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登呂遺跡(静岡):リニューアルされた弥生稲作遺跡

カテゴリー見出古代史

登呂遺跡代表
再調査で発見され、推定復元された“祭殿”

■ 概 要
登呂遺跡は戦時中の昭和18年に発見された弥生時代後期の集落遺跡。戦後昭和22年からの本格的な発掘調査で12戸の住居跡、3棟の高床倉庫跡、畔で区画された水田跡が国内で初めて発見された。弥生時代を定義する稲作の様子が明らかになると同時に、日本の古代を科学的に実証していく端緒となった。
日本史の教科書に記載され昭和40年代まで代表的な弥生遺跡として引用されてきた登呂遺跡であったが、その後は各地で発見が相次いだことにより注目度が相対的に低下していくことになった。
そこで静岡市では平成11年から15年にかけて再発掘調査を行うと同時に施設を一新し、現在は復元家屋や水田を含む登呂公園として整備され、発掘の成果を紹介する博物館が併設されている。

(ネット上にある訪問記の大半は再整備前であることに注意)

名称登呂遺跡:とろいせき
国指定特別史跡
所在地静岡県静岡市駿河区登呂5丁目
対象年代弥生時代後期(1世紀から3世紀)
交通機関・バス「登呂遺跡」または「登呂入口」下車
・JR静岡駅南口から東南へ3km、車で10分
マイカー・東名高速道路・静岡ICから東京方面(東)へ2.5km、5分
・駐車場あり・有料400円 8時30分~17時(最終入庫は16時30分まで)
※遺跡は幹線道路に面してないので、案内板に注意しないとわかりにくい。
駐車場は遺跡の南東側、東名高速道に平行するやや狭い道沿いにある。
付帯施設静岡市立登呂博物館
問合わせ同博物館:054-285-0476
http://www.shizuoka-toromuseum.jp/

登呂遺跡鳥瞰図1
登呂遺跡は静岡市街地の南に位置する。図で灰色の部分が静岡平野(駿河平野とも)

■見学詳細

◇屋外
・駐車場から入っていくと博物館まで150m、その先の復元家屋までさらに150mを歩く。その途中、右側に弥生時代を模した水田が広がる。
・家屋も水田も、実際の遺跡に盛り土して復元され、水田では当時栽培されていたとされる「赤米」を植えている。
・屋外施設は見学自由。内部に入れる竪穴復元住居は博物館の閉館時間に施錠される。
・駐車場は午後5時までに退出しなければならない。

◇博物館内
・新築された登呂博物館は出土品の展示、ジオラマや映像を使って遺跡の詳細や発掘調査の意義をコンパクトに説明している。展示物の量は有料の博物館としては少なめな分、入館料は少額。
・無料ゾーンで貫頭衣の着用、米作り、火起こしなどの(子供向け)模擬体験ができる。
図書コーナー、ショップ、展望フロアあり。 食堂なし

■静岡市立登呂博物館
登呂遺跡博物館
   (画像は駐車場とは反対、遺跡側から)
・開館時間:9:00-16:30
 ・休館日 月曜日、振替休日の翌日、年末年始
 ・入場料:大人200円、特別展は別料金
   

■遺跡内容


◇発見されたもの

建物跡は竪穴式住居12、高床式倉庫2棟、そして平成の調査で発見された祭殿と名付けられている大型の建物が一棟(冒頭写真)、それら建物の周囲に8万平方キロ(8ha)以上の水田跡が検出されている。
復元されている建物は3種類、竪穴住居、高床式建物(倉庫)、祭殿である。

遺物では農耕具、木製品、土器類など。
墓地は発見されず金属の出土はほとんどない。

◇時代


弥生時代後期、1世紀半ばから3世紀初頭まで。
これは弥生時代史では北部九州のクニが漢王朝から金印を授かった時期(57年)に始まり、卑弥呼が魏王朝へ遣使した時期(238年)の少し前に終焉したことになる。
これら「倭国」「ヤマト」の動きが登呂遺跡の人々にどう影響していたのか、興味深いところである。邪馬台国がどこにあったにせよ、登呂遺跡終焉の数十年後には関東から西日本全体を統括する政権が近畿に樹立されたとみられている。

◇立地

登呂遺跡は3km西を流れている安倍川が作った扇状地に立地し、海抜7m。海岸まで2km、背後は5kmほど先から山地となり3000m級の赤石山脈につながる。
周辺数キロに幾つもの同時代遺跡が分布する。これらはひとつの扇状地上に立地して往来が容易なことから、一体の社会を形成していたと考えられる。
安倍川は弥生時代に何度も氾濫を起こしているが、登呂から5kmほど北で初めて谷から平地へ出、河口まで7kmしかないために、小さな支流は別として大きく流路を変えることはなかった。
また森林跡も検出されており、現在の市街地からは想像しにくいが当時は森と海に囲まれていたらしい。

◇遺跡の変遷

調査結果から、遺跡は4期に分類されている。

・第Ⅰ期:溝で区切った水田と居住区が作られる
・第Ⅱ期:建物の数と大きさが増し、区画を改変して溝が堀り直される。
・第Ⅲ期:洪水でムラ全体が土砂に埋まったのち、復興される。
・第Ⅳ期:再び洪水で全体が土砂に埋まり、水田のみ復興される。



■遺跡の性格

遺跡としては農耕集落遺跡に分類され、当時の一般的民衆が居住し日常の農業活動を行っていた場所であり、墓地や特殊祭祀場といった様子はない。
登呂遺跡の性格は同時代遺跡との比較から考えるべきであろう。注目を集める弥生遺跡は西日本に多く、青銅器や大型建物跡、環濠、人骨などに彩られているところも多い。それら華やかな遺跡と比較的地味な登呂遺跡との違いはどこに理由があるのだろうか。その違いから歴史の何が解るのだろうか。

弥生遺跡として次の“見つかっていないもの”に留意したい。
・鉄器や青銅器などの金属が出土していない(銅鐸も出土していない)
・墓地は見つかっていない
・集落を囲む環濠がない

これらの特徴は何を物語っているのだろうか。

◇ 鉄器が発見されない問題


まず金属が出土しないことは鉄製の農耕具を使用するはずの稲作遺跡として不自然である。これについて、ある研究者は土壌の性質で短期間に腐植してしまったという説を述べているという。ただしそれを裏付ける物証や検証はなく、説得力に欠ける。
これと別に集落を放棄するにあたって持ち去ったという説があり、登呂遺跡と交代に始まっている小黒遺跡などへ人が道具持参で移動したという可能性がある。
調査で判明した集落の変遷によれば、遺跡は居住期間にも安倍川の氾濫を受けている。
そして最後の時期には新しい柱跡などの居住した痕跡が無く、水田のみが営まれた様子だという。とすると人々は作業時に道具を持参して、毎日持ち帰っていたとして説明がつく。鉄製品は貴重品なので作業場に置いていく習慣はなかったのだろう。
この可能性が高そうに思える。

◇ 青銅器が発見されない問題

青銅器は腐蝕しにくいので、通常の弥生遺跡では銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸といったなにがしかの青銅器遺物が発見されている。
しかし登呂ではほんの小片以外に見つからない。
これについて文化圏の問題という指摘がある。

弥生時代の青銅器は分布域から文化圏が「銅剣文化圏」「銅矛文化圏」などと大きく区分されることが多い。
それらの区分で、静岡県は銅剣文化圏と銅矛文化圏からは外れ、近畿を中心とする銅鐸文化圏の東端にかかっている。ただし登呂遺跡のある安倍川流域では銅鐸が出土せず、どうやら20km西にある大井川が文化境界になっているらしい。
銅鐸で弥生後期に作られた「三遠式銅鐸」という大型のタイプがあり、「三」は三河(愛知県東部)、「遠」は遠州(=遠江:とおとうみ:静岡県西部地方)を指すのだが静岡市のある駿河地方はこれから外れているのである。
もっと東、伊豆や関東では10㎝以下の小銅鐸や破片がわずかに発見されているが、弥生時代の後期に大型化した三遠式と判断できるものは見つかっていない。
登呂遺跡銅鐸分布図
文化の異なりは社会集団の差、政治機構の違い、交流の少なさを示すので、大井川から東で銅鐸がほとんど発見されないことは弥生時代を考える上で重要なことであろう。

◇ 墓地が見つからない問題

登呂遺跡は1世紀半ばから3世紀半ばまでの約200年間営まれた集落で、その間に2度の洪水に遭っている。最後は住居を作らず水田のみ復興しているので居住地を安全な場所へ移したと判断できる。発見されている周辺遺跡がその転居先かもしれない。発見されていない墓地は近隣集団と共同で別の場所に設けていたと思われる。各集団は友好関係にあり農耕作業も共同で行った可能性が高く、以下の環濠がないこともこれを示すのではなかろうか。

◇ 環濠が見つからない問題

西日本でよく見られる防御のために集落を囲んだとされる環濠は、これまでの調査位置で発見されていないことから存在しなかったと推定されている。
集落同士が友好関係にあるならば防御施設は個々の集落でなく広い地域を守るタイプとなるはずで、西に流れる安倍川が防御線の役目を果たすだろう。北は深い山岳、南は海、東は現在の清水港に注ぐ巴川とその東で興津から薩田峠という地形要害があり、つまり四囲は自然地形に守られているとも言える。
それ以前に鉄が武器としても出土していないことも合わせると、戦乱自体があったかどうかも不明である。

(弥生集落の環濠は主に防御施設という見方がされるが、明らかにその様子が分かる遺跡もあればはっきり言えない遺跡もあり、短絡に考えるべきでない。筆者は防御以外に動物や洪水の侵入を防ぐといった多目的性も想像している)


■周辺遺跡との関係


登呂遺跡遺跡分布図

・鷹ノ道(たかのみち)遺跡
北へ700mから1km。弥生中期の墓地と、後期から古墳時代の水田跡の遺跡。当時は登呂遺跡との間に浅い川が流れていた。

・有東梔子(うとうくちなし)遺跡
東北へ800m離れた場所で1980年代に発見された。開始時期が登呂よりも150年ほど古く、登呂遺跡の後半である3世紀ころには縮小していたらしい。

・小黒(おぐろ)遺跡
古墳時代初頭(3世紀後半)の建物群。有東梔子遺跡に続く時代の遺跡で勾玉付きの土器、「琴」など出土物の質が高いことから、地域の中心機能を引き継いだ存在と考えられている。

先述のように静岡平野は全体でまとまったクニを構成していた可能性が高く、集落同士は協調関係にあったと思われる。災害などで放棄したり、新規に造成した集落も多かったことだろう。

登呂遺跡年表

■その他の注目点

◆「祭殿」とされる建物は何か?

登呂遺跡高床倉庫と祭殿
左は高床式倉庫、右は発見された柱穴の様子から大型建物と推定され、“祭殿”と仮称されている

「祭殿」が高床式倉庫と異なるのは柱の太さと本数で、それによって大型の建造物が想定でき、建物前から占いに用いる「ト骨」(ぼっこつ)が出土していることからは祭祀が関係しているとみられる。
もし登呂の集落が衛星集落のような性格だったのなら、当時は個々の集落ごとにこのような祭祀施設を持っていたことになる。

弥生時代を語るときにはよく「拠点集落」と いうものが問題となる。「クニ」と呼ぶ大きな単位の社会で首都の機能を担う中心地を指す。静岡平野は周囲とは地形で隔たり平野内の移動が容易なことを考え れば、平野全体でひとつの「クニ」が構成されていただろう。その中心地は登呂遺跡とは別にあったはずであり、「祭殿」より大型の建物が存在した可能性も小 さくない。
いつの日か、大規模遺跡が発見されるだろうか。

◆ネズミ返しの発見


登呂遺跡ネズミ返し

今 では弥生時代・古墳時代の倉庫を復元するときにこのネズミ返しが付属される。最初この板材が出土したときには、使用目的が解らなかったという。その後しば らくして、伊豆での弥生遺跡から同形の板が柱と合わさったまま出土したことから判明した。ネズミ返しが発見されたのは登呂遺跡が最初だったのである。
出土した実物が博物館に展示されている。
この仕組みがあっても完全には被害を防げなかったと時々言われるが、なぜネズミがこの板を越えて侵入できるのか、よく分からない。梯子を外し忘れたりしない限り、十分な効果が期待できる巧みな仕掛けだという気がする。

登呂遺跡ネズミ返し展示
発見されたネズミ返しの実物


◆参考事項


◇国内の稲作伝播

登呂遺跡は1世紀に始まったとされている。
国内最古とされる稲作の跡は、岡県板付遺跡・野多目遺跡佐賀県・菜畑遺跡などであり、紀元前7世紀の数値も出されている。慎重に見て紀元前4世紀としても登呂遺跡より300年遡る。また最北の水田遺跡である青森県・砂沢遺跡/垂柳遺跡には登呂遺跡より200年くらい前に稲作が伝わっている。
これらから静岡平野で登呂遺跡よりずっと早く開始された水田があったと考えなければならない。そこから広がって登呂に至ったのは人口が増えたのか、適地を求めた結果であろう。
先に始まっていた水田の遺構は、おそらく一面を覆っている静岡市街地に隠されている。
登呂遺跡と市街地
登呂博物館から見下ろす登呂遺跡と迫る市街地。

◇現代の稲作との違いなど・最近の研究から

・稲の品種は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混在していたようである。
・もち米とうるち米が分かれていたか、どのように混在していたか不明である。
・登呂を初めとして各地で「古代の品種」として栽培されているものはタンニンの色素を含む赤米であるが、実は弥生時代のコメが赤米だったのかどうかはまだはっきり解っていない
赤い古代米は健康によいとして販売されているが、基本的に食味は劣る。

・水田の痕跡から弥生時代でもすでに種籾の直播きでなく、苗代で育ててから田植えを行う方法が採られていたことことが有力視されている。
・九州で発見された初期とされる稲は分析から陸稲だった可能性が高い。その後全国に伝播していったのは水稲である。
・短期間で青森まで伝わった稲作は、その後が寒冷化した時期には東北南部までしか行われなくなった。そのように「稲作前線」が南北に変動したことが指摘されており、気候変化が原因とされている。
→気候という面で静岡県は中部地方でもっとも温暖な土地であり、安定生産には有利だったはずである。



★推論:静岡平野全体から見る登呂遺跡

◇登呂遺跡は衛星集落か

登呂遺跡で広い水田を営んでいながら集落人口が50人程度と推定されていること、鉄器の出土がほとんどなく墓地が発見されないことなどは、周辺遺跡と日常の連繋があることを示唆している。有東梔子遺跡で発見されている共同墓地に登呂の人も埋葬されているのかもしれない。
登呂遺跡は発見が早く、戦後も遺跡として保護されたために大部分が開発を免れた。一方周辺はすっかり市街地となり、工事に合わせたスポット調査しか行われていないのが現状である。その限られた調査から、上記のような幾つかの遺跡が発見されてきた。
それら周辺遺跡との比較からは静岡平野において登呂遺跡が中心的存在だったとは考えにくい
有東梔子遺跡は広く、出土品の質が高いことから、集落連合と呼べるものがあったとしたならばこちらが主で、登呂遺跡はむしろ衛星集落だったと考えられる。拠点集落と呼ぶべき中心的存在は有東梔子遺跡、続いて小黒遺跡だった可能性が高い。

◇広い水田からの収穫と当時の米食実態

登呂遺跡で発見されている水田面積8haは周辺の未調査分を入れていないので、実際はそれ以上に広がっているとみられる。この面積に現代の稲作を施せば、米の収量は一年の300人分となる。一方集落人口は住居跡から多くとも50人程度と推計されている。当時の技術レベルなどから差し引いても、収穫量は多い。そんなに余剰なコメを作っていたのだろうか?

岩波書店『列島の古代史2暮らしと生業』によれば、弥生水田跡からは多量の雑草種子が検出され、また休耕田の割合も高く、食用されるコメは必要カロリーの3分の1程度しか賄わなかっただろうという意見がある。
しかしこの見方には疑問もある。

・検出された多量の雑草種子は水田を放棄した後に入ったものではないのか?放棄されれば稲の種子はゼロとなり、雑草のみになるはずである。使用中から入っていた種子と放棄後の種子を研究者はどうやって区別できたのか?(本には詳細が書かれていない)
・越年保存が可能な米は多く作るにこしたことはなく、いったん整備された水田区画は事情のない限り植え付けするはずである。本には事情を「地力や用水などの諸条件」と書かれているが、あえて休耕する理由として説明が弱い。
・水田は整備するのに多くの人数が必要で、それほど労働力を注いで得られるのがカロリー3分の1というのでは間尺に合わない。少なくとも半分以上をコメに頼ったのではないか。
・もし災害などである年の収穫がゼロになると翌年まで生きられない。そのために安定した共同体では2~3年分の備蓄があったはずで、毎年の余剰生産を目標にしたはずである。余剰分は交易の商品としても役に立っただろう。
・万一備蓄が尽きたとき、その共同体は生きるために決死の戦争を自ら起こしただろう。登呂遺跡で戦争の痕跡が見られない(まだ発見されない)のは、生産が安定して豊かだったと推測できる。


無論コメだけでなく多くの穀物栽培、天然物の収穫、魚介類も欠かせなかっただろうが、コメは全国の弥生社会で最重要な食物だったことは間違いなく、生産力を高めるために共同体のエネルギーを注いだだろう。
弥生遺跡が例外なく平坦な低湿地を抱えていること、有力な遺跡地は広い平地と安定した水源を伴うことからも、コメの生産力がクニの力になっていたことは明らかなのである。

こう見ると登呂遺跡での広い水田は、登呂居住者だけのものでなく、静岡平野全体のものという可能性を考えたくなる。広い平野部全体に住居は分散していてもひとつの運命共同体にあり、助け合っていたのではなかろうか。

遺跡発見は土器の出土が契機となりやすい。そのため集落は発見されやすく、水田は見逃されることが多い。弥生時代の静岡平野には想像以上の水田が広がっていたとしてもおかしくない。


■ヤマトタケル東征伝説と静岡:伝説に秘められた史実

静岡平野は実はヤマト政権の伝承に取り上げられた有名な舞台なのである。
ヤマトタケル(『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と書く)の伝承は史実でないと言う人もいる一方で、事実を元に脚色されたものという見方もある。

(なおヤマトタケルという言葉は元来「倭=ヤマトの男」また「日本の男」という意味であり、特定の人物でなく、大勢での行動を一人に預けているとも読める。このことは踏まえておきたい)

『記紀』でヤマトタケルの東征の部分を読むと尾張(愛知県西部)は最初からヤマト王権の領域になっていて、東海道沿いを進んだタケルが抵抗を受けるのは静岡市の草薙、西に隣接する焼津である。
それによればヤマトタケルは「相模の国」で計略に嵌り、火に囲まれてしまう。そこで草を薙ぎ払ったのが「草薙の剱」、その地はそれゆえ焼津と称することになった。
(注:静岡なのに神奈川を指す「相模」とあるのは今も『記紀』解釈の問題点とされる)

現在の草薙は登呂遺跡から東北10kmの市街地で日本武尊を祀る草薙神社が鎮座する。焼津は西南に日本坂の丘陵を越えた焼津市で、登呂から12kmの場所にこの古事を伝承する焼津神社が鎮座している。いずれも先述した銅鐸文化圏の外であり、草薙を含む静岡平野、焼津地域(現・焼津市/藤枝市)は弥生時代においていずれも近畿地方から直接の影響を受けず、独自のクニを構成していたと考えられる。
登呂遺跡ふたつのタケル像 左は草薙神社、右は焼津神社の日本武尊像


ところで『記紀』解釈の面からヤマトタケルの東征伝承とは、弥生時代ののち古墳時代に入って近畿に本拠を置くヤマト王権が展開した征服戦争を300年ほどのちに曖昧な記憶を掘り起こして記録したものだとする見方が主流である。

考古資料である銅鐸は近畿を中心に弥生中期から後期に分布した。それが届かない独自の文化圏であった大井川から東(上図)は、近畿に築かれたヤマト王権によって、ヤマトタケル東征伝承に従えば平和統一でなく武力制圧されたことになる。
つまりそれ以前の時代、登呂遺跡が営まれていた弥生時代後期までは焼津や静岡平野は独立した社会だったのが、古墳時代に入ってヤマトの勢力圏に吸収されたという展開が、文献からも考古資料からも推定できるのだ。

この推定は古代史の重要な鍵をはらんでいる。
ヤマトタケル伝承は一人の人物が実際に行ったことではなく、大勢での行動を一人の英雄に預けて語っていることは間違いない。
実際に起きた軍事行動を元にしているのだとしたら、その時期も考古学の成果から絞り込めることになる。

奈良・箸墓古墳の築造に始まる古墳時代は、奈良に本拠を置くヤマト政権が列島の大半を掌握した時代とされ、定型化した前方後円墳が各地に造られ始めることがその証拠とされている。
その時期は箸墓古墳が3世紀半ばから後半、登呂遺跡の終焉もほぼ同時期
もし上記の推測が正しければ、ヤマトタケルに仮託された静岡から関東地方への軍事行動も3世紀後半に行われたことになる。その支配によって、登呂遺跡は無人となったのかもしれない。
では戦争があったのならなぜ鉄製武器などの痕跡が見つからないのか?こう説明できる。もし突然の侵攻を受けて圧倒的な武力差で制圧されてしまえば、おそらく痕跡は残らないだろう。出土物との矛盾にはならない。

ヤマトタケル伝承が伝説的な表現に彩られているのは、『記紀』が完成したのは8世紀初頭であり、400年以上も前の記憶をまとめ上げるのにそのような表現にせざるを得なかったのではないか。それでも大筋は史実を反映していると見るべきだろう。

そしてその後、ヤマト政権に包含された静岡県(駿河と遠州)では古墳時代において、旧銅鐸文化圏である大井川より西の磐田市や浜松市(これらは遠州)には100m級の前方後円墳があるのに、焼津や静岡平野地域(こちらは駿河)ではなぜか小規模な、それも円墳しか造られなかった。
大規模事業を行えるほど有力な豪族が育たなかったのだろうか、ヤマト王権から制裁を受け人口が減ってしまったのだろうか。もしかすると敗戦国として奴隷化されたかもしれない。そのへんの事情は見当がつかない。



登呂遺跡は登呂だけを見ていても全容が理解できそうにない。少なくとも静岡平野全体を眺める必要があるだろう。弥生時代の文化はどのような地域差があるのか、それが古墳時代に入ってどう変容し、東日本へどう展開していったのか。
そのためにも、周辺遺跡の調査がさらに進むことを期待したい。

■最新訪問時期:2013年8月

■リンク:(文化遺産オンライン、管理する市町村や観光協会の紹介ページ)

◆参考資料

岩波書店『列島の古代史2暮らしと生業』
その他

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多胡碑(群馬):1300年守られてきた80文字の石碑

カテゴリー見出古代史

多胡碑覆い屋 多胡碑を内部に保護している覆屋

■ 概 要 
711年(和銅四年)、朝廷からの命を受けてこの地に多胡郡という行政単位を設置したことを記念した石碑。80文字が高さ約130センチの砂岩に刻まれている。1300年間地元の民衆によって守られてきた。

名称多胡碑:たごひ
国指定特別史跡
所在地   群馬県高崎市吉井町池
対象年代奈良時代前半 8世紀初頭
交通機関バス停「記念館前」下車、石碑まで200m、記念館まで150m
マイカーJR高崎駅から南へ7km、15分
上信越自動車道・吉井ICから北へ3km、10分
駐車場あり、石碑まで300m
付帯施設[多胡碑記念館]
開館時間:9:30-17:00 入館16:30まで
月曜休み、年末年始休み
200円
問合わせ多胡碑記念館 027-387-4928
高崎市文化財保護課のサイト
https://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/ky-bunkazai/tagohi/index.htm


多胡碑地形図


■見学詳細

現地は旧町名を残した「吉井いしぶみの里公園」として整備され、移築された古墳や多胡碑記念館が並び、多胡碑は木立に囲まれた公園の一角で小さな覆屋の内部に保護され、ガラス越しに見学する。
覆屋は小さなものなので案内板をたどらないと場所が分かりにくい。
「多胡碑記念館」は入館料200円。建物は大きいが一つの石碑に対して展示スペースが広く、空間が余り気味になっている。館内は撮影禁止。
道路を隔てて公園の駐車場あり。石碑と記念館は高台にあるので階段を登る。

◇地名等読み方
ー地名ー
吉井町池:よしいまちいけ 上野国:こうずけのくに 鏑川:かぶらがわ 
ー歴史用語ー
続日本紀:しょくにほんぎ  藤原不比等:ふじわらふひと 石上:いそのかみ 乙巳の変:いっしのへん 
中大兄皇子:なかのおおえのおうじ  元明天皇:げんめいてんのう 新羅:しらぎ 六朝:りくちょう 百済:くだら 稲荷山古墳:いなりやまこふん 雄略天皇:ゆうりゃくてんのう 

■多胡碑とは何か

多胡碑は1300年前、奈良時代の8世紀前半に現在の市町村に該当する行政単位である「郡」を建てたことを記す80文字を砂岩に刻んだ「建郡碑」と呼ばれる石碑(時期はWikipediaで8世紀後半としているが後述の判断材料から、前半と考えられる)。

文字を刻んだ石碑としては国内で最古級のひとつで、笠石が乗っていることと地元民が大切に保護してきたことによって風化をまぬがれ、現在でも充分判読できる。

文面が公式な指示書より簡略な内容であることなどから石碑は朝廷が設置したものではなく、多胡を統治する人物がその地位の正統性を住民と後世に知らしめるために造ったもの考えられている。
内容が『続日本紀』和銅四年の記載と一致することから真実性には問題がなく、刻まれていない造立時期も和銅四年(西暦711年)のわずか後であると推定できる。後世の偽作説・複製説はほぼ否定されている。
高さ129センチ、上に乗る笠石を含めると約160センチになり、現在はコンクリートの台座に乗っている。実際には当初からの台石に身がはめ込まれているが、戦後コンクリートですっかり覆われて台石は見えない。
実物大のレプリカが隣接する記念館に展示されている。

以下に色々な角度から紹介と(独善的な)考察を試みる


■多胡碑に刻まれている文章

多胡碑石碑 多胡碑を覆屋のガラス越しに撮影(クリックで拡大)

文章は朝廷の発行した公文書よりも略記されていて、上野国において新たに多胡郡という行政区画を設置するという「建郡」の報告という形をとり朝廷の最高位にある人物3名の名も挙げている。また郡の統治者として「羊」を任命したようにも読めるが人名を指すのか解釈に論議がある。

【現代語訳(記念館冊子・東郷治之氏による)】(この訳では「羊」を人名に解釈している)

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四年三月九日甲寅。左中弁正五位多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等)尊。

注:末尾の人名は当時の朝廷状況から明らかに特定できるため、ここでは括弧で補足してある

冒頭の「弁官符(べんかんふ)」という言葉を使用していることから、この建郡の通知は同時に行政の長官職を担う人物への任命を行い、それを口頭に申し伝えたものとの推測がある。「郡」とは今でいえば「町」程度の行政単位であり、その統治者を決めるのに当人を朝廷まで招集し、政府高官が直接申し伝えたということになる。
その時文書で任命書も渡したのかどうかは不明である。
ただし、証拠もなく地元に戻って行政を始めても信用が得られないはずで、大きな行政単位の「国」の長官である国司からも公式な承認通知が届いていたのであろう。
詳細はまだ不明だがこのような地方統治の手続きはちょうど律令体制を整え始めている時期にあたるので、多胡碑造立の経緯は格好の研究対象にもなりそうである。


■多胡碑の背景にある当時の社会

この当時の日本社会は律令体制の整備を着々と進めていた時期にあたる。その改革の方向は645年乙巳の変において中大兄皇子が目指したもの、豪族の私有を廃して国土や民衆は国家に属するものとし、租税徴収や労役のために土地を調査し、戸籍を整え、中央から派遣された官僚が地方の統治を行うというものだった。
多胡碑に刻まれている内容はまさにこれである。朝廷からは今の県知事に近い要職の「国司」が派遣され、小単位である多胡郡のような郡では土着の有力者に任せるもののその権限は国司によって管理され、国司は朝廷によって管理され、数年で交代していく。
多胡碑にある「羊」が任命された人物であるとして、同じように郡の統治者を任命することはこの時期に全国に対し何百とあったのだろう。多胡郡では独自に石碑を刻んだために後世に伝わった。この土地でも石碑と別に木簡に墨で書かれた文書や、民衆に知らせるための高札もあったのかも知れない。民衆が文字を読めないことを考えれば、通達するために集会を催したことだろう。
石碑が保存されてきたことからは、「羊」が民衆の反感を余り受けることなく無難に任務を果たし、職務を世襲していったことが想像できる。


■多胡碑はなぜ1300年も伝えられているのか

文字を刻んだ石碑で平安時代以前と確かめられているものは全国で18、或いは20しか残っていない。高崎市にはそのうち3つが現存する(「上野三碑」後述)。
雨の多い日本では野外の石碑は風化が早く、文字は読めなくなってしまうものである。多胡碑は帽子のような笠石を乗せていたことも好条件になった。
しかし現在まで残ってきたのは石の耐久性のお陰でというよりも、中世から継続されてきた地元民を中心とした保護活動の賜である。
地元では奈良時代の伝説的人物である「羊太夫(ひつじだゆう)」の墓とされて古くから崇拝の対象となり、江戸時代には拝殿が作られ、明治には官費から柵や覆い屋などが整えられ、終戦時には米軍による棄却命令を怖れて一時埋蔵されたとも言う。
今日ではもちろん墓とは考えられていない。


■当時の日本史・飛鳥時代から奈良時代
多胡碑年表

645年 乙巳の変(=大化改新)
663年 白村江の戦い、朝鮮半島からの撤退、緊張
672年 壬申の乱、天武・持統朝の開始
694年 藤原京造営
708年 武蔵国秩父郡から和銅を献上
710年 平城京造営・遷都 奈良時代開始と律令体制の整備
741年 聖武天皇国分寺建立の詔、国家仏教の整備


■多胡碑はいつ建てられたか

多胡郡建郡の年である711年は元明天皇の5年であり、前年の3月に平城京へ遷都し、石碑に名前のある藤原不比等が52歳にして事実上の最高権力者になっている。
藤原氏の全盛期はこの不比等から始まると言っても良く、708年に就任した右大臣藤原不比等という名が全国の庶民にまで聞こえていたことは想像に難くない。
ところでその不比等は720年に死去している。
また「左大臣正二位石上尊」と記されている石上朝臣(いそのかみのあそん)は、717年に死去している。この右大臣という地位は不比等の左大臣よりさらに上位の地位であり、国家主席のようなものであった。
石碑にすでに死亡した権力者名を刻むだろうかと考えれば、多胡碑の造立時期は建郡の711年以後で、石上朝臣が死去する717年以前のはずである。まして不比等の死去する720年より何十年も後とは思えない。これが、Wikipediaの「8世紀後半」ではなく、8世紀前半であると筆者が推論している根拠である。


■多胡碑は当初からその位置にあるのか

移動したという記録は伝わっていないが、現在の所在地周辺は充分な発掘調査がなされておらず、動かされていないかどうかは判断できない。もし初めからこの位置にあったのなら、すぐ周辺に郡の役所を示す建物跡が発見できるはずなのである。
また石碑の目的は人に見せることにあるので地元民や旅行者が往来していたか、遠くから目立つ場所でもあったはずで、確かに鏑川(かぶらがわ)から見上げる丘の上である。
調査が途上である現状では、動いたかどうか分からない。動いていないとしても不自然な場所ではない。


■多胡碑を造立した人物は何者か

この石碑は朝廷が設置したものではないとされる。その理由はまず文面、そして朝廷の記録にないこと、全国で他に存在しないことなどである。
とすると建郡の指示を受けた人物が建てたと考えるべきであろうし、その事蹟を誇り伝える目的だったと想像できる。
文章にある「羊」がその人物を指すというのが有力な説である。またその人物は遠くない時代に朝鮮半島から帰化してきた渡来系だったとするのが筋の通る解釈であるが、確証はない。慎重に考慮するべきだが、多胡郡の「胡」という文字は異民族を意味する文字なので、この地方はすでに異国からの流入者が多く住んでいたことが窺えるのは状況証拠のひとつである。

また、なぜ有力者なのに「○○氏」といった氏(うじ)や姓(かばね)を付けていないのかが疑問になるが、まだ充分な評価を与えられない地方在住の渡来人には、朝廷が認めなかったということもあり得る。
その傍証として、『続日本紀』766年に、上野の国にいる新羅系の一団に対して「吉井連(よしいのむらじ)」を授けるという記事があり、それまで姓を名乗れなかった一族が初めて連という姓を賜ったことが分かる。
この吉井連が多胡碑を建てた人物の子孫なのかどうかも確証はないが、少なくとも8世紀後半で上野国に住む新羅系渡来人の子孫グループが地方豪族として朝廷にも地位を認められる存在になっていたことははっきり解る。

一方、「羊」が人物でないとする解釈では南南西の方角、動物の羊、「祥」「蓋」「群」の略字、誤字という諸説がある。詳しい論拠が解らないが、説得力が不足しているのではなかろうか。誤字説などは考えられない。

多胡碑資料館 多胡碑記念館


■書としての価値

筆者のような門外漢が多胡碑を見ても、上手な書体には感じられない。しかし書道を嗜む人はこの記念館にやってくると学習のために拓本のコピーを購入して行くのだそうだ。
また江戸時代、朝鮮半島と交流のあった文人は多胡碑の拓本を贈り、それが中国まで伝わって書道史に残ることになったという。
書体は楷書体で中国の六朝風を遺すと言われている。
当時の地方権力者が一世一代の記念碑を建てようとして、国内屈指の文章家と書家を朝廷のあった奈良から招いたのかもしれない。


◆上野三碑(こうずけさんぴ)


上野三碑とは、上野国地域(高崎市南部)に残る三つの古代石碑のことで、ここ多胡碑のほか、山上碑、金井沢碑のことである。いずれも国指定特別史跡。

◇山上碑(やまのうえひ)
所在:高崎市山名町字山神谷2104
高さ111センチの安山岩に53文字が刻まれている。
内容は当時隆盛していた寺院の僧侶である長利(ちょうり)が、自らの母「黒売(くろめ)」の供養と一族の系譜を述べた私的なもの。
造立時期は三つの中でもっとも早く、辛巳歳(西暦681年)と記されている。
また、この石碑に隣接している径15mの円墳である山上古墳は、石碑を建てた一族が埋葬されたもので 供養されている黒売の父のために築かれ、のち黒売が追葬されたと推定されている。

◇金井沢碑(かないざわひ)
所在:高崎市山名町字金井沢2334
高さ110センチの安山岩に112文字が刻まれている。
内容は豪族であった三家氏(みやけし)が仏教の教えに則って一族の繁栄を願うという私的なものである。文面中に地名としての「群馬」が初めて使用されている。
造立時期は神亀三年(西暦726年)と記されている。

三碑の中で、内容が公的なものは多胡碑だけで、またほかの二つが風化で判読しにくくなっているのに較べて、多胡碑は笠石という帽子のような石が載せられていたためであろう、幾らか保存状態がよい。

[三碑から考察する上野の状況]

平安時代以前の碑文は、全国で20ほどしかなく、そのうちの三つが上野に残っているのはなぜなのか。
文書を練り上げ石碑を造立するというのは、当時の知識層の人にしかできないことだったろう。また、石碑に記録を残すという習慣は日本で発生したのでなく半島から渡来したものと言われる。
この7世紀ころの渡来人には半島の戦乱から脱出した新羅や百済の上層階層の者が多く含まれ、在来の日本人よりも豊かな教養を持っていた。日本の朝廷は彼らの能力を活用し、要職に多数採用したと言われている。
群馬でも新羅系の渡来人が多く居住していたと推定され、その影響から私的な造立も含め多数の石碑が造られたのではないか。
群馬・埼玉では大型の古墳も多く、稲荷山古墳から5世紀の雄略天皇の名を記した鉄剣が出土しているように、石碑を造った8世紀より300年以上前から国内でも先進的な地域だったことが窺える。
周辺地域で直前の古墳時代末期に大型墳墓が残されていることから有力な豪族が割拠していたことが想像でき、その周辺地域にあたる多胡郡は戸数が300とあるので人口は1500人程度だろう。上野国ではひとつの狭い領域に過ぎなかったはずである。上野国の中心とは言えなさそうである。
多胡碑が711年から10年以内に造られたとして、上野三碑でもっとも古い山上碑は約30年前の681年に建てられている。4kmしか離れていない山上碑の存在は当然知っていたであろうから、「ではわれわれも」という一種の流行がこの地方で発生したのではなかろうか。


◆多胡碑を含む日本三古碑とは何か


日本三古碑とは、8世紀前後に刻まれた多胡碑、那須国造碑(なすのくにのみやつこひ)、多賀城碑(たがじょうひ)の3つで、考古学の見地でなく主に書道史の観点から選ばれたものである。これらより古い文字石碑、金属に刻まれた文字記録は多数存在する。

◇那須国造碑
(なすのくにの みやつこひ)
所在地:栃木県大田原市湯津上429
笠石神社に祀られる石碑で、高さ148センチの花崗岩に152文字が刻まれている。内容は7世紀の国造だった人物を後継者が讃えるもの。西暦700年の建立とされる。多胡碑のように帽子状の笠石を乗せていて、石碑自体が「笠石」と通称されている。国宝指定。

◇多賀城碑(たがじょうひ)
所在地:宮城県多賀城市市川字田屋場
多賀城の南門近くの堂内部に建つ8世紀の石碑で、高さ196センチの砂岩に141文字が刻まれている。内容は多賀城の位置と設置の経緯で、762年建立と記されている。重文指定。


◆[余談]文字を後世に残す手段

問い:日本で最古の文字は何か

答:志賀島の金印、1世紀。ただし作製したのは中国、作製した人物も中国人。
(本ブログ「古代史探訪 金印公園」参照)

金印は製造当時の輝きのまま、今も福岡市博物館で展示されている。これは金という化学的に安定した金属のお陰である。
では永く文字を残すには金を使うのが最高かというと、金は軟らかいため金槌で叩くと変形して文字が消えてしまったり、ひとつの固まりが小さいため盗難され作り替えられてしまうなどの弱点もあり、世界の最古級文字を伝えてはいない。

実は世界で5000年以上文字を残した実績のあるのは、古代エジプトやメソポタミアで残っている、まさに石に刻んだもの、そして粘土板を焼成したものである。メソポタミアでは単に粘土に刻んだものが偶然の火災で瓦のように強固な陶板になり、解読し切れないほど大量に残っている。
古代エジプトでは多くの石造品が石灰岩を使用していて、もし日本であれば降水で溶蝕され文字は消えているはずなのに、雨の少ない土地ゆえに残っている。
一方、現在の我々がもっとも多く文字を記入している手段は、デジタルデータである。これは何年保つだろうかと考えれば、新しい媒体へ次々コピー保存を続けていくというメンテナンス作業を継続しない限り、50年は保たないだろう。仮にデータが残っていても読み出す方法がなくなっていく。最初の持ち運べるデジタル媒体であったフロッピーディスクはすでに一般において、読めなくなっている。CDもブルーレイも50年後に読める展望があるのだろうか。学校の卒業アルバムをCD-Rで渡したりするのはデジタルの弱さを知らない発想である。

もし私たちが自分の家族の記録などを後世に遺したければ、古代メソポタミアを参考に、刻んだ文字を陶器で焼成し瓦のようなセラミックに作っておくことがもっとも確実である。費用も安い。最近は写真もモノクロならば陶板に焼成できる。災害に遭わない場所に大きな倉庫を確保し、板を大量に保管すればよい。雨は避けた方がよい。または地面に埋めておくのもよく、5000年後に考古学者がいて発見してくれれば、解読に努めてくれるだろう。
多胡碑を残した「羊」に負けない長期保存に挑戦してみてはいかがか。


◆最新訪問時期 : 2013年8月
◆参考文献  『列島の古代史6 言語と文字』岩波書店
         多胡碑記念館冊子・図録類

青谷上寺地遺跡(鳥取):弥生の殺傷痕人骨は何を語るか

カテゴリー見出古代史

青谷上寺地遺跡現場 自動車道の高架下が遺跡発掘現場

■遺跡の概要 
青谷上寺地遺跡は日本海に面する鳥取県青谷町で発見された弥生時代の集落・祭祀遺跡。これまで道路建設予定地の発掘だけで多量の鉄製品・土器に加え、水湿地で有機物の腐敗が抑えられたため、木製品・骨角製品・人骨などが数多く発見された。人骨には多くの殺傷痕が見られ戦乱の様子がうかがえるほか、国内で初めてが3人分発見され話題となるなど、出土物の豊富さから地元では「弥生の博物館」と称している。

名称青谷上寺地遺跡 : あおや かみじち いせき
国指定史跡
所在地鳥取県鳥取市青谷町青谷
対象年代弥生時代中期から後期・古墳時代初期(紀元前150年から紀元250年の約400年間)
交通機関  JR山陰本線青谷駅下車、遺跡発掘地は南西へ500m、
展示館は北東へ200m。
マイカー山陰自動車道青谷ICから展示館まで1km
・鳥取市街から25km
・倉吉市街から17km
付帯施設    [青谷上寺地遺跡展示館]
開館時間 午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 無料
・展示館はプレハブ造りで仮設のような外観だが、内容は小規模な博物館に劣らない。じっくり見学するには1時間必要。
問合わせ青谷上寺地遺跡展示館 0857-85-0841
http://www.tbz.or.jp/kamijichi/index.php

 青谷上寺地遺跡周辺遺跡 青谷上寺地遺跡と周辺の主な弥生遺跡

■見学詳細

発掘場所は調査実施日に原則として見学可能。ただし説明案内などは未整備なので、一般の考古学ファンが見学しても状況判断は難しいと思われる。調査日は要問い合わせ。
これまでの調査成果は青谷上寺地遺跡展示館に展示。
遺跡展示館と発掘地は直線で700m、徒歩15分。発掘地に駐車場はないので車は展示館に置く。
青谷上寺地遺跡展示館外観 青谷上寺地遺跡展示館

■遺跡について補足

青谷上寺地遺跡の立地は現在でも日本海に面した狭い平地であるが、弥生時代には海が陸側に入江となって、波を避ける港としてもうまく機能していた。
弥生人の暮らしを支えた稲作は内陸へ細長く延びる平地で営まれていたと推定される。調査されている遺跡部分は主に港湾だった見られ、集落跡は発見されていない。
これまでの調査は道路建設に伴って道路部分の真下を発掘しているだけで、遺跡エリアと推定される範囲内のごく一部に留まっている。それにも関わらず多量の出土品が見つかったのは、水没した木材が腐敗せずに残っていたことと、発掘位置が偶然にも当時の港湾施設に当たったこと、そしてこれも偶然ながら遺体や廃棄物がまとめて棄てられた当時の湿地に当たったことによるらしい。

出土物には他の遺跡では滅多に見られない貴重なものが多いのだが、ここでは以下の数点に絞って注目してみたい。


■注目の出土物1 脳


出土した多くの人骨の中から、3人の脳が発見された。古代人の脳が発見されることは世界でも数例しかなく、日本では初めてのことだった。
固い化石になっていたのではなく、軟組織を残している。
3体の内容は次の通り。

・30~40代男性:脳全体の五分の一、230グラム
・40~50代男性:わずか、10グラム
・30代女性:脳全体の四分の一、300グラム

写真にある展示はレプリカ。別に小瓶に封入した実物細片を展示してある。
青谷上寺地遺跡脳展示ケース

脳の発見直後には核DNAを抽出して弥生人のルーツ探索に役立つと期待されていた。
その後、2003年には核DNAの抽出はできなかったという報道があり、代わりに骨からミトコンドリアDNAの抽出は成功したという。期待された十分な遺伝子情報は得られなかったが、ミトコンドリアDNAの情報から佐賀県の弥生遺跡人骨と近似し、現在の本州や朝鮮半島の人々に近いことが分かったという。
残念ながらこの成果は従来から推測されている範囲内のものである。
核DNA抽出に失敗した事情はよく解らない。脳組織からSFのように記憶を取り出せれば素晴らしいが、現状で成果を出すのは難しいのではないか。

この脳は現在、氷温保存という凍らない0度付近の温度を保つ方法で鳥取大学に保存されている。この方法は現状でベストの方法とは言えるが、ごくわずかな経年劣化は防げないので、100年後まで保つことは困難と思われる。


■注目の出土物2 多量の人骨など出土物の豊富さ

発掘によって通常の遺跡ではあり得ないほど多くの遺物が発見されている。人骨はバラバラで人数にすれば100体以上、ほかに原型を保った建築物の屋根や壁、絹織物、木製品、鉄器、土器など。人骨は埋葬でなく、雑然と棄てられているように見える。

◇人骨群から想像できること

・100体のうち、少なくとも10体からは殺傷痕が見つかっている。生前に骨に至る大きな外傷を負い、治癒痕のないことからそれが致命傷となってほぼ即死していることが分かる。
・人骨は重なっていることから、何度かに分けたのでなく一括に棄てられている。
・人骨には幼児のものが3体、女性や高齢者も含まれていた。
・同一人物の骨が離れて分散し、囓られた跡はないことから、死亡後に体がバラバラになる(軟組織がほぼなくなる)まで、獣に荒らされない別の場所に地中保管した可能性が言われている。この集落の運命を想像するに非常に興味深い点である。

100名という人数は集落のうち戦闘参加が可能な人数に匹敵すると推測できる。それほどの人数が一度に集められ棄てられるのはどんな事情があり得るのか?
一般的に考え得るのは、伝染病か戦争のいずれかであろう。そして殺傷痕の多さから、戦争の結果と断定しても良いのではなかろうか。
そして地元側が勝利したのなら大事な港湾施設の一角に棄てるはずはないから、攻め込んだ側が勝利し、遺体は地元側の人々であろう。


■注目の出土物3  殺傷痕のある頭蓋骨

この頭蓋骨の主は成人女性であることが分かっている。遺体となってから傷付けられることは考えにくいので、生きている状態で、殺害のために武器を額に打ち込んだものだろう。この傷からは様々な想像が広がり、筆者が特に好奇心を刺激されたものである。

青谷上寺地遺跡頭蓋骨
展示館で殺傷痕のある頭蓋骨が二つ並べてある。左は男性、右後頭部という位置も戦闘中の傷として自然に見える

青谷上寺地遺跡頭蓋骨拡大 上の右、女性頭蓋骨の拡大

◇用いられた武器とは


弥生時代の武器は、(ほこ:槍のようなもの)、金属の矢じり(=「」)を付けた弓矢、そして下の写真にある「戈(か)」であった。
この頭蓋骨の傷を付けられるのは傷の形から「戈」の可能性が高い。戈は振り回して深い刺し傷を負わせ、そのまま引き寄せることができる。腕を振る力が使えるので、深く刺すという目的では当時で一番の道具である。

青谷上寺地遺跡銅戈 青銅で復元された「戈」

弥生遺跡からは青銅製の「銅戈」が多く発見され、鉄製の「鉄戈」はごくわずかしか見つかっていない。それは鉄が錆びて消えるからでなく、実用的な武器として余り使われなかったからという見方がなされている。
青銅製の剣や矛などは武器の形をしていても主として儀仗用の道具として製作され、実戦向きにはずっと固い鉄で同じ形状のものを作ったというのが定説である。青銅製の剣などには研磨した形跡の見られない例が多いというのも根拠になっている。青谷上寺地遺跡の時代は弥生時代の後半で、すでに戈は実用品でなくなっていた可能性が高い。

なぜこの傷を付けたのが戈であると考えられるのか。実用の武器でないかも知れぬ戈を使うとはどういうことか。
この頭蓋骨の傷はなでるような斬り方でなく突き刺したものなので、剣を突き刺したか、金属の矢じりを付けた矢で射たか、戈を打ち込んだかのいずれかである。
また何度も攻撃した痕はなく、この1個所だけが深く傷つけられている。角度が悪ければ傷を付けるだけで刺さらないはずの頭部に対して、一撃で深い致命傷を与えていることには注目したい。

頭蓋骨に一撃で穴を開けた道具はどれか。剣を突き立てたり矢を射たりするより、振り回せる戈を使ったほうが勢いと重量があり、固い頭蓋骨を貫通させやすい。
このように考えれば、この傷を付けた武器は戈であると断定して良さそうに思える。

なお、戈の装着方法は復元では上の写真の角度に作られるケースが多いが、下の写真のように鋭角だった可能性もある。柄が付いたまま発見された例はないはずであり、取付部分の構造からもいずれかと断定できる材料はない。
青谷上寺地遺跡銅戈反転

◇額に致命傷を受ける状況とは

額に戈を打ち込まれるとしたらどんな場合だろうか。
敵と真正面に向き合って振り下ろした場合、刃は額でなく頭頂に刺さるはずである。しかしこの頭蓋骨の傷は頭頂でなく、額に開いている。
そして一撃で命中させるのは、戦闘中で相手が激しく動いている状況では至難の業だろう。
この傷は、正面に向き合い、静止して、しかも攻撃者がやや低い位置から、あるいは受ける側が横たわった状態で打ち込まれたのではなかろうか?
そんなことが起こりうるのだろうか。
ここで上に記した、戈は実戦用の道具でなく、儀仗用の道具だったことを考え合わせてみたい。
筆者はこれは儀式として行われた「処刑」だったと考えている。

◇被害者はどんな人物なのか


他にも多数発見されている殺傷痕を受けた人骨と違い、この人物は額への傷を受ける前には生きていたと考えられる。それが処刑という、異例な殺され方をしたとしよう。
この人物は15から18歳の成人女性であることが骨組織から判明している。
女性が男性に混じって戦闘に参加したとも思えない。なぜこの人物は殺されなければならなかったのか。それも公開処刑のような方法で。

発見された100体に上る人骨は、一度に雑然と集められた様子で発見されていて、敬意を払った埋葬には見えない。あたかも大きな戦いの後で勝者側が敗者側の遺体をまとめて処分したようである。おそらく大きな戦争の結末なのだろう。

そして女性が処刑されるのは、それによって相手を完全に征服したという象徴の意味があるのではないか。すなわち女性は戦闘では死なない立場にあり、集団を象徴する指導的存在、つまり弥生時代においては司祭者、シャーマン、巫女しかない。
この女性は処刑された巫女ではないのか?

◇弥生文化として見た場合

山口県・土井ヶ浜遺跡は青谷上寺地遺跡から時期がやや古い、同じ弥生時代の遺跡である。ここからも頭部に類似の傷を負った人骨が出土している。筆者が最初に処刑による傷を発想したのは土井ヶ浜遺跡での人骨を見てのことだった。
もちろんどちらの遺跡でも本当の事情は解っていない。しかし弥生時代の文化は距離が離れていても共通する要素を持っている場合が多く、戦争の終わりに巫女が処刑され、処刑方法として頭部へ戈を打ち込む方法がよく採用されていたとしても不思議はない。否定できる材料はないはずである。
少なくとも以下の事情は、すでに定説となっている。

・弥生時代の共同体はそれぞれに一種の霊能力を備えた独身女性が巫女として武人の統治に加担していた。
・巫女は戦闘に参加しない。
・巫女による託宣や予言が共同体の方針を決定し、それが的中せずに大きな損害を被った時には責任を取らされ、殺される場合があった。


ちなみに、邪馬台国の卑弥呼は晩年に狗奴国という地域との戦争に苦しんだと言われ死因も解らないことから、研究者の一部では敗戦の結果、処刑されたのではとの意見も出されている。これも簡単に否定できない。
もしそうならば卑弥呼も同様の方法で額から傷を受けたのだろうか。

いずれにしろ弥生時代の人骨は発見されること自体が稀であり、貴重な青谷上寺地遺跡での発見を更に調査し、弥生時代の様子が明らかにされていくことを期待している。

青谷上寺地遺跡弥生年表

■最新訪問時期   2012年3月

■参考 『青谷の骨の物語』井上貴夫 鳥取市社会教育事業団 2009年



三内丸山遺跡(青森):縄文大集落と大型建造物の謎

カテゴリー見出古代史

三内丸山遺跡広場
三内丸山遺跡を代表する大型竪穴住居(左)と六本柱遺構(=大型掘立柱建物:右)

■概要

三内丸山遺跡は古くから土器や土偶の出土で知られ、平成に入って野球場建設のための予備調査で大きな発見が相次いだことから計画は変更され、遺跡公園として保存されることになった。多量の石器・土器・土偶の発見、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、墓地、大型掘立柱建物跡、道路跡などが検出された縄文中期の約1500年間に渡る大規模な集落遺跡である。
太い柱穴から推定復元された大型建物、大型櫓は大人数でなければ建造できないものであり、DNA分析によってクリの植栽が明らかになったことも含め、社会単位が数十人と考えられていた縄文時代のイメージを大きく変えることになった。

(この記事では初訪問者への助言、概要の紹介と、個人的に注目するポイントだけを取り上げます)



名称三内丸山遺跡:さんないまるやま いせき
国指定特別史跡 
所在地青森県青森市三内丸山
対象年代縄文時代中期(5500年前~4000年前)
交通機関JR青森駅から西南へ7km、車で20分
JR新青森駅から南へ2.5km、車で10分
青森空港から北へ8.5km、車で30分
市営バス「三内丸山遺跡」下車
マイカー・青森自動車道青森ICから東南へ1km
・青森市中心部から西南へ4km
・東北新幹線新青森駅から南へ2km
・無料駐車場あり
付帯施設縄文の丘 三内まほろばパーク「縄文時遊館」
 ◇開館時間::4月1日~5月31日 午前9時~午後5時
          6月1日~9月30日 午前9時~午後6時
          10月1日~3月31日 午前9時~午後5時
          (※入場は終了時間の30分前まで)
 ◇休館日・休園日:年末年始休館
 ◇入場料:無料
・縄文の食材を使用するというレストラン、図書室、体験工房などあり
問合わせ縄文時遊館 017-781-6078
                 017-782-9462
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

◇遺跡名称読み方
三内丸山:さんないまるやま  亀ヶ岡:かめがおか  大湯:おおゆ 
伊勢堂岱:いせどうたい  御所野:ごしょの


■見学詳細

遺跡エリア、関連施設など全体が「縄文の丘 三内まほろばパーク『縄文時遊館』」という公園になっている。
入場、駐車場はすべて無料
・夜間は公園全体が閉園される。

三内丸山駐車場から入口 駐車場から縄文時遊館への入口

・「縄文時遊館」がビジターセンターとして施設全体の入口になり、遺跡へは建物を通過して向かう。展示施設「さんまるライブラリー」は時遊館の一部。いずれも無料。
・遺跡エリアでは多くの建造物が復元されていて、見学は所要1時間。無料のボランティアガイドツアーあり。
・主な出土品を展示する「さんまるライブラリー」の見学は30分から1時間程度必要。展示解説が随時行われている。
・撮影可能

・遺跡の本格的な調査が最近なので施設も新しく立派。駐車場も見学も無料なのは青森県議会が議論の末に決めた。
・復元された大型建物と櫓は国内の縄文遺跡で例を見ないものである。これを前にしてどれだけ想像力を広げられるかで、満足度は左右されると言ってよい。

・展示施設の「さんまるライブラリー」だけでも学べるものは多い。
・「縄文時遊館」HPで16ページ構成の冊子がPDFファイルとしてダウンロードできる。

<周辺広域地図>
三内丸山遺跡広域地図 三内丸山遺跡と周辺の主な縄文遺跡

■遺跡内容詳細

・この遺跡が注目された第1要因である大型建物は二つあり、現在「大型竪穴住居」「六本柱遺構・大型掘立柱建物」として推定復元されている(冒頭写真の建物)。

「大型竪穴住居」の用途は共同住宅、集会場、作業場などの説があるが、多用途を兼ねたとも考えられる。想像だが、積雪の多い冬期に生活効率を上げるため集まって暮らしていた季節集合住居の目的があったのではないか。
 
「六本柱遺構」は用途も想像の域を出ず、復元のように壁のない櫓状だったか、壁のある建物だったのか、さらに屋根の有無も分かっていない。復元されている高さになっていたとすると、当時迫っていた青森湾が見えたという。見張りや目印かもしれない(後述)。
残念ながら見学者が登ることはできない。


・発見された有力者を葬ったと見られる墓地に直径4mと小型の環状列石が施されていた。三内丸山より後になると秋田・大湯環状列石のように規模が大きくなるが、墓地として石で円形を描くという様式がすでに始まっていたとも言える。

・縄文集落遺跡は全国で無数に見つかっていて、多くが人口数十名止まりである。当時は親族でひとつの集落を構成していたらしく、婚姻は近隣の他集落と交わしたと推測される。その時代に人口200名以上とされる三内丸山遺跡は異例の大規模な集落である。

・この人口推定は、大型建物を建造するに必要な人数から算出されたもので、根拠がやや弱い。建造時にだけ近隣から手伝いが集まった可能性もある。大きい数で500人とする意見があるが、建造年を正確に決められないまま「同時期の家屋」を単純に考え過ぎていて簡単に同意できない。

・三内丸山遺跡の出土品からは、列島全体の縄文文化から大きく離れる思想や様式は見受けられない。規模は大きいが文化は共通の範疇である。このように縄文文化が日本列島全体でほぼ一様であることは、当時の交流の多さを物語っている。

・三内丸山が注目された第2要因として、クリ材のDNA鑑定から、人為的にクリが多く植えられていたことが判明した。クリは石器時代から茹でなくても食用にできる貴重なエネルギー源であり、材木としても役立つことから、広範囲に植えられていたらしい。

・植栽を最初の農業と呼ぶのは無理があるが、有用な植物を集落の近くに移植し増やしていたという発見は国内初のものであった。なお、周辺の自然植生は花粉分析からもともとブナ林であり、三内丸山に人がいなくなった後にはブナ林に戻ったことが確かめられている。

【キソの確認1】建物の推定方法
どの遺跡でも建物に関して発見されるのは柱の穴に過ぎず、その並び方や太さで地上に構築されたものを推測する。三内丸山では一部で柱材の根元が当時のまま残っていたが、稀なことである。太い柱は大きく重たい物が乗っていたとか、整列した柱はひとつの建物だとか、細くて一列だけなのは塀であるなどといった公式から当時の様子を考古学者が類推している。想像の及ばない意外な建造物もあったのかもしれない。

【キソの確認2】縄文時代の遠距離移動
古代では遠方へ赴くのに陸地を歩くより、舟で沿岸を辿るのが主な交通手段だった。縄文時代では簡単な丸木船を用いたとされる(ちなみに横転防止の「アウトリガー」は未発見)。縄文集落はそういった交流に便利な海岸沿いで、高い波の寄せない内湾のあるところに多い。また、地域ごとの独立した社会だったらしいが、遠方との交流は想像以上に盛んだった。

【キソの確認3】金属のない時代
縄文時代はまだ金属を使えず、また農業を営んでいない。ふたつとも紀元前600年頃からの弥生時代以後の文化であり、縄文時代における木の加工は石器で行っている黒曜石(こくようせき)というガラス質の石はナイフのように鋭く、欠かせない道具だった。その産地は限られるため、どこの黒曜石が出土したかで交流の様子が推し量れる。三内丸山からは北海道・白滝や、長野県・和田峠のものが出土している。


■Pic Up!

◆六本柱遺構(大型掘立柱建物)はどんな建造物だったのか?
(注意:遺跡のHP冒頭に載っている写真で六本柱遺構が傾いているように見えているのは画像の歪みです。実物はまっすぐ建っています)

三内丸山六本柱 推定復元された六本柱遺構:クリックで拡大
三内丸山のシンボルとも呼ぶべき高さ20mの櫓を「六本柱遺構」と呼んでいる。様々な議論を経た折衷案(または妥協案)として今は暫定的な姿に復元されている。
発掘作業で古代の建造物跡として見つかるのは、いつでも柱の穴だけである。その穴の太さ、深さ、傾き、並び方、配置から想像力を巡らし、幾多の調査済み遺跡も参考にしながら柱は何を乗せていたのかを類推していく。ここは考古学者の才能が問われる重要な作業だ。
復元に際し一番議論が交わされたのは、屋根があったのかどうかという点だったという。現在は屋根無しになっている。

この柱穴では柱自体の根が6つのうち2つで残っていた。
三内丸山柱穴残存 柱の根が残っていた穴の一つ(実物)。穴の直径2m。

この6つの穴が他の建物跡と違う点がいくつかある。
    ・柱で直径1m、穴は2mと太く、深さが2mと、堅牢性が高い
    ・内側へわずかに傾けてある
    ・竪穴住居のような、地面全体を掘り下げた様子がない

すぐ隣に復元されている大型竪穴式住居とはこの3点が異なっている。
大型竪穴式住居ではカマド跡も見つかっていることから、人々が居住、または長時間屋内で過ごしていたことが明らかなのに対し、六本柱は地面に柱穴以外の遺構がなく、第2層以上に目的があったと窺える。

太さ1mの栗の木を6本用いれば、相当な重量も乗せることができたはずである。ただし注意しておくべきことは、柱が頑丈だったことで復元のように20m近くの高層を目的にしていたと単純に断定はできない。
なぜなら太い栗の木を縦割りにしたり、外回りをそぎ落として扱いやすい細さに加工することは石器しかない縄文時代の技術ではかなりの手間がかるため、必要以上に過度な太さをそのまま使用したとも考えられるからである。
この可能性は踏まえておくが、それでも筆者は高層建築だったという考えに賛成である。それは目的から考えてのことで、望楼であり、また目印だったと想像している。

◇六本柱高層建造物の目的(筆者推論)

三内丸山の人からは遠くを見通すために、そして来訪者からは目標地点を目視するための構造物だったのではないか。
根拠は縄文時代の主たる交易ルートである青森湾からよく見える位置が選ばれていることである。
地形図を見ると、遺跡のすぐ北に接する運転免許センターは海抜4mしかない。そのまま青森市街から青森湾まで、3m、2mと下げ、4kmで海に届く。三内丸山が栄えていた時期は縄文海進という海が数メートル高かった時代であり、青森市街は大部分が海、運転免許センターも含め、ここを流れる沖館川(おきだてがわ)が入江だったことは間違いない。三内丸山遺跡のすぐ横に港があったはずである。
三内丸山海岸線入り地形図当時の海岸線と遺跡の位置:クリックで拡大
下北半島と津軽半島の間・平舘海峡を通過して青森湾に入ってきた船からは天気が良ければ30km先からでもこの「櫓(やぐら)」が見えたのではないか。また櫓の見張りからも船の接近が見え、迎える準備ができる。また火を焚けば日暮れの到着者に大きな便宜となる。
もちろん、祭祀など他の用途を兼用した可能性は高い。しかし大勢が苦労して他の地区で類のない構造物を作り上げた目的として、実用的な展望台と同時に異国からの来訪者に自分たちの先進技術を見せつけることは大きな効果があったのではないか。古墳時代の仁徳陵と同じである。


なおその入江地形に合流するひとつの支谷として小さな「北の谷」があり、ここは排泄やゴミ捨て場とされていたらしく多くの遺物が発見されている。


■青森の地勢的な意味

当ブログ「亀ヶ岡遺跡」にも書いたことだが、青森は北海道との交易窓口として重要な拠点だったと想像できる。青森湾周辺の人々にとってだけでなく、本州全体の縄文人と北海道との交易を仲介していたのではないだろうか。

縄文時代は陸路よりも沿岸を船で移動した交易が盛んで、岩手や秋田の内陸に居住する人々にとっては徒歩で津軽へ出て、三内丸山の人々と友好関係を築いて海産物や北海道など遠方の品物を入手したと思われる。

発見されている代表的な遠方の品物は、北海道黒滝の黒曜石ナイフ新潟のヒスイ(宝飾品)秋田のアスファルト(接着剤、防水剤)がある。これらは船でなければまとめて運ぶことが困難で、海岸に住んで船の技術を持つ人々が先進文化を担ったことだろう。三内丸山はその意味で好条件の場所にあった。


◆東北の縄文遺跡

(冒頭の周辺広域地図を参照)
この三内丸山以外にも、青森・秋田・岩手の東北三県には注目すべき縄文遺跡が多い。例えば遮光器土偶の出土した亀ヶ岡遺跡、ストーンサークルの大湯環状列石伊勢堂岱遺跡御所野遺跡などである。
また三内丸山からわずか10km南には時期の継続する小牧野遺跡があり、ここの環状列石の並べ方は三内丸山と共通していることなどから関連が注目される。。
縄文遺跡は特定の地方に集中したり、価値の高い遺物がまとまっていたりということはなく、海岸沿いに限らず魚介類を採れないような山間地にも分布している。縄文時代は現代のように大都会に人が集まってくるという動きがないのである。
それらこれまで発見された中で、三内丸山遺跡はもっとも規模が大きい。


◆クリDNAの誤解

クリのDNA分析という科学的手法によって、集落周辺にはクリの木が多く人為的に植えられていたことが分かった。これは三内丸山遺跡が注目を集める大きな要素になっている。
このニュースは「農耕」の始まりだったと解釈する説を呼び、マスコミが好んで取り上げることになった。しかしこれをもって「農耕」というのは飛躍し過ぎであり、科学者の取るべきスタンスではない。「栽培」と呼ぶのも難しく、「植栽」とするのが良いのではないか。これらの語句は人の関わる程度によって、使い分けるべきである。

種や枝を埋めることで木が育ってくることは、縄文人も容易に気付くはずである。ポイントは生育を助けるために、地面を耕したり水を撒いたりといった労務作業を行ったのかどうかという点で、作業に注ぐ手間が多ければ「農耕」が相応しいし、植えただけならば「植栽」だろう。その作業痕跡は発見困難かもしれないが、見つからない以上は農耕と表現するべきでない。

縄文人がそういった成長要素まで考えずに、クリの木を増やそうという意図で手当たり次第に枝を地面に差し込み、あとは放置していったとしても、その一部は育ったことだろう。しかしこの程度の関わりを弥生時代に始まる稲作のように大きな手間をかけ、大集団を形成する契機となっていく“農耕”と同じ範疇に入れることは無理がある。

またDNAの揃っていることから「選別されたクリ」と表現する文献もある。わざわざ離れた場所のクリの木を取りに行くはずはないから、狭い範囲のクリが起源となってDNAも揃うのは当然である。一般的なクリより優良な性質であると証明できない限り、多くの中から「選別した」と考えるのは強引な想像である。


■三内丸山はなぜ終焉したのか
三内丸山年表  

古代史に関心を持つならば、それぞれの遺跡がなぜ終焉したのかは必ず考察するべきテーマである。
三内丸山遺跡は今から4500年前にもっとも人口が多く、その後徐々に衰退して4000年前に終焉したらしい。その時期は全国的に縄文遺跡の規模が縮小している時期とも一致する。
原因としてもっぱら言われているのは気候の寒冷化であり、この気温低下は地質学でも確かめられている事実である。しかしそれが三内丸山の衰退原因と断定できるかどうかはわからない。
ひとつの考えとして、遺跡周辺に広く植栽されていたクリは、寒冷化してしまうとうまく育たない可能性がある。しかしこれもはっきりしていない。
もし寒冷化が深刻な問題になるのなら、三内丸山だけでなく東北全体、及び北海道の縄文遺跡でも衰退が現れるはずである。ほかの遺跡では住居跡が減少しても一時的で、のちに生活が再開される例が多い。三内丸山ではなぜ再開がなかったのだろうか。ライバル集落に敗退したのだろうか。
戦乱の形跡はないので、そうなると考えられるのは、大集落として担っていた(委ねられていた)重要な機能を何らかの事情で果たせなくなったか、もっと有能な他地域に機能が移転したのではないか(ここには三内丸山が単なる大型集落でなく機能都市だったという前提がある)。

終焉の事情について、公式にはまだほとんど分かっていない。筆者は移転説を考えている。
いずれ改めてこの事情は考察することにしておこう。

重要拠点の移動という観点からは次のことも考慮しておきたい。
当ブログの「亀ヶ岡遺跡」記事でも触れたことだが、三内丸山がほぼ放棄された後、1000年経って亀ヶ岡が栄え始めている。地形的・地理的に考察して、筆者は全盛期の三内丸山のように本州と北海道をむすぶ交易拠点としての役目を亀ヶ岡が担ったのではないかと想像している。亀ヶ岡が栄え始めるまで空白の1000年間はどこが担っていたのかが問題だが、知られている遺跡には相応しいものがなく、まだ発見されていない(あるいは破壊されてしまった)重要遺跡が隠れているのではないだろうか。

筆者が作製した上の縄文年表では、三内丸山遺跡の直後に小牧野遺跡が出現するように描いた。遺跡の調査から年代を単純に当てはめればこのようになるが、人々が引っ越し・継続したと短絡に考えることはできない。三内丸山に想定している交易拠点としての機能を果たすには小牧野では疑問が多いからである。


【縄文社会の謎1】雪国に縄文人はどう適応していたのか?

東北地方の縄文遺跡からは土偶を始め、際立った遺物が多く発見されている。それに対し西日本の縄文遺跡はあまり注目されることがない。
素朴な疑問は、南国に較べて雪の多さや寒冷で暮らしにくいであろう東北や北海道でなぜこれほど縄文文化が栄えたのかということである。
そして三内丸山にはなぜ大規模な集団(人口200人程度)ができたのだろうか。

まず、東北・北海道で栄えているというのは、そう見えるだけかもしれない。西日本の縄文遺跡から耳目を集める発見が少なかったり、弥生遺跡に研究が偏っているのかもしれず、即断できない。
それにしても雪の多く寒い土地で縄文人はどのように耐えていたのかは気になるところだ。

筆者の想像ではむしろ積雪によって「引き籠もり」時間が多くなったことが、土偶などの非実用生産を発達させ、冬季用の保存食技術も進歩した可能性がある。
上にも述べたように、三内丸山で復元されている大型建物はこの籠もり施設だったのではなかろうか。小型住居に分散しているより暖房の燃料が少なく済み、コミュニケーションも取りやすい。ほかの縄文遺跡で類似の大型建物が見つからないのは単に建築技術上の問題で、三内丸山の技術が優れていたとも考えられる。

三内丸山大型住居内部 大型竪穴住居の内部。冬の間ここに籠もっていたのだろうか?

これは偶然かもしれないが、いずれも際立った芸術品と呼べる新潟の火焔土器、長野の土偶「縄文のヴィーナス」などは、冬に積雪に閉じこめられる地域の遺跡から見つかっている。外出の難しい冬に屋内で時間を過ごすことによって、縄文人は精神文化を深めていったとは考えられないだろうか?

新潟の火焔土器
新潟県馬高遺跡出土の火焔土器。屋内に籠もって冬を過ごす縄文人にとり、炎はどのような存在だったのか?

雪国での保存食について2点指摘しておきたい。

話が脱線するようだが、日本人が塩分を摂り過ぎる原因は、漬け物文化にあると思う。作物の採れない冬季をしのぐために、先人は塩を使って保存する方法を多用してきた。海に囲まれた日本では入手が容易な塩を保存手段に使うことが適していた。
漬け物に慣れた日本人の味覚が、現代でも塩気の多い食品を好むように仕向けているのではないだろうか。そしてこの伝統はすでに縄文時代から始まっているのではないか。

もう一点、多雪地では食品を雪の中に保存する方法が使える。冷蔵庫が普及した現在では必要性も薄れてしまったが、今でも実行している地域がある。方法は積雪がまとまり始めたタイミングで地面に食品を置き、雪で覆うだけである。地面のわずかな熱が雪の断熱効果で保温され、凍ることなく1~3度が保たれるために傷まず、かえって糖分が増えて野菜は美味しくなるともいう。この方法を縄文人は当然知っていただろう。
これらの点を考慮に入れると、多雪地という条件は縄文人にとってハンディキャップとも言い切れないようである。


【縄文社会の謎2】なぜ小規模社会だったのか?

三内丸山に限定することではないのだが、縄文時代の文明について想像することがある。
縄文時代は1万年の永きに渡っている。その間、少しでも暮らしやすい場所に人々が集まって大集団になっていく行動はなかったのだろうか

社会は総人口があっても人口密度が低い間は発明や革新は生まれにくく、集団規模が拡大すれば発達が加速する。世界の古代文明を見ても、川のほとりに人が集まることで文明と呼べる大きな社会が築かれている。

集団の人数が大きくなれば社会が階層分化し、支配者として「王」が生まれる。
階層が分かれると、職業としての兵士や官僚、職人が現れる。それぞれが専門分野に特化して技術を向上させることで、従来になかった文化が誕生するものだ。

規模の拡大した社会が自ずとこの方向に向かうのは、おそらく世界共通の原理だろう。人口200人と見積もられている三内丸山でも、埋葬の様子から幾らかの階層構造があったようである。

発見される遺跡を観察する限り、縄文時代は最後まで列島各地で小単位に人が分散していたかのようである。その要因は必要性に迫られず、少人数の集団のままで特に困らなかったからだと考えるのが順当であろう。
だが本当に困らなかったのだろうか。

縄文時代後期には遺跡の数が急減していることから、人口が減ったと推測されている。その時期は気候が寒冷化したことがわかっていて、食料に困ったのではないかと想像される。そのような困窮に陥って、集団の規模を増やして解決を求めようとする行動はなかったのだろうか。

人口が減ったのはおそらく確かだ。それでも縄文人は分散したままだったのだろうか。或いは小規模の集落を放棄して集まろうとしたが、遺跡として発見されるほどの「町」を作る時間がなかったのか、発見されていないだけなのか。

もし縄文人がどこかに大きな集団を形成し安定的に活動していたならば、朝鮮半島からの渡来人によって扉の開けられる弥生時代を待たずに、新しい文化が展開されていたのかもしれない。

◇この三内丸山遺跡は縄文時代を代表する遺跡であり、この一本記事で終了させず、今後も追加取材・掲載をしていきます。

三内丸山板状土偶
「さんまるライブラリー」に展示されている板状土偶。
高さ32cm。首で上下に分割され、離れた場所で発見された。分割されたことも離れて埋められていたことも意図的であり、全国に共通する縄文期の宗教観を示している。
(板状土偶とは一枚の板になっているもの。三内丸山では中空になった立体構造の土偶は見つかっていない)

■筆者の最新訪問時期:2012年10月


亀ヶ岡遺跡(青森):遮光器土偶を残した津軽の縄文遺跡

カテゴリー見出古代史

亀ヶ岡しゃこちゃん
遺跡地である「しゃこちゃん広場」に設置された遮光器土偶の拡大石像

名称亀ヶ岡石器時代遺跡
国指定史跡 遮光器土偶は重要文化財
所在地青森県つがる市木造亀ヶ岡
対象年代縄文時代晩期(紀元前1000年-紀元前300年)
交通機関       JR五能線木造駅より車20分
マイカー東北自動車道浪岡JCから津軽自動車道へ入り、五所川原北ICで下車してから20分15km 道が分かりにくい
しゃこちゃん広場に数台駐車可能
その他の基点五所川原市中心部から15km
青森市中心部から50km
弘前市中心部から40km
付帯施設1「縄文館(考古資料館)」しゃこちゃん広場から2km
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
付帯施設2「つがる市縄文住居展示資料館 カルコ」
亀ヶ岡遺跡から8km、木造駅近く
    ■開館時間:9:00-16:00
    ■休館日・月曜日
    ■入場料:大人200円
問合わせ縄文館 0173-45-3450
HPなし
縄文住居展示資料館カルコ 0173-42-6490
HP:http://www.city.tsugaru.aomori.jp/sisetu/00006.html

◆地名読み方
木造:きづくり 田小屋野:たごやの 七里長浜:しちりながはま 十三湊:じゅうさんみなと 三内丸山:さんないまるやま

亀ヶ岡遺跡地図

■概要


亀ヶ岡遺跡は遮光器(しゃこうき)土偶が出土したことで知られる、青森県津軽地方の縄文遺跡。
江戸時代から多数の土偶や土器類が掘り出され、高価値の「亀ヶ岡もの」として好事家のあいだで盛んに取引されたため出土品の相当数が散逸してしまった。

明治以降に学術的な調査で発見された遺物は盗掘を免れた一部ということになり、その中に明治20年発見の「遮光器土偶」も含まれていた。木製品などの有機物も水質地に没したことで腐敗が抑えられ多数発見されている。
ほかにも岩偶(がんぐう:石を削った土偶)、玉類、漆器、彩色土器、ガラス玉、秋田から入手したアスファルト塗装など優れた技術を窺わせる遺物が多数出土しているほか、近年には土壙墓群(どこうぼ:地面に掘った穴に埋葬した墓)や、炭化米も見つかっている。
東北地方の縄文晩期遺跡から出土する土器類はここ亀ヶ岡を標識として「亀ヶ岡式土器」と呼ばれる。

「亀ヶ岡」という地名は縄文土器の瓶(かめ)がよく見つかったことに由来する。
また「木造」(きづくり)の地名は広がる湿地帯に木を敷いて通行したためで、遺跡微高地の周囲は今も低湿地の水田が広がっている。

亀ヶ岡遠景 東から見た亀ヶ岡遺跡のある微高地

■見学詳細

亀ヶ岡遺跡の北200mに隣接して、国史跡・田小屋野貝塚も存在する。
通常、地図で表示される遺跡ポイントは掲載した冒頭写真の「しゃこちゃん広場」で、土偶のモニュメント、説明案内板、公衆トイレ、少数の駐車場が整備されている。実際の遺跡はその背後に広がる丘陵全体で、現在は大部分が民家や畑に利用されており、古代をイメージさせる雰囲気はほとんどない。

亀ヶ岡しゃこちゃん広場 しゃこちゃん広場。左に土偶の石像が見える。

詳細な発掘資料が残らなかったため、明治20年に遮光器土偶の出土した地点も「推定地点」と図に示されているだけである。
展示施設の縄文館へは集落間の細い道を案内標識に従って、東南方向へ2km行く。
遺跡見学のつもりで訪問すると肩透かしに遭う。縄文館も特にお奨めはしない。


■遮光器土偶の性格

亀ヶ岡遮光器土偶 しゃこちゃん広場の説明板より現品は東京国立博物館所蔵

高さは34.2cm。中空に焼かれ、もとはベンガラ(酸化鉄を含む石から採取する赤い顔料)で彩色されていたらしい。ゴーグルのような目元が北方イヌイット民族の道具で太陽光と積雪の反射光除けに使用する遮光器に似ていることから呼称がついた。東北地方で広くこのタイプの土偶が見つかっている中で、この亀ヶ岡のものが芸術性において傑出している。

・縄文人が本当に遮光器を使用していたかどうかはわからない。北海道アイヌに伝わっていないことから否定的に考えられている。
・特徴から、女性を表現していると見なされている。
片足なのは当初から。製作後に除去したとも言われる。このように体の一部を欠いた土偶は縄文土偶全般に見られ、表現意図は不明なのだが、縄文社会に共通した思想や宗教観のようなものがあったらしい。

・このような人型の土偶をどんな目的で製作したのかもはっきりとは分からない。もちろん実用品ではなく宗教的な用途と推定され、他遺跡の出土状況からは死者の埋葬時に一緒に埋めた例が見られる。
・ただしもし遺体の傍らで土に埋めたとしても、遺体はすっかり分解されるため検出されず、通常の発掘調査では土偶だけが発見される。最近の注意深い発掘では遺体痕跡の検出方法があるらしいが、実施しない調査も少なくないという。明治時代に発掘されたこの遮光器土偶の場合も埋葬に伴っていた可能性はあるが、今となっては確かめられない。
(東北に多い環状列石遺構が墓地だと確認される例が近年増えているのは、検出方法の進歩による)

※「遮光器土偶」は類似の土偶全般を指す一般名称なので、厳密には「亀ヶ岡の遮光器土偶」と呼んだほうがよい。



■縄文期における亀ヶ岡の重要性

遺跡の所在する屏風山丘陵は海抜16mの高さで、西へ4km行くと日本海に面する七里長浜という南北に長い浜、浜沿いに北へ15km行くと十三湊遺跡がある。
また東側はすぐに海抜1-2mの低地が南北に広がっている。

縄文時代晩期には西に日本海、東に長い入江があって、南から北に延びる半島地形だった。入江は波の穏やかな内湾として、交易の船(縄文時代は単純な丸木船)が着岸していただろう。この立地と地形が亀ヶ岡を拠点に育てたと言える。

縄文時代は遠方との文化交流が盛んで、その主たる交通手段は沿岸をたどる海のルートだったと考えられている。遠方との交易例として、沖縄の海に産するイモ貝で作った腕輪が北海道の縄文遺跡で見つかっている。

亀ヶ岡遺跡の北に位置し中世にアイヌ文化との交流窓口となった十三湊遺跡は鎌倉時代に設置され繁栄した場所だが、地形的に天然の良港という条件では縄文時代の亀ヶ岡も同じだったはずである。十三湊の地が交易拠点に定められたのは、すでに亀ヶ岡の入江が岩木山からの土砂により埋まって陸化していたからとも考えられる。

亀ヶ岡地形図2  縄文時代の入江地形想像図

これらの材料から、亀ヶ岡は縄文時代に日本海側を行き来したネットワークの中継地として機能し、特に本州島と北海道を結ぶ重要な拠点だったと想像できる。そして津軽平野の縄文人にとっても、中部地方や西日本の文化が入ってくる窓口になったはずである。

亀ヶ岡遺跡からは最近になって炭化米や籾殻まで発見されている。米を扱う時代は弥生時代と呼ぶのが慣例なので、縄文から弥生への移行期に入っていたと言える。青森では弥生時代前期に稲作を行っていた形跡がすでに津軽平野の砂沢遺跡などで見つかっていて、佐賀県菜畑遺跡を最古とする稲作開始から100-200年程度で稲作文化が到達したと推測されている。この早さも、日本海側ネットワークと亀ヶ岡の位置を考えれば納得できそうである。むしろ亀ヶ岡という窓口があったことで、青森の縄文文化は豊かに発達し、速やかに稲作を始めとする弥生文化へ移行できたと言えるかもしれない。


■亀ヶ岡の縄文遺跡としての価値

青森の縄文遺跡と言えば知名度も予算の投入額も、三内丸山遺跡が際立っている。
今回亀ヶ岡へ車で接近しても案内表示がほとんどなく、ナビがなければ訪問は難しかった。着いてみた「しゃこちゃん広場」は交通の休憩所という雰囲気に過ぎず、設置された説明板と石像模型が歴史愛好者には救いだった。
そんな不遇の亀ヶ岡遺跡も、本来は三内丸山遺跡に匹敵するほど豊かで重要な遺物を秘めていたのではなかろうか。

有史以来現在まで遺跡の上に人々が居住して調査も自由にならず、また「概要」に書いたように、長い期間に渡って盗掘を受け多数の出土品が失われてしまったことは返す返すも残念でならない。
(江戸時代には法規制がなかったらしく堂々と行われていたので、「盗掘」でないかもしれないのだが)
遮光器土偶の実物も東京国立博物館が所蔵し、青森県立郷土館にはレプリカ展示、現場の亀ヶ岡にはここに紹介している模型と写真だけというのも寂しい。

しかし残された出土品には遮光器土偶のほかにも漆塗り壷形土器、彩文皿形土器など、精巧で華麗な意匠を施したものも多数含まれている。近くの「縄文館」、木造駅近くの「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」、青森市の青森県立郷土館に収蔵・展示されていて、それらの技巧と芸術性の高さには驚くばかりだ。

亀ヶ岡遺跡は通常「集落遺跡」と分類されているが、遺跡エリアの狭さに比較して出土物の内容が豊かであること、散逸したものを含めれば数倍量が想定できることから、単なる集落でなく「祭祀遺跡」の性格も濃い。その祭祀は狭く見ても津軽地方全域、ことによると東北三県を総括するイベントだったのではなかろうか。
現在あまり日の当たらなくなっている亀ヶ岡遺跡であるが、縄文史を探究する上での重要性は高い。


◆隣接する田小屋野貝塚

田小屋野貝塚は以前から日本海側では珍しい縄文貝塚として知られていた。平成に入ってからの再調査で、縄文時代前期中頃の竪穴住居跡などが発見された。貝は淡水から汽水域に棲息する種類が中心で、当時は汽水域が広がっていたことが分かる。魚類や日本海側で座礁したと推測されるクジラの骨も見つかっている(座礁と推測するのは縄文時代の技術でクジラ漁は不可能と考えられるため)。


■近郊遺跡との関係と謎

亀ヶ岡の稼働していた縄文晩期(前1000年から)には、三内丸山(前3500-前2000年まで)の活動は終焉している。三内丸山では人口200人の共同体を成立させ、大型建造物を造る技術があった。その後亀ヶ岡時代が始まるまでの1000年以上、縄文人は同程度の、あるいはそれ以上の建造物を造らなかったのだろうか?造った遺跡が発見されていないだけなのか?

また亀ヶ岡のすぐ北に隣接する田小屋野貝塚は、三内丸山とほぼ同時期の貝塚であり、出土物からの推定で当時は多数の定住者がいても祭祀を行うような重要な場所ではなかったらしい。その後、亀ヶ岡が重要になる時期には、貝塚として使われていなかった。
人々はなぜ移動したのだろうか、生活様式が変わったのだろうか?海岸線はどの時期に変化したのだろうか?

上図のように、三内丸山遺跡は青森湾にほど近く、港を持った拠点だったと思われる。三内丸山の出土物からは遠方との交易が盛んに行われたことがはっきり分かり、最盛期には本州島と北海道が交流する中継地機能を一手に引き受けるほどだった可能性がある。その時期には逆に亀ヶ岡は港としての必要性も生じなかったはずである。

紀元前2000年に三内丸山の活動が終わってから、必要なはずの中継地はどこへ移ったのだろうか?亀ヶ岡が先述の想像通り後にその機能を請け負ったとしても、その間1000年の空白期間はどうなっていたのか?
未発見の遺跡が役目を担っていたのだろうか。
永く活用した拠点を放棄し、人々の移動した事情は何か。まだ隠れている重要な遺跡があるとしたらどこか。

青森・秋田・岩手の東北三県には重要な縄文遺跡が幾つもある。それらの前後関係を整理し、文化がどの方向に伝わってどう影響したかを推定することができれば、環境変化と文明の消長という、現代にも通じる問題が見えてくるはずである。

亀ヶ岡年表  


◆蛇足

遺跡の正式名称は「史跡亀ヶ岡石器時代遺跡」という。
考古館の事務員に尋ねてみたところ、この命名は「間違い」がそのまま使われているのだそうだ。
直さないのも不思議、冗談のようなハナシ。
念のため、亀ヶ岡遺跡は石器時代でなく、縄文時代の遺跡である。


■最新訪問時期:2012年10月




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