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知覧特攻平和会館(鹿児島)

カテゴリー見出し博物館
「知覧特攻平和会館」:70年前の特攻隊員が遺したもの


会館前景

■所在地:     鹿児島県南九州市知覧町郡17881 
   旧町名:     鹿児島県川辺郡知覧町(平成19年12月1日より南九州市)

■緯度経度      東経130.26.03  北緯31.21.48

■対象ジャンル:     歴史文化    太平洋戦争における陸軍特別攻撃隊の記念館

■概要紹介

1975年開館。建設は知覧町(現・南九州市)。
知覧は昭和16年に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開校、訓練所として使われた後、昭和20年、本土最南端の特攻基地となった。
特攻機はほかにも九州各地、・沖縄・台湾、一部は本州からも飛び立ったが、知覧からの出撃がもっとも多かったため、特攻基地の代名詞のように知られることとなった。

戦後、軍関係の施設が一掃されて公園に変わり、昭和30年平和観音像が祀られ慰霊祭が行われていたが、元特攻隊員でエンジントラブルのため帰還し終戦を迎えた板津忠正氏(初代館長)が自ら収集した隊員の遺品を展示する「遺品館」として昭和50年に開館され、昭和61年に「知覧特攻平和会館」となった。

注:この知覧特攻平和会館は、広島平和記念資料館(旧称・原爆資料館)・長崎原爆資料館とともに一般的な観光旅行での見学には適さない。言うまでもなく事前の基礎知識と心の準備を持って入館する必要がある。


■開館時間:         9:00-17:00、入館は16:30まで
■休館日:          無休、臨時休館あり
■入場料:          大人500円、小人300円

■交通
◇鹿児島空港から
・空港バス(4路線あり)約1時間半から2時間「特攻観音入口」徒歩5分
・車/タクシー 九州自動車道、指宿スカイライン、国道225号線経由 1時間15分
◇鹿児島中央駅から
・JR指宿枕崎線 平川駅または喜入(きいれ)駅、バス約30分「特攻観音入口」徒歩5分
・車/タクシー 鹿児島ICから指宿スカイライン、国道225号線経由 1時間05分

◇鹿児島市中心部から南南西方向、約30km
◇開聞岳から北北西方向、約25km


■問合わせ:
http://www.chiran-tokkou.jp/index.html
0993-83-2525

■内容

◇屋外展示(散策自由)

一帯は「知覧平和公園」として整備され、「ミュージアム知覧(南九州市立博物館)」「知覧文化会館」「知覧体育館」が同居し、広い駐車場に団体を乗せた大型バス続々と出入りする観光地でもある。

館外には銅像「やすらかに」「とこしえに」、記念碑、復元機、三角兵舎などがあり、ガラス越しに館内で展示されている「隼」の機体も見える。

・平和公園へ向かう道路沿いに延々と石灯籠が並んでいる。これは帰らなかった人柱の数を建立しようとしていて、訪問時の2014年6月にはまだ継続中ということだった。

三角兵舎
復元されている三角兵舎の外観と内部。ここで出撃までの数日を過ごしていた。

石灯籠
公園に近づくと現れる石灯籠の列

◇語り部


館内の講堂で随時「講話」を聴くことができる。原則的に予約が必要だが、訪問時にちょうど重なれば聴講できる。
語り部には6人が登録されているが、実際の隊員や子息ではない。

◇館内展示

(館内は撮影禁止のためここに画像で紹介することができないが、会館のHPにはロビーの「フッベルのピアノ」や戦闘機の実物写真などが紹介されている。)
(注:映画『月光の夏』に描かれたフッベルのピアノのエピソードはフィクション混じりと言われている)

館内にはパネル解説・資料や航空機の実物大模型、実物も展示されているが、展示面積の大半を占め強い印象を与えるのはなんと言っても遺影・遺書・遺品群である。

なお、隣接する「ミュージアム知覧」は別名のように南九州市の歴史博物館であり、特攻平和会館との内容重複はない。

◆基礎知識:隊の名称

正式には「神風特別攻撃隊」、“しんぷう”が正式、“かみかぜ”は通称。

◆基礎知識:特攻隊員の人数

特攻隊員で戦死した人数は1036名(終戦後に自決した作戦立案者の大西中将も含まれる)。そのうち知覧から出撃したのは439名(生還者は含まず)。


■博物館としての評価

5段階評価:5

広島と長崎と同じく、このジャンルの博物館は一通りの日本史を修得した大学生レベルで訪問しておくことがよさそうに思われる。
多くの日本人に訪問してもらいたいが、中学生以下には奨めない。

各地の博物館には客観性を欠いて一般に奨められないところもあるのだが、知覧平和記念会館は戦争自体の評価や攻撃の美化などを慎重に避け、アメリカやアジアの人々が見学する場合にも配慮されていると感じた。
内容に較べて500円は安いくらいだが、1000円近くになると入館者が減ってしまうだろう。何を感じて持ち帰るかで、見学の価値は大差が出そうだ。

とこしえに  
銅像「とこしえに」


■所感(主観)
(このテーマを記事にする以上、筆者のスタンスを表明しておきます)


◇特攻作戦の目的について
(客観的事実として筆者が知識化したもの)

特攻攻撃はすでに敗色濃厚となっていた時点で立案された。
提案者は海軍中将の大西瀧治郎(人物についてはWikipedia参照のこと。長文で詳しいが少々読みにくい)。ただし単独で発想したのではなく、周辺からの提案を正式に、かつ積極的に具申したのが大西ということらしい。
目的は“戦局の挽回”
漠然とした表現だが、当時の軍人でもほかの言葉ではっきり答えられただろうか?。
五分に渡り合っていたのならともかく、圧倒的な劣勢は承知していたはずである。提案者も本心では敗戦の先送りに過ぎないとわかっていたのでは?

◇特攻作戦の成果について

多大な犠牲を払って、目的は果たせたのだろうか。
この作戦で戦局を逆転できるとは誰も考えてなかったはずである。
(推測が混じるが)この時点で上層部の頭の中は情勢を少しでも好転させたいとの思いに占められて、戦争をどう終わらせるかという構想まで考えられなかったのではないか。“不利でも徹底的に戦う”ことが絶対視される空気の中で、合理性や将来展望は描けず、講和条件を有利にするという、戦争では必要な政治的判断ができる軍人はほとんどいなかっただろう。その空気は、勝算の見通せない無謀な作戦、玉砕やむなしとの指令、それらの繰り返しによって中枢部でも熟成されていったものと推測する。

そのような観点から察するに、特攻作戦の目的は本土決戦への時間稼ぎとしか言いようがなく、根本が沖縄戦と同じである。
果たしてその目的は達成できたのかと言えば、少しはできただろう。しかし大局は何ら変わらなかったという意味では、虚しい結果だったと言うしかない。

◇精神論と価値観について

おそらく日本の軍人には“武士の精神”が伝統として伝えられていたと思う。
発案した将校でも、提案者の大西などは自身が先頭に飛び立つつもりでいて果たせず、終戦直後に自決した。
相当数の将校が持っていた「責任は命で償う」「任務に命を捧げる」という覚悟は士官学校で叩き込まれたものだろう。

同じ覚悟を若い兵士も持っていたらしいことは、平和会館で展示されている遺書に迷いがほとんどないことで窺える。迷いを見せないために強気を装ったという面はあるかもしれないが、そもそも知覧に集まった隊員はほとんど志願者だった。
現代からは異様に感じられるかもしれないが、彼らの価値観では特攻は美しい“散華”であり、志願しても選ばれなかった者からは羨まれたという。

私たちがよく考察するべきは、当時の空気を「狂っていた」と突き放してそれ以上の分析を止めてしまうことでなく、「なぜそのような価値観が受け容れられたのか」の深い分析だろう。マインドコントロールと断定してしまうのは容易いが人間の思考がそんなに単純とは思えない。

そして遺書から、むしろ彼らは教養に優れていたように感じる。毛筆で書かれた遺書はどれも達筆であり、文章は品格に満ちている。
当時、若者のほとんどが徴集されてさまざまな人が軍を構成していただろうが、特攻隊員には中でも優秀な者が集まっていたように思われる。そのような若者達が軽率な判断で志願するはずはなく、信念と誇りを持っていたことは疑う余地がない。

しかし特攻攻撃の事実は切なさとやるせなさを残した。戦争の犠牲者はほかの戦地でこそ大量にあったのに、片道を覚悟して飛び立った若者たちへこそ私たちの感傷が強くなるのはなぜなのか、それもよく解らない。

人の精神、心理と行動は解明が難しい。正常な判断力を持っているはずの健常者がなぜ犯罪を犯すのかすら、充分に説明できない。
価値観もその時代・社会の空気やそれぞれの教育によって変わってしまうからだろうか。
間違った時代と言い切るのは簡単だが、私たちは現在も将来も間違わないようにできるのだろうか?


■開聞岳(かいもんだけ)と知覧

開聞岳
左は長崎鼻(東南側)からの開聞岳。  右は開聞岳頂上からの展望。

筆者は山を主目的に鹿児島を訪れたので、100名山に選ばれている開聞岳(924m)にも登山した。
さほど高い山ではないので3時間ほど汗を流せば展望抜群の頂上に達する。
この山は2段構造の火山で下部は成層火山、上部は溶岩ドームで、よく見れば上部と下部で斜面の角度が違うが、おおよそ富士山と良く似た形と言える。そのため別称は「薩摩富士」であり海上の船舶から目標にされていた。

知覧飛行場を飛び立った特攻機はこの開聞岳を日本の象徴・富士山に重ね合わせ、上空を巡ってから南方へ向かったという。最後の「日本」として彼らが目に焼き付けていったのがこの山となった。


■最新訪問時期:2014年6月
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アイヌ民族博物館(北海道):先住民族の歴史・文化・現在

カテゴリー見出し博物館

アイヌ民博01代表コタンコルクル
博物館の園内で最初に迎えてくれる巨大なコタンコルクル像

■ 概 要
アイヌ民族博物館はアイヌ文化の伝承・保存・紹介・調査研究・教育を行うため、アイヌの財団がかつて集落のあったポロト湖の湖畔に作った施設。アイヌの歴史と文化を展示する一般的な博物館に加え、復元住居「チセ」内で伝統の音楽と舞踊を実演して見せているなど観光施設の性格もある。 見学所要時間は1時間~2時間。

名称アイヌ民族博物館
ジャンル歴史文化系:アイヌ民族の歴史と文化
所在地北海道白老郡白老町若草町2-3-4
開園時間8:45~17:00
休園日年末年始12月29日~1月5日
料金大人750円 駐車料金別
交通機関・JR室蘭本線・苫小牧駅から国道36号線を西へ22km
・JR室蘭本線・白老駅から北東、ポロトコタン方面へ1km
マイカー道央自動車道・白老ICから東へ4km 駐車場あり300円
その他の基点札幌から約90km、新千歳空港から約45km
問合わせ[アイヌ民族博物館]
 0144-82-3914
 http://www.ainu-museum.or.jp/

アイヌ民博02地図  

◇地名等読み方

白老:しらおい 苫小牧:とまこまい 登別:のぼりべつ  
蝦夷:(人を指す場合は)えみし、(地域を指す場合は)えぞ

ー 目 次 ー
1 アイヌ民族博物館の内容
2 アイヌ民族の基礎知識
アイヌとは
呼称の用法
アイヌ民族の歴史
補足・民族とは
3 アイヌの現状
アイヌの人口
アイヌは差別されているのか?
4 古代史研究から:縄文文化とアイヌ文化の関係
一万年続いた縄文時代
弥生時代への変化から取り残された北海道
北海道アイヌと縄文
5 アイヌ文化の特色 Pic Up!
・イヨマンテ(イオマンテ)
・「カムイ」という言葉
・食生活
・アイヌ語
・なぜ文字を生まなかったか
・金属の使用
・宗教観
6 教育現場でのアイヌ史
7 明治政府によるアイヌの扱いをどう見るか
・時代背景の制約
・明治政府のアイヌ施策例
・一番の苦悩とは
・アイヌの選択肢
8 これからのアイヌ文化
・アイヌの現状と今日的問題
・アイヌ文化とアイヌの歴史から何を学び得るか


 1 アイヌ民族博物館の内容          

◆運営主体

「アイヌ民族博物館」を管理運営しているのは「財団法人アイヌ民族博物館」で、以前は観光業の株式会社が「ポロトコタン」という観光施設を営業していた。
・昭和51年に株式会社を解散、新たに公益法人の「財団法人白老民族文化伝承保存財団」を設立。
・昭和59年(1984年)に展示施設の新館として現在の「アイヌ民族博物館」を建設。
同年、博物館法による登録博物館となる。
・平成2年、法人名を「財団法人アイヌ民族博物館」と改称する。
・平成17年、それまで白老町が運営していた白老民俗資料館の譲渡を受ける。

北海道の各地にある歴史系博物館ではどこでもアイヌ民族を紹介しているが、この「アイヌ民族博物館」はアイヌ民族の人々が運営しているという点に特徴がある。展示方法などは資金潤沢な博物館と比較すれば地味で、公的な助成金が少なく、財団としても大企業が加わることがないからではと推測される。

◆施設

白老町ポロト公園の一部を占め、屋内と屋外の施設全体が「ポロトコタン」(「アイヌ民族博物館」とも称する)で、その内部にあるひとつの建物がさらに「アイヌ民族博物館」となっている。財団名称も同じなので紛らわしい。
ゲートで入場料を払う。通常の土産物店はゲート前に並び、入場しなくとも買物できる(駐車場料金は必要)。
ゲートを入ってすぐに、高さ16mのFRP製「コタンコルクル」というアイヌ先駆者の像が迎えてくれる(冒頭写真)。

アイヌ民博ポロト湖
ポロト湖とチプ(丸木船)

地図でも表記されている「ポロトコタン」は「大きな湖の村」という意味。コタンはアイヌの村を示す言葉で本来居住者の居る集落を指すが、ここでは観光施設の固有名称であって、実際に住んではいない。

園内に作られている主な施設は入口側から次の通り。

「セッ」 ヒグマの飼育檻。伝統的なオリでなく、鉄製の檻に数頭の成獣ヒグマが飼われ、販売している餌を与えることができる。木製の伝統的な熊檻「ペペレセッ」も別に復元されている。
アイヌ民博ヒグマ
左上からのパイプを通して餌が届く。ちょうどこのクマは餌をもらったところで、次を期待している。

「北海道犬」 檻の中に北海道犬(ほっかいどういぬ)多数が飼われている。北海道犬はアイヌ犬とも呼ばれる。なお南極で活躍したのは異種の樺太犬(からふといぬ)である。
アイヌ民博犬

「アイヌ民族博物館」 伝統的な家屋をデザインした現代建築の博物館。入園料で見学自由。
館内広さ中程度 資料室あり 書籍を主とした売店あり 土日にボランディアガイドあり
アイヌ民博博物館

「チセ(住居)」 外観の似た5棟が並び、内部で古式舞踊や手工芸実演を見せてくれる。軒先にはサケを干していたり、かたわらに小グマを飼う小屋や食料庫が復元されている。
アイヌ民博チセ

「野草園」 アイヌ民族が食用や薬用にしていた植物約50種類を実際に栽培している。

ほかに民族料理もメニューにしたカフェ、チプ(小舟)、休憩所など。


◇古式舞踊の公演


チセに設けられたステージで開園時間内の毎時15分から開催、所要25分ほど。アイヌの紹介から始まり伝統楽器「ムックリ」「トンコリ」の演奏、剣の舞、子守歌、群舞「イオマンテリムセ」などを実演する。この施設の目玉アトラクションとも言え、毎日毎時行われるので時間を決めずに訪問しても見逃すおそれがない。
ここでは洗練された芸術性を期待してはいけない。これらの古式舞踊は国の重要無形民俗文化財に指定されているが、演じる人々は芸術大学で技術を磨いたわけではなく、人間国宝のような伝承者がいるわけでもない。近代まで続いていた歴史を見学すると考えたほうがよい。
アイヌ民博イヨマンテリムセ
クマ送りの儀礼で行われていた群舞「イヨマンテリムセ」。

アイヌ民博ムックリトンコリ
左が口琴楽器「ムックリ」、右が五弦楽器「トンコリ」。いずれも北方民族全般に広く伝わっている。


★ご注意★
以下では近代以降のアイヌの苦難や現在の問題まで取り上げてますが、これらは筆者の関心によるものであって、アイヌ民族博物館の展示ではほとんど触れていないことです。


 2 アイヌ民族の基礎知識               
アイヌの一般的基礎知識は様々な資料から調べられるので、ここではごく基本的かつ重要と思われる事項の紹介に留める。

◆アイヌとは


アイヌ民族とは北海道だけでなく樺太(からふと=ロシア領サハリン)南部、千島列島に暮らしていた共通する文化を持つ先住民族を指すそれぞれ北海道アイヌ樺太アイヌ千島アイヌと呼ばれていたが現在ではロシア領の樺太にはロシア国籍のごく少数にとどまり、千島列島には居住していない。樺太アイヌと千島アイヌは近代以降にロシア(及びソ連)と日本との領土交渉で移住を強制され、千島アイヌは消滅している。
またユーラシア大陸、グリーンランド、アラスカなど北半球の寒帯に暮らす諸民族とも類似する点が多く、「北方民族」と総称することもある。

アイヌは北海道全土に居住していた古代縄文人の後裔と見られるが、「アイヌ文化」と呼ばれるのは13世紀以降である。
アイヌは独自の言語「アイヌ語」、口承の説話、宗教観を持ち、本州以南の和人から様々な影響を受けながらも近年まで700年以上にわたる伝統的な生活を営んできた。
明治政府以来の圧迫で「日本人化」を余儀なくされた経緯もあり、伝統文化のほとんどは失われ、現在では純粋なアイヌはいないとされる。日常生活でも通常の日本人と変わらず、本人が言わない限りその人がアイヌであるかどうかは友人になっても気付かない。
近年は先住民族の地位回復という世界的な潮流を受けて、アイヌ民族も積極的な活動が増えている。1994年から1998年まで参議院議員を務めた萱野茂(かやのしげる)は初のアイヌ国会議員であり、アイヌの地位向上、文化継承に功績を残した。
アイヌ民博正装男女
盛装した男女の等身大像

◆呼称の用法

「アイヌ」という言葉は「人」の意味なので「アイヌ人」という使い方は誤り。一人に対しても集団にも用いる。かつて和人が蔑みを含めて使っていたが元々蔑称ではなく、現在のアイヌもこの言葉を適切としている。
(本記事では一般的なアイヌに対しては「アイヌ」、特有の文化を含む全体を指す場合に「アイヌ民族」と表現する)

「和人」は明治時代頃までのアイヌから見たアイヌ以外の日本人を指す。単に「日本人」とすると日本国籍になっていたアイヌが含まれるかどうか微妙な問題になるため、当時の一般日本人を「和人」と表現するのが普通である。
アイヌは和人を「シャモ」、時には「シサム」と呼んでいた。「シャモ」は元は中庸の言葉だったらしいのが次第に快く思わないという響きを伴うようになり、最近は使われない。

「シサム」は隣人という意味がありアイヌ同士で普通に使い、時に和人にも用いた。

また、北海道アイヌ協会は1961年から2009年まで「北海道ウタリ協会」という名称だった。「ウタリ」は同胞の意味。設立当初の「アイヌ協会」を1961年に「ウタリ協会」に改称したのは当時「アイヌ」という名称に抵抗のある人が多かったからという。2009年に戻したのは、先住民族としてよく知られた名称を使うことで、組織の性格を明解にするためだという。

◆アイヌ民族の歴史(簡略版)

・数千年前、日本列島で縄文文化が広まっていたころは、本州島と類似した文化が北海道全体に広がっていた。この時期は北海道でも縄文時代と呼ぶ。
・紀元前5~6世紀頃から本州以南が弥生時代に入り急激に変化したにもかかわらず北海道では弥生文化の流入は少なく、1世紀から7世紀は「続縄文(ぞくじょうもん)文化」、続く13世紀までは「擦文(さつもん)文化」と呼ばれる独自の時代が続いた。
・この間に平行して北部や東部では6世紀から13世紀に北方から影響を受けた「オホーツク文化」という時代があった。
アイヌ民博03年表

弥生文化が青森まで達したのに北海道まで普及しなかったのは、寒冷のために稲作ができなかったことが第一要因と考えられている。このために北海道では明治に入るまで水田を営まず、米を食べず、農耕をほとんど行わなかった。

・『日本書紀』には7世紀に阿倍野比羅夫(あべのひらふ)が遠征して蝦夷や北海道の民族、さらに樺太まで征討したという記録があるが、定かでない。

・津軽海峡を挟んだ本州との交流は縄文時代から絶えず行われていた。
・鎌倉時代から道南地方を中心に、和人との交雑は始まっていた。

・渡島半島など道南地方では 戦国時代から蠣崎(かきざき)氏が進出し、江戸時代には後継の松前藩が幕藩体制の一翼を担った。直接の管理は渡島半島南部に限られたが北海道全体に影響を及ぼした。

・15世紀ごろから和人の経済進出が活発になり、衝突も起きるようになった。
・1457年、アイヌ刺殺事件をきっかけに「コシャマインの戦い」が起きた。
・1669年、交易条件に不満を持ったアイヌと松前藩との間に「シャクシャインの戦い」が起きた。
・1789年、根室半島と国後島で和人商人の横暴に対して「クナシリ・メナシの戦い」が起きた。
 これらの戦いはいずれもアイヌ側の実質的敗北に終わり、和人による支配が厳しくなっていった。

・明治政府はロシアの進出を警戒したことからアイヌを日本に取り込むため様々な施策を行った。これが「旧土人保護法」に象徴されるように和人の価値観を押しつけることになったため、アイヌは適応できず困窮を深めることになった。

・江戸時代から和人が全道に進出するようになるとアイヌに天然痘が流行し、これも人口の減少を招いた。

・「北海道」という地名は幕末から明治初期の探検家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)の命名である。
・「旧土人保護法」が廃止されたのは1997年で、代わって「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(=「アイヌ文化振興法」)が制定された。

◆補足事項:民族とは

学術的に民族の固有性を論じる場合、もっとも重視されるのは言語と宗教である。他の集団に通じない言語を持つ一団は○○族、○○語族と分類されることが多い。宗教や特徴的な習俗で分けることもある。
アイヌには方言もあったが、会話の成り立つ共通の言語を持っていた。また和人やロシア人と話すには通訳を必要とした。
現在母語としてアイヌ語を話している人が一人もいないと言われ、これが純粋なアイヌがいなくなったと判断する一番の根拠とされる。


 3 アイヌの現状                      

◆アイヌの人口

博物館の掲示によると現在、国内のアイヌ人口は北海道に約2万4000人、東京に2700人である。
ほかの府県では調査が行われていないため不明。歴史を通じて総人口が3万人を越えたことはないと推定されている。
なお現在の社会でアイヌと認定する客観的な定義付けはなく、人口数は「私はアイヌです」と名乗り出て、アイヌ協会の名簿に記載された人を数えたものである。
この人数は日本全体からは5000分の1、北海道の人口550万人から見ると230分の1になる。実際にはこの数字以上に名乗り出ないアイヌがいると推定されている。
名乗り出ない人たちというのは出自を隠したい人たちであり、ここにアイヌ民族が未だに抱えている陰がうかがわれる。

なおWikipediaではポーランドにアイヌの末裔がいるとか、人口が推定20万人という調査があるなどの記述があるが、これは信頼できない。歴史を通じてアイヌの総人口は3万人を越えたことがなく、明治以来さらに減少したとも言われていて、そこから急増するはずはない。そして混血の子孫だとしても異国でアイヌ文化を勉強し身に付けられるのかも疑問。

◆アイヌは差別されているのか?

この小稿を書くにあたりインターネットで色々検索していて、「YAHOO!知恵袋」に気になるQ&Aがあったので、触れておく。
ここでは「“アイヌ民族”は存在しないので“アイヌ差別”も存在しません」
という見出しの下、北海道在住の人が長文で持論を展開していた。
内容をまとめると、「アイヌです」という人も現在は普通の日本人であり伝統的な暮らしや、アイヌ語での会話はまったくなく、被差別の街も存在しない。日本は現在単一民族国家でありアイヌ民族そのものは存在せず、ゆえにアイヌ差別も存在しない、という論旨であった。
ここの記述は半分正しく、半分正しくないと思われる。

筆者の感じるところで、アイヌ民族博物館などで紹介されているものは生きた文化でなくすでに“遺物”であることは事実と認めなければならない。毎日披露されている古式舞踊は「こういうものがあった」という過去の姿を見せているとも言える。
アメリカ先住民が保護下において伝統的な暮らしを実際に行っているのと、同一視はできない。
こう考えると、文化が存続していない以上、アイヌ民族はもはや存在しないというのも成り立ちそうに思える。

「半分正しくない」というのは、これで民族が存在しないと結論するのは早計であることと、差別がないとは言い切れないからである。
ボランティアガイドからは実際に差別があると聞いた。どんな実態を指しているのかはよく解らないが実情を知る人が語るならば軽視できない。

「知恵袋」の投稿者はアイヌを自称する人と会ったことがなく実態に詳しくはないと認めていたので、その範囲の知見で民族も差別も存在しないと結論するのは早過ぎる。

筆者の暫定スタンスを述べておく。
「アイヌ文化」は過去のものになったが、「アイヌ民族」は存在すると考える。
差別の疑いは拭えない。そしてアイヌ民族の存在については、この場合学術的な定義は重要でなく、日本社会のあり方として望ましい姿を求めるべきだと考える。それは生きた文化としては終わっているがつい100年前までは存在し、多数派の我々和人の無理解が消滅に追い込んだという反省を込めて、アイヌ民族の存在、伝統文化の保護・伝承を応援するべきだということである。
もし民族も差別も存在しないと考えると我々は反省の機会を失い、少数民族というものに対する尊重の気持ちが育まれなくなることを心配する。
ただし現実的にいろいろな問題をはらんでいることは後述する。


 4 古代史研究から:縄文文化とアイヌ文化の関係  

◆1万年続いた縄文時代

日本列島では1万2000年前からの縄文時代が約2600年前の弥生時代開始まで、1万年もの永きに渡った。北海道から沖縄まで広がっていた縄文時代の様子は、区別こそつくが大局から見れば地域差も時代差もわずかなものである。

北から南までほぼ均質な縄文文化に染まることになった第1の理由は1万年という長さだろう。
第2の理由は閉じられた世界だったからで、縄文時代の航海技術では朝鮮半島などとの往来が困難なため、外界の刺激を受けることがなかった。祖先がどうやって日本列島に上陸したのかと言えば、石器時代の氷期に対馬海峡と宗谷海峡がほぼ陸続きになった時期があり、渡ってきたというのが定説である。

第3の理由としては縄文人同士の活発な交流があったからである。縄文時代は陸路よりも丸木船で沿岸を移動することが多かったと見られる。その技術でも津軽海峡が障害にならなかったことは、沖縄産の貝が北海道の遺跡から見つかることで明らかになっている。

縄文時代は「土器を使った」ことが最大の要素である。金属はなく、石器のみで木を伐り、家を建て、獣を狩り解体して、骨を利用した釣り具で魚を捕った。粘土を捏ねて焚き火にくべるという単純な方法で土器を作ったことは、石器時代に較べて加熱調理による革命的な食生活を実現した。

◆弥生時代への変化から取り残された北海道

一方、続く弥生時代は朝鮮半島から渡来人がもたらした文化とされ、そこでは青銅器と鉄器が使われ、何より稲作の導入によって食糧の安定、共同体の人数増加、階層の発生、そして戦乱という変化が始まった。

新しい時代のはずの弥生文化は青森までは短期間で伝わったのに、北海道には届かなかった。また南の沖縄では稲作が行われたが九州とは距離のある文化が続いた。この北と南の両端は日本の国に帰属せず、列島主要部と関わりの薄い独自の歴史を歩んでいく。

北海道に弥生文化が入らなかったのは寒冷ゆえに稲が育たないためと考えられる。実際に明治に入っても品種改良が成果を挙げるまで、北海道では米を作れなかった。金属は交易で入手し弥生文化の一部は導入されたのだが、稲作を行わないために共同体の構成人数が増えたり、階層が分化したり、総人口が増えることはなく、アイヌの栄養は植物より動物食に依存し続けた。

◆北海道アイヌと縄文

弥生文化の到来前に全国に居住していた縄文人は急速に渡来人と交雑し、縄文人の文化だけでなく遺伝子も中世までにはほぼ一体になったと推定されている。
9世紀初頭に坂上田村麻呂と戦ったアテルイなどの東北蝦夷(ここでは“えみし”)は、決して縄文人の後裔ではなく、すでに遺伝子面でも文化面でも弥生人後裔同士の戦いだった。

一方北海道の人々が交雑するのはかなり遅くなり、本州以南では急速に失われていった縄文文化が北海道には永く残ることになった。
先に住んでいたという意味では縄文人は日本列島の先住民であり、「原日本人」という表現も間違いではない。北海道アイヌには北方からの影響もあるので完全な末裔とまでは言えないものの、本州以南に比較すれば多くの縄文要素を残してきた。

縄文人の文化面では、生活・宗教観など、2000年以上前に終焉してしまったため謎になっている部分が多い。それゆえアイヌ文化を研究することによって、縄文文化を解読する鍵が得られるのではないかと思えるのだ。


 5 アイヌ文化の特色 Pic Up!                    
アイヌ文化の興味深いものをいくつか、筆者の好みで紹介しておく。

◆イヨマンテ(イオマンテ)

1950年ころ流行った歌謡曲『イヨマンテの夜』はアイヌ文化を正しく伝える歌詞ではなかったがイヨマンテの言葉を有名にし、アイヌの行事と言えばこれがお祭りとして連想されるようになった。ただし誤解混じりになっているらしい。

イヨマンテは「熊送りの儀式」「クマ祭り」と訳されるが正しくは「クマの霊送り」と呼ぶ。集落で飼っていた熊を処理するに際し、近隣集落から大勢が集まって何日も盛大に飲み食いするという最大の行事を指す。酒食を楽しみながら情報交換し、男女が出逢うことも目的だった。

アイヌによる説明ではクマを「送る」と表現されるのが常だが、要するに殺処分し、食べるのである。アイヌにとってクマは神からの贈り物であり、神が宿っている。クマ内部にいた神を送り出し、ぜひまたクマに宿って我々のもとに来て下さいと祈る。
イヨマンテを行う動物はクマに限らない。行事の規模はクマが最大だが、シマフクロウ、オオカミ、キツネなど多くの動物でも類似の霊送りが行われた。

このクマ送り儀礼はアイヌだけでなく、ユーラシアから北米の先住民・北方民族全般に見られる文化であり、北海道では6世紀以降に北から渡来したオホーツク文化の影響でもたらされた可能性が言われている。

なおクマ狩りは春に冬眠から醒め切らないクマを仕留めに行くのが普通で、活発なクマに危険を冒して対決するというものではなかった。この時に子熊がいた場合に連れ帰り、村で1~2年の間飼ってからイヨマンテに至る。子熊を連れ帰れるチャンスは多くなく、イヨマンテも数年に一度程度の開催だったらしい。
アイヌ民博クマの霊送り

◆「カムイ」という語

日本語に訳すと「神」となってしまうが、これは適切でない。特にキリスト教などの唯一神とは違い、強いて言えば神道でいう八百万の神に近く、自然の万物、さらに人の作った物品や自然現象にも神が宿るというのがアイヌの宗教観であり、それぞれの神が「カムイ」である。またカムイは人間のような姿と人格を持ち、上位から下位まで、善から悪までの多様な存在であると考えている。人間(=アイヌ)や物の背後にある霊的な存在すべてがカムイである。

◆食生活

アイヌは米を作らなかっただけでなく、交易で入手することもほとんどなかった。農耕はわずかな粟・稗を栽培する程度で、ほかに樹木の実、根など食用になるものの採集を行っていた。オオウバユリの根はデンプンの粉にして3年分の保存食とされた。

主食は動物で、シカ、クマ、魚介類でサケ、マスを中心とし、アザラシやセイウチといった海獣類も狩猟し脂肪は調味料や照明に用いた。ビタミン摂取は動物の生食からというのは俗説らしい。生で動物を食べることも時にはあったらしいが、自然の植物食でビタミンを得ていたようである。

なお江戸時代後半に北方警備のために駐留した武士たちは脚気に罹り、死亡者を多く出した。本州での食生活を持ち込もうとして野菜不足になったためと言われる。

注目したいひとつはアイヌは塩を使わなかったということである。ごくわずかに交易で手に入れた塩を調味に用いることはあったらしい。しかしそもそも海を前に暮らしていても製塩を行わなかった。

現代日本人は塩分を摂りすぎと言われる。これは漬け物文化の影響であろう。塩は元来味付けのためでなく食品保存のために必要とされた。日本のように冬に農耕生産がゼロになるような条件では保存手段が重要で、海に囲まれ生産が容易だったことが塩漬け食品を発達させ、味覚を塩味に慣れさせたのだと推定している。

しかし塩の利用が始まっていた縄文時代、内陸に住む人々はほとんど塩を使わなかったはずである。アイヌも塩を口にせず1000年以上暮らし続けてきた。こう考えると塩は人の生存に必須なものではないことが解る。

アイヌ民博ウバユリ採取  
オオウバユリ採取の様子。栽培することはなく野生のもので充分足りたという

◆アイヌ語

かつては北海道ではもちろん、アイヌの移住者がいた東北地方でもアイヌ語が使われていた。
現在、日常にアイヌ語を話す人はいないが、使える人は少なからずいる。最近は学習者も増えてきて、各地で講座が開かれ、北海道の民放ラジオでも週一回、アイヌ語講座を放送している。

文字はなく、便宜的にカタカナで発音を表示する。
日本語とはかなり遠いが、文法や発音には共通点がある。
言語学の観点から日本語との関係を探るのは興味深いがまだ研究が途上にあって、なんとも言えないのだという。しかし「神」と「カムイ」、「タマ」とアイヌ語のタマ「魂」、「拝み」とアイヌ語「オンカミ」など宗教用語に似た言葉があるとも指摘されている。
縄文文化の伝統がアイヌに残っているとすれば、言語での共通点も、縄文人の言葉を残しているからと考えられないだろうか。

かつて金田一京助が「日本語とアイヌ語は関係ない」と言ったという。大家がそう発言してしまったために比較言語学の面から研究が進まなかったという意見がある。今はその呪縛が解かれようとしている段階らしい。

また、北海道の地名は札幌(大きな乾いた土地の意)をはじめ、90%がアイヌ語である。インターネットでいくらでも出てくるので興味ある方はぜひ調べてみていただきたい。

◆アイヌはなぜ文字を生まなかったか

無文字社会は、後世の研究者泣かせである。日本古代史でも弥生時代や古墳時代に文字を残してくれていればどれほど謎を解明できていることか。

しかし世界の民族をよく見回してみれば、文字を使うのは規模の相当大きな集団に限られる。目安は100万人だという。人が多く、面積が広くなると正しく伝達するため意図的に創造されるのが歴史の原理だそうだ。

北海道は広い。しかしアイヌの人口はいつでも少なかった。近隣とは会話で通じ、函館と根室のような遠距離は会うことがなかった。
文字を創造することは鉄を材料から作る技術に較べれば容易とも思えるのだが、この社会規模では必要性が高まらなかったのであろう。

◆金属の使用

弥生時代を特徴付ける二大要素は農耕と金属であり、このうち農耕は和人と交流していたにもかかわらず、アイヌに伝わらなかった。一方金属は交易で手に入れるようになった。本州以南では7世紀から鉄生産が始まっていたのに対し北海道では生産することがなく、手に入れた貴重な製品を作り直しながら使っていた。
なお、白老コタンでの古式舞踊でも太刀を振りかざす舞が披露されているが、江戸時代に反乱を恐れた松前藩が刀剣の流入を禁じて以来武器としての刀を手にすることはなく、鉛製などの切れない刀が宝器として儀礼に使われたのだという。

◆宗教観

アイヌ民博アイヌとカムイの図
博物館の壁一面に描かれたアイヌの暮らしと背後にいるカムイの姿。中央上部には「カムイモシリ(天上の神の国)」にある最高位のカムイ達がいる。

万物に神が宿るという日本古来の思想とアイヌの「カムイ」は似ている。
これは縄文時代以来の宗教観を残しているからではないだろうか。
日本では紀元前6世紀頃から波状的に弥生文化が入り続けたのち、6世紀に仏教が伝わり、瞬く間に全国に普及した。仏教伝来以前には神道として各地に神社が建てられていた。自然の山、滝、岩を神と祀る神社も多い。残念ながらここでも創建当時の文字記録はなく、古い神社の起源はほとんど解らない。
縄文時代の宗教観、世界観や人生観は限られた遺物から想像するだけである。そのヒントがアイヌ文化に隠れているかもしれない。

アイヌは永いあいだ同じ暮らしを続け、技術革新は起こらず人口も増えなかった。
人口が増えないということは、生まれた子供の半分以上は大人になれなかったということを意味する。

アイヌの宗教観ではこのような場合、子供は神のもとに還って、やがてまたやって来ると考えるという。だから周囲は悲しまない。埋葬では簡単な棒状の墓標を建て、墓参りはしない。
悲しい出来事があっても嘆かない、神の行いであり自然の摂理であると受容する。大きなことを望まず、現状に満足し、幸福を見いだす。このようにして変化のない社会を維持してきたのだと、研究者から聞いた。技術革新があれば苦労が減り、新しい快適さが手に入り、人口も増えるのではないかという我々流の考え方をアイヌはしなかったという。

しかし筆者には、そこには容赦ない自然条件の下で忍従して生きなければならない人々の“諦念”があるように思われた。諦めるための理由付けとして“宗教”が作られていったのではないだろうか。

もし本州以南の生活を知り、選べたならばアイヌはどうしただろう。
中世に東北地方に移住したアイヌの集団もいたことが分かっている。彼らが北海道に戻った形跡はないという。戻らなかった理由は、東北の暮らしがよかったからではないのか。
松前藩はアイヌと和人の交流を制限していた。和人の優位性を維持するためには、アイヌを目覚めさせないことが得策と考えたのだろう。
もし手を伸ばせば掴める距離に別の暮らしがあったなら、アイヌの宗教観も伝統も変わっていたのではなかったか。自ら変化を望まず、周辺もそれを許さずに続いてきた歴史は後の苦難を必然としたように思う。


 6 教育現場でのアイヌ史                   

NHK教育テレビ高校講座日本史31「蝦夷地から北海道へ~近代日本と北海道・アイヌ~」を見た。
この番組では明治時代の北海道を取り上げ、アイヌの歴史を大きく紹介している。その内容は筆者の目に、充分客観的で公正な視点に立っていると映った。

このような近現代のアイヌ史が公共の場で正しく教えられることは、博物館のボランティアガイドによれば18年前から変わってきたことなのだという。18年前というのは、1997年に「北海道旧土人保護法」が廃止され「アイヌ文化振興法」が公布される直前である。この法律改正の直前になって変化が始まった。それ以前は、アイヌ民族の苦難の歴史が公立の学校で教えられることはなかったのだという。

そう語ったボランディアガイドは、中学校向け副教材『アイヌ民族・歴史と現在』という48頁の本を筆者に渡してくれた。豊富なカラー画像を使い、アイヌの基本的な歴史事項が易しく説明されている。2008年に初版が道内の中学校に配布された。
ところがどうやら学校ではこの本が充分活用されていないらしい、とそのガイドは嘆く。博物館に来た中学生に訊ねると知らないと答えるのだそうだ。

最初、限られた日本史の授業時間に余裕がないのではと想像したのだが、よく内容に目を通すうちに、アイヌの側から近現代史を描いていて、自ずとアイヌは被害者、和人は加害者というニュアンスが滲んでいることが解ってきた。教員がその教材を生徒に紹介することは自分たちも加害者の一翼だったと認めるようで、簡単に踏み切れないのではないか。

もちろん『アイヌ民族・歴史と現在』では強硬な表現を避け、未来志向を願って執筆されているのだが、見方が偏っていると筆者にも感じられる部分はある。そのまま教える教材でなく、こういう見方があるという使い方に留めるべきかもしれない。

本州で30年以上前に教育を受けた筆者の世代では、学校でアイヌの歴史を教わることはまったくなかった。北海道の教育ではどうだったのかよく分からない。自らも教職にあったというガイド氏は教員自身にアイヌ史の知識がないのが大きな問題だとも言う。

NHKが40回の高校講座のうち1回をアイヌ史紹介に使ったことは時代を見据えた上層部の判断だったろう。北海道の教育現場が変わるとしても、まだ時間がかかりそうだ。


 7 明治政府によるアイヌの扱いをどう見るか            

述べてきたように、アイヌに対する明治政府の基本姿勢は伝統文化の価値を軽視し、民族として日本人より低い存在と見なすものだった。
これは世界史に溢れる異民族の出会いと本質が同じと言ってもよい。
ただし筆者には、明治政府のやり方がそれほど非人道的でひどいものだったとは思えないのである。

◇時代背景の制約

明治政府がアイヌの日本人化を急いだことは無理からぬ面がある。
幕末以来しばしば姿を見せるロシアの軍事力に脅威を感じていた明治政府にとって、北海道の防備を固めることは急務だった。移民を奨励し開拓を図ったのも、富国強兵政策の一環と同時に、人口を増やし北海道全体を近代化させる狙いがあった。

この時、先住者であり変化を望まないアイヌに対してはそのままの暮らしを認めるか、日本社会に同化させるかのいずれかという選択肢があったはずである。

前者を採り、アイヌの伝統的生活を認め、何も日本人化政策を施さなかったらどうなっただろうか?
根本的に和人が進出をやめるというのはあり得ない趨勢のもと、圧倒的な経済力と人数の進出に囲まれて、わずか2万数千人、それも一体にまとまることなく少人数ずつ分散したままでは、虐待を加えなくてもアイヌはたちまち貧困の極みに陥り数世代のうちに人も消滅してしまっただろうと考えるのが、世界史の教えだ。

アイヌの進む方向は、伝統文化をどの程度守りつつ日本人化するかという狭い角度しかなかったのではないか。日本に同化することはいずれ避けようがなかった。

◇明治政府のアイヌ施策例

・明治政府はアイヌの子供を学校に入れ、日本人として無償で教育を受けさせた。ただし日本語による日本語教育であり、アイヌ語は教えられなかった。
・一人一人に日本人風の姓名をつけさせた。アイヌ自身で決められない場合に、和人の役人が恣意的に提案したのを受け容れることもあった。
・禁止された習俗は、文身(いれずみ)とイヨマンテなど猟でなく動物を殺す儀礼。
(筆者が手にした文献上からは他にどの習俗が禁止されたのか分からない)
・農業へ誘導するため、狩猟・漁労といった伝統的な生業を規制した(全面禁止ではないらしい)。
・土地所有はアイヌの既得権を認めず、和人入植者と同じ権利を与えるとして開拓のための土地を無償給付した(入植者でもアイヌでも、開拓できなかった場合は没収される条件が付いていた)。
・さまざまな理由で移住を強制した。千島アイヌは軍事上の理由で色丹島へ集められたことが、消滅のきっかけになったとされる。入植者の開拓の都合で移住させられることもあった。

ところである論者(アイヌの一人)からは明治政府はアイヌを「保護」したのだという意見があった。これはどこまで正しいだろうか(100%正しい、100%誤りということはない)。
文化に対する知識や理解が乏しかったことは確かだ。一方で、先に述べたように放置すれば自然消滅に向かっただろうと考えれば、施策は「保護」の役に立ったと言えることになる。しかし結果的に現在アイヌ文化はほとんど消滅してしまったので、意図が「保護」だったとしても失敗したことにならないだろうか。または生きた文化は消えたが「保護」のお陰で人は残ったので、これで許容するべきだろうか。
そもそもアイヌ文化を生きたまま、残していくことは可能だったのだろうか。

◇一番の苦悩とは

日本人化の施策はアイヌを幸福と不幸のどちらに導いただろうか。
多くのアイヌはこの時期、自分がアイヌであることに強い劣等感を覚えるようになったという。和人からアイヌは遅れている、立派になれるよう我々が教育してあげると言われて日々を過ごすうちに、いわば「マインドコントロール」に導かれてしまい、アイヌらしさを自ら忌避し、出自を語らず、日本人らしさを求めるようになったらしい。
萱野茂によれば、昭和に入ってもほぼすべての若いアイヌがこのような苦悩を経験していたという。
慣れない農作業や日本語の会話、引き離された故郷、それら以上に自らの尊厳を否定されることは若者の人生観を暗く染めただろう。、
そのような精神状態に陥り、陰鬱な気持ちで生活するのは間違いなく不幸な状況と言える。
明治政府の施策がもたらした一番の毒は(意図していなかったのかも知れないが)、「あなたたちは劣等だ」という意識を植え付けたことではないだろうか。

教育において、言語・計算・歴史などの処理能力や知識を伝授することの有意性は当然だが、コンピュータのような機械とは違って自意識を持つ人は、「自分はどのような存在なのか」という命題を常に抱いているものだ。存在価値が低いと思いこませることは教育の基本姿勢で間違っている。

◇アイヌの選択肢

こうして多数のアイヌがアイデンティティーを喪失していく時代に、強い精神で誇りを取り戻そうとする人もいた。
もっとも有名なのは「アイヌ神謡集」を遺した登別コタン出身の知里幸恵(ちりゆきえ)であろう。
知里幸恵についてはWikipediaなどネット上で多くの情報が得られるので、ここでは説明を省かせていただく。彼女の場合は生来の知力・精神力だけでなく家族という環境が支えになったように思われる。
 アイヌ民博知里幸恵 知里幸恵の肖像

そして逆に、新しい時代を見据えて日本人化を積極的に選ぶアイヌも少なくなかったともいう。日本人化することで経済的恩恵が得られるという事情は、明治政府が用意したのでなく時代の流れとしか言いようがない。

明治政府は日本人化を誘導したが武力を背景に強制したとまでは言えず、ましてアフリカ黒人やオーストラリアのアボリジニのような一方的殺害例は聞かない。江戸時代には和睦交渉の席でのだまし討ちがあったが、明治政府はそこまで非道な扱いはしていない。

もちろん今から見れば、もっと緩やかにするべきだったし、アイヌ文化を維持しつつ日本人化を実現させる方法も試みるべきだった。批判されるべき点は幾らでもある。
それでも時代の流れは同じところへ届いていったろう。アイヌの文化が形骸化していくことは、どう考えても避けられなかったはずである。

これらの変化は鎖国によってほぼ固定された江戸時代までの文化を否定し、欧米列強へ追いつこうとした明治新政府の状況と似ている。ただし明治新政府は自ら邁進したが、アイヌは否応なく強いられたという違いがある。


 8 これからのアイヌ文化                  
将来に向けて、アイヌに対しどのような政策を実施し、私たちはどう接していくことが求められるのだろうか。

◆アイヌの現状と今日的問題


アイヌ協会では当然ながら、アイヌ民族は実在し今も差別を受けているとする。政治家の鈴木宗男が「アイヌも今では日本人に同化しています」と発言した時に抗議し、撤回させている。
しかし筆者はアイヌ協会の主張を全面的に受け容れることはしない。

アイヌの文化が現在も生きているようには見えないことが主な理由である。様々な復興作業は崩壊した物を形だけ復元しているに過ぎない。

民族にとって最重要な要素であるアイヌ語を学習する人は増えているくらいだが、外国語学習と同じで、ネイティブとして使う人はいないという。伝統家屋「チセ」に住むこともなく、川でサケを獲り主食にする人もいないだろう。時々挙行される最大の行事「イヨマンテ」は長い間途絶えていたものを観光と記録、若いアイヌに教えるのを目的に再開したものに過ぎず、本物のイヨマンテではない。
アイヌの人々にも、かつての伝統的な生活に戻りたいと思う人はいないはずである。

特有の文化形態がなく24時間普通の日本人に見える以上は「同化した」と認定するしかなく、鈴木宗男発言は実態を反映していて間違っていないと思う。文化人類学から見た場合、アイヌは消滅してしまったと言える。

しかし、社会は学術上の定義に縛られる必要はない。薄くともアイヌの血統に生まれ、アイヌと見られることを受け容れ、先祖が残した文化に誇りを感じて後世に伝えようとする人々がいるのなら、アイヌの存在を認めてよいというのが筆者の考えである。

アイヌの側にも改善するべき問題がありそうだ。
先に引用した投稿者も指摘していたことで、公に触れられないポイントがある。アイヌに対して公的な補助金が使われている。
個人対象はアイヌと認定されることが条件になるので、普段出自を口にしない人も協会へ登録する動機付けになっているという。アイヌは過去と現在の差別によってハンディを強いられているからというのが制度の建前なので、もし日本人に同化しているのならば、給付する理由がなくなってしまう。

アイヌ協会のHPでも補助金のことは述べられていない。しかし受け取っている以上、使途や必要性を説明することで信頼を得られ、アイヌの地位向上にプラスとなるのではないだろうか。文化面の援助として博物館の運営費や復興行事の経費を補助することは必要だろう。しかし貧困ならば生活保護という別の制度がある。差別があるならば実態を告発し、防止措置を社会全体で考えていくべきだ。
そして補助を得たいために名乗り出て、しかしアイヌ文化へ関わりを持とうとしない自称アイヌはアイヌと認めたくない。民族は固有の文化を持ってこそ成り立つ。
民族の誇りがあるならば補助金を受け取ることはむしろ恥と考えるべきで、胸を張って自立を目指す人をこそ応援したい。

◆アイヌ文化とアイヌの歴史から何を学び得るか


性格の異なる文化からは謙虚に学ぶ姿勢で接すれば多くの教材が得られるはずであり、アイヌから何を学べるかは、我々の見識と感性にかかっている。
では、過去のものになったアイヌ文化にはどのような意味があるのだろうか。保存伝承する価値はどこに求められるのか。

アイヌ文化に接して学べる一番のものは、習俗の背後にある精神性ではないだろうか。物質技術が変わろうとも自然の背後で目に見えない対象から何を感じ、人間と自分の存在をどう位置付けるかは、歴史を越えて普遍的な課題である。アイヌ文化の柱とも言える「カムイ」を受容し感謝する精神文化は、特に物質文明に翻弄されがちな現代人には見つめ直すべきテーマと思われる。
博物館や少なくとも形の伝承されている習俗を残す意味は、「カムイ」へ想像力を広げるための目に見える導き役として有用だからだ。そこに文化を残していく一番の意味がある。

そしてアイヌと和人の接触は近代史の一節としてもっと授業に取り上げるべきである。まず教育現場から変わる必要があるというのもひとつの教訓となる。中世から近世・現代に至るまで、日本の中心を構成する人々によって、弥生文化に距離を置き独自の歴史を歩んだ北と南の地域が蹂躙されていったことを本来ならば、すべての日本人は日本史の学習によって知っていなければならない。
私たちはアイヌと琉球人に何をしたのか。彼らはどう変わり、日本はどう変わったのか。
例えば北方領土問題を語るならば、千島列島には北海道アイヌと似た人々がずっと居住し、日本の中心とはほとんど関わりがなかった。彼らがなぜ日本人となり居住地が日本の領土になったのか。
19世紀まで中国(清)に朝貢していた独立国の琉球はなぜ日本になったのか。
それらの知識の奧に多くのテーマが見えてくる。

日本は単一民族なのか。
単一民族国家と多民族国家の本質的な違いは何か。
民族とは何か。
異文化の接触で何が起きるのか。
異なる価値観はどうすれば共存できるのか。


これらは過去でなく、現在と将来の問題である。
アイヌに接し沖縄文化に触れることは、歴史に学び未来を創っていく大きなチャンスであろう。


◆最新訪問時期 2013年8月

◆関係先リンク 

アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/
社団法人北海道アイヌ協会
http://www.ainu-assn.or.jp/index.html

◆関連する他の主な博物館

[平取町立二風谷アイヌ文化博物館]+[萱野茂二風谷アイヌ資料館]
北海道沙流郡平取町二風谷61
http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/
(読み方:びらとりちょう 二風谷:にぶたに 萱野茂:かやのしげる 沙流川:さるがわ) 
アイヌの伝統が濃く残っている二風谷でダム湖のほとりにある町立博物館。別棟のアイヌ資料館はアイヌ文化の研究家で参議院議員になった萱野茂が収集したアイヌ民具・資料を展示している。沙流川歴史館、二風谷工芸館、松浦武四郎記念碑などが併設。
400円 資料館との共通券700円 
4月から11月無休、他は月曜休み、冬期の1ヶ月休館

[知里幸恵 銀のしずく記念館]

北海道登別市登別本町2丁目 
http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/index.html
(知里幸恵:ちりゆきえ 神謡集:しんようしゅう)
金田一京助に見いだされ日本語訳付きのアイヌ神謡集を残しながら19歳で夭逝した、明治から大正期のアイヌ女性の記念館。
500円 火曜休館

[北海道立北方民族博物館]
北海道網走市潮見(字)309−1
http://hoppohm.org/index2.htm
アイヌを含め北半球の寒帯地域に暮らす先住諸民族の文化を紹介する道立の博物館。6~13世紀に北海道北部・東部に広まったオホーツク文化も詳しく扱っている。
450円 月曜休館

◆参考資料など

「アイヌ文化の基礎知識」アイヌ民族博物館監修 草風館 1993年
「写真集アイヌ ー二風谷のウトンムヌカラとイヨマンテー」 萱野茂 国書刊行会 1979年
「別冊太陽 先住民アイヌ民族」平凡社 2004年
アイヌ民族博物館
二風谷アイヌ文化博物館
帯広市百年記念館
標茶町郷土博物館
根室市歴史と自然の資料館
北海道立北方民族博物館

博物館訪問記「アイヌ民族博物館」終わり


琵琶湖博物館(滋賀):湖とともに歩む近江の国

カテゴリー見出し博物館
琵琶湖博代表

■概要
平成8年(1996年)滋賀県立の大型総合博物館として湖の畔に開館。前身は昭和36年からあった琵琶湖文化館水族部門。
名称からは湖の博物館というイメージになるが、滋賀県の文化は琵琶湖と切り離せず、内容は総合文化・自然を紹介する滋賀県総合博物館とも呼ぶべきものになっている。
A展示室「琵琶湖の生いたち」B展示室「人と琵琶湖の歴史」C展示室「湖の環境と人々のくらし/淡水の生き物たち」、無料の屋外展示として生態観察池、縄文・弥生の森などがある。

琵琶湖博代表地形図

名称滋賀県立琵琶湖博物館 
ジャンル総合 : 琵琶湖に関連する自然科学と人文・社会科学
所在地滋賀県草津市下物町1091
開館時間9:30-17:00 入館16:30まで
休館日毎週月曜日 年末年始
料金大人750円 (駐車場550円は入館者無料)
交通機関JR草津駅から近江鉄道バス25分、琵琶湖博物館前下車
マイカー・名神高速道大津IC、瀬田西IC、栗東IC、京滋バイパス瀬田東IC
・有料駐車場あり550円 入館者は受付印で無料
その他の基点・琵琶湖大橋(普通車200円)から南へ7km
・大津市中心部から琵琶湖大橋経由で22km、近江大橋(普通車150円)経由で17km
問合わせ077-568-4811
http://www.lbm.go.jp/index.html

◇地名・歴史用語等
ー地名ー
田上山:たなかみやま 南郷:なんごう 膳所:ぜぜ
逢坂山:おうさかやま 粟津:あわづ 螢谷:ほたるだに 葛籠尾崎:つづらおざき
ー歴史用語ー
百済:くだら/ひゃくさい 
壬申の乱:じんしんのらん 大友皇子:おおとものみこ 大海人皇子:おおあまのおうじ 
擬宝珠:ぎぼし 「信長公記」:しんちょうこうき 白村江:はくそんこう/はくすきのえ


■内容詳細

・館内十分に広く、念入りに見学すると半日必要
・屋外展示もあり。
・資料室(=図書室、情報センター)、学芸員による展示解説、展示室スタッフ(「展示交流員」)いずれもあり
・学芸員が常駐する「質問コーナー」あり
・その他、情報利用室、ディスカバリールームなど、食事・休憩・売店施設あり
・展示室撮影可

・展示の華やかさは最新施設よりやや見劣りしてきたが、掘り下げは深く滋賀県内の情報が豊富。
・地質面からの琵琶湖と滋賀県地域、琵琶湖の生態系、近江地域の近現代史と民俗などが充実している。
・2016年に20年ぶりの改装を予定している。

・「質問コーナー」では日替わりで学芸員が個別の質問に応対してくれる。
・「展示交流員」が一定の勉強をしてあり簡単な質問に即答してくれる。しかしユニフォームはもう少しセンスのあるものに替えたらどうか?

・琵琶湖博物館では滋賀県の全般を扱っているが、北東20kmの近江八幡市に滋賀県立安土城考古博物館があり、県内の考古学と安土城に関してはこちらが充実している。また大津市内の歴史については大津市歴史博物館がよい。


◆基礎知識 : 滋賀県地方をなぜ「近江」と言うのか?

「江」という字は、入り江の地形、陸地へ深く入り込む海や湖、沼を指す。淡水海水共に使われる。ただし川には用いない。
「近」は、大勢の人(文化の中心地とも言える)から見て近くにあるということで、「遠い」対象と比較している。基準となる「大勢の人」は、古代にはヤマト政権のあった奈良、中世では京都の視点になる。
では「遠い江」はどこを指しているのかと言えば「遠江(とおとうみ)」「遠州(えんしゅう)」と呼ばれた静岡県浜名湖である。近畿に住む古代人で浜名湖を見た人はわずかだろうが、伝聞で大きな湖のあることはよく知られていたことが窺える。
ただし「近江」は遠近だけの意味から付けられた地名ではなく、奈良時代の文献では「淡海」「近淡海」と表記され、淡水であることも含まれているらしい。

(以下は展示から気になったテーマを取り上げます。後半2つの項目は内容が「地形地質探訪記」になっています)


■Pick up! 「瀬田橋」: 日本史が激しく往来した橋
(瀬田橋は琵琶湖の水位変化や瀬田川にも関わるテーマですが、ここでは歴史面に注目します。他の観点からは次の項目や別記事を参照のこと)

瀬田の唐橋外観
現在の瀬田橋と量水標(=水位計:右下)琵琶湖の水位を測ってきた量水標も現在は使用されていない。

「瀬田の橋はもう過ぎたか・・・。見よ、京が見える!いまひと押し、我が旗を、京に立てよ!」
これは黒澤明の映画『影武者』で、いまわの際にあった仲代達矢演ずる武田信玄が虚空に向けて放つ言葉である。

「瀬田橋」「瀬田の長橋」、主に「瀬田の唐橋」として知られるこの橋の初見は『日本書紀』である。7世紀の壬申の乱のおり、大友皇子の近江軍は大海人皇子の軍が渡れないように橋を狭く切り落としたという。その甲斐無く大友皇子は敗れ、自害して果てた。
この記録では既に橋が架かっているので、いつから架橋されているのかなど、より古い時代の様子は分からない。現在は1979年(昭和54年)に架け替えられたコンクリート製の県道となり、欄干の擬宝珠に歴史への配慮が残っている。

東国から京へ入るのに、自然地形で最後に問題となるのはこの瀬田川の渡渉であり、瀬田の唐橋は都防衛のため重要な要衝とされてきた。瀬田川を渡れば残るは逢坂の関と東山のなだらかな丘陵を越えるだけとなり、守る側にとっては瀬田川を渡らせないことが肝要となる。そのため橋は何度も戦場となり、焼失しては再建を繰り返してきた。

戦国時代、信玄など東国の戦国大名にとって「瀬田の橋を渡る」とは、京へ上洛し足利将軍家から天下人として承認を受けることであり、それは全国制覇への最有力者となることを意味していた。

尾張・美濃を地盤とし地勢的に有利だった織田信長は永禄11年(1568年)、将軍家嫡流の足利義昭を伴って京に入っている。『信長公記』によれば、その際現在見るような形状に架け直させた瀬田の唐橋を渡ったという。
一方、遠方の甲斐という不利な条件下にあった信玄にその日はついに訪れることなく、信長上洛の5年後、元亀4年(1573年)、病を得て帰国の途中、信濃に没した。

琵琶湖博瀬田橋基礎  博物館に展示されている瀬田橋基礎構造。柱は復元。

上の画像は1988年に発見された基礎材の実物で、現在の唐橋から下流側80mの川底に沈んでいた。7世紀のものと鑑定されたので壬申の乱前後に設置されたものになる。水没していたために腐らず、また固定するための重し石も当時のままだった。
その形状から朝鮮半島より伝わった技術を用いていることが分かるという。
7世紀には白村江の戦い百済の滅亡という対外関係の節目があり、琵琶湖沿岸には百済王朝の官吏を含む多くの渡来人が居住していた。大津市では朝鮮半島特有の「オンドル」らしき遺構も発見されている。半島技術者の指導を受けながら建設されたことが想像できる。

現在の唐橋は全長260m、日本三名橋、日本三古橋、日本の道百選。
片側一車線と広くはないが普通に通行できる県道であり、かなりの交通量をこなしている。しかも現代社会では南に名神高速道路と東海道新幹線、北に国道1号線とJR東海道線まで集中し、瀬田川をまたいで人や物が激しく往来することは1400年前と同じである。

瀬田橋模型
展示されている橋の模型。ここでは『石山寺縁起絵巻』から南北朝時代の場面を再現している。


■Pick up!  「琵琶湖の地殻変動」:左右非対称の仕組み

地形地質のテーマになるが、ここで琵琶湖地域の大地が現在どのように動いているのかを簡単に紹介しておきたい。広範囲や地中深くは省略し、ぜひともこれは知っておくべきだという範囲で述べておく。自然災害や土地改良に直面したとき、幾らかでも地形の仕組みを知っておくと新しい視点が開けるはずである。

◇琵琶湖を挟んで東に平地と緩やかな山、西に急な山という対照的な地形なのはなぜか?

琵琶湖博地形図3

琵琶湖の東岸は広い平地と鈴鹿山脈まで緩やかに高度を増す山が続いているのに対し、西岸では比良山地と比叡山地が急峻に聳えている。西の湖岸沿いで平地のように見えているのは山地からの土砂が堆積したものに過ぎず、この図では描かれていないが湖の西寄りで水深は急に増している。
この地形図上で東西に直線を引き、地中の断面図を見てみると興味深いことが分かる。
地形図と断面図2

愛知県から琵琶湖西部にかけて蛇腹のように凸凹が反復し、それぞれの山は東へ傾いている。
これは恣意的な描画でなく、実際に確認されている地殻変動を示している。すなわち東から、

・濃尾平野は東が隆起し西へ傾くように沈降し、養老山地は隆起している。
・養老山地の西部と鈴鹿山脈も同じ動きをしている。
・鈴鹿山脈西部と琵琶湖も同じ動きをしている。
・琵琶湖は西へ傾くように沈降し、比良山地は隆起している(濃尾平野と養老山地の関係に同じ)。


地質学によって次のことがすでに知られている。

・この動きは100万年以上続いていて、隆起部分と沈降部分とが接する面は断層となっている。
・琵琶湖の湖底も東が浅く西が深く、水を除けば同じ構造が続いている。
・隆起する部分は垂直に上昇するのでなく、西へ傾く動きをしている。このことは同じ地層が平地部と山頂部に分離していることからも分かる。
・養老山地・鈴鹿山脈ではこの構造のため、東斜面は急峻で西斜面はなだらかという非対称である。一方、比良山地では南北に走る断層活動のため非対称の様子は不明瞭である。
・琵琶湖はかつて現在より東南にあって、鈴鹿山脈の隆起と滋賀県西部の沈降によって移動してきたものである。
・この地域の断層活動で隆起と沈降を起こしているのは大きく見れば東西圧縮力による逆断層の動きが中心であり、また琵琶湖から比良山地・比叡山地にかけては若狭湾から大阪平野にかけて「琵琶湖西岸断層帯」と呼ばれる横ずれ/逆断層が多数走っている。これらの断層はしばしば歴史に残る大地震を起こしている。


断層と震源図 展示から近畿地方の地震震源分布と断層図 (クリックで拡大)

滋賀県全体の地図を見ると、全体がひとつの盆地であることが見て取れる。琵琶湖はその底に水が溜まったもので、湖底の最深部は海面より50mも低い。
この構造は数百万年以上続く地殻変動が作ったもので、滋賀県だけでなく、京都盆地、山科盆地、大阪平野、奈良盆地も同じように地面の沈降と水の作用によってできた地形である。

ちなみに、山科盆地は標高40-50mで、水面高さ83mの琵琶湖より低い。その間にある170mの逢坂山(逢坂の関)が沈降していないことで、洪水を免れている。
その逢坂山は北の比叡山地、南の醍醐山地に挟まれた鞍部であり、この2つの山地とも、やはり琵琶湖側が沈降、山側が隆起するという逆断層の活動で盛り上がってきた山なのである。
この変動は次に述べる水位変化と密接に関わっている。

琵琶湖南部と山科盆地など
琵琶湖南部から山科盆地にかけての拡大図。膳所断層は知られている多くの断層から代表として記入した。
この図は次の「水位変化の原因」でも参照してほしい。



■Pick up! 「水位変化の原因」 : 4500年前の大地震か?
(未解明のため筆者による推論を含みます)

瀬田橋近くに位置する粟津湖底遺跡は、4500年前の縄文時代の大きな貝塚を伴い水面下2-3mにある。貝殻のほかに7000年前にもさかのぼる植物、堅果、人骨も含み、ここが当時陸地だったことを示している。加えて地上では分解されてしまう有機物まで残っていたのは、あまり時間を置かずに水没したことを示している。この遺跡が水没したという点については意見が一致していることである。

粟津湖底遺跡写真
粟津湖底遺跡は貝塚を含む縄文時代早期の遺跡。1990-91年に塀で囲み排水して調査された。

琵琶湖では多くの湖底遺跡が存在し、中世の集落が沈んでいるものについての原因は大地震による地滑り説があるもののまだ定かでないうえに、それで説明できない遺跡も多い。
粟津湖底遺跡など縄文時代の遺跡については水位上昇によって水没したと広く言われている。ところが水位が上がった原因についてはまだ定説がない。

ところでこの付近には粟津貝塚のほか、上図のように2つの貝塚がある。
ひとつは石山寺の前、石山貝塚で縄文早期(6000-7000年前)、もうひとつは小型の蛍谷貝塚で同じ縄文早期(6000年前)、この3つは瀬田川に沿うわずか2.5kmの範囲内にあり、石山貝塚と蛍谷貝塚は現在も陸地である。時期を考えると石山貝塚→蛍谷貝塚→粟津湖底遺跡の貝塚、という順番に使われたようにも見える。

湖の水位が上がる場合、どのようなケースが考えられるのか?
水の出口は必ず1ヶ所である。その出口が塞がれるか高くなる場合以外に水位の上昇する理由があり得るのだろうか?
下がるケースはよくあるが、上昇した例というのは古今東西でどれほどあるのか、それすら疑問だ。

新しく湖が誕生することは、川が土砂崩れや溶岩でせき止められて時々起こる。同じ仕組みで、既にある湖の流出口付近が堰き止められれば結果的に湖の拡大上昇になるだろう。しかし琵琶湖のように水量豊かな湖の下流では、土砂程度ではすぐに削られ元に戻るはずである。また縄文時代以後に溶岩の流れた形跡はまったくない。

残る原因としては、地盤の隆起以外に考えられないのではないか。琵琶湖そのものの地盤は動かずに、出口から下流側だけの隆起である。それも水没した粟津湖底遺跡と水没しなかった蛍谷貝塚と石山貝塚との間に境界(断層)のある可能性が高そうだ。

そもそも琵琶湖は200万年前ころは南東に存在し(「古琵琶湖」と呼ぶ)、徐々に現在の位置へ移動してきた。そうなったのは先述のように西で地盤が沈降すると同時に東は鈴鹿山脈にかけて隆起を続けてきたからで、その動きは現在も続いている。
数万年のスケールで見れば確かにこの地域は隆起している。とはいえ隆起するのは大地震によって一瞬に動く現象なので、問題は粟津貝塚の遺棄された時期にそれが起きたかどうかである。

大津市東南部には琵琶湖湖岸に平行して、琵琶湖西岸断層帯南部に属する膳所断層という逆断層があり、最近では1185年に地震を起こして西側(醍醐山地)が6-8m隆起した可能性があると言われている。この断層そのもの、または近縁の断層が4500年前に動いた可能性も少なくないと思えるのである。ここに焦点を絞った断層調査はなされていないようだ。
(上図参照)

現時点では琵琶湖として本当に水位が上昇したのかどうかも見解が分かれている。もし上昇説が正しいのならば、琵琶湖から流れ出る瀬田川上流域は5000年前の縄文時代以後の間もなく、おそらく粟津貝塚が遺棄される4500年前に地震によって4mほど隆起し、直後に琵琶湖の水位が上昇したのではないだろうか。
貝塚は短時間で水没しなければ表層の速い水流に浸食されて消滅するはずなので、これも地震説の根拠になる。

このように湖底遺跡のうち縄文遺跡が水没しているのは地殻変動説が考えられる。しかし有史以降、中世の遺跡まで琵琶湖に沈んでいることは、同じ原因では説明できない。それらは別の考え方が必要になるだろう。

なお、特に有名な琵琶湖北端の葛籠尾崎湖底遺跡は現在も「定説無し」「謎」とされているが、損傷のない土器が多いこと、水深が深く生活していたと考えられないこと、遺物の範囲が広いことなどから、ここでは人が居住したのでなく器物を水上から投下したものと考えるべきだろう。他の湖底遺跡とは別枠としたほうがよい。
竹生島と葛籠尾崎
琵琶湖北部、竹生島(左)と葛籠尾崎(右の半島)を東から見る。湖底遺跡は突き出た岬の手前、水深19-70mで広範囲に渡っている。

■補足


館内展示では湖畔の人々が洪水に苦しんできたことも紹介されている。河川氾濫は珍しいことではないから余り気に留めることがなかったが、むしろ湖底遺跡の存在を知ったことで、琵琶湖の水位変化→湖水の流出路としての瀬田川、人と瀬田川の関わり→田上山の伐採→瀬田川の氾濫→南郷洗堰を中心とする治水事業、といった関心が次々に刺激され、瀬田川の「アクア琵琶」(大津市)という国交省のPR施設まで見学へ行くことになった。

琵琶湖・瀬田川の洪水は、田上山伐採の問題にも直結している。田上山は人の活動によって瀬田川の流れがどう変化し、人の生活にどう跳ね返ってきたのかを学習する好例である。この琵琶湖博物館の記事に取り上げる構想だったが、アクア琵琶の展示で非常に詳しく解説されていることから、そちらの博物館訪問記で紹介することにする。

興味の発端となった湖底遺跡がなぜ存在するのかという疑問に加え、琵琶湖の水位が古代から上昇したのか、遺跡が丸々地盤沈下したのか?ある地質学者は地震による地滑りで琵琶湖にスライド水没したのだと言うが事実だろうかなど、琵琶湖博物館に踏み込んだがために、多くの疑問を与えられてしまった。今後も折に触れ探求を継続していくことになりそうだ。

(アクア琵琶は博物館訪問記として、瀬田川は地形地質探訪記としていずれ別稿にまとめるつもりです。また瀬田川沿いにある石山寺は地形地質探訪記:「石山寺珪灰石」として掲載済みです)

■最新訪問時期:2013年1月

■当ブログ関連記事

地形地質訪問記「石山寺硅灰石」

■参考資料
『日本の地形6 近畿・中国・四国』(東大出版会 2004年)
「琵琶湖西岸断層帯の長期評価の一部改訂について」
平成21年8月27日 地震調査研究推進本部/地震調査委員会
石山寺観光案内所・石山貝塚パネル展(近江しじみ貝塚研究会 2012年)
など




古代出雲歴史博物館(島根):古代史の鍵を握る出雲


カテゴリー見出し博物館
※内容的には古代史探訪です


古代出雲歴博代表

名称島根県立古代出雲歴史博物館
ジャンル歴史文化系・島根県を中心とする古代の歴史
所在地島根県出雲市大社町杵築東99番地4
交通機関・JR出雲市駅から、一畑電車「出雲大社前駅」降車 徒歩7分
・一畑バス「古代出雲歴史博物館前」下車すぐ
・出雲空港から 一畑バス空港連絡バス35分「出雲大社」
マイカー・山陰自動車道出雲ICから15分
・国道9号線から約5km
・JR出雲市駅から8km
無料駐車場あり
その他の基点・出雲大社正門大鳥居から博物館入り口まで400m
・出雲大社拝殿前から博物館入り口まで400m
開館時間9:00~18:00(11月~2月は9:00~17:00)入館は30分前まで
休館日第3火曜日、祝日は翌日休み
入館料大人600円、年間券1500円あり
問合わせ0853-53-8600
http://www.izm.ed.jp/

■概要

出雲大社に隣接する土地で島根県により2007年開館した大型の歴史系博物館。
名称の示す通り出雲地方を中心とする古代に焦点を絞り、神庭荒神谷(かんばこ うじんだに)遺跡で1984年に発見された大量の銅剣類(国宝)、1996年に加茂岩倉(かもいわくら)遺跡での銅鐸類(国宝)、加えて2000年に出雲大社境内で発見された宇豆柱(うずばしら)を目玉展示としている。

(おことわり : 問合わせた結果館内写真のブログ掲載は不可ということなので、銅剣・銅鐸・三角縁神獣鏡などの青銅器類、墳墓模型など、目を惹く画像を載せられません。ご了承下さい)

◆難読読み方

◇地名
杵築:きづき 因幡:いなば 神庭荒神谷:かんばこうじんだに 加茂岩倉:かもいわくら
西谷:にしだに 神原:かんばら 石見:いわみ 斐伊川:ひいがわ
◇歴史用語等
国造家:こくぞうけ 宇豆柱:うずばしら 四隅突出型墳丘墓:よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ 大国主命:おおくにぬしのみこと 大神:おおかみ

■博物館内容

・平屋造りながら館内は広い 
・出雲大社境内出土の宇豆柱はロビーのガラスケースに収められている。
◇上記「概要」以外での主な展示
四隅突出型墳丘墓の西谷(にしだに)3号墓模型、石見銀山、『出雲風土記』時代の島根地方の様子、実物大に再現したタタラ製鉄のふいご、古代出雲大社の高層神殿説模型5案、神原(かんばら)神社古墳出土の「景初三年」銘入り三角縁神獣鏡、4本用意されている神話シアターなど。

・音声ガイド機の無料貸し出しあり
・資料室は「情報交流室」という名称で、質問に応じる学芸員が一人常駐する。
・不定期ボランティアガイドあり。
・展示室の撮影可(2011年から)。ブログ等掲載は不可。

・新しい博物館でかなり予算を投入しているらしく、建物、スタッフ、展示とも充実している。
・古代史知識が初級の人でも、高層出雲大社模型や宇豆柱、神話シアター、実物と並んでいる大量の復元銅剣の輝きは見物。展示室にはアテンダント嬢が控えていて質問に答えてくれる。
・古代史中級者以上では、有名な青銅器類、「景初三年」銘入り三角縁神獣鏡の実物、古文献、豊富なジオラマなどで想像を膨らませていると、館内一通り見学するのに半日くらい必要になる。

・なお、県が作ったこの博物館から東南方向に8km離れた西谷墳墓群の地に、出雲市が2010年「弥生の森博物館」という古代史博物館をオープンさせている。こちらもいずれ別稿で紹介する。



 出雲地方の古代史について                     

■前書き:出雲への注目度

(この記事は2013年2月ー3月に作製しています)
2013年5月に出雲大社は60年に一度という遷宮を行う。祭神である大國主大神が仮の住まいから新装なった本殿に還るのが5月10日となっている。

古代出雲歴史博物館は出雲大社の隣で2007年に開館した。

従来、出雲大社というと縁結びで有名な神社として名を馳せても、古代史研究の視点からは注目されて来なかった。大社だけでなく、出雲や島根全体が神話の舞台であっても史実の舞台としては北部九州や近畿地方の陰になり、目を向ける研究者が少なかった。

それが激変したのは1984年から相次いだ神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡での青銅器類の発見による。当時は全国のメディアがトップニュースで報道していた。
加えて2000年、出雲大社での宇豆柱の発見は古代高層神殿説に現実性を与えることになった。本当に高さ48mの“空中神殿”があったのか?

古代出雲宇豆柱
2000年に発見された柱。一本の直径1.35mが3本で一体となり、周囲を石で囲ってあった。博物館ロビーに実物を展示中。

島根県はこれらの新発見を通じて古代出雲地方の繁栄ぶりに光を当て、今は経済後進地域と扱われてしまう島根県に誇りを取り戻したい思惑があるようだ。この博物館は十分にその役目を果たしていると思う。

しかし博物館を訪問する側は、島根県の経済状況や出雲大社の遷宮よりも、古代出雲の史実に興味がある。
関心の向かうのは、青銅器の新発見も、古代空中神殿の存在も、古代の出雲地方・山陰地方が全国から見て特別な地位にあったことの傍証なのかという点だ。

これらの発見以前からも、ヤマト朝廷が国家事業として自らの歴史を記録した『古事記』『日本書紀』の中で出雲が“神話”の舞台として頁を大きく割かれていることについて、一定の注目はあった。しかし古代史研究の世界では脇に置かれていたと言っていいのではないだろうか。出土物を重視する考古学者は近畿や北部九州に向かい、山陰は重視されていなかったようだ。

その状況は出雲大社が前回遷宮した1953年とは大きく変わっている。
神庭荒神谷の銅剣358本、加茂岩倉遺跡の銅鐸39口だけではなく、平成に入ってから青谷上寺地遺跡妻木晩田遺跡など山陰地方での重要な発見は数え切れない。大型古墳は丹後地方にしかなく、鳥取や島根では100m級止まりなのが古代山陰を不当に低く評価させた理由のひとつだろうが、古墳は古墳時代の遺物であり、相次いだ大きな発見はもっと古い弥生時代のものばかりである。ここに鍵がある。

ヤマト朝廷が国史を作るにあたって“過去”の情報を蒐集したとき、すでに大型古墳を作り始めた時期から300年が、その前の弥生時代からは400-600年以上が過ぎていた。文字がなく世代間による口承のみで情報相伝という時代。古墳の時期でさえ記憶の曖昧な状況で、より古い時代の山陰地方はどのように扱われたのだろうか?結果として出雲の出来事が“神話”となったのはなぜなのか?

発見によって、山陰は弥生時代に北部九州と同等、近畿地方と同等かそれ以上の文化があったことが濃厚になっている。ここで言う山陰とは、東は丹後地方まで含む。日本史の教科書で現在、山陰地方が記述されるのはどの出来事だろうか。古代の一時期、国内で最先端地域だった可能性もあるくらいだ。この想像には十分に根拠がある。

この稿は「博物館訪問記」のカテゴリーなので、以下では古代出雲歴史博物館の展示の幾つかから想像を膨らませてみる。
山陰地方の他の地域はそれぞれに記事にまとめていくつもりである。
出雲についてもこの記事一本ではとても扱いきれないので、それぞれの遺跡として、また他の展示館などもいずれ改めて採り上げることにする。


■基礎の確認

◇『古事記』『日本書紀』での出雲の扱い

(以下ではこの両者をまとめて『記紀』と表記する)

『記紀』では初代天皇である神武より前は「神代紀(じんだいき)」と呼ばれ、ここまでが神話とされる(この区分は虚構であるか史実であるかには無関係であることに注意)。神話の約三分の一は出雲が舞台になっていて、他地域に較べ異例に扱いが大きい。
(考古学的には圧倒的な先進地域だったはずの北部九州の伝承が、ほとんど『記紀』に反映されていないことは注目するべき)

出雲はまず天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟である素戔嗚尊(スサノオノミコト)が高天原を追放されて降り立った場所として描かれる。
そこでスサノオは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、その尾から3種の神器となる「草薙の剣」が現れる。

スサノオから6代目に生まれるのが出雲大社の主祭神である大国主命(オオクニヌシノミコト、またオオアナムヂ、その他別名多数)である。
オオクニヌシは因幡の白兎説話、北陸地方との交流を示す高志(こし)の国との婚姻、渡来人を表すと思われるスクナビコナの神との美保関での出逢いなど、いくつものエピソードに彩られている。

高天原にあって地上を見ていたアマテラスはその地(「豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国」)を直接に治めようと考えた。紆余曲折の末、遣わされた建御雷神(タケミカヅチノカミ)の前でオオクニヌシはそれまで自分の統治していた国を差し出すことになるのである。これがいわゆる「国譲り神話」である。

この時、オオクニヌシは自分の遁世する住居として立派な神殿を建ててほしいという希望を述べた。これが聞き入れられたものが、出雲大社の起源であると言われる。

古代出雲稲佐浜
出雲大社にほど近い稲佐浜。国譲りの交渉がなされた場所と伝わる。毎年11月に「神迎え神事」が執り行われる。

ここまでが出雲を舞台にした神話である。ここにはかなり端折って書いたが、『記紀』では出雲を舞台にした部分に多大な字数を費やして、多くのエピソードが描かれている。
この続きは瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨に繋がり、舞台は九州の日向(ひむか)へ移る。

出雲神話に登場する中で際立っているのはスサノオノミコトとオオクニヌシノミコトの2神であり、古代出雲歴史博物館の神話シアターで用意されている上映プログラム4本のうち、2本は「スサノヲ神話」「オオクニヌシ神話」となっている。

◆出雲大社の創建はいつか?

古代出雲大社拝殿 出雲大社拝殿(2009年)

創建時期は上記の通り『記紀』を素直に読めば「国譲り」の時点で大型建造物として建立されたことになるのだが、時期は2~5世紀のどこかとしか解らない。
第10代崇神天皇の紀における出雲征伐の件で、「出雲の大神の宮」という語句があり、「Wikipedia」ではこれを出雲大社と断定しているが、八束郡の熊野大社とも考えられ(『日本書紀』岩波文庫の注釈より)、この時期に大社が存在していたとは言い切れない。もとより崇神天皇の実在も時期も不明である。非実在としても、仮象されたモデルや出来事は3世紀から4世紀前半と筆者は考えている。
また米子市角田(すみだ)遺跡から出土した弥生土器には高層神殿らしき絵画が描かれていて、これが出雲大社であれば3世紀には建っていたことになるのだが、有力な材料とまでは言えない。
確実な記録は7世紀中頃、斉明天皇の時代に修築したというもので、このしばらく前に創建されていたことは確かだろう。

出雲大社はもと「杵築大社(きづきのおおやしろ)」と呼ばれていて、明治以後に「出雲」となった。


■Pic Up! 出雲大社の古代高層神殿説

現在の出雲大社は高さ24m。これが古代には16丈(48m)あったとするのが高層神殿説。奈良大仏殿の高さが47mであり、これとほぼ同じ高さにある神殿を丸太組合わせによる単純な柱に乗せるという、一見倒れやすい構造だったことになる。否定論者には古代でも現在と同じ24mだったという意見が多い。

筆者は高層神殿が実在した可能性は高いと考えている。その根拠を簡単に述べておく。

・出土した宇豆柱の太さは高層建築を支えるためでしかあり得ない。
・古文献に、大風で「倒壊した」と記述されている。24m程度で現在のような建物なら「倒壊」と表現しないはずだ。
・伝わっている図面に高層神殿が記され、出土した宇豆柱は図面の正確さを示している。
・平安時代に使われた貴族師弟の教材「口遊(くちずさみ)」で「大きな建物の三つ」に「雲太(出雲大社の本殿)」「和二(東大寺大仏殿)」「京三(平安宮の大極殿)」が挙げられている。
・当時すでに建っている法隆寺五重塔で31mの高さがあるので、これより低ければ大きな建物の三傑に挙がるはずがない。

最後の法隆寺より高いはずだというのは筆者の発想である。

古代出雲高層神殿想像
高さ48mという高層神殿の想像図。階段途中の神官から大きさを実感できる。


ちなみに、上に挙がった建築物よりも巨大なものが、古代の奈良にあったらしい。奈良県広陵町吉備池廃寺跡で7世紀に建っていたと推定される百済大寺(くだらおおでら)の七重塔がそれで、高さ100m近いという。法隆寺五重塔の3倍に及ぶ建造物である。正統の学者が推定していることで信憑性は高いのだろうが、まだ本当かどうか分からない。


■ Pic Up !  神話シアター「オオクニヌシ神話」から、背景に見える九州の影

オオクニヌシノミコト(大国主命)は、「因幡の白兎」の人物として子供にもピンと来るはずのキャラクターである。大己貴命(オホナムチ)、大物主神(オオモノヌシ)など多くの名前を持ち、出雲大社の祭神でありつつ『古事記』『日本書紀』に描かれる日本の主要な神の一人である。

古代出雲白兎海岸2枚

このオオクニヌシは因幡の白兎を助けたあと、兄たちから虐められて二度死んでしまう。二度とも生き返るのだが、死亡原因は一度が太い木を縦に裂く時に間に挟まって潰される。もう一度は山から転がってきた燃える岩を抱き止めて焼け死ぬ。

この死因の背後に興味深いことが読み取れる。
ひとつめは当たり前のことだが、太い樹木を材木として利用するため縦割りにする際、事故が多かったということ。建築材を加工する作業中に死んでしまった職人も多かったに違いない。

もうひとつは、九州地方の伝承を出雲神話に取り込んだ証拠に見える。
“燃える岩が落ちてくる”現象とは現実で何を指すか?
火山活動しかないだろう。
ところが中国地方で活動した火山は島根県三瓶山(さんべさん)が最後で、紀元前1500年の活動の後、静まりかえっている。弥生時代までの約1500年という長期間、噴火の事件を伝承し続けることはあり得ない。したがって出雲の人々が火山活動を目にしたはずはなく、発想できるかどうか疑問である。
熊本の阿蘇、または宮崎の霧島付近の伝承が伝わり、人が悲劇的な事故で死ぬ場面として採用されたのではないか。九州の伝承を出雲に移植してしまうのは、編纂当時の朝廷内で九州勢力の地位が低く、出雲の優位性があったとも受け取れる


◆推論・古代出雲とヤマトの関係

出雲地方は古代の日本、倭国の時代にどのような存在だったのか?なぜ出雲神話は特別な扱いなのか?

日本の最先進地域は3世紀を境に北部九州から近畿へ移った。それ以外の地域が日本の首都のような力を持ったことはないとされる。
学校で教えられる日本史でも、島根はもちろん山陰地方が舞台になることはほとんどない。せいぜい神話であり、この神話が以前は想像の産物であるかのように見なされてきた。

ちょっと考えてみよう。北部九州が先進地域であった理由は、朝鮮半島に近いからである。その条件は山口でも島根でも、船の航続距離を長く取るか沿岸に沿って運行できるなら日本海側一帯で大差ないのではないか?

実際に調べ始めると山陰地方の遺跡の豊富さは驚くほどであり、その流れは北陸地方にまで及ぶ。例えば奈良盆地に本拠を置いたヤマト政権にとって、朝鮮半島との交渉ルートは九州の北端から関門海峡を抜ける瀬戸内ルートだけでなく、福井の若狭地方から琵琶湖経由ルートも同時に使われていた。聖徳太子の家庭教師だった高句麗の高僧はそのルートで来朝したらしいし、もっと古い時代でも渡来人の痕跡、有力者の墳墓、伝承まで、材料は幾らでもある。

古代出雲地形図 島根県地方の主な弥生遺跡分布図(クリックで拡大)

地図を眺めるだけでも、中央政府からの制約を受けない限り、出雲など山陰地方が半島と直接に交渉していたことは否定するのがむしろ非現実的だと言ってよい。神話とはいえ人の往来場面が記録に残されている。
歴史学として史実を探求するためには、むしろなぜ現実性を離れた神話の扱いになったのかを考察することが必要なのではないか。

筆者は出雲地域は弥生時代末期に安定した地方政権を持ち、そのまま平和理にヤマト政権に融合していったという印象を持っている。その際多くの出雲発の文化が持ちこまれ、出雲出身者はヤマトで高い地位を得たと見ている。その後の出雲は古墳時代に入り、吉備や丹後のような大型古墳を残していないことから、大きく繁栄することはなかったようだ。

なお松江市に田和山(たわやま)遺跡という、防御用環濠を幾重にも巡らした弥生集落遺跡がある。環濠で集落を囲むのは戦乱の証拠と見なされる。しかしこの遺跡は紀元前後の弥生中期の遺構であり、弥生末期に安定したという想定とは矛盾しない。

ところで上の推論とどう関係するか想像の域を出ないが、出雲から西南へ30km、大田(おおだ)市の山間に石見の国一の宮・物部神社が鎮座する。蘇我氏に滅ぼされた古代豪族物部氏の祖神・宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を祀る神社がここにあることは気になる問題である。


◆出雲国造家という存在

出雲を初めて訪問する前に、ある書籍で出雲国造家の存在を知った。国造とは、古代に中央政府から地方の行政全般を委任された現地豪族による役職のことである。地位は世襲され、今の県知事より実質の権限は強かっただろう。

そこには天皇家のように出雲の人々から崇敬される千家(せんげ)家という、代々宮司を務める家系が紹介されていた。伝承によれば大国主命が出雲大社に祀られた時に世話を任された天穂日命(アメノホヒノミコト)を祖とし、国造という地位が大化改新で廃止されるまでは地方支配者として権力を有していた。

国内には辿れる限りずっと特定の家系が宮司を務めているという神社が幾つも存在する。訪問した中では阿蘇神社、丹後の籠(この)神社が一例だ。
それらは家系図も備えているらしく、科学的に否定することも肯定することも困難である。1000年ならあり得ても2000年はあり得ないように思うが、こういうことは客観的に事実かどうかよりも、人々が受容するかどうかだけの問題と割り切って良いだろう。

ところでそのような存在があるというだけで興味を惹かれた筆者は何人かの地元の人に聞いてみた。本当に天皇のように慕われ、尊敬されているのだろうか。結果、何人目かで出雲大社に関わりの深い人物から話を聞くことができた。
どうやら書籍にあった「出雲で」というのは若干正確さを欠き、出雲市のうち大社町での大きな存在であるらしい。

大社町は人口16000人と小さな町だが、出雲大社の存在は大きな誇りと団結心を生んでいるようだ。その一種の象徴として国造家の千家家があり、政治的な実権はないものの様々な行事で役割を担う当主を住民は慕い、現在の第84代尊祐(たかまさ)氏もそれに応えているという。氏は穏やかな人物で、問題なく将来に渡って期待される役目を続けていくだろうということだった。町の規模や経済が小さかろうと、歴史を伝え、共通する誇りを持っている土地の住民は強い。ぜひそのような文化を大切にしていってもらいたい。

なお、出雲大社付近の詳しい地図を見ると、大社の西に「千家国造家」、東に「北島国造家」と表示される。なぜ二つの国造家があるのかと言えば、南北朝時代の14世紀に分かれてしまったからである。その後二つの家が共存してきたが、明治からは神祇官によって千家家が大宮司、北島家が少宮司と決められ、現在に至っている。

この出雲国造家は、単なる地方文化ではない。一般には知られていないようだが、日本の国にとってどれほどの存在かは、代替わり毎に当主が皇居へ出向き、天皇の前で『出雲国造神賀詞(いずもこくぞう かむよごと)』という祝詞を奏上するという事実が示している。これは天皇が千家国造家の歴史的な地位を認めているということである。
次にこの内容を簡単に紹介しておく。

◆『出雲国造神賀詞』と神話との一致

天皇の御前で読み上げるという、これは一体何なのか。
まず「神賀詞」という言葉が示すようにこれは天皇家繁栄へのお祝いである。同時に、この点こそ注目するべきなのだが、日本国の主である天皇に対してこの国を譲りますという宣誓を、それまで支配していた出雲の神の代理として出雲国造が申し上げるという服属儀礼なのである。

この儀礼は9世紀から永く途絶えていたものを、戦後になって復活したのだという。古代の国造家が天皇家に初めて服属した時点から、中断を挟んではいるが同じ宣誓を繰り返しているということだ。
これは記紀神話でいう、大国主から建御雷(タケミカヅチ)への「国譲り」そのものである。
そのまま解釈すれば、独立国であった出雲は新しい支配者の下に服属しますという宣誓であり、ヤマト政権による国土統一の場面ということである。武力統一なのか交渉なのか『神賀詞』の文面からは解らない。

この『神賀詞』の中味は平安時代から変わらないもので、漢文による長い文面には、出雲の神がいかにして出雲地方を治めたか、国造家はどのような活動をしてきたか、また新しい支配者に国を譲るに至った経緯が記され、しかもヤマト政権の正史である『記紀』とは似て非なる歴史が語られている。

『記紀』はヤマト政権側が作った記録であり、『神賀詞』は地方権力がヤマト政権に対して忠誠を約束するために作った文章である。立場の異なる主体が同じ時期の歴史を語っている点が注目される。そこには古代史の隠された史実が隠れているはずだ。文面は公開されているので、研究の進むことを期待したい。


■ Pic Up! 巨大墳墓・西谷3号墓の意味

この墳丘墓の模型が、古代出雲博物館の一室に展示されている。
(実は出雲市運営の「弥生の森博物館」で、さらに精緻で見応えのある模型が展示されている)

古代史好きでなければ、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがた ふんきゅうぼ)という名前も馴染みがないだろう。
文字通り、長方形の四隅が外へ突き出すように延びた墳丘を指し、弥生時代末に山陰から北陸で築かれ、3世紀後半の古墳時代に入ると作られなくなる。古墳時代より前のため「古墳」でなく「墳丘墓」と呼ぶのが通例である。

古代出雲西谷3号墓 復元された西谷3号墓の突出部。上にも登れる。

その形状の西谷3号墓になぜ注目するべきなのか?
それは作られた時期が2世紀末から3世紀初頭という、卑弥呼が即位する前後であり、その時点で前例のない国内最大の墓であるからだ。また岡山県吉備地方、京都府丹後地方の土器が出土していることから交流が窺われる。

その時点で史上最大の墓が造られる場合、造る人々も意識するだろうし、そのニュースが1年以内に全国に知れ渡ることも予想するものだ。後の時代に造られることになる奈良の箸墓(はしはか)古墳や、現在でも最大の大仙陵古墳(仁徳陵)も、同様の計算のもとに計画されただろう。

西谷3号墓の立地は、斐伊川出雲平野へ出る狭隘部を見下ろす丘にある。大きさは長方形部が30m×40m、高さ4.5mと、近畿地方に多い巨大古墳とは比較にならないが、弥生時代では最大である。この3号墓に隣接していくつもの同様の墳墓が残され、現在、弥生の森公園として整備されている。

同類型の墳墓が幾つも連続しているのはひとつの王統が数世代続いていたことを示し、社会の安定を意味する。しかも当時最大級の墳墓が連続するからには現在の出雲市エリアだけでなく、もっと広範囲の社会共同体でなければ必要な作業人数を動員できない。

また立地にも注目するべきである。スサノオが八岐大蛇を退治した説話は斐伊川の氾濫を制御した土木事業の成果とも解釈されている。西谷墳墓群はその斐伊川が山地から出雲平野に飛び出る狭い谷を見下ろす位置にあり、出雲平野の住民を苦しめ続ける河川の制御をまさに象徴している。また土木事業の成功には鉄を使う道具が欠かせないはずであり、倒されたヤマタノオロチから出現したとは金属器の利用を象徴しているとも読める。

西谷3号墓と時期が重なるはずの邪馬台国・卑弥呼の即位年はほぼ確かに、西暦190年代の半ばである。一方、西谷3号墓の築造年は正確にはまだ確定できず幾分古いのかもしれない。その前後関係が大事である。

『魏志倭人伝』に順えば卑弥呼の即位前は「倭国大乱」、戦乱が絶えなかったはずであるが、西谷墳墓群ではなぜか武具の出土が少なく、戦乱の気配が薄い。
もし強大な軍事力が安定政権の礎であったなら、墓にも武具が副葬されているはずであり、逆に軍事力が弱ければ「倭国大乱」の状況で政権は維持できず、長い期間に渡って墳墓群を築くのは難しい。おそらくわずかな軍事力で安定社会が維持できる状況だったのだろう。

また邪馬台国畿内説を前提に考えれば、卑弥呼の即位後には連合体とはいえ西日本が統一政体になったはずなので、その一地域である出雲が国内最大の墓を作ることは許されないのではないか。仮にこの出雲地域が例外的な不服従地域だったとすると、墳丘から土器の出土している吉備勢力や丹後勢力も同調して不服従だったことになり、邪馬台国の50年に渡る統治が可能だったのか怪しくなる。

では卑弥呼即位の前に作られたのだろうか?その後のいくつもの同型墳丘墓は許され、邪馬台国の一地域でありながらに大量の人員を集めて営々と築かれていったのだろうか。それほどの国力を持つ地域で邪馬台国連合の一員なら、『魏志倭人伝』に国名が載っていなければおかしいが、国名の載っていて場所がはっきりしている伊都国や奴国では、この時期に西谷墳墓群に匹敵する大型墳墓はひとつも見つかっていない。

実はそれ以外にも、いずれ別稿にするつもりだが、西谷墳墓群時代の出雲地方が邪馬台国の支配を受けていないことを示唆する材料は存在する。

どの筋書きにも矛盾が生じるのは、前提のどこかが間違っているのだろう。
筆者には出雲地方が卑弥呼・邪馬台国の影響下にあったという点が間違っているように思える。
出雲は「倭国大乱」からも「邪馬台国」からも文化的かつ距離的に遠かったのではないのか。

いずれにしろ、史上最大の墳墓を作る人物は新時代を切り拓いた偉大な人物と相場が決まっている。この主は何を成し遂げたのだろうか?
これらの疑問を解くことは出雲神話に隠された史実の謎、大量青銅器の謎、邪馬台国所在地の謎ともリンクし、古代出雲地方の真実に迫ることに等しい。

古代出雲西谷3号墓説明板 西谷3号墓の墳丘上に設置されている説明板(クリックで拡大)

古代出雲歴史博物館の展示から広がる古代出雲への想像。ここでは際限がないので区切りとし、いずれ改めて勉強し、考察を試みることにする。


■付録:山陰地方の主な弥生時代遺跡

京都府与謝野町:日吉ヶ丘遺跡
       京丹後市:赤坂今井墳丘墓扇谷(おうぎだに)遺跡
鳥取県鳥取市:西桂見(にしかつらみ)墳丘墓跡白兎(はくと)海岸青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡
       湯梨浜町:長瀬高浜遺跡
       米子市:妻木晩田(むきばんだ)遺跡角田(すみた)遺跡
島根県松江市:黄泉比良坂(よもつひらさか)田和山(たわやま)遺跡玉造(たまつくり)温泉史跡
       雲南市:加茂岩倉遺跡
       出雲市:神庭荒神谷遺跡西谷墳墓群猪目(いのめ)洞窟稲佐浜(いなさはま)
山口県下関市:土井ヶ浜遺跡中ノ浜遺跡
    

◆最新訪問時期:2014年10月

◆主要参考資料など
『古代出雲歴史博物館展示ガイド』島根県立古代出雲歴史博物館発行 2007年
『ブックスエソテリカ古事記の本』学研 2006年
『図説出雲の神々と古代日本の謎』瀧音能之 青春出版社 2007年
『古代出雲を知る事典』瀧音能之 東京堂出版 2010年
『出雲神話の誕生』鳥越憲三郎 講談社学術文庫 2006年
『古代出雲』門脇禎二 講談社学術文庫 2003年
『日本書紀(一)』坂本太郎他 岩波文庫 1994年
古代出雲歴史博物館、弥生の森博物館の関係者の方々
出雲市の方々

庄内米歴史資料館(山形):庄内で知る誇るべきコメ文化

カテゴリー見出し博物館

庄内米資料館正面

■概要
米作りの歴史と文化、博物館の原型である山居倉庫の歴史を紹介するJA全農山形運営の博物館。
江戸時代、東北で随一の産地だった庄内地方と最上川水運で結ばれた山形平野の米はここ酒田に集められ、廻船で全国に運ばれた。明治になってこの地に集散拠点として建設されたのが今も使われている山居(さんきょ)倉庫で、博物館はその一部を利用している。
なお現在は大部分がトラック輸送となり、船で運び出す米はわずかになった。

名称庄内米歴史資料館 施設名は山居(さんきょ)倉庫
ジャンル歴史文化系 山形県庄内地方の米作り文化
所在地山形県酒田市山居町1-1-8
開館時間9:00~17:00(12~2月は16:30まで)入館は30分前まで
休館日年末年始を除き無休
料金大人300円
交通機関・JR酒田駅からバス10分「山居町(さんきょまち)」下車1分
・庄内空港からバス20分「山居町」下車3分
マイカー山形自動車道酒田ICから酒田市街地方面へ10分
駐車場狭く台数わずか
その他の基点JR酒田駅から南へ2km徒歩30分
問合わせ0234-23-7470
http://shonai.zennoh-yamagata.or.jp/gallery/index.html

◇地名
山居:さんきょ 月山:がっさん 鳥海山:ちょうかいさん
三川町:みかわまち 

■内容詳細

・館内広さは中程度。公立の大型博物館のようなものではないが、稲作初心者に分かりやすく多くのジオラマや説明が配置されている。
・内容は山居倉庫の歴史、古代からの稲作伝播、米の種類、庄内米の歴史、庄内地方の風土、庄内米の品種、品種改良史、保管と流通の実際、「俵をかついでみよう!」、米のおいしさと栄養、米作りの一年、米作農家の実物大ジオラマなど。
・展示室要員なし。解説ツアーなし。撮影可。
・山形での品種を中心に、流通の始まった最新銘柄「つや姫」などについても紹介している。
・稲作文化の初歩と庄内米の伝統を学ぶには十分。
庄内米館内俵
左の模型女性が背負っている米俵5俵は300kg。倉庫でこうして運ぶのは女性の仕事だったという。
右に1983年山形を舞台にしたNHKドラマ『おしん』のポスター。
おしんが奉公したのはこの酒田市だった。



庄内米地形図と記入


■山形県のお米ブランド

いま最も評判の高いお米と言えば新潟県の農業試験場が開発した魚沼コシヒカリであると、多くの人が認めるだろう。しかし購入者の立場からはブランド化してしまって高価なために敷居が高い。

庄内米歴史資料館を訪問した筆者は平成4年から生産されている「はえぬき」という品種を知って以来、これを求めるようになった。なぜなら平均的な価格でありながら、「食味評価」(後述)は魚沼コシヒカリと同様の「特A」認定を毎年受けるほど美味しく、コストパフォーマンスが最高だからだ。
庄内米はえぬきぱっく
愛知県のスーパーで販売されていたはえぬき

ただ「はえぬき」はどうやら山形県以外では余り生産されていないらしく、愛知の店では不定期にしか入らないし、西日本では見ることも希である。どうやら「はえぬき」は県内生産にこだわった結果知名度が上がらず、価格も低くなってしまったのだという。

そこで捲土重来、山形県は平成10年、新しいブランドをまたも開発し、今度は県外にも広く生産してもらい名称を流布させる戦略を採ることとなった。これが「つや姫」である。
庄内米つや姫パッケージ2
平成22年本格生産を始めたというからまだ3年に過ぎないが、おそらくもう全国の米売り場に並んでいるのではないか。山形県は営業活動に力を入れ、希望する土地にはどんどん「つや姫」を売り込んでいった。希少価値が減退するので、本家・県内産のものだけは「山形産つや姫」というブランドを育てるため、生産体制を厳しく査定し、合格した県内生産者だけにこの名称を使わせるようにしているという。「特別栽培米」という低農薬・安全を売り物にしたブランド米が各地にあるが、山形県産のつや姫はすべて特別栽培米である。

これから山形産が特に成功するかどうかは未知数だが、現在の販売価格で「つや姫」は10kg4800円ほどと、魚沼コシヒカリより安く、標準ブレンド米より幾分高いところにある。山形県の思惑はまずまず成果を挙げていると言えそうだ。

庄内米館内稲各種
品種改良の歴史を語る稲の展示

◇補足・食味ランキングとは

米の出来について、日本穀物検定協会が毎年全国の主な品種を審査し、前年の品種について「特A」「A」「B」「B’」の4段階を毎年2月に公表する。客観的な審査として一定の信頼性が認められている。
11年産米では129銘柄を審査して26銘柄が特Aとされた。
2013年2月14日に発表された12年産米では128銘柄を審査して29銘柄が特Aとされた。
「魚沼コシヒカリ」と「はえぬき」はずっと特A評価を続け、最新の「つや姫」も2008年参考品種としての登場からずっと特Aである。


■新潟と山形の風土

庄内米月山から

新潟県の中で魚沼コシヒカリが評価されるのと、東北地方で庄内米が優良であるのとは同じ理由に因るようだ。
それは豊富な残雪による雪解け水と日照時間、昼夜の温度差である。水は温度の低い方が微生物の繁殖が抑えられるため、徐々に暖まってゆく下流より上流の山岳に近い場所が有利となる。新潟県で広い平野部よりも山に迫る魚沼地方が好適なのはこれによる。

そして残雪を蓄えるためには冬に日本海を渡る季節風が強いことと、高い山岳の存在が重要となる。新潟では越後山脈、魚沼丘陵、庄内では鳥海山と月山という2000m級の山が聳え高所では10m近い積雪となる。残雪が豊富な土地では日照りに左右されず、夏までの雪解け水と地中を潜る伏流水によって安定給水が続く。

国内で似たような風土となる場所を探すと、富山平野、金沢平野、福井平野、津軽平野などが思い当たる。詳細に調べていないが、平坦な地形の広さ、日照時間といった色々な要素が関係しているのではなかろうか。
むろん、それら自然条件だけでなく、庄内や新潟では明治以来の関係者の努力こそ品質向上の原動力だったようだ。

■稲作文化の歴史

庄内米菜畑遺跡
[佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡] 国内最古(2600年前)の水田が発見された場所
 
この庄内米歴史資料館を訪問した理由は美食願望よりも古代史の観点から稲作に関心があったからである。

弥生時代から古墳時代のハナシをしてみる。

古代の倭国(日本)では、近畿地方を中心に西日本一帯がほぼ統一された3~4世紀ころ、紀元前の弥生時代から継続していた鉄の輸入が急増していった。朝鮮半島南部で海に面する「伽耶(かや)」という土地で鉄を豊富に産出し、倭を含む多くのクニが持ち帰ったと、中国の史書にある。どの国家でも鉄を多量に使うことは国力を充実させる絶対条件だった。
(注:鉄の用途が武器だとイメージするのは間違いで、第一は農耕具、第二が武器だった)

ところでこの時点で、もし倭国が半島を支配していたなら鉄資源を「収奪」し、他国には取らせないはずなのだが、そんな形跡はない。とすれば入手方法は「交易」のはずだ。
では鉄と何を交換したのか。それがコメであったと筆者は確信している。

コメは証拠を残さないため、このことは学者の間でいまだ定説とは言えない。しかし他に交換できる物品は見当たらない。
鉄を求めた多くのクニの中で倭国が大量に入手できたほど、相手には価値のあった交換品、それがコメではなかったか。

コメなら朝鮮半島でも生産しただろうと思うかもしれないが、ここに日本で稲作文化の発展した鍵が隠れている。半島は稲作に不利なのだ。
その理由は朝鮮半島では地形的に水田に適する低湿地が少なく、また平均気温が低いためで、当時の稲作は低調だった。
そのため倭国産のコメは歓迎され、また倭国は低湿地を利用して稲作に励み、入手した鉄で農耕具を作り、土木工事を行ってまた大量にコメを生産し輸出した。

4世紀、奈良盆地や河内平野に築かれた大型古墳の濠は潅漑用の溜め池を兼ね、墳丘の高まりは土地改造で余った土砂の積み上げで造られたものだと、筆者は見ている。もともと河内平野は河内湖という広大な湖だったのを古代人が干拓した土地である。古代の日本は米作りで国を発展させていったと言って良いのではなかろうか。


■「はえぬき」の味

筆者は2年前に庄内を訪れて「はえぬき」を知って以来、愛知でもできるだけこれを求めるようになった。生産量の制約であろう、数軒回っても見つからないこともある。

それほど違いがあるのかと問われれば、はっきり違うと言える。名前を伏せて無名米と食べ比べてみれば、10人中10人とも分かるはずである。筆者宅では特別な自然水を使いガス釜で焚くというこだわり方だが、一般的な水道水と電気釜でも、違いは出るはずである。

「はえぬき」は粒が大きく粘りがあり、ほんのりとした甘みが感じられる。そして炊きあがりすぐでなくとも冷えたままでも味が落ちないのが、他品種にない特徴とされる。

滅多に高級外食の機会はないのだが、味を気にするようになった2年前以後、「はえぬき」に匹敵する美味しいご飯を食べたのは、一人5000円のコースを頼んだ一回しかない。この時のブランドは不明。ほかの外食店、弁当などの味はいずれも及ばない。

「つや姫」「魚沼コシヒカリ」は高価なためいまだに試してなく、更に美味しいのかどうか分からないが、価格面を考えれば「はえぬき」で十分な幸福感を得られている。

ひとつ心配なのは、山形県の戦略商品でもある「つや姫」が増えてくれば利幅の少ない「はえぬき」が消えてしまうのではないかということだ。美味しいコメが全部高価になってしまうのは困る。
もうひとつ、このブログは少数の読者しかいないと思って書いているが、万一「はえぬき」が急に大人気になって私が買えなくなるのも困る。
ゆえに大きな声では言いたくないが、価格と味を考えれば「はえぬき」は最高のお奨め品種である。

(注:よくブログにありがちな、商品の使用レポート形式を装って購入を誘い収益を得るという意図はありません。この小稿は筆者の日本文化・稲作文化への誇りと愛情だけで作製しています)


■偽装米に注意

2012年12月、旅行先の岡山で耳にしたラジオ放送で、岡山県内の業者が魚沼コシヒカリの偽物を販売した容疑で逮捕されたというニュースが流れていた。
業者は無名のブレンド米を魚沼コシヒカリの袋に入れて販売し、以前より美味しくないという購入者からの通報で発覚したという。

このニュースはローカル放送のため、岡山県以外には伝わっていないらしかった。察するに同様の事件は知られていなくとも多数あるのではないか。そしてその陰には発覚しない偽装米が相当量出回っていると推定できる。

あるジャーナリストの書いた本によれば、生産されている2~3倍の量が魚沼コシヒカリとして販売されているという。本物より多量の偽物が流通しているということだ。

岡山の事件で偽物に気付いたのは舌の肥えた人だろう。しかし、その人でももし本物を半分混ぜた「半偽物」だったら分かっただろうか。ばれたくなければ完全に入れ替えるのでなく、いくらか真性も混ぜておけば、利益が減る替わりにリスクも小さくできる。

技術的にはDNA鑑定によって偽装を見抜けるはずだが、実際には検査に時間を要したりして相当なコストがかかる。偽装米の存在は長くささやかれ、昨年の事件からすると今でも出回っているらしい。買うときには気をつけたいが、私たちには見分けるすべがない。安心して購入できる有効な防止策がないものだろうか。


■補足・2012年の値上がり

2012年の夏前から、米の小売価格が急上昇している。新米が出回る前からのことで、10月からの新米はさらに上がり、一年前に普及価格帯で10kg3300円くらいだったものが約4000円と、2~3割高くなった。

11月26日読売新聞の記事によれば、その原因は北海道などで優良なブランド米が増えたことが第一で、背景に民主党政権が導入した農家の戸別所得保障制度があるという。減反に応じる農家に交付金が支給されるため、米の作付け面積は減少し無名ブランド米の生産が減り、相対的にもともと高いブランド米の比率が上がったという。
また同記事では米を集荷する農業団体である全農の前渡し金戦略が作用したことも示唆しつつ、詳細は不明だとしている。

ここに書かれた値上がり理由はどうも分からない。ブランド米の比率が高くなった程度で、これほどの全体値上がりは起きないはずだ。小さな上昇傾向に目を付けた投機の影響なのだろうか?いずれにしろ、少量生産でも一定の収益を確保したい農家の思惑もあっての価格高ブレ現象のようだ。
国内の米需要は長期的にゆっくりと下降線をたどっている。もし値上がりが定着してしまえば下降の傾きがもっと強くなるだろう。

茶碗一杯のご飯を食べる時、米の値段は約30円というのが昨年までの計算だった。値上がりによって40円になった。カロリーは200kcal。同じカロリーを食パンで摂ると1斤の三分の一として40円ほど。パンはそのまま食べられるが、米は燃料・水・手間・時間、それに炊飯器が必要なので割高になる。どっちを選ぶか?
一般の米離れが進んでしまわないか、心配である。


■コメを輸出戦略商品に育てよう!

選挙のたびに声の上がる景気対策および日本経済の復興のためには、他国に真似のできない輸出品を作って外国にどんどん売ればよい。これが古代から変わらぬ、もっとも確実で正当な、国が豊かになる方法である。
コメはそれができると、本気で思っている。

日本産米の強みとして、日本のコメは世界で一番美味しいこと、気候風土が違うのでたとえ遺伝子を盗まれても外国では同じ品質を生産できないことがある。

また海外の購入者は富裕層を想定できるので、安くしなくても十分販売できるだろう。
ただし国内向けの値上がりを防ぐ措置は必要。国民の栄養源として最重要の食糧であることを考慮し、消費税は特別扱いしてほしい。

当然、減反政策はやめる。輸出が増えれば生産拡大のため、土地が必要となって遊休地は活用され、就業者も増えるだろう。若者が参入しやすい環境を整備すれば、地方の過疎対策・雇用対策にもなる。

コメ生産・消費を優遇することは他にも国土景観の保全、健康な食生活にメリットが大きい。コメ文化を見直し、日々積極的に食べることは将来世代のためにも大きな意義があると考えている。
私たちは先人の努力に感謝し、稲作文化を誇り、これからも米食を大切にしていきたいものだ。

■最新訪問時期:2012年10月





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