴火は3000年程度継続されているので、同時に噴火したことはないであろう)。
 
加えて大爆発とその後の陥没の際に、現在の桜島の位置がすっかり低くなったとも考えにくい。湾内の最深部は頂上から15km北東に離れていること、陸上に堆積している噴出物の様子、海底地形などからも桜島は大爆発前から火山として存在し、陥没の際にも高まりを保っていたらしい。その後新たな噴出物が古い山体の上に現在の山を作っていったのだろう。実際、袴腰には約10万年前の、より古い火砕流堆積物と姶良カルデラ噴出物、桜島火山灰が重なる台地が残っており、10万年以上陸地であり続けていることを示している。
 
こう考えると、姶良カルデラ中心部と桜島は、親火山と中央火口丘と見なさず別の火山と位置付けるほうが良いのかもしれない。大噴火までは姶良カルデラ中心部へマグマが多くもたらされ、大爆発の後は桜島への供給が増えているのではないか。
 
■桜島誕生史と有史以前の噴火活動
・桜島の誕生は、13000年前からという説と、25000年前(26000年とも)という説とがある。13000年前とする考えは北岳(御岳)の成長を基準にしているようであるが、25000年前の姶良大爆発直後から桜島の活動は継続しているので、この古いほうを誕生時期とするのが主流のようである。
 
・姶良カルデラが爆発を起こした25000年前の様子を推察すると、錦江湾北部は大部分が陸地だった。それはまだ陥没による窪地ができていないからだけでなく、当時は全地球的な寒冷期にあたり海水面が100m以上低かったからである。火山灰の観察からも噴火したのは水面下でなく陸上の火山だったことが分かっている。
その後急速な地球温暖化と海面上昇によって、海面前後からの爆発の痕跡が加わってくる。桜島はこの海面上昇に追いかけられるように高さを増していったのだろう。その様子を海面から眺めることができたなら、山が上空へ逃げているように見えたかもしれない。
 
・現在の3つある山頂のうち、北岳がまず高くなり4900年前まで噴火活動をしていた。その後噴火位置は南へ移動し、南岳を作りながら、北岳との間に寄生火山として小振りな中岳を生み、鍋山などの中腹噴火を伴いながら現在まで続いている。
 
・先に活動を終えた北岳では南岳からの噴出物に覆われることが少なく、むしろ崩壊が進行して山麓のなだらかな扇状地地形を形成した。このために島の北西部では溶岩原がなく、人の生活や農業には好都合になった。
 
・溶岩流や火山灰、スコリアと呼ばれる小石の落下などは有史以前にも繰り返されたはずであるが、現在の表面は新しいものに覆われている。富士山のような綺麗な円錐形にならないのは噴火位置が一定しないこともあるが、山の大部分が噴出物の積み重なりではなく溶岩ドーム(=溶岩円頂丘)と呼ばれる岩体の膨らみであることによる。
 ・溶岩ドームとは、昭和新山や雲仙の平成新山のように、先に固結した岩が下から押し出されて割れながらドーム状に盛り上がったものである。桜島の上部ではこの構造が多く、最初から割れかけた岩が積み重なっているので簡単に崩落し、土石流をもたらす。島の西南、野尻地区は土石流と戦う最前線である。

■絶えず続く地殻変動
 どこの火山でも同じだが、噴火が近づくと山が膨張してくる。噴火後は急速に元に戻り、その後ゆっくりと膨張が再開されるというサイクルを続ける。これは地中深くのエネルギー量が反映された現象で、直接の膨張力はマグマそのものよりも水蒸気などの気体の膨張圧力による。近年はGPS技術を用いて固定個所の変動を測定し、噴火予測に役立てている。
前記したように、桜島では噴火によって地殻変動を繰り返してきた。大正大噴火では数メートルも動いたが、現在でも活動が活発になると桜島はわずかに隆起したり沈降したりしている。すなわち北岳の標高1117mも、ミリ単位では始終変動しているらしい。
 
■同時に島の両側で噴火するのはなぜか
 有史以後の文明噴火・安永噴火・大正噴火はいずれも活動中の南岳頂上を挟んだ両側で噴火し、溶岩が流れている。このような噴火活動はあまり例がない。
よく判明している大正噴火では噴火位置が10個所以上に上り、直線状に並んでいる(溶岩分布図参照)。これは何を語るのだろうか。
 
『みんなの桜島』p24ではこの点について、「板状に上昇するマグマ」として図解している。この板とは水平でなく、縦になった板である。その板を持ち上げていくと上辺のふたつの角が地表に達する。マグマが板の形状で上昇して2個所で吹き出したという解釈だ。
桜島アース板状マグマ
ただし実際に地中でマグマが図のような板状になっているとは考えにくく、むしろ割れ目噴火の一種だからと捉えるべきではなかろうか。基本原因として板状に近い構造があるとしても、もっと詳細に検討する必要がある。
 
     新島(燃島/安永島)など、安永諸島の誕生
桜島の東北海上に浮かぶこの小さな島々に注目するのは、噴火時の地盤隆起という珍しい現象だからである。その仕組みはまだ十分解明されているとは言えない。
 
◇新島(しんじま)&安永諸島とは
 
230年前の安永噴火の時、桜島の東北で海中噴火とともに多くの島が出現した。
誕生した諸島のうち最大の島が新島で、周囲2200m、最高点37m。桜島本島との距離1200m
最初は二つの島だったが1ヶ月後に合体し、さらに新たな二つの島が一体となった。諸島で5番目に誕生したので五番島とも呼ぶ。
桜島新島
誕生した諸島はすぐに浸食で消滅したものもあり、現在、新島、中ノ島(軽石島)、硫黄島の
3つが小さな島として残っている。もうひとつ猪ノ子島は満潮時に隠れてしまうので島に分類されていない。
新島は軽石層でできていて海食に弱く、誕生当初よりすでに半分以下になっていているため護岸措置が施されている。
付近の海中にはあと少しで島になったであろう多数の高まりがあり、火口地形も確認されている。
また安永噴火の溶岩はこの諸島周辺に流れ込んでいるが、島はすでに高まりだったために、溶岩を被ってはいない。
 
◇新島&安永諸島の特異性
 これらの島が誕生した仕組みは、通常の火山成長のように自らの噴出物によって高くなったのとは少々違っている。海底にあった高まりが地盤の隆起によって運び上げられたものである。島を成す軽石層というのは噴出物であるが、噴火口がその場にあったのでなく、北東に数キロ離れた姶良カルデラ中心部から2万年以上前の大噴火の時にもたらされて広範囲に堆積したものである。大噴火の時には先述のように陸地だったが、その後の海面上昇などで安永噴火以前には水中にあった。
 
とすると、安永噴火では火山のセオリーとして噴火後に地盤全体が沈降するはずなのに、安永諸島はなぜ隆起したのかという疑問が残る。安永噴火は江戸時代のため地殻変動の観測はなされなかったが、後の大正噴火では桜島全体とともにセオリー通りの沈降が観測されている。なぜ125年前の安永噴火では隆起したのか?筆者はここに大きな不思議を感じた。
 
この点について、『日本の地形7九州・南西諸島』(東大出版会)p163では、「海底に流入した溶岩流が海底堆積物中に併入して海底が押し上げられ~(福山・小野、1981)」と記している。
“併入(へいにゅう)”という言葉に割り込んで押し広げるという意味を含ませているのだろう。この場合は溶岩流が島となる地面を持ち上げるほどの力を発揮したということになる。この説はこの文章のままでは信じられなかったが、次の考え方を参照することで理解可能になった。
 
2012/11鹿児島県立博物館からの情報】
鹿児島大学地質総合研究所の鹿野氏によれば、新島だけはその深部で局所的に深部からのマグマの圧力が高まって地面を持ち上げたものであり、新島以外の諸島はそうではない。このマグマは桜島から流れてきたものではなく、海底においても噴出していない。かなり珍しい現象となるが、この説が有力視されている。
 
つまり、『日本の地形7九州・南西諸島』に論述される説をやや修正して、流入した溶岩流でなく、新島の下部(おそらく直下か)からの上昇圧力が高まることで隆起したという考えである。イメージとしては、溶岩ドームが膨らむ現象に似ている。新島ではドームの頂部に古い堆積層が乗ったまま隆起したということになる。
この考えが正しいならば、あと少しマグマの上昇圧力が強ければその場で噴火し、新しい火山が誕生しただろう。
また、大正噴火では特に動きがなかったことから、安永諸島地下でのマグマ活動は安永の一時期だけで止まってしまったということになる。偶然の重なりが生んだ新島出現である。しかし、これで新島以外の幾つかの安永諸島が隆起したことも説明できるのだろうか、その辺はよく解らない。
溶岩ドームが膨らむ現象は雲仙の平成新山を始め幾らでも例があるが、それが海中で起こり島を出現させたのはあまり聞かない。まだ専門家でも仮説段階であり、今後の研究が期待される。珍しい現象として注目してみた。
 
■桜島周辺の火山

桜島火山を理解するには周辺の簡単な状況も知っておいたほうがよい。
先に25000年前の姶良噴火が最大級と書いたが、その前や後にも日本の自然や歴史に影響を残した大噴火が九州で起きている。
 
■阿蘇山の噴火
姶良火山噴火より古く9万年前、阿蘇は大規模な活動が続いて中部九州一帯に火砕流を流し、現在見る阿蘇カルデラ地形を誕生させた。高千穂峡や豊後竹田の柱状節理を残し、この時期の火山灰は関東はもちろん北海道にまで降り積もり、「阿蘇テフラ」として年代測定の指標に利用されている。この噴火活動は最近9万年以内で最大のものとされる。
 桜島高千穂峡

■鬼界カルデラの噴火
姶良火山より後、7300年前には薩摩半島の沖合で海底火山の大噴火が起きた。現在活発な薩摩硫黄島(いおうじま)の硫黄岳はカルデラ壁に位置している。火山体のほとんどが水面下にあるので実感しにくいが、海底には火山地形があり、活動は終わっていない。噴火によって上野原遺跡など南九州一帯の縄文文化は壊滅したと言われる。噴火の火山灰は東北にまで達し、「鬼界テフラ」として指標になっている。
なお屋久島や種子島はこの火山活動と関係ない。
 
■池田カルデラと開聞岳
薩摩半島の最南端で綺麗な三角錐を見せる開聞岳は平安時代9世紀の噴火が記録されている。池田カルデラをはじめ周辺には数千年前を中心とした火山活動が多くの地形を残しているが、姶良カルデラなどに較べれば小規模で、現在は平穏である。
桜島開聞岳  
■霧島岳
天孫降臨伝説も秘めているこの連山は20km長に渡り、数十万年前から現在まで、噴火位置を変えながら長く活動を続けている。歴史的な大爆発を起こさないのはマグマが1個所に溜まらず移動しているかららしい。そうなる原因は不明である。
歴史時代に入ってからは東南の御鉢と中央付近の新燃岳が活動している。新燃岳は2009年から活発化し、火口から2km以内は立入禁止が続いている。
筆者は2008年には新燃岳を歩いたが、以後接近できずに困っている。
 桜島新燃岳
 
★訪問散策雑感★
 
ここまでは地質面の紹介が大部分になったが、桜島は文化・社会の面からも興味深い地域である。
 
◇近代史の舞台としての桜島
 
・東南の瀬戸地区には旧薩摩藩の造船所があり、安政元年(1854)洋式軍艦「昇平丸」に史上初の「日の丸」が掲げられた。のち、大正噴火の溶岩で瀬戸地区は埋まり、本土と陸続きになった
・幕末には島周辺が薩英戦争の舞台となった
・フェリー乗り場の近くに第二次大戦中に掘られた地下壕がある。本土決戦に備えて海軍が掘ったもので奥行き60m、幅160mに網の目状に巡らされているという。残念ながら公開されていない。
  
◇火山灰は健康を害するのか?
 
・医療関係者のサイトを見ると、火山灰を吸い込むことは、呼吸器に疾患のある人以外、健康な人には問題ないとされる。島内よりむしろ細かい粒子が届く30kmくらい離れた地域で、疾患が起きているという。島内で降ってくる大きい粒子は肺の奧まで侵入しないからだそうだ。
一方で呼吸器疾患が桜島と周辺で多いとの逆の指摘もあるらしいが、発ガンなど重大な疾患への関係は確かめられていない。
そして確認される疾患というものも、都会での呼吸器疾患の発生より少ないという。都会の空気のほうが火山灰より有害で、都会人は危険な呼吸を24時間続けているということだろう。
 
◇生活の東西格差
 
島の東側は近年まで西側より経済的に厳しい地域で、現在も人口が少ない。平成大合併のずっと以前から東部は鹿児島市に編入し、近い側の西部は桜島町だった。西部は農業生産力にすぐれ、豊かだったからである。
東西格差の理由は地形にあり、東側では比較的新しい(有史以来)溶岩原が海岸まで届いて起伏の激しい土地になっている。溶岩流の間隙である低い地形を埋めるはずの土石流がまだ少ないため扇状地が未発達で、生活にも農業にも不利である。周回道路を走ってみると東部では上ったり下りたりの坂道が連続している。
 
◇降灰体験
 
筆者はちょうど降灰と降雨が重なるという貴重な(?)体験ができた。水に濡れた灰は貼り付いて、汚れが激しく見える。島内には洗車場がなく、霧島市まで走ってから落とすことができた。普通の町なら視線を集めたことだろうが、鹿児島では日常のようだ。自分もすぐに入浴・洗濯したのは言うまでもない。車に異常は生じなかったが、窓の開閉時に砂を擦る音がしばらく聞こえていた。
桜島灰と車
 
◇桜島フェリーの活況
 
・鹿児島市中心部と桜島を結ぶ鹿児島市経営の桜島フェリーは24時間運行。料金は一人150円。車一台1480円。多数の島民がフェリー乗り場に駐車して対岸へ通勤するらしい。深夜も1時間に一便が運行している。筆者は乗船しなかったので入り混み具合は見ていないが、この料金で黒字経営というのが驚異である。また船内でうどんが評判らしい。乗船時間は15分なので、乗り込んだらすぐに食べ始めなければならない。

桜島桜島フェリー
 
◇その他の注目ポイント
 
・小学生は噴石対策のヘルメット着用(大人はなぜかぶらないのか?)。
・生活エリアに噴石を避ける避難壕が設置されている
桜島待避壕

・火山特有の土石流が作った水はけの良い扇状地地形を利用して果樹栽培が盛ん。
・火山島ながら温泉は少なく、海岸沿いのみ。保水力が乏しいからだろう。
・大きな噴火の後には人口が減少する(死亡によるのではない)。
・火山活動をメリットに生かそうという努力はずっと続けられている。しかし得られたものよりは、不便さのほうがやはり上回るようだ。ドライに生活の質を求める人は既に島を脱出しているかもしれない。
 
◇余談
 
大正噴火のあと、1万人以上が島に住むことを断念し人口は三分の一に減った。その後昭和噴火を経て、現在は5000人が暮らしている。
最近の60年間大噴火は起きていないが、日常的な噴火は音響といい火山灰降下といい、決して有り難いことではない。それでも桜島に住むのはなぜだろう。単に変化を受け容れられないからと言い切れるのか?
この活火山のたもとで人々がどう生活してきたのか、災害とどう戦っているのか。自然災害大国・日本の住民として、桜島の人々から学ぶべき事は多そうだ。
 
 
■最新訪問時期:20126
 
参考図書
『桜島-噴火と災害の歴史』石川秀雄 共立出版 19928
『みんなの桜島』NPO法人桜島ミュージアム 南方新社 20114
『鹿児島県地学のガイド(上)』鹿児島県地学会 コロナ社 19918
『フィールドガイド日本の火山5九州の火山』高橋正樹+小林哲夫 築地書館 19993
『日本の地形7九州・南西諸島』東大出版会 200111
 
当ブログ小稿は特に『桜島-噴火と災害の歴史』『みんなの桜島』を参考にさせて頂きました。この両書は一般書店では入手困難で、ネット通販、または『みんなの桜島』(\1200tax)は桜島ビジターセンターからも直接購入できます。
桜島みんなの桜島
この本はビジターセンターを運営するNPO法人のスタッフが編集したもので、地質・噴火史・観光・文化まで紹介しているお奨めの一冊です。
 
 
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