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濃尾平野(愛知/岐阜/三重)

カテゴリー見出地形地質

■濃尾平野(愛知/岐阜/三重):災害を繰り返す国内最大級の沖積平野

濃尾平野金華山から  
岐阜市・金華山から展望した濃尾平野の北半部。この日は霞んでで見えないが、伊勢湾まで40kmの平坦な地形が延びる。

■名称: (広い地域なので特定名称なし)
■冠 :  なし
■所在地  愛知県西部(尾張地方)、岐阜県南部(美濃地方)、三重県(北勢地方北東部)

■難読地名など
長良川:ながらがわ 揖斐川:いびがわ 木曽三川:きそさんせん
立田:たつた 八開:はちかい 七宝:しっぽう 
木曽岬町:きそさきちょう

◆目次

1 概要と前書き
2 濃尾平野の災害史・伊勢湾台風
3 第1問題:木曽三川はなぜ西へ集まるのか?
4 第2問題:濃尾平野が国内屈指の平坦地なのはなぜか?
5   「濃尾傾動運動」と堆積作用
6 地下水くみ上げによる地盤沈下
7 江戸時代の宝暦治水
8 文化としての輪中(わじゅう)
9 長良川河口堰に治水効果は期待できるか?
10  「養老古図」のミステリー
11 災害と隣り合わせで暮らす


濃尾平野地形図地名2  

■1 概要と前書き

ナガシマスパーランド(長島温泉)は、危険地帯にあることをご存じだろうか?
濃尾平野長島温泉
ナガシマスパーランドの目玉・ホワイトサイクロン。
この総合遊園地は木曽川と揖斐川の河口に挟まれた先端にあり、地面の海抜はマイナス1mで海面より低い。


「濃尾平野」は愛知・岐阜・三重の3県にまたがる広域の地形であり、気付きにくいが、この平野の西部ははわずかの起伏も含まない国内屈指の水平な地形となっている。

「地質百選」でもないこの平野を取り上げるのは、居住者であっても水平地形形成の原因となっている地殻変動を知らない人が大多数であることに若干の不安を覚えるからである。

サブタイトルに「災害を繰り返す~」と書いのは洪水・高潮といった水害を指している。
気象災害と言って間違いではないが、根本原因は地殻変動にあり、それに加えて近年の人為的要因が絡んでいる。

この地殻変動は大きく見れば伊勢湾から若狭湾に続く本州島のくびれ部を形成してきた動き、また3000mの山岳が集中している中部地方の膨らみにも関連していて、プレートテクトニクスや地質学の面からも興味深いものである。

ただし本稿ではそういった地質考察よりも、災害という人文の面を主に紹介したい。
また、本稿作製の過程で知った「養老古図」というミステリーも紹介し、真贋論争を考察しつつ古図に秘められた先人の意図を探ってみる。


■2 濃尾平野の災害史・伊勢湾台風


過去、濃尾平野では洪水が数え切れないほど繰り返されてきた。
長島町にある博物館「輪中の郷」では天文3年(1583)から昭和までの災害一覧表に80件ほどが羅列され、その大多数は「洪水」である。犠牲者数の不明な記録も多く、どれほど人命が失われたか分からない。
そのような土地柄で特有の産業も発達し、毎年のように氾濫を受けるところでは水田でなくレンコンなどを栽培していたという。
弥富市の特産品として金魚養殖があるのも、水溜まりとして残る低地を活用するために工夫された結果である。
濃尾平野弥富町の金魚

濃尾平野ではつい半世紀前にも伊勢湾台風で犠牲者5000人を出している。戦争を除けば台風では最大級の惨事だっただけに、その後は対策も取られてきた。
しかし根本原因である地殻の動きや自然の摂理については、学校でもほとんど教えられていないようだ。最近の居住者は理解できているのかどうかも疑問に思う。
災害予防としてはハザードマップをよく見て速やかに避難すれば、被害を小さくできる。しかしその都度避難しなければならない地域なのである。
また、河川や海岸の堤防が1箇所でも壊れれば広範囲が水浸しとなり、土地が海より低いために一度入った水はなかなか引いてくれない。なにせこの地域は広い範囲が海抜マイナス地帯、海面より低い土地に生活している。

そして宿命的にこの地域は危険であり、絶えず新しい措置を取っていかないと危険性は年々高まっていくことを以下で説明する。

※ナガシマスパーランドのために申し添えておくと、ここで言う災害は地震のような突発性でなくあらかじめ予見できる洪水なので、普段の訪問者は何も考えずに楽しんで構わないだろう。もし常駐するならば少なくとも知識を備えたほうがよい。

◇伊勢湾台風の被害

昭和34年(1959年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸した台風15号は時速65kmという速度で紀伊半島から東海地方・北陸地方を通過し、強風に満潮が重なって拡大された高潮は当時の海岸堤防を至るところで破壊し、広大な低湿地に洪水をもたらした。

死者行方不明者約5000人、経済的被害でも台風災害として現在に至るまで最大の被害となっている。

濃尾平野地形図洪水

降水や強風よりも高潮によって堤防が115箇所で破断し、すでに海面より低くなっていた土地に海水が満たされ、河川の逆流も加わって浸水面積は310平方キロ、台風の通過後も海抜の低い土地では水を抜くのにまずポンプを設置する必要があり、排水が終わるまで数ヶ月を要した。

濃尾平野伊勢湾台風記念館前の展示から
伊勢湾台風記念館の前に展示されている当時の写真と台風進路。右の2枚は破壊された堤防。

この台風による浸水は河川氾濫や津波ではなく、強風による高潮である。気圧の低さによる吸い上げ効果に加えて運悪く満潮に重なったため、海水面が風で巻き上げられ、高さ5mを越える波となって堤防を越えたのである。
この波は地震の津波のように数回で終わらず、延々と繰り返された。当時の海岸堤防は3m程度しかなく、楽に乗り越えてしまっただけでなく、波の運動エネルギーで多くのコンクリート堤防が破壊された。

(三陸の災害以来、津波の恐ろしさは認識が広がったが、台風襲来時にはこの高潮による浸水が懸念される)

この地域で歴史上繰り返された災害の大多数は河川氾濫であって伊勢湾台風の高潮とは直接原因が別であるが、土地が低いことによる水害としては同類である。

では、なぜ土地が広い面積に渡って海より低いのか?海抜マイナスならば、昔から海になっているはずではないのか?
この点を以下の2つの問いから考えてみる。

■3 第1問題:木曽三川(きそさんせん)はなぜ西へ集まるのか?


この地域では、木曽川・長良川・揖斐川をまとめて木曽三川と呼んでいる。
いずれも国内有数の大河であり、寄り添った3本がまるで養老山地にぶつかるまで西へと招き寄せられているように見える。
冒頭の地形図でも一目瞭然だが、集まることを不思議に思っていない人が多い。
ちなみに名古屋市はこの三川より東に離れていて、市の東半分は丘陵地、西半分が三川に続く低地になっている。

濃尾平野は広いのに、わざわざ集まっているのはなぜか?

実は近寄って流れるだけでなく、かつては図のように網の目状となり個別に呼び分けることもできない形状になっていた。この姿は天然のデルタ(=三角州)地形そのものである。
濃尾平野宝暦当時の図 18世紀の濃尾平野下流域の図。これでもある程度に工事がなされた姿。

3本の川は1本ずつが川幅200mにもなる大型の川で、近世以前には合流と分岐をしばしば繰り返していた。そのたびに災害となり、流路を変更し土地を消したり作ったりするため、現在では合流しないように仕切りの堤防が施され、必要に応じて溢れそうな水を移動させる水門も設置されている。


■4 第2問題:濃尾平野が国内屈指の平坦地なのはなぜか?

濃尾平野GEより1

国内に広い平野はいくつもあるが、起伏のない完全に平坦な土地というのは、この濃尾平野と北海道・石狩平野が双璧と思われる(関東平野は面積が広いが起伏に富んでいる)。
冒頭に岐阜市・金華山(信長が稲葉山城を築いた山)からの展望写真を載せたが、もっと見通しの良い日には伊勢湾も写るはずだった。
金華山は濃尾平野の北端で、その付近からは「美濃地方」となり、山地に続く。
やや南にある海抜7mの愛知県一宮市や岐阜県大垣市から南を見た場合、河口までの30kmは小さな丘すらなく完全に水平な土地が続いている。左右(東西)の広がりは乏しいが、もし人工物がなければ十分に地平線が見えるはずである。

☆地形形成の原則 : 「水平な土地は水が溜まったときに作られる」(湖のように長期間溜まる場合のほか、氾濫によって一時的に滞留することを繰り返せば広く形成される)。水の動きが遅いほど水平度は高まり、川のような速度では、水平にならない。

■5 第1問第2問の答 「濃尾傾動運動」と堆積作用

3本の川が西へ寄っているのは、地面が傾くような地殻変動が濃尾平野から愛知県全域にかけて続いているからである。

愛知県地域は東(三河高地)が隆起し、西(濃尾平野)は沈降し、沈降する土地は土砂の堆積で水平な地形が保たれる。
地図からも明瞭なこの地殻変動を「濃尾傾動運動」と呼び、少なくとも100万年続いている。

この動きによって、名古屋市では東部に丘陵が広がり「山の手」とも呼ばれ、西部から木曽三川までは起伏のない平坦な土地が一面に広がっている。名古屋が隆起と沈降の境になっているのである。

沈降の動きはボーリング調査で確かめられ、下図のように濃尾平野の地層は西へいくほど新しい層が厚くなっている。
西隣の養老山地が逆に隆起していること、愛知県東部の三河高地は木曽山脈と一体となった隆起をしていることも分かっている。

濃尾平野断面図グーアース
沈降速度は2mm/年 100万年で2000m、2000年で4m
熱田層から計算すると1.7mm (「地学のガイド三重県」
から)

数十万年のあいだ濃尾平野は沈み続け、西隣の養老山地は逆に隆起しつつある。沈降が続いて海面より低くなるはずの土地は、河川の運ぶ土砂によって海岸から順次「埋め立て」が行われ、デルタ地形を経て沖積平野が作られる。

この時もし沈降の動きが勝れば内陸まで海が進入して湾や入り江となるが、濃尾平野では川の堆積作用が勝っているため海岸線を海に向かって拡大していった。

濃尾平野の水平な土地は沈降を続ける地殻変動と、土砂を運んでくる川の堆積作用が造り出したものである。

ただし、伊勢湾という長い湾が存在することは、沖合で堆積よりも沈降が勝っていることを示している。濃尾平野はもともと長く入り込んでいた伊勢湾の奧が埋まったものと見なすこともできる


なお地殻変動とは具体的には地震であり、この時地面が数十㎝から数メートル沈降(場所によって隆起)する。
海岸線は数百年に一度の頻度で起きる地震によって内陸側へ移動し、数年ごとに繰り返す河川氾濫でまた徐々に海側へ戻していく。この相反する動きがせめぎ合っているのであって、どちらの作用が強いかによって、平野が消滅するか、拡大するかが決まる。
濃尾平野を始め、日本列島では最近の3000年間、平野が拡大しつつあった(過去形なのは土木工事で自然の作用が止められているため)。

また、日本列島では1万年前に氷期が終わり温暖化が急速に進んだ時期に山岳からの土砂運搬が急増したといわれる。
ところがその時期は縄文海進と重なって海面が数メートル高かったため海岸は山地からの斜面がそのまま海に没する地形が多く、供給される土砂も新しい陸地を作るには至らなかったと推定される。
むしろその後幾分寒冷化し海が引いた時期になって、海底になだらかに溜まっていた堆積が陸化し、平野の大部分はこれ以降に形成されている。

◇少し以前からの地形形成史(全国および世界共通)

・1万8000年前(最終氷期)はもっとも寒冷だった時期にあたり、海面は地球全体で100~140mも低く、伊勢湾や三河湾、世界中の大陸棚は陸地だった。
・その後7000~6000年前をピークとする温暖化で海が上昇し、波浪浸食によって海岸付近の凹凸が消され、4000年前ころからの小寒冷期では海が引き、平坦な海岸地形が残された
・大きな川の下流部では土砂が運ばれ、デルタの状態を経て平野が拡大していった(ナイルデルタ、ドナウデルタ、ミシシッピデルタなど)。


◇少し難しそうな地質のハナシ

・広域の地殻変動を見れば(地下構造の詳細はいまだ不明)、愛知県東部の山地(三河高地)は木曽山脈へと続き、木曽山脈を隆起させた力が及んでいるようである。
・三河高地の傾動原因は木曽山脈を隆起させる力の一部、矢作川や猿投断層が示す北東ー南西方向線に直交する北西ー南東の圧縮力が第一と考えられる。
・平野の西部と伊勢湾が沈降していくのを圧縮力だけで説明するのは無理があり、2000万年前からの本州形成史から考える必要がありそうである。

◇名古屋の地形と歴史の関係

隆起と沈降の境に大都市・名古屋が位置していることには必然性があったように思う。
すなわち古代において、安全に居住するには高過ぎない丘陵地、人数を養うには稲作に有利な低湿地、遠方と交流するには良好な港が必要で、熱田神宮は海への玄関である半島に位置していた。尾張と美濃地方がヤマトに少なからぬ影響を与えてきたのは食糧生産地として重要だったからだろう。また名古屋城は低湿地を前にした熱田神宮へと延びる堅固な地盤に築かれている。大阪でも同様の事情があった。



◇[参考]過去の大地震と濃尾平野の変動

◇天平地震(天平17年=745年)4月27日に美濃地方を震源として起きた推定M7~8の地震。

◇天正大地震(天正13年=1585年)11月29日(1586/01/18)に起きたM7.9-8.1の断層型地震。
参考:http://danso.env.nagoya-u.ac.jp/jsafr/AFRtop.html

◇濃尾地震(明治24年=1891年)10月28日に奧美濃を震源として起きたM8.2、内陸型(断層型)として歴史上最大の地震。
(濃尾地震で濃尾平野の養老断層が動いたとは確認されていない。しかしすぐ北の温見(あつみ)断層などが動いており、濃尾平野の北に連続する美濃地方が沈降して地形形成に影響を与えている)
(濃尾地震については近日中に「根尾谷断層と濃尾地震」として本ブログに取り上げる予定です)
参考:http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/chisitsu/neodani/docs/midoridansogainoshashin.html

・これらの大地震の他にも、その余震、小規模な地震は数多く記録されている。そのたびに平野部が沈降し、養老山地が隆起する動きが発生していると推測される。
なお沈降と隆起の量は平均2mm/年だが毎年少しずつ動くのではなく、地震が起きる一瞬(1分以内)のうちに数十㎝、時には数m動く。


■6 戦後の地下水汲み上げによる地盤沈下

昭和30年代から40年代、この地域では地盤沈下が大きな社会問題となった。
もっとも急激だった昭和46年(1971年)には年間で100mmも沈下したという。
地殻変動による沈下速度は1年に2mmなので、その50倍の速度で地面が下がったことになる。

観測が始まってからこれまで通算の沈下量は中間付近の場所で1.5m、最下流部のナガシマスパーランド付近では2m以上
伊勢湾台風に襲われた昭和34年はすでに地盤沈下が始まっていたが注目されていなかった。海抜はすでに海面以下だったところに伊勢湾台風が襲来し、大災害になってしまった。
地盤沈下が起きていなければ浸水面積はかなり狭かっただろうと言われている。

地盤沈下の原因は早くから指摘されていたが、対策が後手に回っていたのである。
地下水の汲み上げは高度成長期の工場立地とともに盛んに行われ、地下200mから300mの帯水層からポンプアップされていた。
一宮市などは繊維産業が栄えた場所で、工場用水として豊富な地下水に目を付けて利用したのである。
当初は地盤沈下を招くなどと想像できなかっただろう。

現在では規制によって、また繊維産業の衰退もあって人為的な沈下は止まったが、以前の状態に戻る、すなわち土地が再度上昇するなどということは起きない。海抜マイナスになった土地はマイナスのまま、地殻変動による沈下が従来通りに進行を続けている。

長期的な地殻変動によって目に見えない速度で沈下していた濃尾平野の動きは、この時期に人為的に加速してしまった。その一方で、天然では再度河川氾濫で嵩上げされるはずの広大な海抜マイナス地帯は、氾濫が人工的に防止されているために今後、海面より高くなることは永遠に期待できない。


◆長島温泉(ナガシマスパーランド)の泉源
天然ガスを求めたボーリング作業で温泉が湧出したのが1963年(昭和38年)。
新生代の地層が堆積し、ここから汲み上げている熱水は50-60度、火山性でなく地球内部の地熱による。地下水が高温を保っている理由は流れが少ないためだと言われている。
この場所は海抜がマイナス1m、定住者はいないようである。
なお、温泉を汲み上げているのは1500mという深さからなので、これによって地盤沈下を招くということはないらしい。



■7 江戸時代の河川改修「宝暦治水(ほうれきちすい)」

約260年前の宝暦4年(1754年)から翌年にかけて、江戸幕府はこの地域を河川氾濫から守るため3本の川が合流しないよう、堤防を強化する河川改修を薩摩藩に命じて行わせた。

遠方の薩摩藩に請け負わせた理由は、幕府に従順でない薩摩藩財政を消耗させようという政治的思惑による。そのために工事現場では多分に嫌がらせのような命令が下され、藩士は憤懣に耐えながら過酷な労働に従事したという。
爆発しかねない1000人の藩士をまとめ難工事を遂行した責任者の薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は事業の完成後、多くの犠牲者を出し、費用が超過した責任を取るとして薩摩に帰ることなく自害した。それに殉ずる藩士が数十名もいたという。
平田ほか犠牲となった薩摩藩士を祀る治水神社と事業を顕彰する記念碑が長良川と揖斐川に挟まれた海津市海津町油島に建てられている。また鹿児島市に平田の銅像が建っている。
(このエピソードはNHK「歴史ヒストリア」など、よく紹介されている)

多くの犠牲を伴った宝暦治水だったが、残念ながら江戸時代の技術では氾濫を防ぐにまだ不充分だった。堤防は明治に入ってオランダ人技師デ・レーケの指導で根本的な改修がなされ、ようやく洪水被害が解消されることになった。

濃尾平野平田

濃尾平野治水神社
平田靱負ら薩摩藩士を祀る治水神社

濃尾平野治水記念碑
治水記念碑


■8  文化としての輪中(わじゅう)

人々はこの土地で暮らするために、家屋を集めた集落を丸ごと堤で囲んで水から守る「輪中」という形態を考え出し、独特の分化が生まれることになった。
(現在では明治改修で洪水が激減したことにより輪中はほとんど撤廃されている)

濃尾平野輪中
博物館で展示されている模型。3つの家がそれぞれ輪中の堤で囲まれたものを、さらに共同して大きな堤を築いて水から守っている。このスタイルは江戸時代から採用されたもの。

◇災害と背中合わせでも住み続けた理由とは

危険地帯なのを知りながら人々が住み続けてきたのにはもっともな理由がある。
洪水の被害さえ回避できれば、農耕には有利だったからである。

江戸時代よりも以前、近世までこの一帯はデルタ地帯特有の網の目状に水の流れる地形であり、やや上流部で川に囲まれた多数の中州に人々は暮らしていた。そこでは一年中安定した水の供給があり渇水や干魃とは無縁の稲作が可能だった。夏はコメ、冬には菜種を栽培できたという。

水が不足しないだけでなく、河川氾濫を利用する農法は古代エジプトがナイル川の氾濫を恵みとしたの同じで、水が引いたあとには肥沃な土壌が置き土産となり、翌年にはコメの収穫が倍近くに増えたという。人々は洪水に対して恐れと期待を同時に抱いていたことだろう。
江戸幕府が改修を実施したのも人道的観点や薩摩藩への圧力という意図だけでなく、コメの収穫という経済的目的があってのことであろう。
さらに古代へ遡ってもこの尾張地方は米どころとしてヤマト政権の経済基盤を支える重要な地方だったことが解ってきている。危険に直面してでも利用し続ける価値があったわけだ。

人々の考え出した「輪中」は鎌倉時代から明治の改修まで長い間使われてきた。
輪中とは、集落全体を堤で囲み水の侵入を防ぐ仕組みであり、またそのような村落共同体を指す。
ひとつの堤に囲まれた集落は運命共同体となって団結が重視され、裏腹に近隣の輪中とは対抗心が生まれることにもなった。

明治の改修によって水害がほとんどなくなったことから輪中は次第に取り壊されていき、今では保存されている部分しか見ることができない。それでも昭和51年に安八町で堤防が決壊した時の洪水では、下流側の輪之内町は残っていた堤を利用して浸水を防いだということがあった。

濃尾平野輪中民家
輪中の名残を見せる、かさ上げした民家


■9 長良川河口堰に治水効果は期待できるか

濃尾平野河口堰
空撮による河口堰(中央やや下)。右上が上流、左下が河口。上流側の長い橋は国道1号線。河口堰の右下に「アクアプラザながら」が建つ。

1988年着工・1994年竣工・1995年運用開始となった長良川河口堰のニュースは当時、東海地方だけでなく全国から注目された。その多くが批判的な視点だったように感じられる。
建設主体は旧・水資源開発公団、運用しているのは2003年に小泉政権の特殊法人改革で“別組織”となった水資源機構である。新旧ふたつの組織は名称が変わっただけで中味は同じとも言われる。

濃尾平野最南部、三川のうち長良川の河口に造られた河口堰について、洪水防止も目的としている以上ざっと触れておきたい。
筆者は2回訪問し、一度はアクアプラザながらで個別に質問もした。

濃尾平野長良川河口堰
木曽三川下流部の拡大図。長良川と揖斐川は最後に合流して5kmほど先で海に注ぐ。

◇長良川河口堰建設に対する批判内容

・計画が当初に目的とした利水はすでに水需要が足りるようになり、必要性がなくなっている。(運用開始後現在までの20年間、深刻な水不足となって供給がなされたことはない。必然性はよく分からないが、水資源機構によると供給は随時行っていて「実績」と紹介されている)。
(※水資源機構では平成12年(2000年)夏の渇水期に長良川河口堰からの導水によって三重県中濃地域と知多半島地域の断水が避けられたとしている。これに対する反論もある)

・建設前に利水という目的が無意味になったことを指摘されてから目的を治水であると変更したことは、反対論を抑えるために人命を救う事業へ主張を転換したものである。

・長良川上流域における河川生態系への影響が正しく検証されていない。
などなど

よく話題になるアユやサツキマスの遡上など、生態系影響の問題は、本ブログのテーマとは外れるのでここでは深入りしない。
調べようと思っても両論が出回っていて、科学的に信頼できる実態がよく分からないということもある。

◇河口堰は治水(防災)に効果があるか


建設側の言うように河口堰によって海抜ゼロメートル地域でも安心して過ごせるようになったとすれば、それだけでも意義はあったことになるがどうだろうか。

利水に代わって第一目的とされた治水は、住民を苦しめてきた河川氾濫に対して、宝暦治水、明治改修に河口堰の効果も加算することでより強固な災害防止に役立てるということにあった。

流れを堰き止める構造物である河口堰がなぜ河川氾濫に効果があるのかは、直感的には分かりにくい。
むしろ導水門を開門していても水中の構造物に抵抗を受けるので流れは妨げられ、増水時には脇から堤防を越えて水が溢れてしまいそうに思える。

水資源機構によると、
1:河川氾濫を防ぐには、河川流路に溜まっていく土砂を取り除く浚渫が有効である。
2:単純に浚渫をして河床を低くすると海水が逆流して、給水に使えなくなる。
3:そこで海水の逆流を防ぐための堰を設ける。堰の上流側では浚渫を行ない、海底面と同じ深さまで川底を掘り下げる。掘り下げた分、ダムのように淡水を溜められる。

この仕組みで河口堰は海水の混じらない河川水を給水でき(利水)、増水した場合には開門して水をスムーズに海へ流す(洪水防止)。


さて、この建設側の理論を踏まえても、筆者は効果に疑問を感じている。

◇防災効果の疑問点

・河川氾濫を防ぐために浚渫が有効なのは確かである。(なぜなら人工的に造られた堤防によって、天然では適宜土砂をまき散らしていたはずの河川は逃げ場のない土砂を河床に溜めて天井川を各地に発生させてしまっている。天井川は河川氾濫の準備状態なのであり、解消するために溜まった土砂を浚渫工事で取り除くことが必要である)
(※天井川とは、川の流路に溜まった土砂によって川の水位が上がり、氾濫を防止するために堤防を嵩上げすることを繰り返した結果、川が周囲の地面より高い位置を流れるようになってしまったもの)

・しかし平成7年から9年にかけて行われた浚渫は、河口堰から上流25kmの大藪大橋までに過ぎない。それより上流での天井川の解消、氾濫防止効果は図られていない。

・昭和51年9月に岐阜県安八町で長良川の堤防が決壊し、洪水被害となった。しかしこの場所は長良川河口堰から30km上流であり、河口堰があったとしても防げない災害だった。この事例が示すように河口堰はずっと上流側のどこかで堤防が破れることには無関係である。濃尾平野全体から見れば最下流の地域を守るに過ぎない

・伊勢湾台風と同様の高潮が襲って防潮堤防が破断した場合、河口堰は無関係である。

・水資源公団の説明では海水の逆流を防ぐことに主眼が置かれ、長良川の増水時に水を素早く海へ出す仕組みは考えられていないし、不可能である堰という構造物が流水の抵抗となることで横の堤防を越えて内地に溢れるのではないかという疑問には、はっきりした説明がない。

・長良川の増水に対しては、堰でなくすでに数多く設置されている木曽川・揖斐川との調節水門で融通するほうが期待できる。

・過去の数え切れない洪水災害は河川の堤防が決壊するか乗り越えて水が溢れたものであって、基本的に河口に位置する河口堰はそういった上流側での洪水に対して防止効果を発揮するものではない

・ついでながら目的のひとつに挙げられている給水という機能についても、河口堰でダムのような「溜め水」にしなくても長良川のような大河は常に安定して流れているのだから小規模な設備で導水させることが可能に思える。

これらの疑問が「アクアプラザながら」での直接質問によっても解消されなかったため、筆者はこの国費1500億円をかけた構造物はメリットより無駄のほうが多いと今でも感じている。

■10 「養老古図」のミステリー 

◇「養老古図」とは何か
 
濃尾平野養老古図と地形図   左は博物館に展示されている「玉井神社伝承・養老古図」。右は現在の地形図

養老古図とは奈良時代の養老年間(717-723)に作製されたとされる濃尾平野の地図である。
そんな古い時代に描かれた地図が現在まで伝わっているとしたらそれだけでも驚かされる。

筆者が初めて目にしたのは長島町の「輪中の郷」での展示だった。
この図面は最近インターネット上で話題になり、真作だ、いや偽作だと議論が飛び交っているらしい。

1000年以上経ちオリジナルは残ってなく、筆写されたものが幾通りかのバリエーションとなって猿投(さなげ)神社、玉井神社など複数の神社が伝承している。

◇何がミステリーなのか

注目を集める理由は、上図のように現在では想像できないほど内陸まで海が進入し、津島や熱田など限られた微高地が島として描かれていることである。大垣市なども完全に水没、名古屋市さえ90%が海、知多半島は形状を保っている。また瀬戸市などは地名の通り、港となりそうな地形にある。
現在の海抜5mラインを描けば概ねこの図のようになるだろう。

問題なのは描かれたとされる1300年前の養老年間から現在まで、この図のごとくに濃尾平野が海に没したことは一度もないはずなのだ。
なぜこのような図が描け、伝わったのか?本当に8世紀に作図されたのか?

◇津島市は島だったのか

「養老古図」でポツンとした島に描かれている津島は現在全域が海抜0mから-1mで、丘のような盛り上がりもなく、かつて地名の示すように島だったとは想像しにくい。
ただ津島駅の西1kmには牛頭天王信仰で有名な津島神社があり、欽明天皇の御代に創建されたと伝えているので、事実ならば6世紀である。もしここが「島」と呼ばれていたとしたなら、輪中のように神社を中心とした領域が堤で囲まれていた可能性がある。

その一方、津島市の北に隣接する愛西市には奥津社古墳という3世紀末の古墳が残っている。小規模な円墳で径25m、高さ3.3m。この場所は海抜0mである。この程度の小古墳が海に囲まれることがあれば、高さ3.3mの土盛りは波浪浸食で短期間に消えているはずなので、この古墳が古図に描かれるように水没したことは3世紀以後一度もないと考えられる。

◇熱田神宮の立地

現在は海岸から離れている熱田神宮はヤマトタケル伝承や三種の神器「草薙の剣」など、伝説の舞台となるほど古くから由緒ある神社だった。その立地は南北に延びた半島の先端にあって海に囲まれ、江戸時代まで熱田と桑名を結ぶ「七里の渡し」があった。熱田に関しての描き方は納得できる。

◇偽作説の根拠

1 このように海が広がったことは歴史時代で一度もない。海として描かれている場所に古墳が残っていることも証拠である。
2 描かれている地名には養老年間に存在しなかった地名があり、後世の創作であることを示す。
3 1300年も前に作製された図面が正確に伝わることはあり得ない。


(注:海が広がったという問題ではよく知られている6000年前の縄文海進の時期に、現在より4m程度は海面が高くなり平野の大部分が水没していたことは事実である。それでも海岸線はこれほど内陸まで入っていなかったと思われる)

以上の疑問点により、地理学会などでは江戸時代以後の偽作と断定し真面目に取り上げることはないのだという。

しかしすべての研究者が否定しているのかというと、そうでもない。
まだ論文発表を準備している段階だというある研究者は一定の信憑性を認め、偽作として葬ってしまうべきでないと語ってくれた。
その人の根拠の細かい部分はまだ発表前なのでここには書かないが、以下ではそれを踏まえた上での筆者の推論を述べさせていただく。

◆「養老古図」が真正であるとする推論

◇図面作製の意図とは

・養老年間になかった地名が記載されているという偽作説の主張は、偽作の証拠にはならない。なぜならこの図の場合では、新しい時代の地名を意識して加筆することは後述するように充分あり得るからである。常識では原本に忠実なコピーが当然であるが、この絵図では特別な事情があったために敢えて加筆を行ったとも推測できる。

・その事情とは、この図面が作成された目的は「地図を作製する」ことでなく、「水害の危険性を知らせる」ことにあったと想像できるからである。そのために、その時点の民衆が知っている地名や避難目標となる建造物などを記載する必要があったのだとすれば筋が通る。

・また記載されている内陸深くまで及んでいる海は、海ではなく「(河川氾濫などで)一時的に水没した状態」ではないだろうか。
その姿は一時的に災害を被った状態、それも過去にさかのぼって水没したことのある土地を水に覆われた状態に描き「危険地帯」として示したものだろう。つまりに対する備えを注意喚起する目的だったと思われる。

◇8世紀の時代背景

・実は濃尾平野は『日本書紀』にも記載のある、朝廷へ米を献納する有力な穀倉地帯だった。これに加えて先述したように、上手く氾濫を利用すれば大きな収穫が得られることから、政府としてもこの有利さを活用したいという思惑が働いていただろう。

・養老年間は、天武天皇の後を受けた持統天皇、藤原不比等を中心に律令体制の整備が進められていった時期である。
6年ごとに調査される戸籍の作成、資格のある農民に土地を与える班田収授法などが始まっていた。また土地を区切る条里制が定まり、新田開発が広まっていった。

・この社会背景から、養老年間に濃尾平野でも水田と水害への研究が深まったことは大いにあり得る。

・701年(大宝元年)発布施行された大宝律令と718年(養老2年)に発布された養老律令は一連の改革の柱となるもので、大宝令では治水制度が定められている。またこのあと、木曽川として初めての河川改修が行われたとも言う(詳細は記録が残っていない)。
これらの事業の前には地形調査が必ずなされたはずである。

・図面は細部まで正確とは言えないが、大まかな地形をよく反映している。この図を作るためには、広い濃尾平野に対して偽作を目的とした少人数による行為では難しいはずであり、役所が人数を割き最先端の技術で作製にあたったものと想像できる。その制作者は災害を怖れ、過去に水害に襲われた伝承のある土地を水面下に描くことで、危険性を強調したものと思われる。

「養老古図」は河川改修に先立つ測量によって作図されたものが基になっているのではないだろうか。住民にとって安全な暮らしに重要な図面であるために多数作成され、有力な神社に伝承されたとすれば説明が通る。

◇「養老古図」の再発見を

このように考えると図面がいたずらな創作だとは思われない。
もし創作だとしたらどのような人物が何の意図で作製し、なぜ多く筆写されて寺社に残るのか。この図が広まって利益を得る者はいるだろうか。河童のミイラを制作するような技術誇示の愉快犯にしては作品が単純過ぎる。

筆者は8世紀に生きた先人が後世への教訓として書き記した遺産だと考えたい。偽作であると誤解されるのは図面のみが残って、作製の意図や経緯といった但し書きの伴わなかったことが一番の原因だろう。

現代では大規模な土木工事によって災害の危険性は薄れた。しかし昔の人々は台風や大雨のたびに怯えていたことは想像に難くない。養老年間はコメを生産するために水害への挑戦が本格化した時期ではなかったのか。

このブログ記事を書こうと思い立ったのも、海抜マイナス地帯に暮らしていることの危険性を注意喚起することにあった。
私たちの暮らしは遙かに安全になっているとは言え、予想を超える災害は必ずやってくるものであり、現代技術をもってしても被害を防げない場合がある。
本記事を書き始める時点では存在を知らなかった「養老古図」は古の先人たちが作製したものだと思われ、その作製意図は筆者が本記事を書いた動機と違わないような気がする。
「古図」が真正の物であると断定はまだできないが、否定論の人たちも今一度真贋を考察し、この図に込められた価値をぜひ考え直してほしいものだ。


■11 災害と隣り合わせで暮らす

濃尾平野は地面が沈降を続けていて、海より低くなった土地には河川氾濫が土砂をまき散らして陸地を造成し、それが伊勢湾に向かって進行することで水平な土地が拡張されてきたことを述べた。

永く続いてきたこの営みは明治以後の土木工事によって氾濫が制約されたため陸地造成が止まり、止められない沈降によって500年に1mのペースで今後も土地は下がり続ける。

海より低くなるほどに危険性は増すのだが、対策は場当たりなものに留まっている。
堤防で水を止めるには限度がある。
将来的にどうするか、本当の安心を得るための議論はまだなされていないようだ。

下流域の堤防道路を歩いて左右を眺めると、木曽川の水面より低い位置に地面があり、人家が建っていることが分かる。このような「天井川」はそれ自体が危険な光景なのに、すでに全国に数多くいまさら驚かない。
河口堰から見下ろす  
「アクアプラザながら」の展望台から見下ろした河口方面。長良川より低い位置に居住域が広がる。

水害に対してはまず逃げることが有効なのは間違いない。
木曽三川の氾濫危険地域では、県や市町村が作製したハザードマップで津波や浸水を多目に見積もり、予想図と避難場所を図示している。居住者はそれを普段から目にすることで被害を少なく抑えられるだろう。

ここでは濃尾平野の問題として取り上げたが、同じ問題は全国にあふれている。
2011年に津波を受けた三陸海岸も同じだ。
肉眼で水平に見える場所は水が溢れることによって形成された地形なのであり、天然の状態では大雨の降る度に水が堤防を越えたり破ったりして溢れ出す。

縄文時代には土木工事ができなかったために人々はそのような低地を避けて居住し、或いは被災し、弥生時代になると鉄器を使って人海戦術で堤防の強化、大きな河川改修を行ってきた。危険な低湿地にこだわる理由は稲作を行うためだったろう。コメ作りこそ命の糧、社会の根本であるという事情は今日でも変わらない。

古代から人の生活には水の恵みと恐怖が同居してきた。特に日本では雨が多く、それを利用して豊かな森林、稲田と共に固有の文化を育み、頻発する災害も宿命のように付きまとってきた。

現代人が手にした土木技術は正しく使われているのだろうか。自然の摂理を甘く見てはいないだろうか。地球の活動や大地の動きを理解できているのだろうか。

まずは自然現象を予測し、正面から受け止めるという驕った考えは捨て、先人の遺してくれた教訓をよく学ぶことに努めたい。科学的知見にも人工的手段にも限界があり、災害対策はいまだ十分でないのだ。

■最新訪問時期:2014年5月

■参考図書および資料、サイト、博物館の紹介

『地学のガイド三重県』コロナ社
『新版日本の自然3』岩波書店
『川のなんでも小事典』村本嘉雄その他著 講談社ブルーバックス

http://www.waju.jp/img/6/ikkoikki.pdf
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/rice/noubi/index.html

◇三重県桑名市長島町「輪中の郷」
http://www.waju.jp/
長島町の歴史・文化・産業を紹介する複合施設。輪中の文化に詳しい。
月曜・年末年始休み、09:30-16:45、入場は16:00まで、310円

濃尾平野輪中の郷

◇愛知県弥富市 歴史民俗資料館
http://www.city.yatomi.lg.jp/kurashi/1000296/1000301/1000303.html
弥富市の歴史を紹介する施設。
月曜・火曜・年末年始休み、09:00-16:30、無料

濃尾平野弥富町民俗資料館

◇「アクアプラザながら」

独立行政法人・水資源機構による長良川河口堰のPR施設兼資料館
三重県桑名市長島町 長良川河口堰に隣接
開館時間9:30-16:30 年末年始休館 無料

濃尾平野アクアプラザ
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宝永山(静岡):[富士山シリーズ2]富士山でもっとも新しい噴火

カテゴリー見出地形地質

宝永山代表
愛鷹山から見た初冬の富士山と宝永火口・宝永山


ーもくじー
◆基本情報(表)
■見学詳細 付帯施設 難読地名など
■宝永山の概要
■富士山の側火山分布
■宝永噴火の概要
◇注意事項:「火山灰」は細かな砂
■宝永山と火口を観察する
◇火口を埋めているもの
◇小石の色と「赤富士」
◇山体崩壊の壁面
■宝永火口の東西で、なぜ地形が違うのか?
◇地下にはどんな地形が隠れているのか
◆NHK番組「富士山・絶景の秘密」での説
◆御殿場口五合目にはなぜ植物が少ないのか
◆[付録]植生観察:地を這うカラマツ
■宝永噴火とこれからの富士山噴火



名称       
宝永山:ほうえいさん
(富士山として)
国指定特別名勝 富士箱根伊豆国立公園 世界遺産選定予定 
活火山指定 地質百選 百名山
所在地 静岡県御殿場市中畑


交通機関              
・JR新富士駅から富士急行バス2時間10分終点「新五合目」下車
・JR新三島駅から富士急行バス2時間5分終点「新五合目」下車
※混雑時間を含まず
マイカー・東名高速道路裾野ICから1時間10分 など
・新五合目駐車場500台無料
・夏期はマイカー規制あり、富士山スカイラインの水ヶ塚駐車場に駐車(有料)、新五合目までシャトルバスまたはタクシー利用となる。駐車1000円+バス往復1300円(2012年)
・2013年は7月12日から9月1日まで52日間を規制予定
・新五合目までの登山区間は11月下旬から4月下旬まで冬期通行止め。
・御殿場ー富士宮の富士山スカイラインは通年利用可能(冬期は積雪・凍結用装備必須)
・規制期間以外でも混雑あり、路上駐車厳禁
問合わせ◇道路状況について
[静岡県富士土木事務所]
0545-65-2237
[静岡県・富士山スカイライン交通情報]
http://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-840/skylinedourojyouhou.html

■見学詳細
※登山者・観光客の急増により、シーズンの道路混雑が激しいことに注意
※2013年夏からバス、マイカーともに富士山入山料の試験導入が計画されている

・宝永山・宝永火口を見学するには富士山スカイライン新五合目(標高2400m)からの往復となる。
・徒歩片道1時間 宝永山頂上までは加算50分、上り下り多い。
・登山道なので縁の高い歩きやすい靴が必要。宝永山頂上までは砂に深く潜るため、スパッツ使用を推奨
・途中に山小屋「六合目雲海荘」「宝永山荘」が期間営業している。
・トイレは有料チップ制

・宝永山頂上付近でガスに巻かれると迷う。
・気象変化が激しく落石の危険もある。標高は2500mあり登山領域であることに十分留意すること。
・第二・第三火口には表富士周遊道路・水ヶ塚の近くから延びる登山道があるが、展望の利かない樹林帯のため迷いやすい。第一火口からの往復が無難。

※宝永山は東南斜面にあるため、富士登山でもっとも利用者の多い中央自動車道・富士山スバルライン・吉田口登山道からはまったく見えない。

■付帯施設

新五合目に売店・食堂あり 
富士山の静岡県側で地質面を紹介する良い施設は見あたらない。

◇難読地名など
御殿場:ごてんば 裾野:すその 西湖:さいこ 精進湖:しょうじこ 
北鑵子山:きたかんすやま 大室山:おおむろやま 片蓋山:かたぶたやま 愛鷹山:あしたかやま

側火山:そくかざん 小御岳:こみたけ 貞観噴火:じょうがんふんか 溶岩原:ようがんげん 

宝永山Googleearth

■宝永山の概要


宝永山は江戸時代の1707年、富士山中腹から噴火したことにより火口の側壁が突き出した地形。独立した火山ではなく富士火山の一部とみなされる。

富士山では北西から南東のラインに沿って多くの火口が並び、これらを地学用語で「側火山」と呼ぶ。側火山それぞれの活動はいずれも一回の噴火で終わっている。
100を数える側火山の中でもっとも新しく大きいのが宝永火口であり、爆発の勢いで捲れ上がった部分が火口縁を形成し見る角度によって山の形になる場所が宝永山と呼ばれている。頂上地形の実際はほぼ水平な尾根で、末端にある2693mの最高地点を山頂としている。

宝永火口は上から第一、第二、第三と3つが並び、噴火の順番は形状から第二、第三、第一だったとされている。
第一火口がもっとも大きく、火口直径約1200m、火口底の標高は2420mで宝永山頂上と270mの高度差がある。先に噴火していた第二・第三火口は第一火口からの噴出物によってかなり埋められ、爆発時の形が分かりにくい。
なお第二・第三火口の右に隣接する窪地状の地形は火口ではない(後述)。

この記事では散策の容易な第一火口に注目する。


■富士山の側火山分布
 宝永山側火山分布
主な側火山分布図。側火山の数は数え方によって70から100まで幅がある。この図のように北西から南東のライン上に集まっているとされてきたが、最近になって北東(富士吉田側)にも存在すると言われ始めた。

小御岳火山・古富士火山・新富士火山という3段階の成長史を経てきた富士山は1万年前頃にはほぼ現在の姿になっていた。山頂からの噴火活動は約3000年前までに終わり、その後は側火山での活動に移る。
9世紀の貞観噴火では西北の長尾山から大規模に流れた溶岩によって「せの海」という大きな湖が西湖精進湖に分断され、また広がった溶岩原が青木ヶ原となった。
その後宝永噴火までの約800年間は記録があいまいになるが、伝承や地形に残っている側火山の様子から、数回の小規模な噴火があったと推定されている。
宝永噴火から現在までの300年間に噴火と呼べる活動はないが、山頂付近に「荒巻」と呼ばれる高温の蒸気を噴き出す場所があり、昭和中期まで続いていたという。頂上にその痕跡が残っている。

■宝永噴火の概要
(ここでは大まかな紹介に留める。詳細はWikipediaなどを参照)

・1707(宝永4年)年10月、東海地方の沖でM8.6(8.7とも言う)の宝永地震が発生、倒壊や津波で大きな被害が出た。この地震が富士山の噴火に影響したことは確実視されている。
・この地震の後、富士山付近では群発地震が続き、次第に大きくなった。
・翌11月23日(旧暦)、大きな地震に続いて噴火が始まり、黒煙を噴き上げ周辺地域に軽石を降らせた。飛来した軽石は落下後も高温のガスを噴き出しつつ火事を発生させた。
・最初数日間の噴火が激しく、その後しばらく落ち着き、再び活発化して赤い固まり(火山弾)の噴出が観察された後、16日後の12月8日に終了した。
・溶岩は流れていない。噴火様式としては火山灰や軽石を大量に噴出するタイプで、「プリニー式噴火」と分類される。

・江戸には最初は灰色の火山灰、その後黒い火山灰が降り、2~3cmほど積もった。
・富士山麓の御殿場では噴火位置に近いうえに風下に当たり、大量の降下物によって多くの集落が壊滅的被害を受けた。
・噴火の収まった後も積もった火山灰が降雨によって泥流となり、度々の洪水被害をもたらした。
・多数出たはずの犠牲者数は記録されていない。


◇注意事項:「火山灰」は細かな砂

私たちが普通にイメージする「灰」は、紙や枯葉が燃え尽きて残る灰白色でサラサラのものではないだろうか。
これに対して「火山灰」は、ザラザラした「粒の細かい砂」と言うべきもので、実は成分もまったく異なっている。

地質学では粒の大きさによって呼び方が定義されていて、火山灰は2mm以下の粒子を指し、2mmから64mmまでを「火山礫(れき)」とする。
1~2mmの粒は一般の感覚では「砂」のはずだが「灰」と扱い、2mm以上になると6㎝の小石までが一括して「火山礫」と称される(下で述べるスコリアも火山礫)。この分類呼称が地質学・火山学で標準とされ、専門家が一般向きに説明するときにも使われている。
地質学のうち「堆積学」という分野ではこの火山灰の積もったものを3つに細分し、大きい順に「火山砂」「火山シルト」「火山粘土」と呼び分けることがあり、むしろこの呼称のほうが一般向きに適しているように思えるのだが、普及していない。

火山の本で「火山灰」と書かれているものは、サラサラの白い灰でなくザラザラの細かい砂であることを承知しておいてほしい。

宝永山・桜島の火山灰 鹿児島・桜島の道路に積もった火山灰。一般の感覚では砂に見えるが、これが典型的な「火山灰」


■宝永山と火口を観察する
宝永山登山道1 左奧が宝永山の山頂、右に降りると第一火口がある。山頂から下山する途中に撮影。中央に登山者。

◇火口を埋めているもの


・宝永山の山頂付近は弧を描き水平に続く痩せ尾根に過ぎない。弧の形から、最大の噴火中心は現在の火口内で一番窪んでいる位置よりも富士山山頂寄りだったことが推定できる。今は落下物の斜面に隠れている。
・火口側の斜面角度は約28度。一方、富士山頂上方向から火口底へ向かう急斜面は上部を除いて、約33度の斜度で直線的になっている。これは安息角という、崩落物が積もってできた斜面の角度である。
実際の火口底を覆っているのはほとんどが斜面と同じく、細かい砂礫と1~2mの岩で、中間サイズが少ない。これは細かいものが噴火で噴き出したもの、大きいものは以前から地中にあって上部から転がってきたものと、出自が2系統だからだろう。
画像にはないが火山弾など空中で溶岩の固まった岩も分布するというのは、噴火の最後に赤熱したものが飛んでいたという目撃情報と一致する。

◇小石の色と「赤富士」


宝永山火口底 第一火口の中心部

この写真で地面を覆っている小石は赤く、大きな岩は灰色をしている。

これら指先程度の小石をスコリアと呼び、富士山では細かい火山灰や溶岩とも重なり合って山全体に層を成している。
宝永噴火のように斜面がえぐれると層構造が露出し、断面から色々なタイプの石や岩が崩れ落ちてくる。
灰色の岩は噴火前から固まっていた溶岩である。空中に舞い上がることのなかった大きな岩があとになって順次砕けつつ落下してきたものであろう。その供給源は上部に見えている岩脈と思われる(後述)。

宝永火口の岩と人

さて、細かいスコリアが赤いのは熱いうちに鉄分が酸化したからで、大きな岩が赤くないのはひとつには酸素の届かない地中で冷え固まったからである。もうひとつの理由はこの岩に鉄分が少ないためと推測する。
同じ火山でも赤いスコリアと黒いスコリアが両方見られることは普通であり、よく酸化したものは赤く、不充分なものは黒くなる。この分かれる要因は幾つもあり、温度、鉄の含有率、降り積もる早さによって左右されると思われる。富士山のスコリアすべてが赤いわけではない。

宝永山スコリア丘 第一火口の凹地

この写真で中央に盛り上がっているのは、「スコリア丘」と呼ばれる地形で、このすぐ脇でスコリアを噴き上げる噴火があったことを示す。形が整っていないのは、そのあとの爆発で壊されたからと考えられ、これが宝永噴火の一番最後の噴火だったと思われる。すぐ右で平坦に見えている部分は最後に残った窪地がしばらくの間池になり、細かい砂礫に埋められたものだろう。

下の写真のように火口壁の地層断面では赤い部分と黒や灰色の部分とが層になっている。
宝永噴火のように数日間にまとまった噴出物があった場合は次々と積もっていくので、空気に触れている時間が短く、酸化はあまり進まない。
赤い地層はもう少し時間をかけながら積もっていったものと考えられる。同種のスコリアを吹き上げながらも数週間や数ヶ月をかけて噴火していれば、表面から赤く酸化し、その上へまた降り積もって赤くなることを繰り返し、赤い層が厚みを増すことになる。
しかし全国の火山でもそのような赤く分厚いスコリア層は少なく、そのタイプの噴火は余りないようである。十分に高熱であっても酸化は進むが、その場合は互いにくっついてしまう(溶結)ので、細かいスコリアはあまり生成されない。

スコリア丘の写真でも黒っぽい線のように見える丘の断面は赤くない。このスコリア丘の表層だけが特に赤くなっているようである。

もう一点、赤いのが鉄分の酸化であるからには、マグマに鉄の豊富な火山は、赤くなりやすいはずである。
現在の日本列島では富士山と伊豆諸島だけが玄武岩マグマで活動していて、これはもともとマグネシウムの多いマグマである。一方大部分の火山では安山岩マグマという、鉄やマグネシウムを喪失した灰色の岩が支配的となっている。

浮世絵に描かれた「赤富士」は朝日に染まった様子と言われるが、朝夕でなくても、富士山は国内で特異的に赤いのである。

◇崩壊の壁面


火口壁の上部では山体崩壊した様が明瞭である。上部の急斜面には崩れかけた噴出物地層の断面と、屏風のように立ったギザギザしたものが見られ、これが岩脈である。高い場所で5mはありそうな脈が多数走っている。方向は写真の手前から奧に向かい、斜面の最大傾斜線に沿い、つまり側火山の配列する方向に延びている。
火口底に転がっている2mを越すような岩はここから崩れてきたものであろう。

宝永火口の岩脈

岩脈とは地中で通り道を充填したマグマがそのまま固まったもので、軟らかい回りが崩れ落ちたことで浮き彫りのように姿を現した。
活動中の火山でマグマがどこを通っているのか、通常はほとんど分からない。ここではその通路をマグマ自体が化石として残してくれたのである。岩脈自体は国内でさほど珍しいものではないが、これだけ多数が露出しているのは滅多になく、注目されても良いはずなのに何故か一般に紹介されることがない。

そのマグマはもう少し勢いがあれば地表に噴き出し、溶岩を流したはずだった。
その噴火寸前だったのがどの時期なのかは、地層の重なった時期から推定できるはずである。岩脈は液体として流れてきたものなので、当然地層の重なりより後に上ってきている。地層を形成したのは1万年前以後の新富士火山と呼ばれる時期になるので、それより新しい。
なおかつ、宝永噴火にはすでに固まっていたことになるので、頂上からの噴火が続いていた1万年ー5000年前ころの可能性が高く、下で触れる三島溶岩流の発生源かもしれない。

これがいつ固結したのか調べれば、山頂噴火の終焉と側火山の活発化の関係を知る好材料となるだろう。

なおこの岩脈への道はなく落石の危険が高いので、接近しようと踏み込んではならない。

■宝永火口の東西で、なぜ地形が違うのか?

火口の東には斜面から突きだした宝永山があるが、新五合目に向かう西側にはそのような出っ張りがない。なぜ非対称になったのだろう?
 
(以下筆者の推定)
火山の爆発が真上でなく斜面に応じて傾くことはありそうだが、富士山のようにきれいな円錐形の山で左右に傾くことは不自然である。

ここでもし、斜面が不均質に盛り上がっていたり、へこんでいたり、大きな岩体が乗っていたら非対称な地形ができることもありそうに思える。
この宝永火口が非対称になっていることを説明する文献を筆者は発見できなかった。ヒントになりそうな材料が幾つかあっただけなので、そこから勝手に想像するしかない。

この記事の最初のほうで、ほぼ定説になっていることとして「爆発の勢いで捲れ上がった部分が火口縁を形成したもの」と書いた。この東側だけが捲れ上がった事実に鍵がありそうだ。

「捲れ上がる」のはバラバラでないひと固まりがあったということで、それが噴火の勢いで横になっていた姿勢から立ち上がった、ということだ。
そのようなまとまった固まりを作るのは、溶岩しかあり得ない。この高さで溶岩が流れたとすれば、8000年前までの山頂付近から流れた「旧期溶岩」であり、1万4000年前(1万年前とも8500年前とも)とされる有名な「三島溶岩流」が残されている。
(三島溶岩流については、本ブログ「猿橋溶岩」でも触れている)

宝永山三島溶岩流

その後の山頂からの活動は溶岩でなく軽石や火山灰を降らせる活動に変わり、溶岩流を覆い隠している。
三島溶岩流の正確な噴出位置は分かっていないが、流れた位置は判明していて、山頂付近から愛鷹山(あしたかやま)の東山麓を回って三島市街へ届き、楽寿園などにその姿を残している。
ちょど宝永山の位置を通過しているはずなのである。
その溶岩が斜面で固まり、その上を後のスコリアや火山灰が覆って隠したまま数千年が過ぎ、宝永噴火で動かされたのではなかろうか。

宝永山の頂上は、先端が急に切れ落ちている。この崖を観察すれば溶岩の固まりが見えるかもしれない。それが三島溶岩と一致すれば、この仮説は信憑性を増す。
筆者はまだここに接近したことがなく、これ以上のことは書けないのが残念である。書籍によれば専門家の間でもこの崖に「古富士火山の噴出物が露出している可能性」が言われている。
(「フィールドガイド日本の火山」1998)

◇地下にはどんな地形が隠れているのか


冒頭の代表写真を拡大して下に示した。
第三火口の右にある特徴的な地形はなぜできたのだろうか?窪んでいても誰もここが火口だとは言っていない。

3つある宝永火口のうち、最上部で大きく開いている第一火口は原型を残し理解しやすい。
注意しなければならないのは第二・第三火口で、自らの噴火が終わった後第一火口からの噴出物で分厚く覆われてしまったために、爆発時の形状が解りにくくなっている。

(以下筆者推定)
尾根の形がはっきり浮き立っている盛り上がりは、右側斜面が急角度になっていることから、スコリア層の下に固い板状の岩盤が傾いて隠れているような気がしている。宝永山から一体として続いていた岩が、第三火口の噴火で捲れ上がったのではないだろうか。そして宝永山と繋がっていた少し上の部分はそれより先に第二火口での噴火によって吹き飛ばされたのではないか。

地形観察から噴火順序が第二・第三・第一だったとされている。残された文書記録からは、どの火口からの噴火が激しかったのかは分からない。現在の地形は第一火口が非常に大きくなっているが、第二や第三も激しい爆発を起こして当初は数倍規模の窪地を作っていたという可能性は否定できない。

現在の地形は最後の第一火口から大量のスコリアや岩が降り積り、崩れ落ちてきて定まったものなので、隠された地下の様子を正しく想像することは噴火の実態を知る大事な鍵となる。
右の盛り上がりの左下で狭い谷のようになっている部分などは、地形が安定した後、水が流れて作られた谷だろう。
また地形図やGooglEearth画像からは第二火口・第三火口とも東側の半分を埋められてしまったように見えるが、はっきりとは分からない。

この複雑な地形形成をうまく説明できれば三島溶岩流説の正否もはっきりしそうだ。
今後の課題にしておきたい。
宝永山拡大写真記入付

宝永山25000地形図



◆NHK番組「富士山・絶景の秘密」での説

この番組内で、1万5000年前に活動を終えた古富士火山が宝永山付近にあったという説が紹介されていた。
従来の考え方は、古富士火山も現在の新富士火山と同じ位置に中心があり、新富士火山の噴出物がちょうどすっぽりと古富士火山を覆っているというものだった。

もしこの新説が正しければ、宝永噴火で捲れ上がったのは古富士火山表面の一部で、1万5000年以上前にその頂上火口から流していた溶岩流だということになる。
しかしこの説には幾つか疑問がある。

一番の疑問は、火山体の成長である。
宝永山と新富士火山の中心である現在の頂上火口とは、水平距離で2500m離れている。仮説に従って2500mずれた位置で新富士火山が誕生したとすれば山の中腹斜度から考えて標高1800m前後から成長を始めなければならず、現在見る山を形成するために膨大な噴出が必要とされ、活動の始まったとされる1万3000年前(この数値は早めに考えての値)以後の期間にそれが果たして可能なのか疑問である。

ここで新富士火山が成長する「期間」は、1万3000年もない。三島溶岩流は早くて1万4000年、遅く見て8500年前に流下しているから、その噴出口はそれまでに宝永山付近に残っていた古富士火山を十分に上回っていなければ古富士火山に遮られて溶岩が三島へ届かないはずである。すると「期間」はほとんどゼロか、1万3000から8500を引いた、わずか4500年間になってしまう。その時間で約2000m高くなることがあり得るのだろうか。
宝永山断面図
  もし宝永山付近に古富士火山があったと仮定すると、その後成長した新富士火山はその山体の大部分を4500年以内で作ったことになるので、現実的でないように思われる。

テレビ番組では詳しい説明がなく断定できないが、古富士火山が宝永山付近にあったとする仮説はにわかには受け容れ難い。


◆御殿場口五合目はなぜ植物が少ないのか
御殿場口登山道
御殿場口五合目の上部から山頂方向を見る。左寄りが宝永山。道のように見えているのは資材運搬用のブルドーザー道。地面に手前から奧へ筋ができているのは大雨の流水が作ったものであろう。

時間があれば御殿場口五合目にも寄ってみるとよい。
ここには広い駐車場があるのにあまり訪問者はなく、観光施設も乏しい。かつてはスキー場があって、閉鎖後もしばらくリフトの支柱が残されていた。広い斜面では雪解けによる泥流災害を起こしたことがある。

新五合目が標高2400mで森林限界なのに対して、御殿場口は標高1400mしかないのに樹木が生えず展望が開けている。これは宝永噴火で枯死したからである。300年が経過してもほとんど回復していない。

広い緩斜面を宝永噴火によるスコリアが埋めているために、頂上への登山道は「砂走り」となって、登りには苦労する。筆者はここから4回ほど登山した。
ここでは「富士登山駅伝」が毎年行われ下りを転びながら走るランナーの姿がテレビ中継されたり、また荒涼とした風景を利用してロケもよく行われる。
黒澤明の『乱』では再現した城を炎上させ、仲代達也演じる気のふれた殿様の彷徨う場面が撮影された。

◆[付録]植生観察:地を這うカラマツ
宝永山のカラマツ

新五合目と宝永火口を結ぶ登山道の途中に、高さ1m程度で横に成長しているカラマツ群が分布している。もちろん高山植物の「ハイマツ」とは違い、秋に黄色に染まったのち落葉するカラマツである。
まっすぐ上に延びるはずのカラマツが這うようになったのは冬の強風のせいである。同じようなカラマツは日本アルプスなど高い山でよく見かける。分類上は別種にならないようであるが、この株を普通の山地へ移植したら真上へ延びるようになるのか、実験してみたいものだ。


■宝永噴火とこれからの富士山噴火

最近は自然災害に関心が向いた影響で、富士山の噴火までがあれこれと取り沙汰されている。
しかし残念ながら多くのメディアに載っている記事は耳目を惹かんがためにセンセーショナルな表現に傾くばかりで、科学的視点を欠いている。
以下に、冷静に直視した事実を箇条書きにしてみる。

・富士山はまだ活動中であり、将来必ず噴火する。
・いつ噴火するのか、数年も前から予測することは現在の技術ではできない。

・現在の観測システムは万全であり、噴火の前に前兆現象を捉えられる。
・噴火の予報は早ければ数ヶ月前から、接近すれば数日前に警報を出すことができる。

・山頂から噴火する可能性は低い。宝永山のような側火山が予想される。
・宝永噴火で大地震の直後に噴火が起きたといって、次回の噴火前に地震があるとは言えない。また地震があれば噴火するとも言えない。この関係はほとんど未解明である。

・避難体制が整備されていれば、落ち着いて避難する時間は十分確保できる。
・予報が出ても半分程度は外れると考えておく。半分は当たる。外れても非難するべきではない。


宝永噴火は噴火史の中で規模の大きなものだった。これより小規模な噴火であればかなりの対処ができるだろう。
もし不幸にして宝永噴火と同規模の噴火が起きれば、大混乱は避けられない。混乱を防ぐ体制を予め用意しておくことはコスト的に困難で、被害数兆円に上ったとしても諦めたほうがよい。
人命を救うことは十分可能である。財産被害、経済被害は軽減できれば幸い、日本に住んでいる以上仕方がないと受け容れるべきである。

宝永噴火は、現在の私たちが噴火に備える非常に良い教材となっている。先人の犠牲の上に遺された教訓を十分に生かし、私たちはこの国土と付き合っていかなければならない。

■最新訪問時期
2011年9月

■参考図書:
「フィールドガイド日本の火山 関東・甲信越の火山Ⅱ」(築地書館1998年)
「新版地学教育シリーズ2 地震と火山」東海大学出版会
「富士火山1707年噴火(宝永噴火)についての最近の研究成果」宮地直道・小山真人
http://www.yies.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P339-348.pdf
など

◇本ブログ関連記事
「富士山シリーズ・猿橋溶岩」


天橋立(京都):天下の名勝はなぜ変わったのか

カテゴリー見出地形地質

天橋立代表
文殊側・天橋立ビューランドから

ーもくじー
・基本情報(表)
・天橋立の概要
・難読地名など
・見学詳細
・地形地質の概要
・天橋立の詳しい現況
・一般的に砂嘴の形成される仕組み
・各地の砂州
・天橋立付近の長期にわたる海岸の変遷
・天橋立はどのように形成されたか
・砂州の縮小問題
・磯清水の不思議
・クロマツの分布
・古代史舞台としての宮津
・現在と将来の天橋立


名称天橋立:あまのはしだて
国指定特別名勝 丹後天橋立大江山国定公園(2007年に若狭湾国定公園から独立) 地質百選 白砂青松百選 日本の道百選
「磯清水」は名水百選
所在地京都府宮津市文珠/江尻
交通機関      [文殊]
北近畿タンゴ鉄道宮津線・天橋立駅下車、天橋立へ渡る小天橋まで300m
[江尻]
バス停「神社前」または「江尻」から天橋立入口まで約500m
マイカー(文殊側、江尻側共通)
有料駐車場多数あり500-1000円、400台収容の智恩寺駐車場は600円
・無料駐車場なし
問合わせ[天橋立観光協会]
0772-22-8030
http://www.amanohashidate.jp/
[天橋立ビューランド]
0772-22-5304
http://www.viewland.jp/


天橋立代表地形図連結

■天橋立の概要

天橋立は海流によって運ばれた砂が厚く堆積し細長く延びた半島を形成した地形で、砂嘴と呼ばれる。
5000本とも8000本ともいう松林と砂浜による白砂青松の景観が松島、宮島と並ぶ日本三景のひとつに数えられ、古くから和歌や絵画の題材にされてきた。
結ばれた土地を指すとき、南側を文殊、北側は江尻、あるいは府中と呼ぶ。
晩年の雪舟の筆になる「天橋立図」は宮津湾を挟んだ東側から眺めた図で、永く籠神社が伝え、のち京都国立博物館が所蔵している。

■難読地名など
宮津:みやづ 与謝野町:よさのちょう 江尻:えじり 文殊:もんじゅ 阿蘇海:あそかい
世屋川:せやがわ 畑川:はたけかわ
智恩寺:ちおんじ 成相寺:なりあいじ 籠神社:このじんじゃ 
蛭子山:えびすやま 久美浜:くみはま 三方湖:みかたこ 気山川:きやまがわ
◇用語
砂嘴:さし 砂州:さす 釈日本紀:しゃくにほんぎ 堆砂堤:たいさてい
柳ヶ瀬断層:やながせだんそう 甲楽城断層:かぶらぎだんそう 三方断層:みかただんそう 


■見学詳細


・天橋立は入場自由、125cc以下の2輪を除く車両通行止、遊歩道あり
天橋立江尻側入口 江尻側の入口

・全長3.6km、休憩所・トイレあり
・横断距離は2.5km
・文殊側に2本の橋があり、回旋橋の「小天橋」は船舶通行時に待たされる。
天橋立廻船橋
「小天橋」:橋が90度回転して船を通し歩行者は待つことになる。観光用に演出効果を意図しているという

・観光客は文殊側に多く、江尻側では籠神社参拝客が多い。
→距離があるため全体を歩く観光客は少ない。文殊側から天橋立公園付近(約700m)まで往復する人が多い。

・もっとも一般的な見学方法は文殊側(南)でモノレールまたはリフトを利用して「天橋立ビューランド」に上がり、股覗き展望台から眺めること。
→天橋立駅から徒歩300m、モノレールとリフトは並んで運行し同料金。基本850円、HPに割引クーポンあり。観光案内所に割引券あり。
・ビューランドは営業時間のみ入場可能(そのため早朝・夜間の写真撮影などは不可)
天橋立股のぞき ビューランドの股のぞき

・江尻側では天橋立ケーブルカーまたはリフトで笠松公園から眺められる。
・両側を結ぶ観光船の運航あり。


■地形地質の概要

天橋立は若狭湾の西部、宮津湾に北から南へ発達した砂嘴と呼ばれる地形。
地形用語の「砂州」とも呼べる。砂州は砂嘴のうち、よく発達して内湾を形成しているものを指し、天橋立は該当する。
従来から言われている成因は、花崗岩の石英粒子を運んできた野田川からの流れが湾の中で反対から流れてくる沿岸流にぶつかり両者の砂が海底に堆積し、海面の低下したことで陸地となったとする。これに疑問が出されている(後述)。
天橋立地形図海流 天橋立へ向かう海流と、砂を供給する主要河川

■天橋立の詳しい現況

・北砂州と南砂州を合わせて天橋立と称する。
・阿蘇海は汽水。
・南砂州は江戸時代後期に出現し、明治にかけて発達した。新田開発で野田川からの土砂が増加した影響と言われている(異論もあり)。
・クロマツの枯れ死が増えている。マツクイムシの被害が拡大していることが主因と疑われ、処置の結果小康状態にあるという。

・内湾側の阿蘇海は水深が12m、外湾の宮津湾は20mある。天橋立は海抜1mで、海底からは約20mの盛り上がりである。

・北砂州は長さ2500m、幅は平均60m。高さ1.4m。10cmから30cm大の礫。、
・北砂州の南寄りでは徐々に幅が広がり、150m。礫も細かくなり、高さは0.5mまで下がる。
・南砂州は長さ900m、高さ0.4mほど。陸地とは30mの人口水路で隔てられている。
 天橋立南部拡大
天橋立の文殊側(南)拡大図。二つの橋が架かっている個所で、阿蘇海と宮津湾の水が出入りしている。南砂州の西側は人口の水路



◆一般的に砂嘴の形成される仕組み


水に巻き上げられ運ばれてきた砂は、流れが遅くなるにつれて重い粒から底へ沈殿していく。
天橋立では西南方向から野田川が陸地の砂を運び込み、また北方向から丹後半島を回り込んだ沿岸流が世屋川畑川のもたらした砂を運ぶ。この両者は正面からぶつかり、流れが減速するために砂が水底に沈殿し堆積していく。砂嘴が形成され始めると流れはそこで常に減速するようになり、さらに成長していく。

(砂は水が上下方向に渦の動きを続けている時に運ばれる。渦の上下動は、流れが表面付近では速く、水底付近では摩擦によって遅いために起きる。渦の上下動は幾層にもなり、水深が浅く流速が速いほど激しくなる)

そうした沈殿物が陸地になるためには、更に条件が要る。
海水の動きは表面に近いほど速いため、軟らかい堆積がゆっくり上昇してくれば海面近くになって削られる。弱い堆積層が続く限りいつまでも陸地にならず、遠浅の海ができる。砂嘴として成長するためには、堆積層が表層流の侵食作用に優越する必要がある。

天橋立の場合、ひとつには海面下に堆積の盛り上がりがあったところに海面の急速な低下が進んだため、侵食されるより早く波の届かない陸地になったと考えられる。それ以上の要因として注目されているのは、侵食されるはずの時期に、堆積の急激な進行があったらしいことが分かってきた(後述)。

◆各地の砂州

◇鳥取県弓ヶ浜
天橋立弓ヶ浜
弓ヶ浜は全長17kmになる大規模な砂嘴で、海抜は4mに過ぎないが堆積している土砂の量はかなり多い。その供給源は標高1700mの大山であり、数万年にわたって大山火山の崩壊した土砂が弓ヶ浜に打ち寄せられてきた。最近300年ではこれに砂鉄採取のため人為的に山を崩す「鉄穴(かんな)流し」が拍車を掛け、また大正以降は逆に浜が痩せてきている。

◇北海道野付半島 (砂嘴であり、砂州とは呼べない)
天橋立野付半島
砂嘴の長さは26km、根室海峡を北東から流れてくる海流によって運ばれた砂が堆積し、いったん海に向かって成長したものが内湾側へ大きく曲がる「鈎状砂嘴」となり、それが何段階にも連続した「複合鈎状砂嘴」になっている。野付湾内で枝のように派生している部分はかつての最先端で、それを残して新たに東へ成長を繰り返している。


■天橋立付近の長期にわたる海岸の変遷

◇地殻変動


・若狭湾周辺では地殻変動による長期的な陸地の上下動と、気候変動による短期的な海面変動が重なって起きている。
・若狭湾の東は柳ヶ瀬断層と甲楽城断層、西は山田断層があって、若狭湾の沈降地帯を囲っている。
・若狭湾全体では長期的に沈降し、リアス式海岸となっている。美浜や小浜では逆に隆起による海成段丘が分布している。
・これらの長期的地殻変動は数十万年単位の動きであり、1万年以内の天橋立形成に直接関係しない。

◇1万年以内の変遷

・1万8000年前をピークとする寒冷期には海面が100m以上下がり、若狭湾全体が陸地だった。
天橋立水深100m線 現在の水深100m線。縄文時代より前、少なくともこの位置までは陸地だった。水深140mとする考え方もある。

・その後6000年前をピークとする縄文海進までに海面は急速に上昇し現在より4mほど高くなり、海岸沿いの平地を水没させた。若狭湾に注ぐ川は多くが内陸に向かって深い入り江となった。
・天橋立はこの時期水没していた計算になり、水面下で堆積が進行しつつあったと考えられる。

・入り江は山から運ばれた土砂によって徐々に埋められていき、河口では干潟を形成した。
・河口に向かって進行する土砂堆積はダム建設の始まる近代まで続いていた。(野田川河口から8kmの蛭子山古墳の存在は、5世紀に阿蘇海からの入り江があって船が乗り付けていたことを想像させる)
・2000年前ころ、成長した天橋立が宮津湾と阿蘇海を隔ててからは、阿蘇海に注ぎ込んだ野田川が急速に流れを弱めるようになり、河口で三角州の成長が続いた。運搬されてきた土砂は三角州を広げることに使われ、阿蘇海の先にある天橋立まで土砂は届かなくなったと思われる。
(与謝野町役場付近などはこのころに陸地となった)

・雪舟が「天橋立図」を描いた16世紀初頭には、現在より短かった。
天橋立雪舟画


■天橋立はどのように形成されたか

◇従来の説明
・縄文海進のまだ始まらない約8000年前までは阿蘇海と宮津湾・栗田湾など、現在リアス海岸になっている若狭湾の大部分は陸地だった(上図)。
・その後縄文海進による急速な海面上昇で宮津湾と阿蘇海はひとつの湾を形成した。この時、海底に水中砂州が形成された。
・3000年前の寒冷期に海が後退したことで、海底にあった砂州が江尻から陸化した。
・有史以後、砂州はゆっくりと南へ延びていった。
・江戸時代から明治以後に南砂州が形成された。これは土地開発の増加で河川への土砂流れ込みが増加したことによる。

◇上の一般的説明への疑問
・武田一郎(2007):砂州は陸化した砂嘴が延びてできるものなので、水中にあったものが海面低下で出現するのは不自然。
・植村善博(2010):海面低下した3000年前からの寒冷期に砂礫供給が増加したはずである。近世後期の新田開発によっても砂礫供給は増加し、南砂州を形成したと思われる。


■有井広幸氏の説
◇要旨
・2200年前に発生した地震によって、世屋川中流域松尾付近に地滑りが発生し、その土砂が宮津湾へ流入して海底に溜まった。これがその後沿岸流によってゆっくりと供給され、砂州が成長するもととなった。
阿蘇海の汽水化は2200年前に急速に進んでいる。これが傍証と言える。

・天橋立を構成している砂は阿蘇海へ注ぐ河川でなく、宮津湾へ注いでいる河川からのものである(河口の堆積地形から)。
・江戸時代後半からの新田開発は表土を流出させるものではなかった。


有井氏の考え方は世屋川の地形にも整合し、かなり当を得ているように感じる。
通常地形形成を語ろうとすると日々進行する恒常的な作用に原因を求めがちであるが、一回の地震という突発的な事件に着目したのは慧眼と呼ぶべきだろう。
ただし不充分な点も残っている。


■砂州の縮小問題


天橋立では砂州が痩せていく現象が昭和初期から問題となり、昭和26年に堆砂堤(突堤)が設置された。これが遠くから眺めた様子から「天の串刺し」と揶揄されるように、景観を台無しにしている。
昭和61年からは砂を補うために「サンドバイパス」という砂を海流に乗せる手法も行われている。
縮小する原因は形成された原因と逆になるはずである。形成事情がいまだ判明していないままでは、試行錯誤している段階である。
対策が効果を上げているかどうかは、掲載した写真の通りである。

上に紹介した有井氏の論文でも、やせ細りの原因をはっきり指摘していない。
文意からは溜まっていた海底の土砂が2000年で少なくなったからとも類推できそうだが、明確に述べていない。Wikipediaなどではこの論文から「海流の変化」が原因と解釈しているが、具体的にどう海流が変化したのかには触れていないし、地形図を眺めても、大正・昭和に入ってから海流を変化させる原因として何が起きたのか見当がつかない。

痩せていくのは天橋立の宮津湾側
である。そこへ砂を運搬してきたのは丹後半島に沿って流れる沿岸流で、砂の主な供給元は有井氏論文にあるように世屋川・畑川だろう。
その川の上流に大型ダムはないが砂防堰堤が設置されているので、従来はこれが河川の土砂運搬量を減少させ、砂浜を細らせている原因であると、全国共通の問題にされてきた。
この堰堤の影響は小さいのだろうか。調べていないが堰堤建設時期は、砂州の退行が始まった大正から昭和初期に合致するのではなかろうか。

ポイントを整理しておく
・砂州の成長は2200年前の地震による砂の供給によるので、この供給が減ったことが関係しているかもしれない。
・「海流が変化した」という主張は具体的なイメージが不明なので、判断できない。
・川の上流に砂防堰堤が建設されたことも、やはり関係しているのではないか。


要するに砂州が縮小する原因は不明である。
現在採られている対策の有効性も怪しい。


■磯清水の不思議

天橋立磯清水
 井戸として使われてきた磯清水。今はポンプで水を汲み上げ、賞味できるようになっている。

「磯清水」は地下60cmから120cmの地下水で、砂州全般にわたって存在しクロマツを育てているとされる。海に囲まれているのに淡水で飲むこともできる。環境省認定名水百選。
もともと湧出していたのではなく井戸で汲み上げていた。現在はポンプを設置して、細い水を出している。渇水期で量は減っても涸れることはないという。

なぜ淡水があるのか、これまで十分な説明はなされていない。以下に勝手な推論を書いてみる。

・地表の砂層の下には、水を通しにくい粘土層があるものと推定できる。その上に水が滞留しているのであろう。
・陸地になる前は、宮津湾側と阿蘇海側からの両方の砂が混合して堆積していた。
・3000年ほど前、最初に半島状の陸地となった部分から、宮津湾側と阿蘇海側とでは別個に堆積するようになった。内湾である阿蘇海の側は水流が弱くなって粒子のごく細かい泥が堆積するようになり、粘土として不透水層となった。
・粘土層ができたあとで海面の上昇によって透水性の砂の層が表面を覆った。
・再び海面が下降し、砂層が陸地となり粘土層は表面から見えなくなった。

天橋立磯清水図解 天橋立の想像断面図。
阿蘇海側と宮津湾側では異なる堆積層になっているはずである。水を蓄えるためには粘土層が必ず存在する


帯水層ができるためにはこの図のように粘土層が凹地になっている必要がある。何度か海面が上昇下降する間に粘土層の一部が浸食される、あるいは陸化した時に水が流れて表面を浸食する、その後宮津湾側で砂層が新たに形成されるなど、複雑な経緯をたどっているように思われる。
正確な構造は数ヶ所でボーリング調査を行わないと判明しないだろう。

磯清水位置図 磯清水の位置 砂州の阿蘇海寄りにある


■クロマツの分布

◇不可解な報道

2013年4月、京都府立大学高原教授が土壌堆積物に含まれる花粉の分析からクロマツは3000年前から継続して存在しているという調査結果を発表した。
実は2月に同じ高原教授がほぼ同じ調査を行い、同じような報道がなされていた。
京都新聞サイトを見る限り、「続報」という形を採っていない上に、ふたつの報道で高原教授の述べたとされる説が矛盾していて、混乱させられた。

どちらもボーリング調査に基づき、クロマツが3000年前から途絶えることなく生育していることが解ったとしているのだが、人との関わりの部分が違う。

2月には白砂青松の景観が人の下草刈りによって縄文時代から維持されてきたと、高原教授が推論していように書かれていた。
4月には江尻地区(天橋立の付け根)でのボーリング調査の結果として、教授は「もし3000年前に天橋立があったなら、クロマツが分布していたと考えられる」というものだ。こちらでは人の関わりを考慮していない。
いったいこの報道はどうなっているのか。

一般にクロマツは直射光を必要とする陽樹のため、いずれ陰樹というタイプの樹木に置き換わるのが普通であり、植生遷移と言う。しかし人が下草を刈ったり枯葉の除去などをすれば陰樹に必要な土壌が形成されず遷移は進まなくなる。
4月にボーリング調査した江尻において、3000年間遷移が進まなかったというのが、4月の高原教授が出した調査結果だろう。こうも述べている「大波で枯葉などが取り除かれた可能性がある」

2月には遷移が進行しない理由を高原教授は人の関与だと、報道では伝えている。これを撤回したのだろうか?それともマスコミが誘導して言わせたのだろうか?

冷静に読めば、2月でも4月の調査でも判明したのはクロマツの継続的存在であって、人の関与を示す証拠は得られていないことが分かる。2月にどこをボーリング調査したのか不明だが、4月は天橋立でなく江尻でのボーリングであるから、教授のコメントのようにその時期に天橋立が存在したのかどうかも判断できないはずである。
「大波で~」のコメントは、自然現象で遷移が進まない可能性を示していて、科学的に至極普通の推論である。
とすると2月報道でなされた3000年前から人が関わってきたという主張は、白紙に戻されたとも読めてしまうのだ。

人が関与したという拡大解釈が報道されたのは、天橋立は3000年継続している文化的景観であるとして世界遺産登録を後押ししたい地元の意向に迎合したのではなかろうか。

◇天橋立における植生遷移

報道姿勢の問題は脇へ置き、植生遷移の点は自然観察の教材になりそうなので、少し触れておきたい。

森は数百年以上放置しておけばやがてブナやシイなどの陰樹が支配的になるのが普通である。その植生遷移が順調に進まず永くマツやクリなどの陽樹が継続しているのは、人の関与か、何らかの自然条件に原因がある。

天橋立は天然に任せておけば遷移が順調に進むはずの場所なのだろうか。
答えは明らかにノーだ。海抜1mしかなく、海水と汽水に囲まれた細長い土地で、海が荒れれば海水をかぶる。クロマツは痩せた土地に強く、少々海水を浴びても枯れないが、高原教授の言うように大波が一年に一日でも押し寄せれば枯葉は持ち去られ、陰樹が育つ肥沃な土壌は形成されない

上に書いた磯清水の元になっている帯水層がなければクロマツも生えないかもしれないくらい、天橋立は樹木の生育に厳しい土地だろう。
そのような特殊な条件が、陰樹への遷移を妨げ陽樹が継続している原因ではなかろうか。

むしろ人の関与としては伐採しなかったことが第一と言える。その理由は籠神社(このじんじゃ)などの神域として大切にされてきたことだろう。防風林や枯葉の燃料供給地としての意味はほとんどなかったと推測される。この場所は丹後半島の陰で季節風が弱く、燃料には針葉樹のマツよりも周辺に豊富なコナラなど広葉樹が使いやすいからである。
天橋立クロマツと遊歩道クロマツに囲まれる遊歩道。中間付近の様子


◆古代史舞台としての宮津

◇天橋立伝説
・鎌倉時代に編纂された『釈日本紀』には「丹後国風土記逸文」として天橋立の神話的な伝承が記され、それによればイザナギノミコトが天に通うため立てた梯子が、眠っている間に倒れてしまったものという。
この「倒れた」という表現を有井氏は大地震を示唆しているとする。地震の発生が2200年前というのが正しければ、震災を口承によって数百年の間伝えていったことも十分あり得ることだ。しかも地震の後で急速に成長したとすれば、それを天橋立が「出現した」と伝承しただろうとも氏は解釈している。信憑性が感じられる話だ。

紹介文によってはイザナギが天から地上へ通ったと、逆向きにも書かれている。或いは籠神社の伝承ではイザナギは天にあって地上の真名井神社に居る女神に会うために通っていたとも言う。真名井神社とは籠神社の500m奧にある神社である。

◇籠神社と伊勢神宮との関係
丹後の国一宮・籠神社は、「元伊勢」を名乗り、伊勢神宮が元々鎮座していた場所であるとしている。古代の丹後地方についてはまだまだ解らないことが多いが、弥生遺跡や大型古墳を見れば、倭国での重要な地位をしめた地域だったことはよく分かる。

国造りの神であるイザナギの伝説が天橋立に仮託されているのも籠神社の存在あってこそだろう。神社には神話時代の人物に始まる海部氏系図や前漢・後漢の青銅鏡が伝世され、これらは国宝に指定されている。
ちなみに宮津の「宮」とは籠神社を指しているという。
天橋立籠神社 丹後国一宮籠神社


■現在と将来の天橋立


現在の天橋立は、冒頭の紹介写真を見れば誰しも感じるように、もはや雪舟が描いたような景勝地ではない。石を並べた多数の堆砂堤はいかにも傷の縫い口にしか見えない。当地では世界遺産登録を目指しているが、賛同できない。
成因が上記のように地震という偶然の現象に因っているならば、将来やせ細って消滅するとしてもそれが自然の姿としてやむを得ないと考える。
しかし救いはある。

紹介した最近の研究によって、天橋立を形成した砂は長期間安定的に供給されたものでなく、大地震という突発事態でもたらされたものと判明しつつある。
一時的に誕生した姿を節理に反してでも保つとして、堆砂堤以外の優しい人工的手段を使って美観を維持することは可能なはずだ。

それは述べたように「サンドバイパス工法」と呼ばれて昭和60年代から実行されている。
この工法を採用することになったのも、堆砂堤という方法は効果がなく失敗だったと認めたのだろう。
(参考 http://www.pref.kyoto.jp/kowanji/documents/1204270523924.pdf)

沿岸流の通り道に砂を置いて、流れに運んでもらうのである。筆者は天橋立のやせ細りを最初に聞いたとき、単純に砂を海流の上流地点に置いていけば回復するだろうと想像した。その通りの方法がすでに採られていた。

これによって、京都府では「徐々に砂浜が回復している」としている。
しかしこれだけでは楽観できない。30年近く経過して「徐々に回復」とは遅すぎないか?それにご覧のように現状は、堤の前後の浜が海に突き出しているに過ぎない。
また逆に堆砂堤が直角に突きだしているために、浜に沿った海流が接近を阻まれ、堤のすぐ脇を除いて砂を陸地まで届かせられなくなっているようにも思える。
 天橋立堆砂堤

サンドバイパス工法を実施する前から堆砂堤は設置したままである。これで有効性を正しく判定できるのだろうかとの疑問も残る。

サンドバイパス工法の考え方には賛成できる。しかしさらなる研究や方法の工夫が必要なのではなかろうか。

筆者の感性では、自然の摂理で消滅していくものはそのまま消えても構わない。しかし多数派が人工的でも保存を望むのならば敢えて反対はしない。
ただし摂理に反する改変は容易に成功しないことをよく考えておくべきだ。自然はまだまだ人知の及ばない面が多いことを謙虚に弁えたうえで、さらなる調査研究によって科学的視点を深め、腰を据えて取り組んでいかなければならないだろう。


■最新訪問時期 2013年3月
■参考図書など
『日本の地形2北海道』『日本の地形6近畿・中国・四国』東大出版会
有井広幸「天橋立の形成過程について」京都府埋蔵文化財論集 
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/36arii.pdf
など



寝覚ノ床(長野):木曽川が削りだした巨岩の淵

カテゴリー見出地形地質

■名所としての概要

「寝覚ノ床」は木曽川の河床に露出する巨岩の集まりで、古くから中山道木曽路の名所として文人・歌人が作品を残してきた。四角く割れた花崗岩の巨岩上には浦島堂と呼ばれる小さな祠があり、名称の由来となった浦島太郎伝説を伝えている。JR中央線の車窓からも眺められる。
寝覚ノ床代表
下流側から見た寝覚ノ床の中心部。人型は大きさを示すために合成したもの

名称寝覚ノ床 : ねざめのとこ
国指定史跡名勝天然記念物 中央アルプス県立公園
所在地長野県木曽郡上松町小川
交通機関JR中央線上松駅から南へ2km、徒歩30分
JR中央線木曽福島駅から南へ12km、車で20分
マイカー中央自動車道塩尻ICから国道19号線で南へ54km
中央自動車道中津川ICから国道19号線で北へ49km
国道脇に有料駐車場あり 寝覚ノ床へ徒歩200m
国道から外れて町営無料駐車場あり 徒歩800m
(国道の登坂車線途中から入る)
問合わせ上松町観光協会 0264-52-1133

寝覚ノ床広域地形図

■見学詳細
見学自由。遊歩道あり。
見学は木曽川の左岸のみ、右岸へは渡れない。
説明板の建つ中心部から下流800mに「裏寝覚」あり。
※2012年6月に浦島堂への遊歩道は通行止め解除。
※2013年春時点で裏寝覚への遊歩道は崩落のため通行止め。

■付帯施設
・寝覚ノ床を紹介する施設は特にない。
・「寝覚ノ床美術公園」 : 日時計、彫刻などのオブジェが展示されている。営業施設は特になく、普段は無人。この駐車場とトイレは町営・無料として寝覚ノ床・裏寝覚見学に利用できる。寝覚ノ床中心部まで徒歩800m。

◇難読地名
上松町:あげまつまち 御嶽山:おんたけさん 宝剣岳:ほうけんたけ
◇地学用語
方状節理:せつり 河岸段丘:かがんだんきゅう 河成段丘:かせいだんきゅう 扇状地:せんじょうち 
(河岸段丘と河成段丘はほぼ同じ意味)

■地質の概要

岩石に生じる規則的な割れ目を節理と呼び、寝覚ノ床は「方状節理」の見本とされる。方状とは直方体、つまり直角に割れた四角いブロックで、花崗岩に特有の割れ方である。
一般向きの説明では「岩盤を侵食してできた自然の彫刻」と言っているが、侵食されたのは周囲の弱い部分で、寝覚ノ床を構成する巨岩は侵食されずに残ったものである。
花崗岩という岩はマグマが地中深くでゆっくり固まったものであり、周辺の広い範囲が地殻変動で隆起する過程で上部を覆っていた岩が侵食され、露出した。
木曽山脈は大部分が花崗岩で成り立ち、最近の100万年で(地質学的に)急速な隆起をしている。もっとも高い木曽駒ヶ岳の頂上付近には花崗岩に接触した古い堆積岩が残っていて、隆起の中心部であると同時に大きな花崗岩体の頭部だったことを示唆している。
木曽谷でもかつては同じ花崗岩が分厚く重なっていたはずであり、それが侵食の集中によって消え去ったため現在の低い谷となった。

寝覚ノ床パノラマ
パノラマで見る寝覚ノ床中心部。巨岩は木曽川が大きく曲がる場所に集まっている

地形地質観察としては、なぜ寝覚ノ床では巨岩が残り、狭くなった隙間を縫うように木曽川が流れることになったのかを考察してみたい

なお、ほとんど見学者の来ない裏寝覚では四角い巨岩は少なく、複雑な節理と無数のポットホールが特徴である。これと同様の場所として、5km上流(北)に木曽の桟(かけはし)という名所もある。

寝覚ノ床裏寝覚
裏寝覚の様子。表面に多数見える凹みはポットホール。

木曽の桟
長野県史跡「木曽の桟跡」(下流側から)
江戸時代には右の崖に石積みを施し桟道を渡していた。今はコンクリートで覆って国道19号線が走っている。


◆ポットホールとは

流れてきた岩が亀裂などに引っかかってその場でゴロゴロと動き続け、長い時間をかけて穴を掘ったもの。その岩は削れて小さくなっていくので、やがて小石となって外へ飛びだしてしまい、残っていることはまずない。


■地形地質の考察:どうしてこの地形ができたのか

周辺地形の実際をGoogleEarthで見てみよう
寝覚ノ床GE基本
南側上空からの写真画像。右が木曽山脈側で、木曽川は画面上から下へ流れる。
川の左岸に上松町の市街地が展開している
のは、下記の理由による。

まずヒントとなりそうなポイントを挙げてみる。

・巨岩は運ばれてきたものではなく、もともとその地面にあったものである。
・寝覚ノ床の水面標高は660m、国道19号線やJR中央線の通る左岸は約710mと、50m差の河岸段丘(=河成段丘)になっている。この段丘は上流の上松町から寝覚ノ床まで約2km続いている。
上松町は平坦な段丘を利用して町が建設されている。
・ただし800m下流の裏寝覚付近(写真でのすぐ右)では平坦でなく、段丘地形の連続とは言えない。
・寝覚ノ床中心部は木曽川が(上流から見て)大きく右へ屈曲するポイントになっている。
・裏寝覚は反対に左へ緩く曲がっている。

また、次の事実も踏まえておきたい。

・約60km続く木曽谷の中で河床に見える岩はほとんどが花崗岩であるが、寝覚ノ床のような四角く巨大な岩はほかに見られない。
・木曽谷の東に走る木曽山脈(中央アルプス)は標高が2900mに達し、ほぼ全山が花崗岩でできた一連の山脈である。
・木曽谷の西には山脈と呼べる山並みはなく、1500~2000mの山地が広がる奧に火山である3000mを越える御嶽山と乗鞍岳が聳えている。その火山を除くと、木曽谷に近い山地の岩はやはり花崗岩でできている。

つまり寝覚ノ床の付近の岩石は、木曽川に露出しているのと同じ花崗岩が両側の山地を広く構成している。表面は樹木に覆われてよく見えないが、木曽川の河床がこの白い花崗岩で埋め尽くされていることからもこのことは明らかである。

寝覚ノ床GE段丘
ひとつ上の写真から、中央部の切り出し。上松町の乗っている河岸段丘(河成段丘)の地形

ではその広い花崗岩地帯で、寝覚ノ床ではなぜ特異な地形になっているのだろうか?

もっと大きなヒントになりそうなポイントを挙げる。

・寝覚ノ床では、木曽川全体でも特に水の流れる幅が狭くなっている。これは上流のダムによって水量が減ったということでなく、自然地形として両岸の斜面が迫り、幅が狭くなっているのである。
・地図で寝覚ノ床から東(右)へ目を移してみると、ほぼ真東に木曽駒ヶ岳や宝剣岳など、木曽山脈でもっとも高い部分が聳えている。
・寝覚ノ床の段丘は、上松町市街までの約2kmの間、高度を増さずにほぼ平坦である。
・この付近での河岸段丘は木曽川が左右に屈曲を繰り返しているにもかかわらず、左岸(木曽山脈側)だけにあって、右岸にはない。


★推論 (専門家の明確な答えを発見できなかったため、以下は筆者の考えです)

(時系列に述べる)
・この場所は急速に隆起する木曽山脈から継続的に多量の土砂が削り出されてきた。ある時期に特に大規模な土石流が集中し、木曽川本流の渓谷が埋められた。
・その埋積イベントが起きる前には木曽川は現在より数百メートル東、現在の段丘の下を流れていた。

・土砂の埋積によって、川は西へ押しやられ、さらに堰き止められた。
天然ダムの出現した位置は左岸の地形から、裏寝覚付近と考えられる。また土石流は滑川から流れ下ってきたと推定される。
・堰き止めによって、上流へかけて幅200-500m、長さ2500mの細長い湖が出現した。
・湖が存在する期間に、そこへ木曽山脈から流れ込む滑川、中沢、十王沢川では谷の堆積が進行し、現在集落が営まれている緩斜面が形成された。

・湖はやがて完全に埋まり、西へ押しやられて細くなったために浸食力を強めた木曽川が今度は河床を下へ掘り下げてゆき、現在の流路が定まった。
(段丘の高さが寝覚ノ床のすぐ近くと上流2kmの上松町市街地とで同じであることは、天然ダムが決壊することなく湖が完全に埋まったことを示している)
・木曽川は流路が細いまま固定されたことによって流速は速くなり、強い浸食が進行した。
・浸食によって、決壊することのなかった天然ダムの一部を構成していた土砂や脆弱な岩は削られ、地中に隠れていた強固な岩石が初めて露出した(寝覚ノ床の誕生)
(裏寝覚めの木曽山脈側が平坦でなく起伏を残していることは、ここが土石流の溜まりであり天然ダムの堤だったことを示す)
・この強固な岩石を迂回するため木曽川は屈曲することになった。

寝覚ノ床GE天然ダム

・花崗岩は本来頑丈な岩で、川の浸食には長期間耐える。ただし節理と呼ぶ元々の割れ目ができていればそこから崩壊し、細かい岩は流されていく。
・寝覚ノ床はそうした節理が少なかったために容易に浸食されず、木曽川は狭い割れ目をぬうように今も流れている。

・また頑丈な花崗岩といえども露出したのちは表面が風化し、角が丸くなっていくものである。それに反して寝覚ノ床で角張った形状をしているのは露出してからまだ時間が経っていないことを示している。
・このことから、上に書いた湖の形成時期は地質学的にはごく新しい時期と推定され、実際には木曽山脈からの土砂供給が急増した最終氷期後の8000-6000年前頃が有力視できる。

[まとめ]
・寝覚ノ床の巨岩は、地中に隠れていたものが最近になって表面が侵食されたことで露出した。
・侵食が起きた原因は、木曽山脈からの土石流によって木曽川の位置が変化したことである。

最初に問題として提示した巨岩が浸食されず残っている理由は、このように露出した時期が新しいという答で、ほぼ説明できると思っている。もちろん、これはあくまで筆者の見解である。今後専門家の意見を伺う機会があればここに追記・修正していきたい。


◆[付録] 木曽山脈での東西地形差

谷が広い平地に出る場所では、運ばれてきた土砂が扇状に広がる扇状地という地形のできることが普通である。
・東の伊那谷には扇状地地形が明瞭だが、西の木曽谷にはほとんど見られない。これは木曽谷が狭いためであり、扇状地を作るはずの土石流が流れてきても広い土地へ広がることができず谷に残ることと、木曽川によって末端が削られてはっきりした形にならないからである。
・これによって木曽川に近い谷では土石流に埋まった細長い緩斜面を利用して、谷の内部に集落が営まれている(上のGoogleEarth空撮画像も参照)。
・伊那谷ではそのような狭い谷を埋めた緩斜面は少なく、集落も谷ではなく広い天竜川近くにできている。
下に少々見にくいが木曽駒ヶ岳の西と東の地形図を2枚提示しておく。

木曽谷地形図 木曽谷・寝覚ノ床付近5万分1地形図

伊那谷地形図 伊那谷・伊那市から宮田村付近5万分1地形図


◆[付録] これからの寝覚ノ床

寝覚ノ床の巨岩の上面は、ダムの造られる以前にはしばしば増水した水に没することがあったために樹木が生えなかった。その頃は平穏時でも水量が多く、現在より水位が高かったはずである。もし高い位置で水位が長期間一定していれば、岩の表面にその位置を刻み残しただろう。これといった痕跡がないのは絶えず変動していたことを示す。
今では上流のダムによって、大雨で増水しても岩の上面を洗うことはないという。

とすると、岩の上部は運ばれてくる礫や砂に削られることがもう起きないということになる。岩の側面下部だけが削られることになって、上部の張りだした形状になっていくのだろうか。
少なくともポットホールは石が激流にゴロゴロ踊ることはなくなって、今後は発達しないと思われる。

寝覚ノ床・塔のへつり
水流の浸食で崖の側面がへこんだ例:福島県の「塔のへつり」。
ここでは凝灰岩という軟らかい岩のため水面位置がよく削られ、現在では水量低下でさらに低い位置に浸食が進行している。


■[付録] 浦島太郎伝承

亀の手引きで竜宮城を訪れたのち故郷に戻ると数百年が過ぎていて、開いた玉手箱の煙によって老人になるという浦島太郎の伝説は、丹後半島を本家として全国各地に伝わっている。平安時代に整えられた物語が全国に流布したのだろう。
この伝承がいつから木曽谷に取り入れられたのかはっきりしないが、おそらく木曽が中山道の一部として整備された徳川時代からと推定している。
江戸時代の商才に長けた人が観光振興に智恵を貸したのではなかろうか。

寝覚ノ床のすぐ東に寝覚山臨川寺(りんせんじ)という寺院があり、別名として浦島寺とも呼ばれている。ここでは寺の創建に浦島太郎が関わっているとしている。

[臨川寺]

拝観200円、8:00-1700
宝物館に浦島太郎が使ったという釣り竿などを展示している。
境内から浦島堂まで歩道あり。急な階段や不整地のため足元注意。


■訪問での印象

寝覚ノ床は大勢の観光客に溢れるというほどのことはないようだ。大多数の観光客は国道沿いの表ルートから巨岩の上に建つ浦島堂まで歩くだけである。
夕方に裏ルートである町営駐車場から寝覚ノ床中心部、戻って反対(下流)側の裏寝覚まで往復する間、誰にも会うことがなかった。裏寝覚への遊歩道は崩落通行止にされていたが注意すれば入れる状態だった。


■最新訪問時期:2012年12月




東尋坊(福井):断崖絶壁の奇観

カテゴリー見出地形地質

東尋坊火代表画像

【この「カテゴリ地形地質探訪記」はこれまで地学に馴染みのなかった方に、大地の成り立ちの面白さを伝えるために作製しています】


名称東尋坊:とうじんぼう
越前加賀海岸国定公園
国指定天然記念物
国指定名勝
地質百選
所在地福井県坂井市三国町安島
交通機関小松空港からJR北陸本線で芦原温泉駅へ
JR芦原温泉駅から京福バス40分「東尋坊」バス停下車
小松空港から東尋坊は車で45km50分
マイカー北陸自動車道金津ICから15km、20分
市営駐車場有料500円。店舗駐車場は利用者無料。
駐車場から東尋坊海岸まで徒歩400m
その他の基点福井市中心部から25km
金沢市中心部から70km
勝山市の恐竜博物館から40km
付帯施設特になし
問合せ先坂井市三国観光協会 TEL:0776-82-5515
http://www.mikuni.org/index.php

◇見学詳細

・自然地形なので入場は自由。遊歩道外の岩場へも行動可能。
・案内板・自然解説板・文学碑など多数あり(身投げ防止の呼びかけもある)。
・観光地としての東尋坊エリアは500m四方程度。
・北へ2kmの雄島、さらに東へ2.5kmの越前松島へも遊歩道が通じる

・遊覧船は30分コースで大人1200円など。東尋坊観光遊覧船HPに情報あり。
・地上55mに上がれる東尋坊タワーの入場は500円

◇地名読み方/地質用語

坂井市:さかいし 三国:みくに 雄島:おしま 九頭竜川:くずりゅうがわ
柱状節理:ちゅうじょうせつり 輝石:きせき 橄欖岩:かんらんがん

東尋坊地形図


■東尋坊の概要

◇現地石碑による説明文

東尋坊説明石碑

◆石碑説明文
「天然記念物名勝東尋坊
九頭竜川河口三国港から雄島を経て梶浦に至る間の海岸はその基盤が第三紀層より成り柱状節理を成せる種々の火山岩が之を貫いている。その中東尋坊岬に近く露出しているのは直立粗大なる柱状節理を呈せる複輝石安山岩で、その海に面した絶壁の部分を東尋坊といっている。雄島は一種の橄欖輝石安山岩よりなり、その柱状節理は斜走して豪快なる波蝕を呈しその東崎梶の海岸には美麗な柱状節理をした玄武岩輝石安山岩の大小の岩礁散在し、所々に波蝕による幾多の洞窟石門を呈し奇景を極めている。 昭和43年3月 管理団体 三国町」


これを現代風に言い換えると次のようになる。

3km南になる九頭竜川の河口から雄島を経て梶浦港まで8kmの海岸は、数千万年前に海に堆積した地層と、それを地下から貫いた火山岩が露出している。
東尋坊の岬では柱を並べたような柱状節理と呼ばれる特徴のある岩が絶壁を成し、岩石の種類は複輝石安山岩という。
また陸地から離れている雄島は橄欖石(かんらんせき)安山岩、東の梶浦では玄武岩輝石安山岩という、同様の柱状節理ながらやや異なった種類の岩石が見られる。海岸沿いではそれらの岩が波に浸食され、洞窟や門のような奇観を呈している。


さらに上の文意にこだわらず東尋坊の成り立ちを紹介してみると、次のようになる。

東尋坊の絶壁を成す岩石は、火山活動によって地下から上昇したマグマが地表まで溢れることなくそのまま冷え固まったものである。固まる過程で岩石は収縮するため、亀裂が生じて柱状節理という規則的な割れ目ができた。その後地面が隆起したことで海面から姿を現し、波によってまず周囲を覆っていた古い岩が削られ、柱状節理の岩も少しずつ削られたり崩れたりして現在の姿になった。

◇補足

・上記の地面が隆起したという部分は筆者の加筆で、石碑の文章にはない。しかし現在では定説であり、隆起していなければ今でも地中に隠れているはずである。
・岩石の種類が安山岩というのは、最近になって「デイサイト」という種類に見直された(デイサイトについては後述)。
・三国町は現在、坂井市に合併している。

東尋坊説明板加筆 岩の成り立ちについて現地説明板の画像(クリックで拡大)

■基礎の確認:「柱状節理」


「節理」とは岩石にできている規則的な割れ目のことで、岩石の種類によって特有の節理ができる。東尋坊のように長い柱になるものを柱状節理と呼び、一本の柱の断面は主に五角形から八角形までの多角形になっている。柱の太さは数センチと細いものから1m以上に及ぶものまで様々。
柱状節理ができるのは火山に関係があり、溶岩や火山灰が固まった岩石によく見られる。
でき方については後述する。


■東尋坊の隆起運動

この柱状節理の岩は地中で形成され、その後隆起して地表に現れたと上に書いた。これはもちろん想像でなく、定説である。
現在の岩は海面から30mほど高くなっているので、少なくとも100m以上、数百メートルは上昇しているかもしれない。
この隆起の力はどこから来たのか。

地図で見ると東尋坊付近は海に突き出しており、しかも周辺より高い丘陵になっている。南北の海岸線には浜があり、断崖地形は長く続いていない。丘陵の高い場所は標高80m、範囲は4km四方であり、この狭い地域を加越台地という(上図参照)。
ここから東北に向けて徐々に高度が下がり、10kmほど先でまた上げる。そこには複数の逆断層が存在し、この断層位置を支点として南西側が傾きながら隆起しているという見方がある。ただしその運動領域は地形で見る限り、ごく狭い。

実は北陸地方の海岸付近は隆起や沈降が様々で複雑な地殻変動を続けている場所である。その中で東尋坊付近は隆起し、すぐ南の坂井市から福井市街は沈降して盆地となっている。そういった変動は大きく見れば日本列島にかかるプレート運動による水平圧縮力に原因があり、伊勢湾から若狭湾にかけて本州のくびれていることとも関係がありそうだ。
限られたエリア毎にどのような動きをしているか、どこに断層が隠れていつ動いたかはまだ調査の途上にある。
東尋坊のように狭い範囲で独自に動いているように見える現象は、大きな変動の一部分として、乱れた動きをしていると考えてもよいかもしれない。


■柱状節理の形はなぜできるのかの簡単な説明

誰でもこの岩を目にすれば、どうやってできるのか不思議を感じることだろう。
遊歩道沿いの説明板に、地質解説には珍しく詳しいことが書いてあった。
「横断面が六角形になる原因についての定説は今のところありません。一つの仮説として、安山岩が冷えるとき、冷却面上に冷却の中心が、互いに等間隔に発生します。そして安山岩が冷え固まるとき、冷却の中心に向かって収縮するとすれば、中心間に割れ目が生じます。そのとき一番効率的な割れ方は、正三角形が組み合わさってできる六角形になると考えられます」

以下で筆者の言葉と画像に置き換えて、解説を試みる。

1:断面が六角形になる理由

問題:平面上に多くの点を互いに等間隔になるように配置するとどうなるか

東尋坊柱状節理冷却点分布のQ
 ↑このように考えるのは、間違いである。これでは縦と横の間隔に較べて斜め方向が遠くなる。



 東尋坊柱状節理冷却点の並び方
右図が正解。ひとつの点に対して、6つの点が等間隔になる。

このとき、点と点を仮の線で結んでみると、正三角形の連続になっている。

東尋坊柱状節理冷却点を結ぶ正三角形



さて、岩石はマグマとなっている液体から冷却して固まるとき、収縮する。
最初に冷え始める表面は一定以上の広さがあればひとつの固まりとして小さくなるのでなく、小面積ごとに収縮しようとし、それぞれで収縮の中心ができる。
一点に収縮の中心が発生するとき、周囲のあらゆる方向から中心へ向かおうとする力が生じる。特定の角度に限定されることはない。

東尋坊柱状節理ひとつの冷却点イメージ

収縮する岩石で、成分や力に偏りがなく全体に均一であれば、多数発生した収縮中心点は、上の図のように自然に等間隔で並ぶはずである。

ここで、ある点と点の間に注目してみる。そこでは両側から引っ張りの力を受けるため、中心に亀裂が始まり、中心を結ぶ線と直角に延びていくはずである。

東尋坊柱状節理ふたつの冷却点間の亀裂

同じことがすべての点と点の間で起きる。その結果、下図のように、点と点の間で亀裂が生まれていく。

東尋坊柱状節理冷却点多数の亀裂

延びていく亀裂は斜め120度から延びてきた2本の亀裂と出会い、そこで成長は止まり、六角形として独立する。

以上が、断面の六角形になる理由である。大前提は均質であることで、実際の自然状態ではなかなかそのような理想条件がないために六角形以外の不規則な多角形が多くなる。

次に、この表面にできた亀裂が地中に延びて柱を作る仕組みを見てみる。こちらのほうが易しい。

2:長い柱状になる理由

    冷却が表面から徐々に進むにつれて、亀裂がその方向に深まっていく

  東尋坊柱状節理柱状になる仕組み 
・均等に冷却が進行する限り、亀裂も隣同士で均等の間隔のまま深まる
・冷却の進行方向によって亀裂の進む方向も左右され、曲がることもある。

(自然の仕組みで「3」というのは一種の神秘性を感じさせる。植物で「単子葉類」と分類されるユリやランの仲間は、花弁の数が3の倍数になっている。この植物形態も意外と単純な物理法則に原因があるのかもしれない)

・柱状節理については火山列島日本の重要な岩石形態なので、別稿でも改めて紹介する予定である。


■マグマが地表を流れてきたのか、地下から上昇して貫入したのかの判別

ある専門家の書いた本では、東尋坊の岩石を「マグマが地表に噴出してできた安山岩で~」と書いてあったが、この「地表に噴出してできた」というのは間違っている。地表に噴出することなく、蓋をされた地中で空間を満たし、そのまま冷え固まったというのが定説である。
国内各地で見られる柱状節理の大部分は、確かに地表に噴出したマグマが流れ、ある程度の厚みになって止まった後、冷えて固まったものである。その先入観で東尋坊も見てしまうと間違える。

定説の根拠はこうである。
現在、海岸のすぐ上部で柱状節理岩の上に乗っている堆積岩の様子を見ると、接触面には熱による変質が認められる。
もしマグマが地表を流れたとすると、その上に堆積岩が乗るためには固まったマグマが一度海中に没してからでなければ、その上に砂や泥が堆積することはない。しかし海中に没するには時間がかかる上に海水ですぐに冷えてしまうから、砂や泥が堆積しても熱変質を起こすはずはない。
よって、堆積岩と柱状節理を作った岩との接触面での熱変質を観察した結果から、柱状節理を作ることになったマグマは地中から上昇して、すでに上部にあった堆積岩層に突き当たったものだと考えられる、ということである。
(参考:福井市自然史博物館研究報告2005 吉澤康暢)


■福井平野の断層活動

福井平野北部の坂井市周辺は、現在の海抜が4m。6000年前の縄文時代、海水準が数メートル高かった時期にはだった。そのころの東尋坊付近は東から長く延びた半島になっていた。波の浸食に強い岩だったからである。

福井平野が縄文時代に海で、今でも10mに満たない低地なのは、隆起する東尋坊付近とは逆に土地が沈降しているからである。その境界には断層があり、地震の度に隆起する部分もあれば、下がっていく部分もある。沈降した土地には九頭竜川などが山から削り取った土砂を運び込んで埋めていき、現在の平野を作ってきた(上の地形図参照)。東には1000m以上の山地から2700mの白山など侵食を受けやすい火山地形が隣接しているため、低地を埋めるに十分な土砂が供給されてきた。

そのような成り行きで形成された福井平野の地下構造は、最深で地下400mまで土砂の溜まりである。そのため福井地震では液状化を起こし被害が大きくなった。
もう言われているかもしれないが、福井市と坂井市に住んでいる方は河川氾濫への対策と自宅が耐震構造なのかを確かめたほうがよい。

[福井地震]
昭和23年(1948年)6月28日に福井平野を震源に起きたマグニチュード7.3の地震。4000名の犠牲者を出し、平野の中心に25kmに渡る地割れが生じた。この地震が起きたため、今後しばらく同程度の地震は起きないのではないかとの見方がある。


■補足:岩石の種類と固まり方

東尋坊の説明で「『輝石安山岩の柱状節理』という、地質学的にも珍しい奇岩」と紹介されているのは、いま修正を迫られている。

東尋坊の遊歩道に設置されている説明板でも「安山岩」と書かれているが、これは古い考え方で、新しい分析によって今では「デイサイト」という岩であるとされた。デイサイトは標準的な安山岩よりもケイ素(SiO2)の量が多い岩と定義され、成分的には流紋岩や花崗岩に近い。安山岩と分かれる理由は地中深くから上昇する前に温度が下がるなど、固まる前に成分の分離が進んだことによる。

東尋坊火成岩分類

火成岩の分類に深入りすると一般向きには難しいハナシになってしまうのでこれ以上は省略しておく。
岩の種類が見直されたことは地形形成を語る上で大きな変化にはならないと思われる。
ただ東尋坊柱状節理の成り立ちが、「地質学的にも珍しい奇岩」ではなくなり、より自然に考えられるようになった。



◆奇観体験を大切にしよう

東尋坊は古くから知られているために、柱状節理構造で代表的な海岸奇観となっている。火山国日本では各地で有名になっている地形なので観光旅行を繰り返せば何度もお目にかかるだろう。一般的にはなぜそのような形ができたのか、不思議に感じたまま、やがて思い出さなくなってしまう人が大部分に違いない。

家族で観光に訪れて、どうしてできるのか子供が質問したとき、親は何と答えるだろうか?
ある程度地学を学んだ人でも、正しく答えることは非常に難しいはずである。
その疑問を大切にし、一緒に考えてみるという姿勢を持てる家族からは科学者が育っていくのではないだろうか。“不思議”と出逢った体験をどれだけ大切にできるかである。
有名な観光地である東尋坊の見学をきっかけに、岩の形状から火山活動、地中内部の構造へと興味をつなげていくことができれば、その一日は有意義な体験になることだろう。


◆東尋坊という名称の由来

由来には諸説ある中で、事実かどうかは別に次の説話がよく語られる。
現・勝山市にあって中世に隆盛を誇った平泉寺(へいせんじ)に、乱暴で手に負えない東尋坊という僧がいた。ある日同僚の僧侶たちは東尋坊を海岸見物に誘い出し、酒に酔わせたところを崖から突き落としてしまった。以後その4月5日になると海が荒れるという。

◇話が脇へ逸れるが、上の「平泉寺」は、岩手県で世界遺産にもなった奥州藤原氏の遺産と同じ文字で、読み方が異なっている。実は同じ「平泉」なのは偶然でなく、福井の文化が藤原氏によって奥州へ持ちこまれたという説が有力である。

◆蛇足
海に面した柱状節理の崖として東尋坊は高さ25mと国内有数なのは確かだが、宮崎県には高さ70mの馬ヶ背という崖が存在している。おそらくこちらが柱状節理では日本一の高さであろう。いずれ当ブログで採り上げる。


■最新訪問時期:2007年5月

■参考図書など
『日本列島ロマンの旅 景勝・奇岩の地学探訪』友成才 東洋館出版社 1998年
『日曜の地学6北陸の地質をめぐって』絈野義夫 築地書館 1979年
『日本の地形5中部』東京大学出版会 2006年
福井市自然史博物館




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